キス
「あんな男やめとけ。」
不覚。
今日はマウントを取られてアクセルの胸板の下である。
最近うまく逃れていたのに柱ドンされてしまった。
世界で二番目に美しいであろう第二王子。
夜明けの星空を閉じ込めたような紫瞳が不敵に揺れている。
「兄貴は鬼畜だ。あんな兄貴と愛のない結婚するなんて。国家のしがらみに縛り付けられたあなたを見ていられないんだ。」
「アンリ様は優しいわ。それに私それなりに毎日楽しいわ。貴方に心配してもらわなくて結構。」
「いーや、兄貴は大嘘吐きだね!」
リリーは何とか逃れようと、丸太のように太い腕の下から身をよじる。逃すまいとアクセルがのしかかる。
リリーの顎をクンとひいて、女の腰を砕く美声で囁く。
「兄貴は前の女と切れてないよ。嘘だと思うなら夕食の後うら庭に行ってみなよ。茨の園を越えた向こうの噴水の前さ。女と逢引きしているから。貴方に会いに行く前に女と遭っているのさ。澄ました顔して酷い奴だろう。」
「嘘よ!」
咄嗟にリリーは身を沈めて、どがっと頭突きした!
「へぐっ!!!」
思わぬ特攻をモロにくらってよろけるアクセル。涙がにじんでいる。腕が緩む。
キイイイン!
「い、痛ぁーいー!」
何とかアクセルの魔手から逃れたリリーも頭を抱える。
痛い!
岩の様な腹筋だ!
頭突きしたリリーの頭が割れてしまいそうだ!
「な、なんて女なんだ」
アクセルが腹を摩る。
「催涙弾を投げつけられなかっただけましと思いなさいよ」
じりじりと距離を取りながら催涙弾を構えるリリー。
「と、とにかくリリー、俺は忠告はしてやったからな! あんな男に惚れるな! 後で泣いて俺に縋ったって、俺が傷心の旅に出た後じゃ遅いんだぞ! ふん!」
捨て台詞を吐いてアクセルは回廊に消えていった。
アンリが女と逢引きしている?
あの、朝昼晩と欠かさず、息をする暇も惜しんでいじましく百合を届けてくれる夫が?
そんなはずはないと思いたいけれども
なんにも信じる寄る辺はないのだわ
くちづけもしてくれない夫
誓いのキスすら唇で無く頬に落ちた。
見知らぬ男に花を散らされる事に慄いていたはずなのに
なぜだろう
夫婦であるのにいまだ純潔であることが、今は身に染みてつらい。
***
『どうしたのリリー、ぼーっとして』
双子が円卓からリリーの瞳に割って入る。キラキラに磨き上げられた銀食器と同じく煌めく瞳。ダブルで響く鈴の声。
「えっ、ううん、何でもないの。今日もとっても豪華な夕食だなあとおもって」
丸ごと焼かれた豚の頭などが特に。
いけない。どうしても隣のアンリを伺ってしまう。
フォークでスープを空振りしているリリーとは裏腹に、アンリはいつもと何ら変わった様子が無い。洗練された手つきで杯を傾けている。穏やかで湖面の様に静か。
夕食後、みながサロンに向かおうとする中、アンリだけがそっと群れから抜けようとした。
すかさず双子が衣を摘まむ
『アンリお兄様! きょうはみんなで歌わないの!?』
「ごめんね、今日はちょっと野暮用があるんだ。すぐに帰ってくるよ」
アンリが双子を引き寄せ、わしゃわしゃのぎゅーっとして去って行く
怪しい
――兄貴は鬼畜さ。夕食の後庭に行ってみなよ。女と逢引きしているから。
アクセルの言葉が脳裏をよぎる
『あれっ、リリー、リリーまでどこにいくの!?』
「えーっと、カスタネットを取ってくるわ!」
『カスタネットならここにあるけど……』
双子の問いに答えはなかった。もうリリーの姿はなかった。
夜のプラタナスが風にさざめいている。新緑の香りが月光に弾けて溶ける。
さらさらと噴水の水音が耳に心地良い
やおらアンリが振り向いたので、リリーはあわてて木陰に身を隠した。
流石、十分に離れていても気配を察するらしい。あ、危ない。風下でよかった。風上であれば、もしかしたら驚異的嗅覚で気取られていたかもしれない。
「茨の道を越えた噴水。」
アクセルの道しるべが無ければたやすく見失っていただろう。
アンリが向き直った。腕を組んで闇を見つめる。
違う!
誰か来た!
女だ!
