三章
というのが、今から一週間前のお話なんだそうだ。彼はにべもなく私にそう言った。その話に出てきた女の子というのが、さっき教室で死んでいた女の子らしい。簡単には鵜呑みにできない話だったが、しかし私はこの目で彼女の死を目の当たりにしている手前、無碍に否定も出来ないのだった。
少なくとも、なんとなく。
彼が悪魔だという部分に関しては、私は驚くほどにすんなりと受け入れていた。
「それで? 貴方は私にも同じことを言うの?」
「同じこと?」
「その女の子にはボロクソ言ったんでしょ。挑発するためだかなんだか知らないけれど。それを、私にも言うのかなって思って」
「そんなわけないだろ。君はバカなのか」
「バカは貴方でしょう」
「お互いさまだな」
「勝手に私を巻き込まないで」
「ごめん」
「それで? なんで私には言わないの?」
「君に僕の言葉が響くとは思えないからね」
その通りだった。実際に彼の口から件の彼女に言い放った言葉を聞いたが、私の心は一ミリたりとも動かなかった。動かないどころか、一周回って白けてしまった。
「僕の言った事なんて」
「私はとうの昔に『考え終わっている』」
幸いにも、私には多分彼女と違って考える時間がたっぷりと与えられていた。それは、机一面に描かれた罵詈雑言や不気味な絵を消している時間であり、友達を自称する連中に全身を殴る蹴るされていた時間であり、そして私が独りきりで過ごしている時間であった。
「その子はむしろ、私より不幸だったのかもしれないわね」
「なんでさ」
「色々、考える時間もなくて」
「本気で言ってる?」
「嘘だよ」
嘘だった。自分の生まれた意味だとか自分の立ち位置だとか、そんな悩み事は生きていく上で邪魔にしかならない。考えない方が楽だし、考えようという思考に至らないのが最善であり、そんな悩みの存在すら知らないのが最適だ。奇しくもというべきか、当然の帰結というべきか、私は最悪で不適な道しか通れなかった。それなのに彼女の方が不幸だったなんて、それこそ私にとっての皮肉でしかない。救いようのない自嘲だった。
「あの子は本当に面白くなかった。全然、これっぽっちも面白くなかったな」
「そう」
私には関係のない話だった。教室で顔をチラッと見たけど、見覚えのない顔だったし。多分、私を虐めていたグループにすら属していなかった子だったのだろう。もしくは傍観者側の人間だった可能性もあるが、私にとっては本当にどうでも良かった。
「それに比べて君は、なんというか、こう」
「なに?」
「あのー、あれだ、そのー」
「はっきりしなさいよ」
「そう、頭がおかしい」
「殺す」
「ほら」
「じゃあ、パーで叩かれるかグーでぶたれるかチョキで目を潰されるか、選ばせてあげる」
「物騒なじゃんけんだなあ……」
私は本気で、プレイヤーにダイレクトアタックするタイプのじゃんけんを実行しようとしたが、ちょっと距離が開いていたので断念した。あと一メートル近かったら確実にヤっていただろう。
「頭がおかしいってのは、別に変な意味じゃないさ。悪い意味でもない」
「頭がおかしいって評価が? ふざけてるの?」
「ちょー本気。だって考えてみろよ、今まで数えきれないほど人間を相手にしてきたこの僕が、頭がおかしいって評価してるんだぜ? それは十分に誇っていい」
「何それ。自己評価高過ぎじゃない?」
「正当な評価だと思ってるよ」
「しかも私、それを誇る相手がいないんだけど」
「そりゃ残念。自業自得だ」
自業自得、確かにその通りだ。私は素直に彼の言葉に刺された。何の業を背負わされていたのかは、ついぞ理解できなかったけれど。それでも私が得たものは、得てしまったのは自分の行いが全ての原因だったという事は分かっていた。それはもう、痛いほどに。
仲間はずれにされてたのは、みんなで一緒に遊ばなかった私の所為だ。
無視されたのは、みんなの話に入って行こうとしなかった私の所為だ。
暴力を振るわれたのは、暴力を振るわれるほどに弱かった私の所為だ。
全部が全部、どう考えても、そして考えるまでもなく私の所為だった。
「それとさ、一つだけすごく不思議なことがあるんだけど」
「何?」
「じゃ、笑ってー。はい、チーズ」
「えっ、えっ?」
カシャッ。
突然のことにワタワタしている隙に、彼はシャッターを切った。しまった、撮られるなら少しくらいはちゃんとした表情を作っておくべきだったか。だが、この後悔は何の意味もなさないという事を思い出し、私は空しい気持ちになった。
きっと彼のカメラには、私の姿は映っていないだろう。
ホワイトアウト。彼の言葉を借りれば『この世で一番面白いもの』を投げ捨てようとした私への、ささやかな罰。心ばかりの心無い悪戯。私にはとてもお似合いだ。
「ほら、見てよ」
彼はカメラの液晶画面を私に向けた。そこには、間抜けな顔で慌てている私の顔が映っていた。そういえば自分の顔を写真で見たのなんて何年ぶりだろうと呑気に考えている内に、思考と疑念がようやく追いついてくる。なんで、なんで私の顔が映っているんだ?
