終幕

 彼女に初めて会ったあの日。真っ赤な夕日に溺れた屋上で、僕と彼女が初めて会ったあの日。

 僕は今までで初めて、無意識の内にシャッターを切っていた。

 痛々しいくらいに赤い夕日の中に、長くて綺麗な黒髪を風に靡かせて佇む彼女。僕と彼女の間にある背の低いフェンスが、まるで現実世界と向こうの世界を隔絶する境界線のようだった。

そう、彼女はまさにその時、世界観どころか世界すらずれていると錯覚するくらいに、美しかった。否、美しいという言葉では、僕の言いたいことの一万分の一も言えない程に不完全で不十分だ。夢と現実、虚構と真実、奇跡と偶然、言うなればその時の彼女は夢で虚構で奇跡そのものだった。奇跡の軌跡は僕の心に癒えることのない傷跡を残し、僕はその苦しさが心地よかった。

 僕はその時、彼女に恋をしていたのかもしれない。

 なんとも面白くない話だ。

「このカメラは、命を『撮れる』って言ったろ?」

 僕は虚ろな目をした彼女に話しかける。彼女は今、何を考えているのだろう。少なくとも今晩の夕食の事ではないだろうし、僕には見当もつかなかった。深く考えるのは苦手なんだ。

「僕の匙加減で、好きなだけ残りの命を残したりできるんだけど」

「そうなの……」

 彼女は僕の話を聞いているんだか聞いていないんだか分からないが、適当な相槌を打つ。まるで眠くて船を漕いでいるような感じで少し不安になったけれど、僕は構わず話を続けた。

「逆に、一秒も残さないで全部取ることも出来るんだ」

「へえ……」

「一秒も残さず取った場合、取られた奴はどうなると思う?」

「……え?」

 彼女は僕の言葉に、興味を示した。興味というか、ただの疑問だ。それはそうだろう。普通にいけば寿命をゼロまで取られた人間は、その場でパタリと倒れてお陀仏だと思うはずだ。

 しかし、それは事実からほど遠かった。

「消えるのさ。綺麗さっぱり、跡形もなく」

「…………そう」

 彼女は僕の言いたいことを一から十まで理解したようだった。僕も伝えたいことはこれだけだった。僕と彼女の間には、もうこれ以上の言葉は必要なかった。僕は彼女を承認し、彼女は僕を理解している。他に、何を話すことがあるだろうか。

 僕は無言のまま立ち上がる。彼女もそれに従うように、ゆっくりと立ち上がった。

 行き先はなんとなく決まっている。彼女も多分、同じ場所を考えているんだろう。僕たちは別段相談することもなく、根無し草の様にフラフラと部屋を出た。彼女の家なのに、なぜか僕が先導する形で階段を下りる。階下では彼女の母親と思しき人物がテレビを見ていた。階段を下りてきた僕たちに気付くと、テレビを消して振り向いた。

「あら、もうお帰り?」

 口調こそ穏やかだが、その表情を見る限り心中は穏やかではないのだろう。長い間人の顔ばかりを見てきたから、読心術はお手の物になっている。その分、分かりたくないことまで分かってしまうのが玉に瑕だが。

「ええ。突然お邪魔しました。こんな、どこの馬の骨とも知れない僕を招き入れてくださって有り難うございました」

「ご丁寧にどうも」

 僕の口八丁な挨拶には微塵も興味がないらしく、母親の視線は一心に彼女へ注がれていた。対する彼女は、母親の後ろの壁を凝視しているようだった。

 なんとまあ、皮肉なすれ違いだろう。どこまでも空しい、幻覚とのキャッチボール。一方的に放り投げられた球は、誰の手にも収まることなく不和だけを残して終わりを告げる。

「それでは、僕はこれにて」

 もう、会うことはないでしょう。

 心の中でそう付け加えて、玄関に向かった。しかし、僕の歩みは一歩より先に進まなくなってしまう。原因は、制服の袖を力いっぱい握りしめている彼女だった。袖口が皺くちゃになるほど力いっぱい握られている。ついでに、信じられないくらいの力で後ろに引っ張られているので、倒れないように踏ん張るので精いっぱいだった。

 彼女は壁を見つめたまま、母親に問いかけた。

「お母さん、あのさ」

「…………なあに?」

 母親は彼女の様子にただならぬものを感じたのか、少しだけ返事に間が開いた。親子の会話ではおよそ生まれないであろう、決定的で残酷な間だ。返事をした母親自身が、それを理解しているようである。心の内で、大きな動揺と後悔が渦を巻いている様がありありと見て取れる。

