虹色の船に乗って

あしどいずみ

 机の上には、赤い飴と青い飴が一つずつ、ビニール袋に入って並んでいた。ビニール袋には何の印刷も無かったので、それぞれがどんな味であるかを見た目で判断するのは不可能だった。机の上には、それ以外の物は何一つ存在しなかった。

 俺は二つの飴の中から一つを選ばなければならなかった。どれだけ身体が糖分に飢えていようが、どれだけ精神が真実に飢えていようが、俺は二つの飴を口に入れる事を許されていなかった。

 許されていない?しかし一体誰に?

 部屋には俺以外には誰も居なかった。誰も居ないのだから、俺に命令や許可を与える者も勿論居なかった。俺を除いて。

 そう、俺は俺自身の直感に従って、この二つの飴の中から一つを選ばなければならないと感じていたのだ。それもとても強く感じていた。殆ど確信していたと言ってもいい程に。

 その時の俺を支配していたのは、一言で表現すれば、恐れだった。もしも飴を二つ口に入れてしまえば、なにかとてつもない混乱が俺の内部で爆発するか、もしくは呆気ないくらい、乾いた笑いすら出てこないくらい、何も起こらないか、そのどちらかの予感の恐れが、俺に強迫的なまでに、二者択一を迫っていた。

 俺は逡巡した。この二つの飴の選択が、その後の俺の認識を、何に対する認識かは未だにはっきりとはしないのだが、すっかり変えてしまうような、そんな気がしていた。

 俺はまず赤い飴に視線を向けた。それはいかにも飴らしい球体で、透き通った赤色をしていた。その色は俺に、心身共に健康な人間に固有な、活発な赤血球で溢れている血液を連想させた。

 この飴は何の味がするのだろう。普通に考えてみればイチゴ味、あるいはリンゴ味、それともトマト味なんて可能性もある。いずれにしても、俺の常識を越えない味である事は容易に想像ができた。

 青い飴はどうだろうか。こちらは赤い飴とは違い、ラグビーボールのような楕円形をしていた。

 色に関して言えば、お世辞にも鮮やかとは言えないくすんだ色をしていた。上海の高層ビル群の隙間から卑しく覗く、スモッグに侵されたあの空の色とよく似ている。人によっては灰色に見えるような、そんな青だった。

 口に入れたら一体どういう味がするのだろうという、そんな予想すら拒絶したくなるような色で、きっとどこかのコカイン中毒者の鼻水のような味でもするんだろうと俺は決めつけた。

 ここまで考えて俺は深く息を吸った。両腕を宙に伸ばし、背筋を張って、覚悟を決めた。

 そして当然のように、青い飴のビニール袋を破り、その楕円形の塊を口に放り込んだ。

 正直に言うと、俺は少し面食らってしまったのだが、舌の上でいくら転がしてみても、青い飴にはいかなる味も付いてはいなかった。無味無臭の飴というのは、奇妙な体験だった。

 しかし、一分も舐め続けていると、ふいに口の中を微かな痺れが襲った。ピリリとした刺激が、その飴の唯一の味だった。近頃世間では、砂糖も何も入っていない、ただの炭酸水をそのまま飲むのが流行していると聞いていたが、この飴もそういう流行に乗って商品化されたのかもしれない。

 いや、しかし、それにしてはこの痺れは、そう、あまりにも地味だ。いつの時代も、大衆というのは訳の分からないものをありがたがっているのだと、俺は改めて世間一般というものに対して首を垂れ、畏怖の念を示した。

 そしてやはり俺は、そういう流行染みたものとは相性が全然良くないのだと再確認し、虚しく飴を噛み砕きだした。俺にはこの上品で控えめな刺激は、物足りなさすぎる。

 全く失望した。一体全体どうして俺はつい先ほどまで、こんな飴如きに俺の「何か」に対する認識を左右させる作用を期待していたのだ。俺はいつだってそうだ。物事を過大に解釈し過ぎる癖がある。

 小学一年の時、隣の席の女子と一緒に下校をしながらグリーングリーンを歌った際は、この娘が将来の相手になると確信していた。中学二年の時、英語の期末テストで満点を取った際には、俺の将来は一流の通訳だと確信していた。高校三年の時、県内のスピーチ大会で特別賞を貰った際には、俺の将来は有能な政治家だと確信していた。大学四年の時、就職活動に見事に失敗した際には、俺の将来は乞食だと確信していた。

 しかしどうだ、今、俺は、何者にもなれずにここにいる。俺は乞食にすらなれなかったんだ。そんな覚悟すら欠如していた。

 自分の不甲斐無さに涙すら流しそうになって、糞ったれの飴をボリボリと噛み砕いていたら、ふと妙な事に気が付いた。飴を砕くボリボリという音に合わせて、俺の視界にジグザグの閃光が走っているのだ。ボリボリ、ジグザグ、ボリボリ、ジグザグ。