「不思議だろ? 経験上、君みたいな人間はこのカメラには映らないはずなんだ。実際の所、初めに撮った一枚は真っ白なんだよ」
ほら、と言って彼は写真を切り替えていく。そして一枚の真っ白な写真を私に見せる。なるほど確かに、日時はあの日と同じだから、きっとこれは本当に私を映した写真なんだろう。それは不気味なほどに真っ白で、ぞわりと鳥肌が立った。
だが、彼がそこから写真を先に進めていくと、溜め池ではしゃぐ私の姿がしっかりと映りこんでいた。恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだったが、今は地面で悶えている場合じゃない。
「普通ならこんなことはないんだけどね。死のうとするやつは大抵死ぬんだよ」
「まあ、そうね」
「なのに君は、どうしてだ?」
「さあ?」
私はニヤリと意味ありげに笑って、彼に背を向ける。雲が晴れて、私のところにも太陽の光が当たり始めた。私はその眩しさに目を細めつつ、握りこぶしを軽く掲げる。遠くに聞こえ始めた人々の喧騒に耳を傾けながら、私は彼に言った。
「貴方を一発、殴ってないからじゃない?」
「……ああ」
背後で、彼の後ずさる足音が聞こえた。私はその様子に満足して、掲げていた腕を下ろす。街の方から吹いてくる風を正面から受けながら、私はその風の匂いをかいだ。その匂いはなんだか、夕日の哀愁が混ざった不快な匂いとは違って、凄くほっとする匂いだった。
「僕は君に、興味があるんだ」
「私は貴方に、興味があるの」
二人の言葉は微妙にズレて重なり、だが確かに協和した音を奏でつつ私たちの間を不安定に回遊する。音は拡散し言葉は分裂し、そこには意味だけが残った。
私はこの時、確かに恋をしていた。
「もっと話を聞かせてくれないかな」
「私も貴方の話が聞きたいな」
遠くの方で聞こえていた喧騒が、もう私たちの足もとに集まり始めていた。雑多な声と耳障りな笑い声が私たちの邪魔をする。有象無象の知らない人たちを視界に入れるのが嫌で、私は再び彼の方に振り向く。そこには、キラキラした表情を浮かべてカメラを構えた彼の姿があった。
「随分と楽しそうね」
「うん」
彼は少年のように頷いた。
「すごく、楽しいよ」
「そう」
私はありもしない少女の頃を思い出しながら微笑んだ。
「そろそろ教室に戻ろうか」
彼が私に左手を差し出す。私はその手を、ほんの少しだけ躊躇ったあと、指先だけ摘まむように握った。彼はその様子を見て意地の悪そうな笑みを浮かべ、私の手をしっかり握り直してグイッと自分の方へ引っ張った。私はよろめきながら、彼に近づく。
顔と顔がほんの数センチくらいの距離まで近づいて、私の心拍数は意味もなく上がった。思わず彼から顔を背け、地面を凝視してしまう。
「ははっ。今度は僕が一本取ったね」
そこでようやく、これが朝のドロップキックのお返しだと気づいた。恥ずかしさが腹の底から湧き上がってきて、私の頬に鮮やかな赤を注いでいく。
「わお、顔が真っ赤だぜ」
「うるさい殺す」
「君はすぐ人のことを殺したがるんだから」
殺す殺す殺す、と私は何度も呟いて彼に呪詛の念を送る。彼はそれを気にした様子もなく、クルリと踵を返してドアの方へ向かっていった。私は彼に手を引かれているので、当然それについていく形になる。初めは少し抵抗しようとしたけど、抵抗する理由が見当たらなかったのでおとなしく付いていくことにした。
「あのさ」
階段を下りている途中、彼が振り向かずに私に話しかけてきた。私は無言のまま、手を強く握ることで反応した。
「…………やっぱりなんでもない。ごめん」
彼はしばらく悩んだあと、なぜか言葉の続きを投げ捨てた。もう少しで届くはずだった彼の言葉は私の目の前で溶けて消えてしまう。私はそれがとても寂しくて、それでも分解された言葉は私では組み立てることが出来なかった。言葉にならなかった彼の心は、永遠に形を失ってしまう。
「…………バカ」
私は聞こえないくらい小さい声で彼を罵倒した。
§
名探偵、一同集めて「さて」と言いミステリー小説は終わりを迎えていくわけだが、私が一人で「さて」と言ったところでどうにもならないのが現実世界の理不尽なところだ。それは所詮自分の気持ちが多少切り替わるくらいで、場面が転ずるわけでも謎解きパートが始まるわけでも物語が終わるわけでもない。なぜかと言えば私が名探偵ではなく、この世界が小説ではないからだ。まったく、毒にも薬にもならない凡庸な理由だ。面白くない。
