最終章

 終演の時間が近づいている。私は体で、心で、頭でそれを理解していた。一度は思い描いたことのあるこの世の終焉は、私が生きている間には起こらなかった。だが、私自身の終演はもうすぐやってくる。哲学的な話をすれば、この世界を主観的に観測しているのは結局のところ私しかいないのだから、私の終演はこの世の終焉を意味しているのかもしれないが、そんな些細なことはどうでもいい。私は哲学者じゃないし、隣を歩いているのは世界を創った神様じゃなくて、自分勝手で気障ったらしい悪魔だ。

 面白いなあ、本当。

「着いたよ」

 彼が私に話しかける。思考以外の感覚を切っていた私は、突然の呼びかけに肩をビクリと震わせてしまう。彼はそれを怯えと受け取ったのか、どこか心配そうな目で私の顔を覗きこんできたが、余計なお世話だ。私はいつになく落ち着いている。

 私と彼は、校門の前で呆然と立ち尽くした。

 ちょうど休み時間なのか、窓から見える教室の様子は楽しげでいつもと何ら変わらない。呆れるほどに牧歌的で平和的で、どこまでも日常だった。違うところと言えば、私の悲愴な顔とそれを眺める卑しい笑顔がその中にないということだが、それ以外には何の変哲もない、驚くくらいに代わり映えしない景色だった。

 まるで、今朝は何事もなかったと言わんばかりに。

「はっはー、実に楽しそうだねえ」

「…………」

 彼は笑いながら毒を吐き捨てた。私はその毒をゆっくりと飲み下す。

その毒は、涙の味がした。

「中に入る?」

「…………屋上、行く」

 ずっと黙っていたから、私の声は掠れて汚くなっていた。咳き込んで、その汚さを誤魔化す。彼を相手にそんなことをする必要はないと気づいたのは、少し後の事だった。

「君は本当に屋上が好きだね。バカと煙はなんとやらって言うけど、君はどっちなんだ?」

「うるさい」

 口ではそう言いながら、私は実のところどっちでもあるんじゃないかと思った。バカで、煙みたいな私。まさしく今の私にはぴったりな表現だった。これ以上に丁度いい表現が、他に見付からないんじゃないかと思えるほどにはぴったりだった。

「別にここでもいいんじゃない? わざわざ屋上に行く必要ある?」

「なんでこんな景色をずっと見てなきゃいけないのよ」

「面白いじゃないか」

「本当にそう思ってる?」

「さあね」

「どうせだったら、屋上から綺麗な景色を眺めたいじゃない?」

「一理ある」

 彼はおおげさに頷く。わざわざ屋上に行かなくても、と彼は言った。だが、彼の顔を見る限り、一刻も早く屋上に行きたいのは彼の方なんじゃないかと思う。さっさとこの場を立ち去りたい、という顔をしていた。こんな薄気味悪い光景なんて見ていたくないという、怒りに近い感情が見え隠れしている。

 僕は生きている人間を眺めるのが大好きなんだ。

 みんな汚くて痛くて苦しくて嘘吐きで偽善者で性悪で嫉妬深くて強欲で異常で、どうしようもないくらい可哀想。それなのに無様に生きようとしている姿が滑稽で、眺めていて飽きることがない。

 彼は確か、そんなことを言っていた。

それが嘘か本当かという問題に関しては、この際目を瞑るとしても。今の彼だけを見て、判断を下すとするなら。少なくとも、生きている人間が好きなんだとは到底思えないし、むしろ生きている人間よりも、死んでしまった人間の方をこそ愛しているんじゃないかとさえ思えてくる。捻くれてねじくれた話だが、彼はきっとその自己矛盾に気が付いていない。これは多分、私だけが知っている、小さな小さな秘密だった。

 自分の手で死を運命づけてしまった相手を愛しているなんて、どこまでも悪魔的で、どこまでも彼らしかった。

 私は嬉しくなってしまって、それが彼に伝わらないように下を向いた。そして軽く手を引き、校門から学校の中に入る。校庭の砂利を踏む感触が妙に心地よくて、私はほんの少しいつもより高く足をあげて歩みを進める。

 正面玄関から、靴を履いたまま校内への侵入を果たす。彼は律儀に靴を脱ごうとしていた。けれど、私が催促するように手を強く引くと、諦めたように首を振り、靴のまま廊下にあがった。周りを歩く生徒たちに怪訝な目で見られたが、もうこんな奴らに何を見られたところで私の心は一つも動かない。

