過去の栄光の記憶によって、俺はすっかり元気を取り戻した。元気を取り戻したついでに、スマートフォンを取り出し、安物のイヤフォンを差し込んだ。俺は音楽プレイヤーを起動し、シャッフル再生の機能をオンにした。プレイヤーが選んだのは玉置浩二の「田園」だった。

 俺は特別玉置浩二のファンであった訳ではない。この曲は、先日俺の息子がお世話になった、なんというか、江戸の言葉で言うところの、湯女が薦めてくれた曲だ(どうやら俺は、一人の湯女の無名の客くらいにはなれたらしい、感激だ)。息子の義理もあって、その場で曲をダウンロードしたが、以来一度も再生はしていなかった,。

 曲が始まり、Aメロ、Bメロと進行していく。素朴な曲だけど悪くない。このシンガーの声には魂がこもっている。目を閉じると音に合わせて瞼の裏を様々な色の光線が現れたり消えたりを繰り返した。昔のディズニー映画にこういうシーンがあった気がする。そして曲はサビに入った。


 生きていくんだ

 それでいいんだ

 ビルに飲み込まれ

 街に弾かれて

 それでもその手を離さないで

 僕がいるんだ

 みんないるんだ

 愛はここにある

 君はどこへもいけない


 気が付いたら俺は曲に合わせて、拳を何度も天井に突き上げていた。目からは涙が零れ落ちていた。俺は感動に打ちひしがれていた。曲のメッセージがダイナミックな情感を伴って、直接俺の心に響いていた。

 生きていくんだ、それでいいんだ。そうだ、このシンガーは正しい。俺は生きたいんだ。それでいいんだ。それが当たり前なんだ。ビルに飲み込まれても、街に弾かれても、その手を離さずに、生きていくんだ。

 ふと、俺の脳裏に職場の連中の顔が浮かび上がった。普段あれだけ軽蔑していた阿呆共の顔がこんなにも愛おしく思えるなんて、俺は驚いて椅子から転げ落ちそうになった程だった。しかしそうだ、俺が社会に揉まれながらもなんとかこうして生きていけるのも、単純で何の面白みもないと思っていた仕事が成り立っているのも、あの連中がいるからこそだった。

 俺は一人ではないのだ。今の今まで、俺は自分の事を孤独だと信じ切っていた。俺は一人であると、愚かにもそう信じていた。しかし俺は間違っていた。完全に誤解をしていた。いや、俺だけではない。自分の事を一人だと感じている全ての孤独な人々は、大きな誤解の渦中にいるのだ。

 誰も一人ではない。誰も一人では生きられない。社会に隔絶されている、あるいは自らそう望んでいるような者でさえ、決して一人ではないのだ。誰もが目には見えない糸で繋がりあっている、影響をしあっている。

 その糸は、心で感じる糸だ。社会の、いや、宇宙全体にくまなく張り巡らされた関係性の糸だ(嗚呼、俺は、孤独な男にさえ成れなかったのだ)。

 なんという事だろう。なんという素晴らしい事だろう。人は、いや、存在は、決して孤独ではない。当人の意思に関わらず、誰もが一つの関係性の中にいる。そして全体から絶対的に、絶望的に、影響を受けている。しかしまた個人は、常に、その気がなかったとしても、全体に影響を与え返しているのだ。

 俺は涙と鼻水と震えが止まらない中、未だに拳を天井に突き上げ続けていた。そしてふと目を開けてみると、目の前の机に何やら赤く光る線が走っているのが見えた。その線は血管のように脈を打っていた。

 瞬間、俺はそれが愛そのものであると理解した。何故そう思ったのかは説明ができない。論理を飛躍して、ただ俺の中の直感が、それが愛であると告げていた。

 愛はここにある、このシンガーが歌っていた通りだった。確かに愛はここにある。

 周りを見渡すと、愛は机のみならず、目に映るあらゆるものを貫いていた。ベッドには愛があった。床にも愛があった。カーテンにも、空間そのものにも、愛が貫いていた。

 俺は愛が一種のエネルギーである事を悟った。それは、根源的なエネルギーであった。物質も空間も精神も、全ては愛で構成されているのだ。

 なんという事だろう。なんという素晴らしい事だろう。俺は今までずっと愛を探していたのだが、それはすぐそこに、目の前に、いつも変わらず存在していたのだ。むしろ、愛以外のものなど、この世界には存在し得ないのだ。

 そうか、全ては愛だったのか。全ては愛だからキリストは迫害に耐えた、全ては愛だからガンジーは非暴力を貫き通した。全ては愛だから人から嘲笑されても、たとえ道端で全裸になったとしても、失禁したとしても、全く平気なんだ。だって、全ては、愛だから。

 そう確信した途端、俺の頭がキュルルルルルルと音を立て始めた。精密機械が超高速回転をしているような音だった。そしてそのまま俺の意識は柔らかな白光の中へと溶けていった。

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