 おかしい。何かがおかしい。俺が飴を噛む度に、閃光は雷のように視界を一瞬で切り裂き、そしてすぐに消えた。閃光は俺が飴を噛んでいる時にだけ発生していた。

 俺はしばらく飴を噛むのを中断し、今起きている現象について考えようとした。しかし俺は眼医者ではないのだし(そう、俺は眼医者にすらなれなかった)、目の病気についての知識の持ち合わせは乏しかった。せいぜい昔読んだオリヴァー;サックスのエッセイで、いくつかの視覚異常の種類と、それらが脳の器質的な変化や、神経的な問題で引き起こされるという事実を知っていたくらいで、そんな中途半端な知識が現在の俺の異常に対して何らかの示唆を与えてくれるようには思えなかった。

 もしかしたら、青い飴には毒が混入していたのかもしれない、誰かの意図によって。だがそれにしては身体的な苦痛はないし、むしろ徐々にさっきまでの緊張がほぐれてきたくらいだった。

 しかし同時に、俺の意識が徐々に明晰さを失いつつある事も、俺にはわかっていた。段々と、思考をするのが面倒になり、もうこの異常事態についての無駄な考察をするのも馬鹿らしく思えてきた。

 なるようになればいい。どのみち俺の人生は今までずっと、そんな調子で進行してきたのだ。今更何をもがく必要があるのだ。物事には、然るべき流れというものが存在し、それに抗うのは愚か者のする事で、俺はまだ、愚か者にはなりたくない(いや、俺はやはり、愚か者にすらなれないのだ)。

 そうして俺は全てをこの、今まさに起こりつつある異常事態に委ねる事に決めた。そうすると不思議と、身体の内側から安心感が溢れてきた。幼い日、母の腕に抱かれて、自己と他者がまだ未分化な状態、世界から何の責任も押し付けられず、絶対的な味方に守られていた頃の、あの安心感だった。

 何十年か振りの安心感に包まれて、俺はすっかりまどろんでいた。口の中に残った飴の破片は、もうすっかり口内の粘膜という粘膜に吸収されてしまっていた。今となっては、あのささやかなピリリという刺激すら、懐かしく思えた。

 そんな気持ちでふと窓の外を眺めると、どうやら異常事態は俺の視界に留まっていなかった事を発見した。

 窓の外の住宅街は、すっかり様子を変貌させていた。目の前にそびえ立ち、我が家の日照権を阻害していた高層マンションは、俺の記憶が正しければ、入国審査官のように不愛想な灰色をしていたはずなのだが、今や太陽の光を受け、黄金色に輝いていた。壁面をよく見ると、古代インカ帝国を思わせる幾何学模様が、プロジェクションマッピングでも行っているのだろうか、優雅に形を変化させながら揺らめいていた。

 目線を下に落とすと、そこには冷たいコンクリートの道路があったはずなのだが、どうやら近くの用水路が氾濫したのだろう、すっかり湖のようになっていて、澄んだ水がキラキラと陽光を反射させていた。しかし、その水面もなんだか様子がおかしい。質感だ、質感がこれもまた異常なのだ。ゼリーのようにぐにゃぐにゃしていて、その中を黄金色の錦鯉が優雅に泳いでいた。

 空を見上げると、確か今は午後二時過ぎのはずだったが、俺の視界の真ん中半分で昼夜が分かれていた。

 視界の左半分は漆黒の闇に包まれていた。とても深い闇だった。じっと見つめていると、俺という存在がバラバラになって吸い込まれてしまいそうな闇だった。空の左半分はブラックホールに呑まれてしまったのかもしれない。

 視界の右半分は昼だった。太陽は狂ったみたいに力強く輝いて、地上のありとあらゆる生命に、遥か彼方の宇宙から、直接、エネルギーを供給していた。俺たち命のあるものは、否が応なしに、あの星によって生かされている。そう感じないわけにはいかなかった。

 空には雲が出ていたが、雲は異常な早さでその形状を変化させ、ある時には俺の顔のような形になり、ある時には龍のような形になったが、ついには散り散りになり、いくつかのアルファベットの形を作り出した。雲の形を「読んで」みると、そこには確かに、LIFEと書いてあった。全て大文字で、LIFEだ。

 まったく、馬鹿げていやがる、こんなのは。

 余りにも世界が滅茶苦茶になってしまったので、俺は一人で大笑いをした。笑いは何分も収まらなかった。とてもナンセンスだと思った。

 しかし、ナンセンスなのが世界の方なのか、俺の方なのか、それは少しもわからなかった。唯一俺に理解ができたのは、今起きている事の全てが、てんで出鱈目だという事だけだった。

 窓の外でつがいのカラスが昼の世界から夜の世界へと飛び去っていったが、彼らの飛行した軌道には、虹色の飛行機雲のようなものがしばらく宙に残っていた。

「ガア」という鳴き声は、いつまでも終わらずに昼の世界と夜の世界で反響し続けた。「ガア」と鳴くからには、あのカラスはハシボソガラスだろうと俺は推測した。まったく、馬鹿げていやがる、本当に。

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