「お母さんは、なんで私を生んだの?」

 僕はこれを聞いて、思わず彼女の方を見てしまった。

 それは。その言葉は。この状況においてのみ、大きすぎる意味を持つ。ただしそれは、彼女の意図を理解している僕だけに伝わるものだ。

 彼女の母親は、この質問をどう受け止め、そしてどう答えるのだろう。

「……難しいこと聞くわね」

「えへへ」

 彼女は力が抜けるような笑い声を漏らす。しかしやはり笑顔なんてものは微塵も浮かんでいなかったし、その笑い声は感情のこもっていない単なる空気の振動に過ぎなかった。

「ほら、人間も所詮は動物だし、子孫繁栄のためにね、子供は生まなきゃでしょう? それに、私の老後を世話してくれる人がいないと困るし……」

「……ふうん」

 僕は母親の言葉を鼻で笑いそうになってしまった。危ない危ない、自分の親じゃないんだから、鼻で笑うなんて失礼過ぎる。

 ただ、目の前にいる『人の母親』が僕という『悪魔の母親』と同じような言葉を言っていることが、単純に滑稽に思えたから、笑いそうになってしまった。

 しかし、『人の母親』は言葉を続けた。

「なんて言うと思った? そんな動物みたいなこと、思ってるわけないでしょ?」

 そっか。

なるほど。

 この母親、僕と同じかそれ以上に虚言癖があるな。良い言い方に直すなら、演出の仕方を分かっている感じがする。

「私はね、あなたに会いたかったのよ」

「私に……会いたかった?」

「そう、私はあなたに会いたかった。ただそれだけの理由で、あなたは生まれたの。自分勝手でごめんね。私の単なるわがままよ。がっかりした?」

「……ううん、全然」

 彼女はここで初めて焦点の合った瞳で、母親をしっかりと見つめた。僕の目の前で、キャッチボールが成立する。途端に、僕は彼女の気持ちも母親の気持ちも読み取れなくなってしまった。内側に閉じた、完全なる二人だけの空間。そこには多分、二人にとって特別な空気が漂っていた。

 あーあ、嫌だなあ。こういうのを見せつけられると。

 羨ましくなっちゃうぜ。

「お母さん」

「ん?」

 彼女は言葉に詰まる。繋がっていた視線を切って、目を伏せてしまう。僕は静かに、彼女に掴まれていた腕を上下に振った。母親は何も言わない。自分の娘が自分で話してくれるのを、ひたすらに待っていた。

 彼女は一つ大きな深呼吸をすると、勢いよく顔をあげた。そして。

「……いってきます」

「……いってらっしゃい」

 別れを、告げた。

 それから二人は会話も視線も交わすことはなかった。彼女は母親の視線を振り切る様に、足早に玄関に向かってしまった。僕の横を通り過ぎる瞬間に肩がぶつかってしまったため、僕の体は前によろめく。バランス感覚を失った僕の体は、そのまま壁に激突した。

「いってえ……」

「あら、大丈夫?」

「ええ、なんとか………」

 僕は右肩を押さえながら、母親にそう答える。しかしこのやり取りに実質的な意義なんてものは存在しないし、お互いに壁に向かって独り言を呟いているのと何ら変わりはなく、ただの平行線をなぞる音の発信に過ぎなかった。

 僕はそのまま小さく会釈をし、彼女の後を追って玄関に向かった。脇目も振らず真っ直ぐに。後ろなんて振り向くことは出来なかった。もしも振り返りなんてしたら僕は、あの写真に写る死者たちが、僕に向ける目線と同じものを直視してしまう事だろう。今の僕には、そんなのは耐えられなかった。

「待たせたね」

 僕は、もう既に靴を履き終わって玄関で佇んでいた彼女に謝る。彼女からの返事はやはりというかなんというか、無言の頷きだけだった。先ほどから相も変わらず生きているんだか死んでいるんだか分からない、そもそも存在自体が危うく思えるほどの浮遊感を漂わせている。ともすればこのまま泡のように消えてしまいそうだけれど、それはきっと彼女自身が許さないだろう。許したくないだろう。まだ死ぬわけにはいかないだろうし、いなくなられては僕が困る。

 僕は見届けなければならない。たった一人の観客として。彼女が、何かによって定められたト書きに従ってこの世界を退場していく姿を、この目に焼き付けなければならない。

 見届けた後には、スタンディングオベーションでも送ってあげよう。

それくらいが、僕にできる最大限の餞別だ。

「行こうか」

 僕は彼女の手を取る。彼女の手は握るたびに温度が変わるのだが、今はこれまでで一番温かい。てっきり冷たいとばかり思っていたが、僕の予想は外れてしまった。

 彼女は僕の手を握り返してくるという事もなく、横目で僕の顔を見るばかりだった。だらしなく垂れている髪で顔が隠れてしまっているため表情は上手く見えない。

 僕らは足並みそろえて玄関を出て、今再びの登校を始めた。僕は人生で初めて一日に二回学校へ行くという体験をしており、それは彼女も同じだった。というか、そんな奴はなかなかいないだろう。

 いつもと変わらず煌々と光を放ち続ける太陽と、笑えるくらいに青い空を若干うっとおしく感じながら、僕は歩みを進める。

 さあ、大舞台の幕引きといこうじゃないか。

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