第6話

 夢か……


 なんだった?

 昔、あった気がする。

 ああ、これだ。


 川をずっと下って行く……

 そしてまた、戻って来る……

 悠久の景色の中を、ゆっくりゆっくり……

 そして、いつか、そのまま、空の高みへと到達するのだ。


  シュウ ――

   シュウ――

 

 落っこちちゃうわよ! 危ないわ! そんなにへさきに乗り出してはだめ。

 

 平気だよ。ママ。

 ほら、イルカだ!

 僕たちの船と並んで泳いでる!

 

 あれはお姫様よ。悲しい恋をした……

 恋人と添い遂げられなかった…


「!」


 ガバッと起き上がる。


「うわっ……」

「どうしたの?」

 差し伸べられた白い手、白い肌。滲むような薄紅色の乳房。

 そこは〈虹〉の霓裳ニーシャンの居室だった――

 茶館で食事を取った後、やって来たのだ。


「ああ、驚いた……」

「驚いたのはこっちだわ。いきなり飛び起きるんですもの」

「最近は、夢なんて見たことなかったのに」

 特にあんなふるい夢――

 再度身震いした。


このせいか・・・・・?」

 

 部屋中に散乱している光の欠片かけら


これ・・が水の反射を思わせて、それであんな夢を見たのか?」

 

 旧い……ずっと昔の……記憶の底に埋もれた日々……

  

  シュウ ――

   シュウ――

   

    危ないわ! そんなに舳に乗り出してはだめ。



 それにしても――

 前回は、夜だったので吊洋燈つりランプや電灯の明るさだった。

 今日は、まだ真昼間なので自然光が部屋に満ち溢れている。

 闇を嫌う娘は昼間でも客の相手をする時、決してカーテンを引かない。零れる日差しの中で純白の身体を開く。

「あれだ!」

 鮎川脩あゆかわしゅうは寝床から飛び降りると窓辺へ走った。

「これ、今、租界で流行はやっているのか?」

「え? なあに?」

 霓裳も起き上がって瞳を凝らした。

「この風鈴だよ! 絵描きの少年の部屋にもあった――」

 絹のキモノを素肌に羽織ると男の傍らに立つ。

「絵描きの、って、甲光ジャーガンのこと? あの子の部屋に行ったの? なあに、脩さん、男の子も好きなの? ほんとにヘンタイねっ!」

「馬鹿、俺は芸術が好きなんだよ。買ったのは絵さ」

「レインボーメーカー」

「?」

「これの名よ。風鈴じゃないわ」

 意味がわからず突っ立っている脩に霓裳は愛くるしい笑顔を向けた。爪先を立てて、ぶら下がったガラスの先端に手を伸ばし、触って揺らす。

 透き通った房は透き通った音色を立てた。

 

 カラララ……


「知らないの? こうやって……お陽様の光を集めて……反射させて……部屋に光をばら撒くの。虹を作るのよ」

「ああ、だから? レインボーメーカー……」

 なるほど。部屋中に光が舞っている。きらきらさざめいて散らばっている。

 脩は揺蕩たゆたう光の粒を眼で追った。

 並んで立っている二人のはだしの足の上、床、卓子テーブルや椅子、鏡に寝台、その向こうの壁、額縁の上まで……

「ふうん? いかにも西洋人の考えそうなことだな」

 頻りに感心して周囲を見回す脩だった。そんな脩をじっと見つめながら娘は訊いた。

「さっき、水の反射って言ってたけど――脩さん、水辺のお生まれなの?」

「ああ? そうだよ」

「私もよ!」

 飛び上がって手を叩いた。 

「だから、これを気に入って……下げてるの。ね? 水辺の人ならわかるでしょ? この煌きが真昼の水辺にいる心地にさせる」

 思い出させる――

 懐かしい場所で、懐かしい人にそうするように娘は身体を摺り寄せた。

 細くて冷たい身体を。

 今日も着たままのシャツが背に張り付いて、熱を奪う。娘の皮膚と同じくらい絹のシャツは冷え冷えとしていた。

 温もりを求めて枝垂しだれ掛かる娘とは裏腹に冴え返る脩の心と身体。

 娘の小さな耳――それこそ、遠い日に舳先から飛び込んで採って来た貝殻に見える――を優しく噛むと、

「なあ? そろそろまた、アレ、をくれないか?」

 気のせいだろうか? 少し悲しそうに霓裳は頷いた。

「いいわよ」






「あの……」

 

 霓裳の部屋を出て階段を駆け下りた時だ。踊り場の棕櫚しゅろの鉢の影から突然声を掛けられて脩は総毛だった。

「誰だ!?」


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