第5話


「おまえさん、上海ここへは〈河豚計画フグ・プラン〉でやって来たんだろう?」

 

 しゅうの問いにヴォルツォフは即答した。

「ええ、そうです」

 脩は目を細めると、

「それにしちゃあ――ユダヤ人に見えないな?」

 

 〈河豚計画〉は1930年代のこの時期、日本陸軍と海軍が協力して進めていた、亡国の民・ユダヤ人救済計画だった。欧州で拡がるユダヤ人迫害に対して、積極的に上海及び満州へ受け入れ、ユダヤ人自治区の建設を推奨するというもの。1935年9月、ドイツではナチス党が〈ニュルンベルク法〉を制定している。この正式名称は〈ドイツ人の血と名誉を護るための法律〉。ユダヤ人は〈宗教〉でなく〈人種〉〈血統〉だとみなされた。すなわち、当人がユダヤ教徒か否かに関わらず、祖父母、両親がユダヤ人ならユダヤ人と断定された――


「僕は母方がドイツ系ユダヤ人なんです。ご覧の通り欧州人の血の方が濃く出ているけど。ソレがいいのか悪いのか……」

 微苦笑して、肩を竦める。

「僕の妹は美しい漆黒の髪と瞳の持ち主ですよ」

 脩は煙草を咥えて火をつけた。

「ああ、そうなんだ」

「何故、逃れて来たこの地で安息に暮らそうとせず、こんなことに手を染めてるのかって、あなたは訊きましたよね?」

 ヴォルツォフは暫く汚れた地面を見ていた。やがて顔を上げると、

「恩返しをしたいと思ったんです」

 真直ぐに脩の瞳を見据える。

「手を差し伸べてもらって……窮地を救ってもらったからには、そのお礼はきちんと返したい。それだけです」

「ふうん、律儀なんだなあ!」

「これぞ、武士道精神ですよ」

 ヴォルツォフはニヤリとした。

「礼節に置いて我々ユダヤ人も日本人には負けてはいられません」

 海岸通りに出た。

 歓楽街と同じくらい上海租界の代名詞になっている、ここ外灘バンドは黄浦江に面したおよそ12キロに及ぶ埠頭である。今日も外国商船や中国奥地からやって来たジャンク船でごった返している。目を転じれば遥か沖合いに停泊中の外国軍艦や貨客船も見えた。

 広い街路には鈴掛の並木がずっと続いている。乳母車を押して通る欧米人の乳母と親子連れにヴォルツォフは道を譲った。

「ご安心を。あなたは何故、この道に? とは訊きませんよ」

「え?」

「スパイって――そういうことは話したがらないものなんでしょ?」

「いや、聞いてくれても大丈夫」

 吹き過ぎる海風に髪を乱しながら、脩の目は水平線に浮かぶ入港待ちの船に向けられている。

「そのつど違う話をするだけのことさ」

 ヴォルツォフは声を立てて笑った。

「ひどいな! 昨日、虹の娘に、自分は『正直な男』だって言っていたのに」

「馬鹿らしい」

 鼻を鳴らす脩。煙草を投げ捨てた。

「正直なスパイなんてこの世にいるものか。おまえ、会ったことあるのかよ?」





「これはイギリス。こっちはアメリカ。あ、こりゃイタリアだ。おいおい、ポルトガルにベルギー人までいるぞ!」

 翌日。

 早速、ジャーが持ち込んだ似顔絵の束を繰っていく脩だった。

 処は三馬路サマルの茶館の一隅。

鮫島さめじま大佐に聞いてはいたが――まさに言葉どおりだな! あの小さい店に列強の工作員がひしめいている。え? 何?」

 脩が聞き返した。天井にずらりと吊るした鳥篭のせいで茶館内は種々の小鳥の囀りに満ちている。雲雀ひばり、目白、文鳥、金糸雀カナリア鸚哥インコ……

 ヴォルツォフは小鳥たちに負けじと声を張り上げた。

「ここに描かれている人たちは、全員、あなたの知ってる人物なんですか?」

「いや、知らない顔もある。いずれにせよ、大佐に回して確認してもらうさ」

 きっかり絵の枚数分、紙幣を渡す。

「毎度アリィ!」

 破顔して内ポケットに仕舞う少年画家。

「まだまだ――どんどん描いて持って来るよ!」

 駆け去ろうとする首筋を脩が掴んだ。

「待てよ、ついでに昼飯を食ってけ」

 少年は素直に腰を下ろした。

「旦那さんがたには感謝してます!」

「フフ、そんなに精出して金を稼いで……どうしようってんだ?」

 塩擦鶏ヤン・カー・ジーを皿に取り分けてやりながら脩が訊ねる。ヴォルツォフも面白そうに、

「何か欲しいものでもあるのかい?」

 甲は匙を持つ手を止めた。湯気の立つ黄豆湯ファン・ドゥ・タンから顔を上げると、

「僕、ちゃんとした美術大学で学ぶのが夢なんです」

 だから、出て来たんだ。

 皆は、外はおっかないからむらを離れちゃダメだと言うけど、僕は違う――

「僕はホンモノの画家になりたい。だから、そのためにも――できるならパリの美術学校に入りたい!」

 嬉しそうにポケットを叩く。

これ・・はそのための資金さ!」

「パリか……」

 ギルベルト・ヴォルツォフは深く息を吐いた。懐かしき欧州。

「甲君、君のその腕なら充分に入学資格はあるよ」

 脩も同意した。

「そうだな、夢はデカイほうがいい!」

「旦那さんがたの夢はなんですか?」

 肉を頬張る少年の、屈託のない質問に思わず二人は顔を見合ってしまった。


 夢か……



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