第10話

 ハイヤーで、上海、租界、〈虹〉まで戻る。


 花嫁にするようにしゅうは横抱きに霓裳ニーシャンを抱いて居室のドアを潜った。

「さあ! 無事、帰り着きましたよ、皇女様! お疲れ様でした」

 ふうわりと寝床に下ろす。

 額に優しく口づけして、退出しようとした時、細い指が絡みついた。

「待って、脩さん……」

 

 来たな。

 

 細工は流々。俺の愛は充分に染み渡っている。一日を店外……戸外……外の世界で過ごして、親密さがいや増した。で? 

 後は願い出ればいい。対価交換だ。この、真実・・の〈愛〉と、本物・・の〈薬〉を引き換えてくれないか?

 だが、娘の口から零れたのは予期しない言葉だった。


「私の故郷を知りたい?」


「え? あ? ハハハ……」

 咄嗟に笑って誤魔化した。

 知ったところで何になる? 薬の出所――産地ならともかく。

 一方、そんな脩の胸中を知ってか知らずか、霓裳は自嘲気味にクスクスと笑った。長い髪を揺らして周囲を見回すと、

「この部屋にね、謎を仕込んであるの。いつか心から真剣に謎を解いてくれる人が現れたらいいなって願いを込めて」

「何だってそんな酔狂な真似……」

 思わず口走った脩の言葉は幸いにも霓裳には聞こえなかったようだ。

 虹の娘は続けた。

「私、この部屋に住み始めた日に、ふいに思い立ったの」

 この部屋に住み始めた日に?

 脩はハッとした。

 この部屋に住み始めた日、それは、つまり、初めて客を取った日……?

「皆に――」

 掠れた声で脩は訊いた。

「この部屋へ足を踏み入れた男たち全員に、君はそれを言ってるのか? そう言って来たのか?」

「そうよ」

 刺すような眼差し。この目が素晴らしいと最初に会った日から思っている。

 挑むような、一歩も引かない黒い瞳。

「いつの日か誰かが解いてくれると期待してるのかい?」

「そうねえ」

 娘は言葉を切って暫く小首を傾げていた。再び真直ぐに脩を見つめると、

「解かなくても、いいわ。その謎について誰かが少しでも考えてくれてるって思うと幸せな気持ちになるでしよ。その間だけでも、私のこと想ってくれてるってことだから」


「まだ、解いた男はいないんだな?」

 

 脩は確認した。

「その謎――君の故郷が何処かを言い当てた奴はいないんだね?」

「ええ、そうよ。残念ながら」

「解いたら――どんなご褒美がもらえるんだ?」

「愛を上げる」

 ペロッと舌を出した。

「冗談よ。そんながっかりした顔しないで」

「え、いや」

「愛なんていらないんだものね、脩さんは?」

 からかうように娘は言った。

「だって、もう、とっくに差し上げたから」

「いや、僕は貰っていないし、貰う資格もない」

 脩はしまったという顔をした。

 つい本音が出た。優秀な工作員としてあるまじき行為。万死に値する失態である。

「それより――」

 さり気無さを装って話を本題へ戻す。

「もし、君の故郷は何処か、その謎とやらを解いたら、君も僕の望みを叶えてくれるかい? どうだ?」

 我ながら上手い持って行き方だ!

「僕の願いを、たったひとつでいい、叶えてくれ」

 霓裳は瞬きした。ツイッと顎を上げる。

「いいわよ」

「この件では僕は真剣だぞ?」

「私だって真剣だわ。それに、物凄く難しいわよ? 私の故郷は何処か。私が仕込んだこの謎は、簡単には解けっこないんだから」






「で? 今日は〈薬〉ではなく……〈謎〉を持ち帰ったってわけですか?」


 ブロードウェイマンションのスィートルーム。

 共有リビングのソファに長い足を組んで座ったギルベルト・ヴォルツォフ。

 呆れ果てて天井を仰いだ。

「ったく。信じられないな!」

「別にいいだろ? 少々手順が変わっただけだ。要は、謎を解いて――見返りに薬を貰えばいい」

 デカンタからウイスキーを注ぎながら言い訳をする脩。

「薬の入手方法がちょっとばかり変わっただけのことなんだからさ」

 当初の計画は、信頼関係を構築し、甘い言葉で愛を囁き、必要なら激しく愛を交わし、言葉巧みに直接お願いする予定だった。ねえ、君、MyLOVE、愛しい人。この素晴らしい薬を外でも使いたいから少しばかり内緒で分けてくれないか?

 頭を掻きながら、ヴォルツォフ、

「貴方が工作員として優秀なのか、とんでもなく間抜けなのかわからなくなってきました」

「馬鹿、優秀なんだよ。この臨機応変さ! 変幻自在で読み取れないカンジが工作員に向いてるんだ!」

 突然声音が変わった。低い、真摯な声で、

「おまえみたいに硬い奴には向かない」

「!」

「おまえは、今回、一回きりにしろよ」

 姿勢を正すとヴォルツォフも真剣な声で問い返す。

「それは評価ですか? それとも、警告でしょうか?」

「勧告だよ。悪いが俺は上官として、鮫島さめじま大佐への最終報告書にそう記させてもらうからな。おまえはスパイには向かない。不適合だ。他の仕事口を探しておいた方がいい」

 グラスを乾す。普段の口調に戻っていた。

「まあ、おまえさんなら何処でも就職できるさ! 薬剤師とか、銀行員とか、株の仲買人とか。いずれもこの魔都じゃ物凄く儲かるらしいじゃないか」

「――……」

 青年は項垂れて深くソファに沈み込んだ。

 自分用と、もうひとつ新たにウィスキーをグラスに注ぐ。差し出しながら、

「ところで、謎を解くのに力を貸してくれないか? どうも、俺には解けそうにないんだな、これが」

 頭を抱え込んだままのヴォルツォフ、その暗鬱な表情が一変する。きょとんと目を見張って、

「貴方って人は!」 

 肩を揺らして乾いた笑い声を上げた。

「人をクビにするって宣言した後で? イケシャアシャアと協力を求めるとは……!」

 悪びれずに脩も言い返した。

「だから……こういう図太い神経でなきゃ工作員はやれないんだよ!」



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