第8話

「何なんです、これ?」

「だから――見た通りさ! カッコイイだろう?」


 ホテルの駐車場に止めた1台の車。

 一目見るなりベルリン育ちの青年は息を飲んでその場に棒立ちになった。

「バナールのディナミーク! 信じられないっ!」

「そうさ! どうだい?」

 片や、優美なサイドステップに足を置いて得意げに胸を張る日本男児。

鮫島さめじま大佐に無理を言って手配してもらった。最新モデルだぞ!」

 ドイツ系ユダヤ人のヴォルツォフは吐き捨てた。

「選りによってこんなひどい車! 『信じられない』と言ったのはそういう意味ですよ……」

「何だと? 聞き捨てならないな? 流石に仏車だけあって素晴らしいデザインじゃないか! この流れるようなボディ……絶妙のカラー……これぞ、走るアールデコだ!」

 車体からホテルへと視線を移しウットリと瞬きする。

「見ろよ! この建物にも恐ろしくマッチしてるな!」

 ヴォルツォフは露骨に鼻を鳴らした。

「これはサイテーの車ですよ。デザイン偏重の。どうせ仏車にするならオチキスにすれば良かったのに。あれなら性能は抜群だ。モンテカルロ・ラリーでも1932年から3年連続で優勝しているし」

「けっ、軍用メーカーのあんな色気のない車で可愛い姑娘クーニャンを誘い出せるかよ。さあ、つべこべ言わずに乗った、乗った」  ※姑娘=若い娘

「え?」

「今日一日これでドライブと洒落込むんだ!」

「僕は……ちょっと……遠慮します」

「何言ってる。これは上官命令だぞ」

 そう、一応、今度の任務においては正規工作員の鮎川脩あゆかわしゅうは補助要員ギルベルト・ヴォルツォフの上官なのである。

「――」





 〈虹〉の店長・フーディ・Gは快く承諾した。

 何と言っても彼女たちは店が契約して雇用している歌手兼踊り子――ショーガールであって、その身が拘禁されているわけではないのだから、休日もあれば外を出歩くのも自由なのだ。それに、大日本帝国の軍閥の子弟だと豪語する金遣いの荒い鮎川脩は今や〈虹〉の大のお得意様でもある。

「まあ! 素敵な車!」

「でしょう?」

 ドアを開けて座席へと誘いながら脩はヴォルツォフに勝ち誇って目配せした。

 (ほらな!)

 それから改めて娘たちに微笑む。

「尤も――美しさではこんな車、お嬢さん方には敵いませんよ!」

 虹の娘たち、霓裳ニーシャン紗羽バオユーは、今日はソワレのワンピース姿だった。

 霓裳が目の醒めるような檸檬色の漣模様スカラップ、紗羽は白地に青い小花を散らして、どちらもよく似合っている。

「洋装もいいなあ! 惚れ直したよ!」

「ありがとう。ふふ、泰興公司レーン・クロフォードで買ったの!」

「南京路角にある? あそこはいい百貨店だよなあ! 僕もよく行くよ」

 相変わらず不機嫌そうな相棒を振り返ると、

「では、いざ! シュツパツ!」

「――」


 外灘バンド沿い、猛スピードで飛ばす株の仲買人たちの車、野菜を満載した荷車や、辮髪べんぱつの車夫が引く黄包車ワンポウンを巧みに避けながら一路郊外へ。 ※黄包車=人力車

 上海で一番高い山(とはいえ90メートル)余山よざんへ向けてアクセル全開で爆走する。

 が、10分も経たないうちに紗羽がおずおずと切り出した。

「あの――」

「え? 何? もう酔った?」

「違います。ええと、ヴォルツォフさんは、後ろなんですね?」

 むっつりと押し黙ったまま後部座席に一人で座っている青年を振り返る。

「だから、この車にするなと言ったんですよ。とはいえ、僕は全然構いませんので、お気遣いなく」

 このバナールのディナミークはセンターステアリング――

 三人乗りで運転ハンドル・・・・・・が中央にある・・・・・・という、いかにもフランス人ならではの奇抜なデザインなのだ!

 つまり、運転する脩を挟んで霓裳と紗羽が乗っているという格好……

「私も……後ろに乗ってかまいませんか?」

「勿論ですよ!」

 ブレーキを踏みながらセンターミラーを覗いて脩はヴォルツォフにウインクした。

「良かったな、ギル! これでドライブの間中、寂しい思いをせずに済むぞ。優しい紗羽におまえも優しくしてやれよ」

「な、なんです、その言い方! 僕は寂しくなんか――」

「女性には真心を尽くす。これぞ、〈騎士道精神〉だろ?」

 笑いを噛み殺して上官はピシャリと言った。

「おまえの〈武士道精神〉は充分に承知しているから、今日は本場の〈騎士道精神〉ってヤツををこの東洋人の悪友に見せてくれよ!」



 晴れ上がった空。緑したたる風景。

 初夏のドライブには持って来いの一日となった。

 ちなみに上海には山らしい山は無いといわれている。その中で最も高い山が、西と東になだらかな二つの頂を持つこの余山だ。

 高さは低くとも風光明媚であることに変わりはない。しかも、この山には〈中国最古〉を誇る三つのものがあった。

 まずは西の入り口にある秀道者塔。これは宋代に造られた中国最古の塔だ。

 そして、山頂にある白い円形の建造物が、中国最古の天文台。1899年にフランス人の宣教師の手で建てられた。

 最後が、1925年に完成した天主堂、聖母大堂。

 ローマ洋式とカソリック洋式が混在する煉瓦造りのこれこそ、建築年代は新しくとも、中国最古の教会である。

 尤も、娘たちは風景よりも、その風景の中で過ごす時間ひとときを心から楽しんでいるように見えた。

 笑顔も笑い声も……全てが光り輝くかぐしい一日……!


 だが――


「なんてこった! こんなのは予定に入ってなかったぞ!」


 夕刻、そろそろ帰ろうかとハンドルを切った山道で、あろうことか、突然、車が止まってしまった。

 どうやら、故障したようだ。

「僕、言いましたよね? この車は〝見てくれ〟だけでダメだって。だから、オチキス680にするべきだったんだ」

「五月蝿い!」

 男二人、背広を脱ぎ、ドレスシャツの袖を撒くって悪戦苦闘するも……

「だめですね?」

「ちぇ、おまえ、ベルリン大卒の秀才なんだろ? 何とかしろよ」

「専門が違います。僕は工学部ではありませんから」

 陽が暮れ始めている。



 車内、豪奢な革張りの座席では――


「大丈夫? 霓裳?」

「――」




 ☆バナールのディナミークはこちら↓

http://www.mini-kojima.co.jp/news/2015/1501/image/wb089.html

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