私たちが二階に戻ると、そこは明け方の静けさを忘却し、一変して阿鼻叫喚の地獄絵図となっていた。ある者は泣き崩れ、ある者は叫び、ある者は手を叩いて笑い転げ、ある者は携帯を片手に写真を撮っていた。壮観というか圧観というか、地獄という場所が仮に存在するとするなら、あるいはこんな光景が見られるのかもしれないなと思った。
「酷いなあ……」
背中を向けていて表情はうかがえないが、彼は低いトーンでそう呟いた。その声は不機嫌そうで、私はそれにほんの少しの疑問を覚える。彼がさっき言っていたことを全て是とするなら、彼の目にはこの光景が面白おかしく映っているはずなのに。人間が浅ましく生きている姿が面白くてしょうがないなら、今まさに、喧々諤々で清も濁も混ぜ合わせたような感情に突き動かされている『アレら』の姿は抱腹絶倒ものだろう。それなのに、なぜ。
と、ここまで考えて謎があっさり解けてしまった。
生きている人間同士で、悪意を投げつけ合うのが面白いというのが彼の本意なら。
生きている人間が、死んでいる人間に一方的に悪意をぶつけているこの光景は、確かに彼にとっては一つも面白くない景色だろう。
「どうしようか、屋上に戻る?」
彼は振り向いて、私にそう問いかける。彼の瞳はうっすら湿っていて、目元は少しだけ赤く腫れていた。
「ううん、また階段上がるのも面倒だし」
「そうだね。僕も同意見だ」
じゃあどうしようかと考え始めた時。後頭部に不快な浮遊感が漂った。私はすぐに察する。これは、授業中とかに良く感じる、そう、あれだ。今朝、夢にまで見たあの感触。
人の視線が集まる感覚。
嫌な、予感がした。
「あれ、××××だ! なんでこんな時間に学校来てんの?」
聴覚に酷いノイズが走る。まるで砂利を直接耳に流し込まれているみたいだ。鶴の一声といった感じで、その一言を起点として私に注目がどんどん集まってきた。錆びた錐のような視線が、悪意のこもった眼差しが、私の体を突き刺していく。『まだ』何をされているわけでもないのに、私の足はガクガクと震えはじめた。今日だけで何回足が震えてるんだ。私は生まれたての小鹿じゃないんだぞ、と防衛反応的に余計なことを考えてしまう始末だ。
「あ、ホントだ××××じゃん! いつもこんなに早かったっけ?」
「あれれー? おっかしいなー。いつもは朝ギリギリで来るのにー」
なんだよ。お前らは何を。
「今日はずいぶん早いんだね!」
「これは? もしかすると、もしかしちゃう?」
何を。
「うっわー、怪しいなあ」
「なんか知ってるんじゃない?」
「つーか、犯人だったりするんじゃない?」
何を。
「だって、やっちゃいそうな顔してるもんねー」
「キモイし根暗だし」
「確かに、ありえるわー」
何を、言っているんだ。
「あの子、誰に『殺されちゃった』んだろうねー」
「あーあー、可哀想に…………」
「本当に、誰なのかなー?」
私には、意味が分からなかった。
「やっぱりさあ」
耳から入ってきた言葉は私の目から意味だけを投げ出して耳障りな残響として鼓膜をズタズタに切り裂いていき私の耳はもう何も聞こえなくなって色彩を失った風景は気持ち悪いくらいに白けていて既に私にとって見る価値はないから視覚も要らない要らない要らない何も見たくない眼球を抉り取ってぐちゃぐちゃに踏み潰してしまいたいけど腕に力が入らないから頭を壊すしかなくてでも変に足に力が入っちゃってるから前にも後ろにも倒れられないよどうすれば良いどうすれば良い汚い気味が悪いキモチワルイお腹の底が異様に熱くて吐いてしまいそうだ吐くものなんてもう何も残ってるはずないのに胃液と鼻水と涙とあと色んな体液が混ざった何かを飲み下し嗚咽して透明な何かが私の中から溢れて流れて私は溺れて何がどうなって何をどうして私が私の心を殺す殺してくれ私を私の私で私は私と私が死んだ。
「アンタが殺したんじゃない?」
『いい加減黙れよ、殺すぞ』
カシャッ。
耳を劈くような鋭いシャッター音が、沈黙という名の幕を下ろした。私と彼以外の人間は全員、歪んだ顔のままその場で身動き一つせずに固まっている。声量は小さいはずなのに、骨の芯まで響き渡る様な声で全員を黙らせたのは、意外なことに彼だった。
私はハッとして彼の背中を見遣ったが、一瞬だけ黒い何かがちらついた様に見えただけで、後はさっきと同じ、何処か物悲しげな背中があるだけだった。決して今の、まるで悪魔みたいな声を出すような姿には見えない。
彼はそのまま私の手を引き確かな足どりで件の教室に向かっていく。進路を塞ぐ生徒は容赦なく突き飛ばし、廊下に座り込んでいる生徒は無慈悲に踏み潰して、彼は歩みを進める。私はただそれについていくことしか出来なかったが、胸には爽快感が溢れていた。