女が闇の中からすっと月光の下へ姿を滑らせる。
表面積の非常に少ない絹のドレス。際どい。
かろうじて布地に隠れている豊満な肢体
栗毛色の豊かな長髪が波打っている。
間違いない、結婚式の日に見た女の人だわ!
女が、アンリに寄りかかる。アンリの胸板に細い指を這わす
アンリが一歩下がる。
女が二歩進む。
月夜の影が一つになる。
何を言っているのかここまでは聞こえない
二人が何事か言葉を交わして
アンリがゆっくり組んだ腕を解いた。そして女の頭を支え……ゆっくりと重心を傾け……
女が首を上げる
そして……
そして……
あああああーーーっ!
そんな!
誰か嘘だと言って!!!
アンリが、美女とキスしている!!!
雲の上から、谷底に落ちたかのよう!
耳が冷えて血流が逆流してごうごうなっている。
何も考えられない!
ごちゃまぜの感情の激流がリリーの心臓を満たす
意外なことに悲しみではない。
怒りだ!!!!
小さなリリーの身体に、燃えるような怒りがたぎっている!
頭が真っ白になって何も考えぬままにリリーは躍り出た!
「リリー!? どうしてここに!?」
突然現れた妻に度肝を抜かすアンリ。珍しく声が裏返っている。月夜に照らされた顔が真っ青だ。
リリーは物も言わずに手を振りかざした!
っぱーーーーーん!!!
乾いた音が響く。
小さなお姫様のビンタが王国一の戦士の頬にもろに決まった
「……っ!!!」
頬を抑えてよろめくアンリ。
その表情を確かめることもなく、リリーはさっと踵を返して走り去った
膝までドレスをたくし上げて。転がる様に宮殿へ疾走する
「リリー!!!! まってくれ!!!!!」
アンリの声が取りすがる
誰が待つかー!
今振り返ったらぐちゃぐちゃの情けない泣き顔である!
やっちまった。
やっってしまった!
土下座外交で政略結婚した夫を、思い切り張り倒してしまった!
ええい、やるなら徹底的にやったるわ。
ただの、冷めた政略結婚なら耐えられるかもしれなかった!
だけど、あんまりだわ!
ふわふわと優しくして、飼い殺しにするなんて!
もう耐えられないわ!
リリーは走りに走った。
月夜に照らされた花園から王宮のエントランスを駆け上り、シャンデリアの煌めく回廊を走り抜け、王族のサロンへと飛び込む!
「国王様、王妃様、この結婚は反故にしてください!!!」
楽器を奏でていた王族たちが何事か手を止める。華やかな調べが止む。
皆が大声の主を見やる。視線が突き刺さる。
王妃様を膝にちょんと載せた国王様。にやりと笑うアクセルに、何事かとビクつくエリオル。きょとんと不思議そうな双子。そして、結婚の検分人であった、大司祭様。
「私たちは本当の夫婦ですらありません! 唇に誓いのキスもしてませんもの! 大司祭様も見ていたでしょう! アンリの唇は頬に落ちたことを!」
真っ赤に泣きぬれた顔でリリーは一気にまくしたてた。ぜーぜー息が上がっている。
「絶対に嫌です! 貴方と別れるくらいなら死んだ方がマシだ!!!!」
一瞬の沈黙をアンリの咆哮が破った。
閃光のごとくなだれ込んできたアンリがリリーを掻き抱くと、そのままリリーの唇を奪った!
「んーーーーーっ!!!」
長く、深く、貪るような、情熱的なキス!!!
「誓いのキスです!! あなたを永遠に離しません!!!」
リリーはアンリの腕の檻から逃れようとじたばたもがいた。
「な、何が誓いのキスよ! キス何て猫の挨拶くらいにしか思ってないくせに! アンリ何て、さっきのあの女の人と結婚すればいいじゃな……んんんんぅっ!!!??」
駄々をこねるリリーの唇が強引にふさがれた。
さっきよりも、もっと、もおっと情熱的なキス!
熱情をたっぷり含んだ、真夏の太陽のようなキス!
北極の氷も一瞬で溶かすキス!