だって彼ら彼女らは、私の観客ではないのだから。

「感心しないなあ。今こそ校則は守っておくべきなんじゃないのか?」

「拘束? 私にそんなこと出来ると思う?」

「思わない」

 多分、漢字の変換をミスってると思うんだけどね、と彼は付け加えた。私は頭が弱いので、言葉を自分の都合良いように変換してしまう癖があるのだ、ということにしておく。普通の人だって日常的に認識を捻じ曲げて解釈することがあるんだし、私がそれをしたって誰が責められるというのか。

 廊下をズンズン進んでいくにつれ、周囲にいた生徒たちが私たちの異質さを認識し始める。最初はうまい具合に溶け込めていたのに、だんだんと私たちを避けて脇に寄り始めた。私としてはそちらのほうが都合が良い。これで幾分か通りやすくなった。

 二階に上がり、私たちが今朝までいた教室の様子を覗いてみた。そこには喧しい笑い声と姦しい話し声、そして痛ましい泣き声で溢れ返っている。

って、あれ?

 泣き声?

 私は自分の耳を三回ほど疑い、そして今度は全神経を尖らせて耳を澄ました。

 耳障りな位の楽しげな声の中に、確かに悲痛な泣き声が混じっているのが聞こえる。私は流石に首を捻って彼の方を見た。彼も何が起こっているのか分からないらしく、目を丸くして首を傾げていた。どういうことだ、そんな声をあげる人間なんて『もういない』はずなのに。

 もういない、というか、『ここにいる』のに。

 私という立ち位置がいなくなっている教室から、どうしてそんな声が聞こえる?

「え、何? どういうこと?」

 私は気になりすぎて、つい教室を覗きこんでしまった。それが、その選択が私にとってどういう意味を持つのか、この時の私にはまだ分かっていなかった。

 そこには、『私』がいた。

 そこには、もういないはずの『私』がいて。

 そして、それは他でもなく私じゃない『私』がいた。

 脳髄を直接握り潰されているかのように、私の全てがぐらつく。地についているはずの足はフワフワと安定感を失い、骨が通っているはずの身体は支えを失ったかのように前後不覚に陥る。まだはっきりとしていたはずの私という境界線は突然薄れていき、景色と私の境は自分でも分からないくらいに曖昧になった。体が、頭が、心が、在り方が、全てがぐらついた。

 昨日まで私を虐めていた子が、虐められていた。

「…………っ!」

 強烈な吐き気に襲われて、私は口を押えて後ろに下がる。もう、見ていられなかった。見てはいけないのだと悟った。これ以上、あんな光景を認識し続けることなんて出来ない。

 そこには、一種完成された世界があった。

幸か不幸か、そこからいなくなった私には、代役が用意されていた。この世で最も汚くて不運で不遇な、残虐過ぎるほどに残酷な代役が。私は結局、端役の端役の端役にもなれていなかったのだ。いなくなったところで物語の進行には全く影響を及ぼさないどころか、誰にもそれを気付いてもらえない、エキストラのような存在だったという、オチのないオチ。

私はそれを、まざまざと見せつけられた。

 そんなことは、分かっていたはずなのに。

 分かりきっていたはずなのに。

 私は何も、分かってはいなかった。

「大丈夫?」

 嗚咽を漏らしている私の背中をさすりながら、彼がそう問いかけてくる。私はしばらく何も言えなかったが、彼の介抱もあってか段々と落ち着いてきた。小さな声で大丈夫と返事をする。

 なるほどなあ、と思った。

 この世界は実に上手く出来ているものだ。

 私がいなくても、物語は進む。何一つ淀みなく、滞りなく。

「中で何を見たんだい?」

 彼がそう言い、教室の中を覗こうとする。私はそれを、彼に縋りつく形で引き留めた。彼があの光景を見てしまったら、多分、ただでは済まないだろう。

私が、ではなく。

彼が、でもない。

彼らが、だ。

 人間の心を解し、人間の心を持った優しい悪魔が、本物の悪になってしまう。

 私には、それをみすみす見過ごすことは出来ない。彼が落第した悪魔でなくては、私は最後の救いすら失ってしまう。私を綺麗だと褒めてくれた、私の存在を認めてくれた、彼という救いを。

