第9話
車から降りて来た
「どうした?」
「
紗羽自身も不安そうに両手を揉み絞った。
「あの、ご存知でしょう? 霓裳は夜が……闇がだめなの。暗闇が苦手なのよ」
「!」
車内を覗きこむと膝を抱えて霓裳は震えていた。
血の気の引いた唇。白い肌がいつもよりさらに白く、透き通って見えた。薄暮の空に浮かぶ月の色。
闇が苦手なのは知っていたが。まさかこれほどだとは……
光の中ではあんなに生き生きとして煌いている娘なのに。
ボンネットを開けてエンジンを覗き込んでいたヴォルツォフの傍へ戻ると脩は口早に告げた。
「仕方ない。車はここに置いて、歩こう」
「え?」
「歩いて、人家を見つける」
「夜道になりますよ。危険だ」
ヴォルツォフは誰にも会わなかった時ではなく、遭遇した時のことを言っている。
名所巡りをした日中、ほとんど人には遭遇しなかった。だが、夜は違う。この地で闇夜に会うのは〝人〟ではない。幽霊ならまだしも、鬼と思うべきだ。つまり、
「一応武器は持って来た。ほら、おまえの分」
車のダッシュボードから取り出したそれをホルスターごと渡す。押収されたら何処に所属しているか即座に身元がばれるだろう14年式拳銃を二人はベストの上に装着した。
「勿論、こんなもの使う破目にはなりたくはないが……」
ドアを開け、手を差し伸べて霓裳を車から降ろす。
「歩けるかい? なんなら負ぶってやるよ」
脩は自分の背広を震えている娘の肩に掛けてやった。
「ありがとう」
それを頭からすっぽりと被り直す霓裳だった。
「大丈夫よ。こうして、歩いている方がまし。私、闇の中に縮こまっているのが何より耐えられないの」
その言葉通り、上着を被って歩き出すと、むしろ元気が復活した。
そこにいる誰よりも軽い足取りで路を進む。まるで踊っているみたいに。
「見て!」
「あ!」
「何?」
「うわあ!」
一同一斉に声を上げた。
重なり合った木立を抜け出た瞬間、闇夜に湧き立つ、光の乱舞。
「蛍だ!」
公道の下、傾斜して続く茂みの奥に川が流れているのだ。
どっと氾濫する光の洪水。
霓裳が駆け下りて飛び込んだ。頭に脩の背広を被ったまま両手を挙げてクルクル回る。
紗羽が笑って叫んだ。
「光の家来たちがお迎えよ! 霓裳皇女様!」
昼間の、階上の霓裳を思い出す。寝台の上の伸びやかで美しい娘を。
とはいえ、あそこは白い、人工の照明の中だ。
今夜は、真の闇の中。暗黒を背景に燦ざめく娘。
砕かれた太陽。ばら撒かれた虹。明滅する宝石。
紗羽の言う通りだと、脩は思った。
眼前の娘は幾千の光る虫たちに縁取られて、光の女王様のようだ……
この
気づくと脩は硬い大地の上で娘と抱き合っていた。
何が起こったんだっけ?
光に包まれた娘に感嘆した後……
腕を掴まれて自分も光の膜の中に引き込まれた。
〈虹〉のダンスフロアにいるみたいに
そして、階上の部屋、紫檀の
暗い、濃密な闇の中だ。湿った土の匂いが鼻腔を突き抜ける。
激しく求め合った。
口中に鉄の味。血? 何処が切れたんだ? 血を流してるのは
一度だけ身を起こして辺りを見回した気がする。
「おい、あいつら――ヴォルツォフと紗羽は何処だろう?」
「いいから」
再び押し倒される。
「きっと……一緒よ。フフ、何処かで私たちと同じように……」
「いいわねぇ、霓裳」
振り返って紗羽は低く呟いた。
「君も残るかい? 僕一人で行って来るよ」
「そういう意味じゃないわ」
小さな光の群れの向こうにヴォルツォフは人家の明かりを見つけた。
取り敢えずそこまで行って電話を借りよう。電話がなくても手は貸してもらえるだろう。そう決断して歩き出したところだった。
一応声を掛けてみたのだが、脩と霓裳は闇に紛れて、既に姿が見えなかった。
自分たちだけで救援を求めに行こう。
と、言うわけで――
どんどん足早に行く長身の青年に紗羽は駆け寄ってそっと手を繋いだ。
「お友達って聞いたけど、ずいぶん性格が違うのね、ヴォルツォフさんと鮎川さん」
すぐに言い足した。
「私と霓裳も違うけど。霓裳は明るくて楽しいわ。ヴォルツォフさんも霓裳が気に入っていた? 霓裳と仲良くなりたかったのかしら?」
「僕は――誰とも仲良くなどなりたくはありませんよ」
「まあ、何故?」
「どうせ……人はいつの日か別れなきゃならないのだから。早かれ遅かれ……」
欧州人の青年の言葉を娘は現実的な意味に解釈した。
「ああ、夏休暇が終わるのね? 大学へお戻りになる……」
勇気を奮い立たせるように小さくブルッと身震いした後で、訊ねる。
「あの、上海滞在中に、もう、会いに来ては下さらないのでしょうか? 手紙、読んでくださったんでしょ? あそこにも書いたけど、私、ヴォルツォフさんがまたいらっしゃるのをずっと待ってたんです。これからも、待っています」
「申し訳ないが、僕は行くつもりはない。鮎川――脩と違って、ああいう場所はどうも苦手でね」
ほうっと息が漏れた。
「世の中って上手くいかないのね? アクショーノフさんがヴォルツォフさんなら良かったのに」
「アクショーノフ?」
「私に熱を上げてる人よ。セルゲイ・アクショーノフさん。しつこくて毎日やって来るの。だから私、目を瞑って、これがヴォルツォフさんならどんなにいいだろうって、いつも」
「――」
星明りに浮き上がる男の歪んだ顔。紗羽は唇を噛んだ。
「馬鹿ね? 馬鹿なこと言っちゃった。私、ほんとに、霓裳みたいにお喋りが巧みじゃないから……上手く話せないから……嫌な気分にさせたのなら謝ります。ゴメンナサイ」
手を振り放しはしなかったが青年はそれきり二度と口を開かなかった。暗い瞳に人家の灯りだけを映して歩き続ける。
「鮎川さん? 鮎川さん!」
揺り起こされた。
目を開けるとそこには覗き込む同僚の顔。
「迎えに来ました」
「ああ?」
空は白み始めていた。
「あれから、見つけた人家まで行って、ハイヤーを呼んでもらったんです。それに乗ってここまで戻ったはいいけど、何せ周り中暗いので――」
今度は二人を見つけ出すのに難儀したとヴォルツォフは苦笑した。
陽が射して来て、漸く、二人を見つけたのだ。
鮎川脩は虹の娘とともに
「紗羽は?」
「ハイヤーの中で熟睡してますよ」
同じように、草叢の中、一糸纏わぬ姿で眠りこけている霓裳を一瞥する。視線はすぐに、もっと上、木の
流石にどんな状況下でも武器の取り扱いについては万全の様子。
「〈虹〉にも電話しておきました。僕たち、店の女の子と駆け落ちしたと思われたら困りますからね」
更に小声で、
「鮫島さんにも連絡しました。故障した車は
ため息を吐いて頭を振った。
「とんだ、アバンチュールでしたね?」
シャツ一枚の脩は、平然と返した。
「馬鹿言え。これからが腕の見せ所さ! ところで、煙草、持ってるか? 俺のは――潰されちまった……」
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