私たちは教室に入り、再びアレと対峙する。しかし状況と心境はまるで違うもので、私はアレに、いや彼女の死体に、どこか親近感に似た感情を抱いていた。
境遇は違ったのだろうけど、私と同じ考えに至り、悪魔に嫌われて命を落とした彼女。この場合は落とされたと表現した方が正しいか。
まだ生きている私と、もう死んでしまった彼女の差は、一体どこにあるんだろう。何を間違えたら、何に正解していたら、私はああなっていたのだろう。
「ちょっと手伝ってくれるかな」
彼はそう言うと近くにあった机を彼女の傍に寄せて、さらにその上に椅子を乗せた。そして机を軽く叩く。不安定だから支えろという事なのだろう。私は特に文句を言うこともなく彼の指示に従った。彼は椅子の上に乗っかり、天井から垂れている紐を解きに掛かった。
人を一人吊ってあるくらいだから相当きつく結んであるんだろうと思っていたが、彼は思いのほかスムーズに紐を解いて、って。
「ちょ、待って待って待って!」
私はそう叫びながら机から手を離し、彼女の真下に駆け込む。足元の安定感がなくなったことに驚いたのか、彼は目を丸くして私の顔を見つめた。そしてそのままバランスを崩して椅子もろとも後ろに落下していく。だがそんなことは構っていられない。私は落下してくる彼女の体を必死で受け止めた。
「んぬおっ!」
およそ女子が出してはいけないタイプの声を漏らしながら、私はなんとか彼女の体を支えた。人の死体は普通よりも重いという話は聞いたことがあったが、まさかこんなに重いとは思わなかった。腕に鉛でも流し込んだのかと思うくらいの重圧と衝撃が加わる。肩が外れてしまうかと思ったが、最悪の事態は避けられたらしい。
それにしても本当に、重い。重すぎる。
それはもしかしたら、彼からさっきあんな話を聞いたからかもしれなかった。
私が勝手に感傷に浸って、他人の心に干渉して、私が彼女を思う想いが重い。案外、それが一番の理由なのだろう。勝手に、彼女を、重く感じてしまっていた。
「いってて…………急に手を離すなよ! 危ないだろ!」
「それはこっちのセリフよ! 急に手を離さないで!」
私は彼女をゆっくりと床に寝かせながら、彼に恨み言を言う。下に誰も受け取る人がいないのに、死体を落とす奴があるか。死んではいても、尊厳まで失われてるわけじゃないんだぞ。しかし、数多くの死を観測してきた悪魔にとって、死体とモノの差はそれほどないのだろう。それは彼の口ぶりからもなんとなく分かることだった。
「カメラが壊れたらどうしてくれる」
「私は自分の腕が壊れそうだったんだけど」
「……それは、ごめん」
彼は素直に頭を下げた。死体を無碍に扱ったことに対してじゃなく私に対して、というところが笑いどころなんだろう。全然笑えないけど。
「ねぇ、ちょっと場所代わってくれない? その子の顔を、もっと良く見たいんだ」
彼が不思議なことを言い始めた。私は呆気に取られ過ぎて、はいともいいえとも返せずにぞの場で固まる。私が動揺しているのを悟ったのか、彼は女の子を挟んで私の反対側に跪く。その姿勢のまま右手を自分の胸に押し当てて、彼は目を瞑った。ブツブツと何かを呟いているが、上手く聞き取ることが出来ない。それは単に声が小さすぎるという事だけが理由ではなさそうだった。
数分後、満足したのか彼は目を開き彼女の顔を見つめる。その顔にはおよそ慈悲深さというものは一切浮かんでおらず、その辺りさすが悪魔といった感じだった。どちらかと言えば彼の顔は無表情に近く、強いて挙げるとするなら彼の目は純粋な好奇心に輝いていた。
きっとそれは、今の私も同じだ。
「満足した。ありがとう」
彼は唐突に立ち上がった。そして首だけ曲げてギャラリーの方を見る。私たちが彼女を下に下ろして、その前でやり取りをし、彼が彼女の顔を眺めるという一連の行為を微動だにせず見ていた、生徒たちを睨み付けた。
「もう動けるだろ。ふざけてるのか?」
ニコリと笑顔を張り付け、彼はドスの効いた声で呼びかける。すると生徒のうちの何人かは糸が切れたようにその場にへたり込んだ。だが大多数の奴らが未だに一歩も動けずにいる。その様子に痺れを切らしたのか、彼は笑顔のまま怒号をあげた。
「動けよ早く! そして彼女を罵倒しろ踏み潰せ蹂躙しろ! 今まで彼女にそうやってきたんだろ? だったら同じようにやってみろよ! お前らには生きていようが死んでいようが関係ないんだろうからな! 今度は何をやっても何も言われないぜ! 最高じゃないか! 今以外にいつがチャンスだっていうんだ? さあやれよ! 早く! 僕はそういう姿が見たくて見たくて堪らないんだ!」
