第2話

「お恥ずかしい話、僕は大学を落第しかかっている。それで、親元に呼び戻される前に遊び尽くそうと思ってね。最後の旅に親友・・を誘ったのさ! このご時勢、一度国へ戻ったら、いくら軍閥の子弟といえども、どうなるかわからないからね」

 ここで運ばれて来たカクテルに口をつける。マンハッタンとギブスン。喉を潤した後、一層滑らかな口調で、

「それにしてもパスポートもなしで入国できるとは愉快だ! 僕の遊興の華やかなフィナーレを飾るにはこの街は最適だな!」

 この男、言うことにいちいち説得力がある。見るからに放蕩息子。よくもまあ、探し出してきたものだ。オールバックに整えた髪。右眉の上に微かな傷跡があって、それが逆に翳りのある風情を加味して美男ぶりを上げている。一方のご学友なる西洋人――

 こちらは絵に描いたような貴公子。さながら、プロイセン貴族の風貌。 

「今もさ、四馬路スマロのカッフェ〈パリジャン〉で踊って来た帰りなんだが。いやあ! あそこの管弦楽団は超一流だな! でも、こんな可愛らしい店も悪くない。隠れ家のようで。なあ、ヴォルツォフ?」

「――」

「ああ、気にしないで、フーディさん。この男はすこぶる無口な性質たちだから。その分、僕が騒ぐよ」

 しゅうは店長の方に身を傾けると悪戯っぽく片目を瞑ったてみせた。

「とはいえ、彼は、語学は僕より堪能だから内緒話は気をつけたほうがいいよ。母国語の独語は勿論、仏語、英語、日本語、中国語、何でもこなせる」

 ここで一旦息を継いだ。グラスの中のパールオニオンを小指で突つつきながら、

「ところで〈虹〉って店名だけど――」

 ゆっくりと顔を上げる。

背後バックに日本人がいるの?」

 店長・フーディ・Gは静かに首を振った。

「よく訊かれるのですが、偶然です。私の好きな言葉なんです」


 虹。


 実は虹の口、虹口ホンキューと書くと、上海での日本居留地、日本租界の地名になる。

 先述の海軍特別陸戦部隊しゃんりく本部も虹口にあった。

 そうして、今や、この店で流通している正体不明の魔薬も〈虹〉と呼ばれていた。

「好きな名! なるほどな! 確かに、エル・ドラドやパレルモ、デル・モンテなどよりロマンチックだ!」

 鮎川脩あゆかわしゅうは屈託のない笑い顔で話題を変えた。巻いた紙幣をそっとフーディのポケットに滑り込ませる。

「そういうわけで――さっそくだけど、可愛い子と知り合いになりたいんだが。今、ステージで歌ってるあの娘たちがいいな!」

 店長は完璧な微笑で会釈すると去って行った。


「旦那さんがた、こんばんは!」


 入れ替わりで響く声。

 少なからず二人はギョッとした。

 テーブルの前に立った少女――いや、少年? をまじまじと眺める。

 年のころは14、5。細面で可愛らしい。薄鼠の大掛児タアクウルひわ色の褲子クウズ

「ああ、驚いた! 指名した可愛い子ちゃんが もう、やって来たのかと思った……」

 まだステージでピアノに寄り添って歌っている娘たちに目をやってから、改めて眼前へ視線を戻す。

「美男の旦那さんがた、お願いです。僕の絵を買ってくださいませんか?」

 少年がテーブルの上に差し出したものは二人の似顔絵だった。流れるような軽妙なタッチ。悪くない。

「へえ! よく似ている。いつの間にこんなの描いたんだ?」

 ヴォルツォフが覗き込んだのとほとんど同時に、

「買うよ!」

 脩が銀貨を弾き飛ばした。

「え? こ、こんなに下さるんですか?」

「取っときな。俺は芸術がわかる男なんだ」

「こら! ジャー!」

 店長の叱責が飛ぶ。

「ここで商売はするなと注意しただろう? 勝手に店内に入って来るんじゃない!」

「ヒャ! 見つかっちゃった! じゃ、謝謝! 親切な美男の旦那さんがた!」

 駆け去る少年の後姿にフーディは眉を寄せた。

「全く――目を離すとすぐこれだ」

「お待たせいたしました!」

 店長を押しのけるようにして前に進み出たのは、今度こそ正真正銘の美姫たち。この店自慢の、歌い手であり踊り子でもあるショーガールだ。

「では、ごゆっくり」

 会釈して店長は立ち去った。

「初めまして! 私は霓裳ニーシャン。この子が」

紗羽バオユーです……」

 いずれ劣らぬ美しい娘だった。漆黒の髪の根元近くを色糸で一箇所だけ括って背中に長く垂らしている。劉海まえがみは額に下ろしている。

 霓裳が青磁色の衣裳イノシャン、紗羽は薄桃の衣裳イノシャン褲子クウズは履かない新型旗袍チーパオだ。

 この旗袍が〈チャイナドレス〉の代名詞としてあっという間に定着したのには訳がある。深いスリットから生足が覗くせい。

「ニイハオ! 霓裳!」

 円らな瞳で恐れ気もなく見つめ返している娘にサッと手を差し述べる脩。

 やや遅れて、ヴォルツォフはもう一人の、伏せ目がちに微笑む娘に頷いて見せた。

「ニイハオ、紗羽……」

「ああ、霓裳! 僕は貴女に会いたくてたまらなかったんですよ!」

 さっそく隣に座らせて脩は言った。

「お噂はかねがねお聞きしています」

「まあ、嬉しい。どんな噂かしら?」

「貴女がとんでもなく――変態・・だって!」

「ブッ」

 今まで恬淡クールに決めていたヴォルツォフが盛大にカクテルを噴き出した音。

(おいおい……)

 耳を疑った。だが、これは事実である。

 はっきりと昨日、海軍特別陸戦部隊の建物内で聞かされた機密事項のひとつなのだ。



 ファイルを捲りながら脩は確認した。

「ふうん? 一番人気の歌手、霓裳ですか。可愛いな! で、この赤線が引いてある〈最重要特定要因〉とは?」

「変態」

「へえ! どんな?」

 ここで初めて鮫島大佐は表情を変えた。わずかに口の端を上げて、

「ソレを実地で調べるのが、鮎川君、君の仕事・・だろう?」




 とはいえ、まさか、直接、訊ねるとは……!

 驚きを隠せないヴォルツォフ。片や、訊かれた当人、霓裳は濡れた瞳をこれ以上ないくらい見開いた後で、男の膝にコロコロと笑い崩れた。

「いやだっ! 面白い御方!」

「よく言われます。そのとおり、僕は、面白くて……正直な人間なんですよ?」



 2時間後。

〈虹〉の階上は 霓裳の居室。

 その乱れた寝台の上で脩は納得の声を上げた。

「なるほど! 変態ってのは、このことか……!」

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