「……へえ」

 彼は私の妨害の意図を察したのか、すぐに身を引いてくれた。私は胸を撫で下ろし、彼から離れる。

 もう、教室の喧騒は聞こえなかった。楽しそうな笑い声も、盛り上がっている話し声も、悲痛そうな『私』の声も、何もかも、聞こえなくなっていた。

「お別れはしていかなくていいの?」

「お別れなんて、要らない……もうあそこには、私はいなくて良いから……」

 無理やり絞り出した私の声は、笑えるくらいに震えていた。そして、最後の方は本当に笑ってしまっていた。情緒不安定になっている自覚は十分にあった。

「そうかい」

 彼はそう言って、再び階段の方へ戻っていった。その背中は軽く猫背になっていて、ちょっと可愛いなと場違いにもそんなことを考えてしまった。

 先にどんどん階段を昇って行ってしまう彼から少し離れて、私はゆっくりと階段を上った。そして最後に、屋上へ出るためのドアの一つ手前。その階段に差し掛かった時。私は何の気なしに段数を数えてみた。特に意味はなく、意味を見出そうとすらしていない、純粋な戯れだった。

 その階段は、十三段だった。

「……はっはー」

 嫌な偶然だな。変な笑い方になっちゃったじゃないか。彼の笑い方が移ってしまったみたいだった。あー、嫌だ嫌だ。

 お誂え向きな舞台は、何一つ要らないっていうのに。そんなもの、邪魔なだけだ。

 何度も言っているじゃないか。ご都合主義は嫌いなんだ。

 私はほんの少しの抵抗として、一歩目を二段飛ばしで上った。用意された薄気味悪い舞台を、自分の足で蹴り飛ばして壊した。

 建て付けの悪いドアを、彼が乱暴に開ける。瞬間、激しい風と痛いくらいの光が私を突き刺した。顔を腕で覆うように隠し、耐えきろうと足を踏ん張る。

「どうぞ、君にとっての最期の大舞台だ」

 彼は恭しく一礼すると、ドアの横に立って私を招いた。

本当に嫌味な奴だ。私は顔をゆがめる様に苦笑いをすると、彼のエスコートに従ってドアを潜った。彼もそのあとに続いてドアを潜る。

バタン、とドアが閉まった。

「どう? 僕とここに来るのももう三回目だけど、感想は」

「感想も何も……」

 感慨すら湧いてこない。思うところなんて何一つないし、強いて挙げるなら少し寒いなってことくらいだ。

「そうだね。僕も別になんとも思わないや」

 そう言って彼は肩を竦めた。私としては、そんな風に格好つけて振る舞う彼の髪の毛が風に吹かれてぐちゃぐちゃに乱れているのが面白かった。彼は私の視線に気づいたのか、慌てて髪の毛を手櫛で整える。見事な七三分けになって、余計に面白い髪形になってしまっているけど、私は敢えて指摘しなかった。

「締まらないなー……」

 私の呟きは風に掻き消されて、彼の耳には届かなかった。彼は何事もなかったかのように平然とした顔をしている。私はその様子に吹き出してしまった。途端に、彼の顔が赤くなっていく。しかし恥ずかしいのを悟られたくないのか、顔を逸らしていた。

「僕の方はいつでもいいけど、君は何か準備するのか?」

 いささかぶっきらぼうに、彼が尋ねる。私は笑いが収まるのを待って、答えた。

「準備も何もないでしょう…………あ」

 準備、というほどの事でもないけれど。一つだけ、やり残していることを思い出した。

大抵は物語のクライマックス直前に用意されていて、一つの終幕の合図ともされているもの。

 主役による決め台詞。

 私は悲しいくらいに主役じゃないけど。登場人物が私しかいないのだから仕方がない。不肖私が、私以外の誰かが務める主役に成り代わって、取って代わって、最期くらいはキメさせて頂こう。

 思えば、どうして一昨日の時点で私は死ななかったんだろう。

彼に写真を撮られてムカついたから、っていうのは今考えてみればきっと建前の理由に過ぎなかったのだ。自分でも気付くことが出来なかった、建てたことすら自覚できないタイプの建前。既に終わっていた私の物語に二日間のエピローグを付け足した、私の無自覚で無意識な本音はなんだったのだろうか。