誰も、答えなかった。私も、何も言えなかった。
「なんだよ、みんなして俯いちゃって。つまらないなあ。面白くない」
彼は吐き捨てる様にそういうと、私の手を引っ掴んで平然と歩き始めた。数秒の間引きずられた私だったが、無理やり立ち上がって彼に従う。言葉を失った周りの生徒たちは、その様子をただただ無言で見つめているだけだった。
しかし、教室のドアを通った瞬間に、反対側のドアの方から聞き覚えのある声が飛んできた。この声は確か、と記憶を手繰る。そうだ、一昨日私が椅子でぶん殴った女の子の声だ。不快なうめき声は今でも覚えている。
「死んだ子を踏み潰せだなんて、アンタ最低ね! 人としてどうなの?」
私は初めに耳を疑い、そして次に彼女の正気を疑った。それは彼も同じだったみたいで、驚きの表情のまま顔が固まっている。
数瞬の間。
私と彼は互いに目を合わせ顔を合わせ。
爆笑した。
これでもかというくらい、高らかに朗らかに、二人で思いっ切り笑った。
あまりの馬鹿馬鹿しさに、私は今まで何をウジウジ悩んでいたのかと軽く後悔してしまった。それくらいに、底抜けに阿保らしく、死ぬほどどうでもいいことだった。
ホントに、泣けるほど面白いなあ。
「なるほど、なるほど」
彼は何かを納得したのか、笑いながらも何度か頷き、私の目を見据えた。そして、私の頭に手を軽く載せて、慈しむように撫でる。私は複雑な心境でそれを受け入れた。
「あー、なんというか」
彼はここで言い澱む。眉間に皺を寄せて、何かを考え込んでいるようだ。恐らく、言いたいことはあるのに、上手く言葉に出来ないのだろう。それは多分、伝えたいことが多すぎるのが原因なんだと思う。だけどあんまり長く考えられても私としては恥ずかしいだけなので、先を促す。
「……何」
少し怒っている感じになってしまったが、そこはご愛嬌という事で。
その言葉で心を決めたのか、彼は再び口を開く。
「大変だったね」
その一言には、きっと彼が伝えたいことの全てが凝縮されていた。私はその一言で理解する。地獄が本籍の悪魔に同情されるくらいの環境で生活していたという事実。笑い飛ばしてしまえるくらいに残酷な現実は、一度は私に死を決意させたが、しかしながら生を諦めさせることは出来なかったという諧謔。面白くない程に面白い、矛盾を内包した二律背反。
もういっそ、私が悪魔だったら、笑いが絶えない日々を送っていたことだろう。
「帰ろうか」
「そうだね」
頷き、私は彼よりも先にドアを通って廊下に出た。もはや全部が全部、どうでもいい。心の底からそう思った。この世の全ては、なるようにしかならないし、ならないようにはならない。それくらいにまで私の思考レベルは下がっていたし、考えることをすら放棄しようとしていた。考えても無駄で、考えることを考えようとすることさえ不要だ。
私は本当に、バカだった。
「ちょ、ちょっと待てって……」
私たちを大笑いさせてくれた女の子の横を通り過ぎようとした時、私は彼女に腕を掴まれて引き留められた。彼は先に歩いて行ってしまって、私を待ってくれる気配はない。どこかへ行ってしまうなんてことはないはずなので心配はしていない。が、ちょっとは待ってくれても良いじゃないか、と柄にもなく拗ねる。
「キモイんだよお前。なんなの、頭がおかしくなっちゃったの?」
「確かにー!」
「きゃはは!」
彼女の背後からキーの高い笑い声や同意の声が聞こえてくる。それは次第に大きさを増していき、ついには周囲にいた大半の人間が私に非難や中傷、嘲笑を浴びせ始めた。私はそれを、黙ったまま聞く。聞いて、聞き流した。
一瞬、静寂が訪れる。私はそこで初めて、口を開いた。
開口一番、私はなるべく笑いが混ざらないように努めて、心を抑えて言った。
「初めまして、アナタは誰ですか?」
「…………は?」
もう彼女に言いたいことはない。私が今までずっと思っていたことはこれで全て伝えきった。私は掴んでいた手を無理やり引きはがし、そして人混みを、人ゴミを掻き分けて階段の方へ向かった。
後ろで何やら大騒ぎしているようだったが、そんなのは私にとってもう雑多な雑音でしかなかった。例えるなら明け方の鳥の声であり、道を走る車の走行音であり、つまりそれは私という存在には何一つ影響を与えない。無力で無色で無意味で無関係な、私の世界の外側だった。
