しばらくの間そうして窓の外を眺めていたが、人間というのは完全なナンセンスというものに耐えられる強靭ではない。人間は理路整然とした世界に親しみを覚える。奇妙な混乱というのもたまには悪くないが、それが常態化してしまうとすぐに慣れてしまい、嫌気が差すものだ。

 誰がサーカス小屋で一生を過ごせるというのだろう。昼はきちんと昼であるべきだし、夜はブラックホールなんかであってはいけないのだ。俺には理性というものがある。理性に反するような事象全ては、俺なんかの手に余る代物だ。それはどこかの神にでも任せればいい(言うまでもなく、俺は神になんか到底成り得なかった)。

 俺はカーテンをぴしゃりと閉めた。さて、やはりあの青い飴には何かが混入していたに違いない。それが何であるかは俺には不明だ。おそらく人を白昼夢へと誘う未知の成分が混入していたのだ、誰かの意図によって。そもそもあの飴はどこで手に入れたものだったのだろうか、それすらも思い出せなかった。

 俺は机の引き出しから万年筆と大学ノートを取り出した。この状況が何であるかはさっぱりわからないままだったが、とにかく記録をしておくべきだと思った。人の記憶というのはとてもいい加減だという事を、俺は何十年か生きている間に、嫌という程思い知った。

 記録という行為はいい。とても正確に物事を覚えていられる。少なくとも、正確に記録ができている限りは。

 俺の愛用の万年筆は小振りだが、俺の手にしっかりと馴染んでいた。昭和の時代に大橋巨泉がコマーシャルをやっていた、あのパイロット社の製品の復刻版だ。俺は万年筆にたっぷりとブルーブラックのインクを吸入して、今目の前に起こっている事を克明に記そうとした。深い青の染みを、俺にとって意味のある模様で、真っ白な紙の上に表現するのだ。

 しかしその試みは上手くいかなかった。全然上手くいかなかった。

 何故だ。何故、俺が文字を書き連ねるそばから、文字がうねうねとその形を変えていくのだ。それはまるで、文字が躍っているようだった。何故、文字なんかが踊るのだ。

 それだけじゃない。文字は、うねうねと踊りながら、ゆっくりとその色を変化させていった。青から緑、緑から黄色、黄色から赤、赤から再び青へと、色相環を逆時計回りしながら、輝きながら、色を変化させていった。何がなんだかわからない。


 言葉は揺れる

 伸びたり

 縮んだり

 僕をからかうように

 馬鹿にするように

 でもそうすると言葉はもう

 読めなくなる

 意味を失う

 僕に想像できる全ての色に

 移ろいながら

 意味を失う

 言葉が意味を失ったら

 もうそれは言葉とは呼べないじゃないか

 僕は一体どうしちまったんだ

 あ……

 解放……

 そうだ

 僕は

 言葉を解放してやったんだ

 意味から解放してやったんだ

 ほんの束の間の解放

 朝までにはすっかり元通り

 だけどそれは初めての冒険

 虹色の船に乗って

 まだ見ぬ世界へ


 そんな言葉を見ていたらふいにこんなポエムが浮かんできて、我ながらなかなか詩的なポエムだと感心した。はて、詩的なポエムというのは言葉としてどうなんだろう。いや、そんな事はどうでもいいんだ。本当に一体、俺はどうしちまったんだ。訳がわからない。

 俺はムシャクシャして万年筆と大学ノートを、まだ机の上に残っていたあの赤い飴と一緒に床の上に払いのけた。その弾みで万年筆のペン先からインクが飛び出て、床の上に染みを描いたが、それが何色なのかすらもはやわからなかった。何色か不明な染みは、またもや床の上でアルファベットの形を作り出し、それを読んでみると、やはりLIFEと書いてあった。大文字だ。なんなんだ、畜生。

 やめだ、やめだ。記録なんて阿呆のする事だ。我々人類は素晴らしい頭脳を得たじゃないか。単細胞生物から我々人類に至るまでの、生活上必要な為に備わった機能、記憶力だ。何千万年だか何億年だかの遺伝子のバトンリレーの副産物だ。

 生命はついにコンピューターに負けない素晴らしい脳機能を手にした。こんな原始的な、インク、だの、紙、だのに頼っているようじゃまだまだ三流だ、人類として三流なのだ。

 いや、俺は決して一流ではないが(やはり俺は一流にすら成れなかった)、それでもそこそこは優秀なはずだ。英語の期末テストでは満点を取ったし、スピーチ大会では特別賞だ。そこそこの人間じゃないと、この成績は収められまい。

 ふん、そうさ、これらは全て過去の栄光だ。しかし、過去は現在に繋がっている。前世だか来世だかを信じるような俺ではないが、少なくともこの現世に於いての過去の出来事は、確かに現在の俺に繋がっていて、また、現在は、未来を産み出すのだ。そうであるならば、過去の栄光にすがって何が悪い。誰が俺を非難できる。誰もできやしない。そうだろう。

 とにかく今日のこの出来事は、俺のこの、そこそこの頭脳の内側に、丁寧にしまっておこう。見栄を張って月賦で買ったポールスミスのスーツのように、皺の一つもできないように、しっかりとハンガーに掛けておくのだ。防虫剤も忘れるな。

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