「準備が終わったら言ってね。待ってる」

「うん」

 あのまま何も納得することなく理不尽を飲み下して、何の救いもなく不条理を抱えたまま退場するのが嫌だったから? そんなことはない。確かにあの時私には、それをする覚悟が出来ていた。その覚悟は、言い換えれば長い時間をかけて形成された私の醜い諦観だった。何でも諦めて、何もかもを諦めて、何から何まで諦めた、私の汚れた明確な無気力だった。

 私は、目を閉じている彼の顔をじっくり眺めた。

「ああ、そっか…………」

 ようやく気付いた。私は自分の心に抱いていた気持ちを自覚するよりもずっと前から。

 夕日が景色を染めていた、あの日の屋上で彼を見た時から。

 彼に、惚れていたのだ。

 どうしようもなく下らない、悪足掻きみたいな一目惚れ。

 青春を真っ黒に塗りつぶされた私は、最後の最期で恋する乙女だった。

「面白いなあ」

 さて、謎は解けた訳だ。もう思い悩むことはない。後に立つであろう後悔は先回りして解決済みだ。円満、重畳、順風満帆。三途の川に用意された小さな舟は、出港準備万端である。

 大きく息を吸って、吐いて。

 また吸って。


「―――――――――っ!」


 出来る限り大きな声で、叫んだ。一番遠くの、地球をぐるっと一周回って、私の背後にいる彼にまで声が届くように、大きく。私の目に見えている世界の隅々まで、この劇場の端から端まで私の思いが届くように、大きく、大きく。

 私の声は、音速という殻を軽く超えて。

 第三宇宙速度の、その先へ。

「おー」

 彼が驚嘆の声を挙げる。一歩の私は酸欠で死にかけていた。あんな大声を今まで出したことが無かったから、加減が分からなかったのだ。喉が焼ける様に熱く、ジンジンと痛みを放っている。

「ご静聴ありがとう。準備できたわよ」

 私はガラガラ声で彼に言う。

「よし来た」

 彼は楽しそうにカメラを構えた。私もそれにつられて楽しくなってきてしまう。まるでこれから記念写真を二人で撮ろうかというような雰囲気である。これで良いのかなあと不安が過ぎるが、誰に咎められるわけでもないんだ。今くらい、私の好きに振る舞わせてもらおう。

「僕も準備できてるよ」

「そう。ありがとう」

「じゃあ、そうだな、なんかポーズ決めてよ」

 ここに来て彼から謎の無茶ぶりを食らった。ポ、ポーズ?

「嫌よ、恥ずかしい……」

「何を恥ずかしがってんのさ。僕しか見てないんだぜ?」

「それが恥ずかしいって言ってんのよ……」

 何が悲しくて彼に向かってポーズを決めなければならないのか。それだったら仏頂面でつまらなそうに映った方がいくらかマシである。

「うーん……」

 彼は腕組みをして悩み始めてしまう。そんなに思いつめる事なのか……? と私は首を捻らざるを得なかったが、そんなくだらないことで必死に悩んでいる彼がとても愉快で、そのまま見守っていることにした。

「あ! じゃあさ」

「ん?」

「せめて笑ってよ」

「…………」

 それは、その言葉は、彼にとって特別な意味を内包していた。

「……それなら、まあ、お安い御用よ」

「良かった」

 彼は嬉しそうに笑った。私はこんな時、どういう顔をしたらいいか分からなかった。

 正直、涙が出そうになっていた。

「じゃ、とるよ」

 彼はカメラのファインダーを覗きこむ。私は目を擦ってから顔を二回ほど叩き、零れそうになっていた涙を無理やりに引っ込める。観客からのせっかくのリクエストだ、応じないわけにはいかないだろう。

 私は、要らぬピースまで携えて。

 ぎこちなく、笑顔を浮かべた。

 

カシャッ。


今日は突き抜けるような青空で。太陽がまだ、辺りを白く照らしていたけれど。

涙を堪えていた私の目には、その瞬間、辺りがまるで夕日を浴びたように真っ赤に映った。

シャッター音で、最期の幕引きは終わりを告げ。

私の緩やかな自殺は、これにて終演だ。

 遠くの方で、小さな拍手が聞こえた気がした。               

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ホワイト・アウト よしたつ @xxusodakedo

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