階段の下では、彼が腕を組んで壁に寄りかかり私を待っていた。なんだ、先に校庭にでも行っているのかと思った。ちゃんと待っていてくれたのか。
「終わった?」
彼が壁に寄りかかったまま、私に尋ねる。
「うん、『終わった』」
私は、万感を込めてそう答えた。
「そうかい、それは良かった」
彼は勢いをつけて壁から離れると、玄関口へ向かった。私は小走りでそれを追いかける。気が付けばさっきから彼の後ろを追いかけてばかりなので、私は小走りのまま彼を追い抜かして校庭に躍り出る。靴を置いてきてしまったので仕方がないが、砂利が足裏に刺さって痛い。
しばらくその場でクルクル回ったり空を眺めたりしたが、すぐに飽きてしまったので振り返って彼に視線を向けた。彼は私をずっと見ていたのか、すぐに目が合う。
「ねえ、君の家に行っても良いかな?」
「へ? 私の家?」
私の家? 心の中で疑問を繰り返す。私の家に来るのか? 彼が? いやいやいや、それはまったくもって悪い冗談だ。学校を途中抜けしてきた娘が見ず知らずの男を家に連れてきたら、母はきっと腰を抜かして絶命するに違いない。ただでさえ最近の私の不良っぷりは度が過ぎているんだから、今度こそ本当にグレたと思われるだろう。
「大丈夫さ。君のお母さんなら分かってくれるよ」
「その自信はどこから湧いてくるの……?」
もしくは頭が沸いているかのどちらかだ。私のお母さんの何を知っているというのだコイツは。まあしかし、放任気味の母の事だ、良くは思ってくれなくても無下に追い払ったりはしないだろう。私はそう思い直し、コホンと一つ咳ばらいをした。
「良いわよ、来ても。何もないけれど」
この言葉に嘘はなかった。私の部屋には本当に、必要最低限以外のものは何一つない。漫画もゲームも小説もテレビも、およそ娯楽に分類される何かしらは一切持ち合わせていない。毎日疲労困憊の状態で帰宅していた私に、娯楽を楽しめるほど心の余裕はなかったからだ。そんな余力があるなら次の日のダメージに備えておきたかったという、残念過ぎる理由。それだけで、人生の半分以上は損をしていたんじゃないかと思える。
「別に構わないよ。何をしにいくわけでもないし」
彼はあっけらかんと言った。じゃあなんで来るんだ、という野暮な質問は控えておく。彼も私も同様に、現状何もすることがない。その利害が一致していれば、必然的な流れであろう。
「じゃあ……行こっか」
「やったあ」
彼はニヘラっと頬を緩めた。どうもアホっぽい笑い方だなあと、私まで笑ってしまった。
今日は今までの人生の中で一番笑っているかもしれない。
子供っぽい言い方になってしまうけれど、今が凄く、楽しかった。
§
「…………」
「…………」
沈黙。私の部屋に流れているのは、鈍重すぎる人間二人分の沈黙だった。雰囲気が沈むほどに黙ることを沈黙と表現するなら、もう雰囲気という概念すら破壊しかねない程の静けさは沈没と表現するのが正しいのだろう。
そう、私たちは今まさに、沈没していた。
ともすればお互いの心音まで聞こえかねないくらいに静かで、私は物音を立てることすら躊躇われた。座る体勢を変えるときの衣擦れが耳障りに聞こえるほど、私の聴覚は研ぎ澄まされてしまっている。彼は床に仰向けで寝ころんだまま、身動き一つせず天井をぼんやり見つめている、天井がそんなに面白いのだろうかと私もこっそり見てみたけれど、そこには見慣れたクリーム色の天井があるだけだった。当たり前だった。
何か、何か彼に喋って欲しい。この沈没を打ち破るには、私では力量不足だ。そろそろこの静けさに飲み込まれて大声で暴言を吐いてしまいかねない。それは打ち破るではなく掻っ捌くという蛮行だし、叫び終わった後は違うタイプの静けさに恥じ入るしかなくなってしまう。
うう、と無意識の内に口から呻き声が漏れていた。彼はそれに気付いたようで、私の方をチラッと一瞥する。私はその様子が気に入らなくて、ささやかな攻撃として彼のお腹に顔面を埋めた。無警戒な彼のお腹は低反発で、私の顔がどんどん埋もれていく。ポヨポヨとした感触を楽しんでいると、彼が苦しそうな声で抗議してきた。
「や、やめてくれ……ぐるじい……おえっ」
「ふんっ」
私は鼻で笑ってそれを一蹴し、なおもお腹の感触を楽しみ続ける。彼のお腹が不穏な音を鳴らし始めているが、私の知ったことではなかった。
「ホントに……吐いちゃう……」
「それは嫌だ」
私は手のひらと、ついでに態度もひっくり返して顔をあげた。彼の顔を見てみると、なるほどガガーリンも腰を抜かすほど真っ青になっている。これは流石に申し訳ないことをしてしまった。反省はしていない。結果的に沈黙は解消できたわけだし、それだけで十分じゃないか。
