第3話

        ✙




「なるほど! 変態・・ってのは、これか?」


 可愛らしい霓裳ニーシャンは煌々と明るい場所でないと抱かれたがらないのだった。


 これでもかというほど吊り下げられた洋燈ランプ紫檀したん寝床バアスの上で輝いている。その下で惜しげもなく……

 可憐な娘は花弁が解けるように身体を開いて行った。


 階下の店〈虹〉は完璧な西洋仕様だったが、階上の居室は古雅な支那風で統一されている。

 紫檀の椅子と螺鈿らでん小卓子テーブル。その上には白蘭花パレエホオの鉢と奇石の置物。床に立てかけてある、愛の時間と情景を増幅させる大きな鏡。伝統色の青い壁紙を貼った壁には硝子を入れた額が飾られていて、南画と思いきや中国の古地図だった。



「何よ、私、変態でも何でもないわ。ただ」

 娘は長い睫を伏せた。

「暗闇が嫌いなだけ」

 絹の敷布シーツに投げ出された白い両足。点点と散る朱色の痣を撫でながら、闇の別名を列挙する。

「闇は、無よ。なーんにもないうろほらうつろ、死……」

 目が痛くなるほど光に満ちた室内に横たわって、しゅうは深い闇を見た気がした。

「だから、私、この店が好き」

 

 虹。


「明るくてキラキラ光るものが大好きなの。でも、変ね?」

 可愛らしい鼻に皺を寄せる。

「中国では虹のことを、あまりよくは言わないわ」

 霓裳は古い歌を口ずさんだ。

 

 東虹日頭      (東に虹が出れば日照り)

 西虹雨       (西なら大雨)

 南虹出来売儿女   (南に虹でりゃ娘を売れよ)



 枕を引き寄せて物憂く脩は応じた。

「ふうん? まあ、なあ。日本でも大昔、虹は好かれなかったらしいぜ。何千という歌を記した古い本――万葉集と言うんだが、その中には虹の歌はたった一つしかないそうだ」

 手を伸ばして枕元から煙草キャメルの箱を取って、咥える。

「美し過ぎるものは人間ヒトを戦慄させるのかもな」

 馬乗りになって霓裳は燐寸マッチで火をつけた。唇をすぼめて炎を吹き消してから、

「フフ、じゃあ、私に戦慄した?」

「ものすごく」

「でも」

 怒ったような声で娘は細い腰に両手を置いた。

「私のことを変態呼ばわりできないわよ、脩さん。貴方だって立派な変態ですもの!」

「へ?」

「それ」

 娘は可笑しそうに笑って脩の上半身を指差した。

「――」

 そう。鮎川脩あゆかわしゅうは決してワイシャツを脱ごうとしなかったのだ。

 今に至るまで、いついかなる場面、どんな行為の最中でも――

「変な人! 『恥ずかしがりやだから』なんて言い訳は通用しませんからね? あんなに獰猛だったくせに」

「おい、言葉使いが間違ってるよ」

 流石に脩は抗議した。

「中国語でも日本語でも〝獰猛〟は獣に使う表現。俺は――紳士だったろう?」

「ふん、だ。よく言うわ!」

 霓裳は桃色の舌を突き出した。

「何故、服を脱げないのか私、知ってる! きっと……鱗がはえてるんでしょう?」

「当たり」

 煙を吐き出して脩は真顔で言った。

「俺は、実は蛇の化身なんだよ」

「だろうと思った!」

 微塵の恐れも見せず抱きつく虹の娘。

「脩さんて、その名の響き……Shéに似てるもの……」

 君の方がよっぽど蛇だ。この絡みつき方。

 そっと脩は身体を離した。寝台を下り、紫煙をくゆらせながら窓へ寄る。

「ところでさ――味見したいんだが」

「もう、したでしょ?」

「そっちじゃなくて――噂のアレ」

 さながらそこにそれが見えるというように魔都の空に視線を走らせる。

 

 感到悲伤吗かなしいかな

 

 夜の租界に煌いているのは禍禍しい霓虹灯ネオンだけ。

「噂の……をこの目で見て見たい」

「――」





 広大な公園〈パブリック・ガーデン〉のベンチでヴォルツォフは新聞を読んでいた。

 あらかじめ示し合わせていた場所だ。

 ここは黄浦江沿いに位置し、イギリス領事館にも近い。南下すれば外灘バンドから歓楽街を経てフランス租界に至る。逆に、反対方向、北へ向かい外白渡橋ガーデンブリッジを渡ると日本領事館がある日本租界の虹口ホンキューに至る。

 朝露に濡れる草を踏んでやって来た脩を見てヴォルツォフは眉を寄せた。

「なんだ――貴方、物凄い顔してますよ? 例の薬、試したんですか?」

「そりゃ、それが俺の任務だから」

 期待して手を差し出したヴォルツォフに脩は首を振る。

「ダメだよ。初日だぞ。流石に持ち出せなかった。店内使用厳守のこと、だとさ」

「そうですか。では、次回はよろしくお願いしますよ。少量でかまいませんから」

「というか――おまえの方はどうだったのさ? 紗羽バオユーとか言ったな? あの娘も頗るチャーミングだったじゃないか。自主調達しなかったのか?」

 今度首を振るのはヴォルツォフ。

「自分の任務は薬の分析です。僕は――あのまま帰りましたよ」

「ああ? そうなんだ」

 脩はうなじを掻きながら周囲を見回した。噴水の飛沫が目に痛い。

「じゃ、昼食を食いに行こう。腹がへった」

「一緒に、ですか?」

「当然だろ。俺達は大の親友・・・・なんだから。この街では片時も離れず行動を共にするんだよ!」

 シェッファアドで評判のカリィ料理でも食べようと大馬路タマロ四馬路スマロまでやってきた時だ。

 脩が小さく叫んだ。

「あいつだ!」

「え?」

 石畳の大路にむしろを敷いて絵を売っているのは、昨夜〈虹〉で会った少年ではないか。

 勿論、立ち止まる人などいない。隣で、籠に萎れたバラを入れて売っている老婆やら、刺繍入りの手巾ハンカチを売る少女の方がよほど繁盛している。

「おい、そこの坊主! 男孩子!」

「あ! 昨日の美男の旦那さんがた……!」

「へえ? こんなところで商売してるのか?」

 二人はしゃがんで覗き込んだ。

 並べられているのはどれも小さい、絵葉書サイズの絵だった。上海の名所が描かれている。

 ヴォルツォフが嘆息した。

「昨日も感心したんだが、なかなかのものだな!」

「また買ってくださいますか?」

「うーん」

 昨日とは違いうなったのは脩。渋い表情で、

「もっと大きなものはないのか?」

 その言葉に少年の顔がパッと輝く。

 昼の陽射しの下で見た少年は、昨夜の綺羅綺羅しい照明の店内より一層愛らしく見えた。

「大きい絵? それなら、僕の部屋までおいでよ! たくさん置いてあるから!」



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