第11話

「普通に考えたら、置いてあるモノに注目すべきなんじゃないですか?」

「ふむ、地域の産物ってわけだな?」

 

 ヴォルツォフの提言にしゅう霓裳ニーシャンの居室を図にしてみた。

「置物の石、紫檀の寝台と椅子だろ。卓子テーブル螺鈿らでんだ。後は……こっちに鏡。敷布は絹。カーテンの布は何だったかな? 地図も飾ってあったが、何処にも印などは書き込まれてなかった。普通の地図だった」

 図の中の卓子をトントンと叩いて、 

「ここに飾られている花は白蘭花パレエホオ

「その鉢は何でした?」

 怜悧な、ヴォルツォフらしい質問だ。

「鉢? ありゃあ……景徳鎮だな。青花、粉彩、本金彩の古典的な模様……」

「景徳鎮は長江の南、昌江の畔の町ですね」

「いいぞ! その調子で一つ一つ産地を探ってみるか」

 額に手を置いて思い出したように脩が言う。

「そう言えば、前に霓裳は水辺の出身だと仄めかしてたな」


 ―― 脩さんも、水辺のお生まれなの?


「じゃ、家具から行きますよ。紫檀は南方の木材。広東、広西、雲南……でも水辺には当たらない。家具の造りはどうです? そっちから何か読み取れますか?」

「無理だな。ありゃあ海派家具だよ」

 海派家具は昨今流行の模倣家具レプリカで主に上海で作られている。鏡も、古鏡ならいざ知らずアレは輸入品だ、と言った後で脩は腕を組んだ。

「それより、置物の石が匂うな。太湖石だった」

「ああ! 洞庭湖!」

 洞庭湖は長江の水が流れ込む中国で2番目に大きな淡水湖だ。美しい風景は古くから歌に読まれ奇石の産地としても名高い。

「〝水辺〟って条件に該当する。その腺で行けば螺鈿の卓子もだ。螺鈿は四川、成都が有名だぞ」

「揚州螺鈿も人気ですよ」

 そして、どちらも川の傍の町だ。

 更にヴォルツォフは続けた。

「敷布は絹と言ってましたね? 絹なら烏鎮ウーチェン

 京杭大運河沿い、古くから〈絹織物の府〉と称される江南のその街は全ての家々が川に面していると言っても過言ではない。

「何しろ『水に枕する家族』と呼ばれてるんだから。距離的にも上海ここから近いですよね?」

 上海から南西に140kmと云うところか。車なら2時間弱。

「う~~~」

 脩は頭を抱えた。

「だめだ、絞り込めない」

 改めて室内図を見つめながらヴォルツォフが呟く。

「物品が少ないことが却って推察の邪魔をしているな。この部屋、生活感が無さ過ぎます」

 生硬な青年の言葉に微苦笑する脩だった。煙草を咥えると、

「そりゃ……娼婦の居室が生活感いっぱいだったら困るだろ」

 ヴォルツォフは紅潮したように見えた。

 煙草をふかす脩。

「なあ? 俺はさ、茶化してるんじゃないんだよ。おまえのそういうところ……評価しているんだ」

 眩しいもの――水の煌き?――を見るように脩は目を細めた。単に煙草の煙のせいかもしれないが。

「だから、こっち側に来るなと言ってるのさ」

「やめてください」

 ヴォルツォフはソファから立ち上がった。酔っているのだろうか? 何時いつになくむきになっている。

「認めますよ。貴方から見たら僕なんて取るに足らないお子ちゃまだ! でも、だから、この際、遠慮なく言うけど――」

 大仰に肩を竦めて、

「ほんと、女の子って浅墓だな!」

「え?」

「霓裳さんは闇が嫌いなんでしょ? それなのに、貴方を好きだなんて……貴方に惹かれるなんて……おかしいですよ! 僕には理解できない。何故って、貴方こそ真っ暗な闇なのに」