噎せながら彼は体を起こす。お腹を擦りながら目に涙を浮かべていた。私はその様子を極力視界に入れないようにしながら、彼に話しかける。
「黙ってないで、何か面白いこと喋ってよ」
「そういうのが一番困るんだけどなあ……」
彼は苦笑いしながら頭を掻いた。考えなしに話を振ってしまったけど、確かに振り方がいささか雑だったかな。でも私は平均以下のコミュニケーション能力しか持ち合わせていない。そんな人間に上手い話の振り方を期待されても困る。
気持ち良いくらいに潔い、精いっぱいの開き直りだった。
「面白い話なんてないよ。それが語れるほど面白い生活送ってたら、こんな場所で君と一緒にいないさ」
「……おっしゃる通りです」
正論だった。面白い話が語れる人間というのは得てして面白おかしい人生を歩んでいるものと相場が決まっている。もしくは稀代の詐欺師か嘘つきに限定されてくるが、私たちはそのどれでもない。良く言えば正直者の苦労人だが、悪く言えばただのつまらない愚か者で、それが正当な評価なんだろう。
「だから」
私は彼の言葉に顔をあげる。まさか、続きがあるなんて思いもよらなかった。また辛すぎる沈黙に苛まれるものだとばかり思っていた。
「面白くない話ならたくさんあるけど、聞きたい?」
そんなこと、答えは聞くまでもないだろう。
「聞きたい。話して」
簡潔に、私はそう答えた。彼は頷くと、どこからか一冊の大きい本を取り出した。
ん? 待て、本当にどこから出したんだ。まさか制服の下に隠していたとでも言うのか?
しかし私がそれを尋ねるよりも早く、彼は口を開いて喋り始めてしまった。
「これは僕のアルバムなんだけど……」
「アルバム?」
確かに、本にしては装丁がしっかりしているし、その割には厚みが少ない。なるほどそれは、アルバムに違いなかった。彼はその表紙を、愛おしそうに撫でている。
「僕が唯一、大切だと思っているものだよ」
大切だと思っている、という言い方に一抹の違和感を感じたが、恐らくは言葉の綾だろう。わざわざ難しい言い方をしないで大切なものと言えばいいものを。
「中の写真、見せてよ」
「うーん……」
ここまで来て、なぜか彼は写真の公開を渋った。なぜアルバムを話題に出しておいて、写真を見せる段になって出し渋りする。はっきり言って意味不明だ。先述の通り私はコミュニケーションを不得意としているが、彼もそこそこのものらしかった。
「ドン引きしないって約束してくれるなら」
「えっ、そんな写真撮ってるの……?」
いきなり裸の写真とか盗撮写真とか出てきちゃったらどうしよう。普通にドン引きする自信があるんだけど。ドン引きどころか、一周回ってごく冷静に警察とか呼んでしまいかねない。殴って気絶させるための武器はあるだろうかと部屋を見回した。
「なんか勘違いしてない?」
「シテナイ、シテナイ」
「絶対してるって。いや別にそういう変な写真があるわけじゃないから」
「本当に?」
「本当に!」
彼は必死の形相で否定してきた。そこまで言うなら、信じてあげようじゃないか。しかし私はそれでも疑いの目を向けつつ、彼にドン引きしないと約束した。
「ほら、こういうことだよ」
そう言って彼が開いたアルバムには。
何も映っていなかった。
何も映っていない写真が並んでいた。
整然と燦然と、さもそこにあるのが自然とでもいうかのように超然と、並んでいた。
ホワイトアウト。
私も一度受けたささやかな罰。罰を下された、見るも無残な写真の成れの果て、いや、成り損ないたちが、まるで処刑されたかのように張り付けられていた。
磔にされていた。
正直なことを言うと。ドン引きした。それはもう芸術的なまでにドン引きした。
「引いてるよね?」
「ヒイテナイヨ」
「本当に?」
「ホントダヨ」
嘘だった。虚実ない交ぜとかではなく、真っ赤を通り越して深紅の嘘だった。例えば処刑されている人間を撮影した写真が大量に貼られた写真集を見たら、こんな気持ちになるんだろう。それくらいに衝撃が大きく、私の心は鷲掴みされたような錯覚に陥る。
どうしてこれが、こんなものが彼にとって大切なものなんだろう。
「…………あ」
違う。この疑問は根本的なところで決定的に間違っていた。
このアルバムは。怖いくらいに真っ白なこのアルバムは。
彼が大切だと「思っている」ものだった。
それはきっと、彼が犯した罪に対する贖罪であり、自身に対する、他でもない自分からの断罪なのだろう。命を奪い『撮った』彼にしか出来ない、狂おしいほどに狂っている自分勝手な思い込み。一生逃れることが出来ない、首枷のような偽りの心情。
