虹の口
sanpo=二上圓
第1話
✙
予想したより狭かった。
だが、内装は悪くない。精緻な寄木細工の床、漆喰の壁。天井から吊り下げたシャンデリアの、なんと言う眩しさ!
中国語で何と言った? そう、
砕けた光の飛沫を浴びて踊っている人たちは蜃気楼めいている。もっと大きなダンスホールに溢れている欧米の水兵などは見当たらずほとんどがスーツ姿の紳士だった。
「ようこそ、いらっしゃいませ!」
帽子を脱いでテーブルに腰を下ろしたばかりだというのに。
店同様に上品で優雅。長身にクリーム色のスーツが良く似合っている。一目見ただけでは人種が特定出来ない神秘的な容貌だ。
「当店へのお越しは初めてでございますね? ありがとうございます。私は店長のフーディと申します」
英語で Hoody・G と印字された名刺を差し出した。
「フーディ? へえ! 奇術師みたいなお洒落な名だな?」
名刺を一瞥して青年は微笑した。
「よろしく、フーディさん。僕ら、この店の評判を聞いて、居ても立ってもいられなくなったんですよ!」
小粋な白の三つ揃えのその青年、ちょっと腰を浮かせて隣の、グレーにピンストライプのスーツを振り返る。
「なあ?」
「光栄です。どうぞ今後ともご贔屓に!」
「あ、僕は
「ご学友ですか? こちらへはご旅行中?」
「そう! 僕たち大親友なんですよ!」
大嘘だった。
二人は昨日会ったばかりだ。
場所は〈
〈上陸〉とは正式名称を
1900年の北清事変を機に上海に初上陸、以来、情勢緊迫のつど実践活動して来た。
1932年以後は鎮守府から独立した唯一の常設部隊である。特に市街戦に対応した最強装備を有す……
その上陸の、近代建築の牙城。鉄筋コンクリート4階建て、威風堂々たる建物の1室。
「〈虹〉?」
「そう、最近開店して人気急上昇の店だ。内偵に入ってもらいたい。場所は
調査対象は何です、と訊く前に分厚いファイルが突き出される。
担当指揮官・
「薬」
思わず鮎川脩あゆかわしゅうは失笑してしまった。
「何を今更? 麻薬と売春は江戸の……じゃなかった、〈
そも、租界とは?
1842年の南京条約により開港したここ上海の〈外国人居留地〉の総称である。
当初、イギリス、アメリカが共同租界を、フランスがフランス租界を設定し、遅れて日本もこれに加わった。
租界内は行政権と治外法権が認められている。最高行政管理機構は〈工部局〉と呼ばれ、列強各国の市民代表で構成されていた。勿論、警察組織も存在した。但し、〈麻薬と売春〉は〝問題を起こして他者に迷惑をかけない限り〟禁止されていなかった。列強各国の利権を優先する、自由と言う名の甘い罠トリック……!
上海租界が
「だが、今回は笑っていられないのだ」
大佐は厳格な表情を崩さなかった。
「どうも、店内で扱われる〈薬〉の正体が掴めない。生産地、ルート、販売元。何もかもが曖昧模糊としている。今まで何処の世界でも知られていない〈未知の新薬〉などいう噂もまことしやかに流れている」
咳払いをした。
「
青幇とは、言わずと知れた上海ギャングのこと。
租界内に幾つもある阿片窟はほぼ彼ら青幇の経営なのだ。この他、堂子窟(男娼館)、魔鏡窟(SM劇場)、いかがわしい店の背後には必ず彼らの存在がある。
「その証拠に連中も懸命に嗅ぎ廻っている。勿論、青幇のみならず――列強各国も蠢いている。優秀なスパイを投入しているぞ」
ここまでが初動捜査班の内偵結果だった。
鮫島大佐は窓の外に目をやった。初夏の空が広がっている。大陸東沿岸部らしい鮮烈な青。
「近年、上海租界の治安維持に細心の心配りをしている我が陸戦隊としては、何処よりも早く正確な情報を知りたい。否、知っておく必要がある。おい、君!」
呼ばれて衝立の向こうから出て来たのは金髪碧眼の欧州人だった。
「こちらが、今回、組んでもらうギルベルト・ヴォルツォフ君」
「初めまして。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
「入手した薬は即、彼に渡すように。ヴォルツォフ君はベルリン大卒の薬学のエキスパートだよ」
そういうわけで――
今日、この時間、この〈
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