 青年の言葉には明らかに棘があった。

「ねえ? 僕が見抜けないとでも思ってるんですか? 貴方って、闇そのものだ!」

「ははあ? 俺がクビにすると言ったから、頭にきたんだな? 復讐戦かよ?」

 脩は煙草を揉み消した。真正面に向き直る。

「そういうところがお子ちゃまだっての。いいさ、存分に詰ったらいい。それで気が済むなら好きなだけ毒を吐けよ。上司として最後までつきあってやるさ」

「詰ってるんじゃない! 僕は真実を言ってるだけだ! 貴方は虚無の塊だ!」

「虚無ねぇ?」

 先輩工作員は眉の辺りを掻いた。

「おまえの専攻って何? 薬学じゃなくて――哲学だったのかな?」

「アハハハハ」

 引き攣った笑い。

「じゃ、明かしますけど、僕、蛍烏賊ホタルイカの研究をしていました」

「はあ?」

 あまりに突拍子もない、唐突な話題に流石に戸惑う脩。

「あれっておもしろいんですよ。蛍烏賊が光るのは何故だかご存知ですか?」

「そ、そんなこと素人の俺がわかるかよ?」

「光のメカニズムじゃなくて、効果について話してるんです。あれはね」

 一旦言葉を切ってウィスキーを飲み干した。乱暴に口を拭う。燠火のように燻る緑の瞳。

「蛍烏賊たちは光ることで自分のシルエットを消している。つまり、光でおのれの存在を隠しているんです」

「……」

「逆転の発想ですよね? 普通、ほとんどの生き物は、自分を隠蔽するためには暗闇を選ぶのに」

 ヴォルツォフの双眸は鮎川脩をピタリと照準している。

「蛍烏賊は捕食者に喰われないように光って存在を消そうとしている。まるで誰かとソックリですね?」

「そうじゃないさ」

 脩が返した。意外にも静かな口調だった。

「そんな積極的な理由じゃないと俺は思うな」

「というと?」

「きっと烏賊たちは……」

 脩は窓へ視線をずらした。カーテンが引かれているためにそこに広がる景色――まさしく海底のごとき夜の租界は見えなかった。

「闇に飲み込まれるのが怖いのさ。まあ、結局、逃れられないにせよ、必死で光って虚勢を張ってるんだ。ささやかな抵抗だよ。わかってやれよ、ヴォルツォフ君」

「……そうでしょうか?」

「烏賊の気持ちはともかく――ベルリン大学でのおまえの本当の専攻はわかったよ。おまえ、心理学科だろう? 無料の精神分析、感謝するよ!」

 ソファに仰け反って脩は吐き捨てた。

「ったく、薬学なんぞと法螺を吹きやがって、この嘘つきめ」

 ヴォルツォフは勝ち誇った子供のように笑顔を煌かせた。

「そう、僕は嘘つきなんです。ですから、お願いです。先刻の評価を撤回して下さい。僕は工作員向きの人間です。貴方よりもね」

「おいおい、言うに事欠いて――」

「僕が硬すぎて工作員に向かないと言うなら、貴方こそ、この種の仕事には向かない。貴方は甘すぎる」

「なんだと?」


 ドンドンドン……!

 

 ここで、ドアが激しく叩かれた。

 反射的に二人はキャビネットの時計を見た。午前4時。

 いつのまにか夜が明け始めている。そして、こんな時間に、館内電話ではなくドアが叩かれる……?

 脩は拳銃を取るとヴォルツォフに目配せした。既にヴォルツォフも同じ行為をしている。腰を上げてドアへ向かう。

 開かれたドアの前に立っていたのはメッセンジャーボーイだった。

 10歳前後、可愛らしいのを〝売り〟にホテルが採用している。少年ボーイはお仕着せの仰々しい金のモールを揺らして封書を差し出した。

「どうぞ! フロントからこれをお届けするよう申し付かりました」

「ご苦労様」

 チップを渡してドアを閉める。

「何ですか?」

 肩越しにヴォルツォフも覗きこむ。 

  

 《 母、危篤 》


「だ、大丈夫ですか? 鮎川さん? どうか、お気をしっかり持って……」

 日本語が読める青年は飛びついて強く腕を掴んだ。

 一方の脩、ポンと封筒で金の頭を叩く。

「馬鹿。こりゃ、〈何をおいてもすぐ出頭せよ〉の意味だよ。暗・号・文」

「あ」

「誰が『甘い』って? 俺に言わせりゃ、おまえだって充分甘すぎるぞ、優しいギルちゃん!」

「クッ――」

 グウの音も出ない若者。

 からかった後で、脩は首を捻った。

 それにしても、何だろう? この時間に? 

「さては……〈薬〉の入手が遅いと、鮫島さめじま大佐が焦れたかな?」

 

 だが、そんな暢気のんきなことではなかった。

 時を置かず馳せ参じた虹口ホンキューの陸戦隊本部で、鮎川脩あゆかわしゅうとギルベルト・ヴォルツォフが聞かされたのは想定外の衝撃的な事実だった――



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