第4話

 こうして、少年画家に案内されてやってきた曲がりくねった路地の奥。


 租界は、工部局が誇る道路造営でその区域の重要性、品格がわかる――

 というのも、道路に1等から4等まで等級があったからだ。1等はオーストラリア産の焼煉瓦を敷き詰めている。2等、3等クラスはアスファルト舗装で、その厚みの差。最下級がマガダム道路と言って、大小の小石を敷いた……というか、撒いてあるだけ。

 華やかな大路を一歩入って、うねって続く裏通りは全てこれだった。

 

 ジャッジャッと石を飛ばして至った少年の棲家は〈当〉の看板を掲げた古い煉瓦立ての最上階である。 両隣は錠前屋と肉屋。首を切った家鴨あひるが軒先にぶら下がっている。 ※当=質屋

「階段、狭いから気をつけて。踏み外さないでね? ――さあ、着いた、ここだよ!」

 塗装の剥げたドアを開けると、そこが少年ジャーの部屋だった。

 広さはせいぜい6畳。寝台と小さな卓子テーブル、傾いだ椅子が一脚。それ以外の空間には所狭しとカンバスが立て掛けてある。

「へえ! 変わった風鈴だな!」

 部屋に入って第一声。しゅうが目に留めたものは、絵ではなく、窓辺に揺れるソレだった。

 小さなガラスの欠片を葡萄の房のように垂らして吊り下げてある。

「ああ、それ? 綺麗でしょ?」

 一瞬、少年はそちらを振り返って目を細めた。まぶしそうに笑いながら、すばやく数枚のカンバスを寝台の上に並べる。自慢の作というわけだ。

「さあ、見てよ! どれでもお気に入りを選んでください。お安くしますよ!」

 風景画が多かった。

「美しいな!」

 また、嘆息したのはヴォルツォフだ。

「これは幻想画のたぐいかな?」

 青い画面いっぱいに花が描かれている。背景の色のせいで、なんだか水中に揺蕩たゆたっているように見えた。

「それが気に入りましたか? じゃあ、こっちはどうです?」

 少年が新たに引っ張り出したのは花だけの一枚。

 さっきの、遠景の花畑に咲く花をクローズアップで描いている。

「ほう? 印象派の技法だな! 光が踊ってる。モネの睡蓮みたいだ」

 手に取って色々な角度から眺めながら、金髪の青年は訊いた。

「この花は君の想像の花かい? 薔薇……君たちの言葉では玫瑰メイクイだったっけ? その花に似て、とても美しいが……僕は見たことがない花だ」

「花はもういい。人が見たい」

「?」

 刹那、誰の声かわからなかった。それほど低く乾いた声だった。

 鮎川脩あゆかわしゅうは財布から紙幣を取り出した。

「おい、坊主。おまえ、昨日、俺達の顔を上手に描いたろ? あんな風に、あそこ――〈虹〉の店に出入りする人間を描いて欲しい」

「――」

「ほら、カメラだとその瞬間にシャッターを押さないと写真には取れない。しかも、その行為は目立ちすぎる。だが、絵描きって奴は、その瞬間でなくても、一目見ただけで記憶して再現できると聞いた。後から思い出して描くことが出来るってね。違うかい?」

「ええ、まあ、その通りです。僕もできるけど?」

「これは契約金だ。今後は一枚ごとに同じだけ払おう。どうだ?」

 ピュュュー……

 部屋を口笛が切り裂く。甲は、差し出された札をすばやく掠め取りながら、

「豪勢じゃないか! 勿論、やるよ!」





「あなた、ホンモノの工作員なんですね?」

 軋む階段を下りて再び外の通りに戻ると、ヴォルツォフはつくづくと頭を振った。

「僕は、あなたのことをただの・・・遊び人だと思いかけていました」

 脩は笑った。

「何言ってる。何時いつ如何いかなる時も、俺は、根っからの特務機関員インテリジェンスオフィサー様さ!」

 脱いだ背広を肩に跳ね上げる。敷石に流れる油の浮いた汚水を飛び越えながら、

「だが、おまえだって俺に言わせれば〝変わっている〟」

「!」

「折角逃げて来たのに、なんでまた、わざわざ危険な真似をするかなあ?」

 ギルベルト・ヴォルツォフの緑の瞳が揺れた。凍えるような眼差し。だが、一向に気にかける風もなく脩はサラリと言ってのけた。


「おまえさん、〈河豚計画フグ・プラン〉でやって来たんだろ?」




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