否応なしに力が抜けて、甘い唾が湧く。すかさず全部アンリの舌が掬い上げる。リリーのすべてを知ろうと吸い上げて、こねくり回す。
「僕が愛するのは、世界中で貴方以外ありえません」
やっと、アンリの唇が離れる。
アンリの獅子の瞳がリリーを見据える。
二人とも息が上がって、艶めく唇から一筋糸が引いている。
「あの女とは関係を清算したかったのです。別れたければ最後にキスをしてくれとせがまれて逃れられそうになかった。本当に嫌だった! キスしなければ、あなたに私の所業をすべてバラすと脅されたのです。私は貴方にだけは己の遍歴を知られたくなかった……! 軽蔑されたくなかった」
「でも……、でも結婚式の日キスもしてくれなかったわ。それに新婚生活も……夫婦の営みもなかったわ……」
「夫婦になれたことにあぐらをかいていました。それだけで幸せで死んでしまいそうだったのです。突然天使が舞い降りて、それが何の苦もなく私のものになってしまって、心の準備がならぬままに口づけを迫られて、しかも公衆の面前で! あの時の私の気持ち!私らしくもないほど取り乱していました……!地に伏さないでいるのがやっとでした。」
アンリの瞳がギラギラと燃えている。
見たこともない瞳。
普段の穏やかさは微塵もなく、昂ぶる劣情に絞るような声。
どんな女だって魂から虜になってしまう。たとえ、骨までしゃぶられるとしても。
ああ、恐ろしい人!
今まで何人の女を殺してきたのかしら!
そのアンリは、今、小さなリリーの虜!
「あなたとの夜も、幸せでどうにかなりそうだった! あなたがあまりにも愛らしくて、どうしたら良いかわからなかった。可笑しいでしょう、今まで何百人もの女と戯れてきたのに。貴方の前ではまともに息を吸うのも難しかった。むげに触ったら自分を抑えられる自信がなかった!!!嫌われたくなかった!!!」
言うや否や、もどかしいとばかりに口づけるアンリ
たちまち稲妻のような恍惚がリリーの体中を駆け巡って弾ける。指の先まで痺れるキス!
「ぷは」
やっと解放されて、リリーが大きく息継ぎする。とろけ切った唇で何とか言葉を紡ぐ
「アンリのばか。言ってよ!ちゃんと言ってよ!貴方の過去をきいたってこれっっぽっちも気にしないわ。ほかの女とキスされる方がずっといやだわ!」
「リリー、僕を嫌いになりましたか? あなたに嫌われたら生きていけません」
「逆!」
「逆?」
「嫌いだったら、こんなに怒りません! 私が怒ったのは、アンリ様が好きだからです! ううん、とってもとっても、大好きだからです! せっかく、仮初の政略結婚で毎日ニコニコお人形みたいに過ごそうと思っていたのに。アンリのせいで私作り笑顔もできないわ!」
リリーがぽろぽろと泣き笑いながらアンリを抱きしめた。
「ああ、リリーー! 愛しています! 一目見たその時から!」
さっきまでのキスは前菜だと言わんばかりに、もうリリーは滅茶苦茶キスされた
今まで溜めに溜めて決壊した熱情をぶつけられたリリーはひとたまりもない。ついに腰が抜け、懐中に崩れたリリーをアンリは強く強く抱きしめる。リリーの唇を貪欲に味わったまま。
ああ、アンリに愛されていてよかった!
良かったのだけれども……
あれ、何かとんでもないものに火をつけてしまったぞ
リリーはかすむ意識で微妙に後悔した
「おーーーーーーー……!」
ギャラリーからパチパチと拍手が上がる
「俺の若いころにそっくりだな」
なぜか満足そうな国王が頷く
「王妃様に『俺を捨てないでくれーっ』て泣きついたところがそっくりだね」
大司祭様が目を細めてヤジを入れる
「お熱いのはいいけどさー。続きは部屋でやってくんないかな~。」エリオル
「じゅうはちきんっ! じゅうはちきんっ!」
双子
ちょ、見惚れてないで何とかしてくれー!
なんかもう興奮しちゃったアンリさんがかなりやばいことになってるぞ。
ちょっと私の貞操がまさかの公開プレイですっ飛んでいく一歩手前なんですが、誰か止めて、ちょ、かきまわされて腰が抜けて立てないのに腕でがっしりホールドされて頑健な腰に押し付けられて逃げられない上に、さらに舌がぐいぐい入って掻きまわされてポロポロこぼれる涙も全部舐めとられて、なんか体中くまなく撫でまわされてひゃあっ、首筋噛まれた吸われた吸わないでーーーーっっっっ、っちょ、胸のリボンを解くなあああ!!!!
いままで我慢していた分、タガの外れたアンリの情熱はとどまることを知らない
「じゃあ、あとは若いものでよしなに……」
「ええもんみさせてもらったな。今夜はハッスルするぞ、おまえ!若いもんには負けん!」
「ええあなた! ハッスルしましょう」
『じゃあねリリー!』
みんながそそくさと撤退していく
おいてかないでーーーーー!!!!!!
「……」
お祝いムードの中、ただ一人だけ無言で睨む視線に、気付くものは居なかった
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