いつの間にか私は、彼に不可思議な憧憬に近いものを抱いていた。私にはきっと、彼みたいなことは生涯かけても出来ないだろう。
今度は私が、あの言葉を言う番だった。
「貴方も、大変だったのね」
それだけで全部伝わったようだった。
彼はアルバムを閉じると、再びどこかに仕舞った。だから待ってくれ。それは一体どこに仕舞ったんだ。唐突にマジックめいた超常現象を起こさないで欲しい。
「ほら、僕は悪魔だから。ある程度のチートは許されてるのさ」
私が訪ねると、彼は飄々とこう答えたのだった。出来損ないのウェブ小説じゃないんだから、もうちょっとまともな言い訳を提示して欲しかったが、意外とこれが真実だったりするのかもしれない。なんて不平等なんだ。私も欲しかったぞ、どこでも物を出したり仕舞ったりする能力。
ちなみに私が昔から一番欲しと思っている超能力は、ジャンケンで勝ち続ける能力だ。
「あの白い写真を見るとさ」
「ん?」
「なんにも映ってないはずなのに、僕の目には何となく見えるんだよ。その時確かに撮ったはずの、死んでった人たちの顔がね」
「それは……」
それは実に、ゾッとしない話だな。彼の網膜に焼きついた顔たちは、一体どんな表情で彼を見つめているのだろう。写真を見るたびに、空ろな虚のような、魂の抜け切った瞳で見つめられる彼の気持ちを考えただけで、背筋で鳥肌がざわついた。
「笑ってる顔もあったりするんだよ」
「へえ、それは意外ね」
笑って生きていられるような人間が、どうして死のうと思うんだろう。私には分からない世界だった。それに、すごく勿体無いと思った。
「笑顔で映ってる奴が僕に向かって、死に際になんて言ったと思う?」
「生きているのに飽きた、とか?」
まさかそんな陳腐な言葉ではないと思うが。ただ、あらかじめ斜め方向に伸ばしていた私の予測は見事なまでに、正しい方向で裏切られた。
「『ありがとう』」
彼の顔が、苦虫を噛み潰したように歪む。自分では分からないが、多分私の顔も相当歪んでいることだろう。私には、彼が言わんとしていることが痛いほどに良く分かった。
「勘弁して欲しいぜ、まったく……」
「そうね。そんなの全然」
『面白くない』
彼と私の声が、ようやく綺麗に重なった。しかしその響きは枯れ落ちる花びらのように物悲しく、空気に溶けて消えてしまう。私はそれを掴まえようとしたけれど、手が届く前に見えなくなってしまった。
「もう一度」
「何?」
「もう一度だけ、君の写真を撮らせてくれないかな」
彼は縋る様にそう言った。彼は、どうしても確かめたいのだろう。一度は悪魔に見初められ、彼に命を差し出していたかもしれない私。そんな私は今、生きることを羨望しているのか死ぬことを渇望しているのか。多分、彼にとっては結果がどちらに転ぶかという事はあまり重要じゃないんだろう。彼は純粋に、知りたいのだ。ただただ、知りたい。それはどこまでも単純な知的好奇心で、彼は私という人間を理解したがっている。
大いに結構だ。ちょうど私も、私という存在が分からなくなってきたところだから。
「いいよ」
私は手短に簡潔に、そう答えた。彼はその言葉を受けて、カメラを構えた。
カシャッ。
シャッターが切られる。私はさりげなく両手で小さくピースをしてみたりなどした。何か突っ込まれるかと思ったが彼の関心は今撮った写真にしかないらしい。現実世界の私には目もくれず、カメラの画面を一心に見つめていた。
しばらく眺めたあと、彼はニヤリと笑って顔をあげた。私は対照的に真顔のまま、彼に問いかける。
「どう? 綺麗に映ってる?」
もしくは、綺麗に何も映ってない? 私には分からなかったし、私自身、自分が生きたがってるのか死にたがっているのか判別がつけられなかった。
「とっても」
彼はカメラを私に渡してきた。私はそれを受け取り、写真を確認する。
そこには、ぎこちない笑顔でピースをする私の姿だけが、白い写真の上に明確な輪郭を失った形で映っていた。まるで存在という枠組みが揺らいで解けていっているような、そんな映り方だった。まるで今の私の在り方をそのまま表現したような、ある意味痛烈な写真が、私の脳内に焼き付いた。
「ね?」
「……うん」
首を縦に振りながら、彼にカメラを返す。震える指先を隠すように、私はカメラを渡すとすぐに手を引っ込めた。彼は怪訝そうな顔をしたが、特に追及してくるようなこともなかった。
これで、これでよく分かった。
私そのものの在り方と、そして私の終わり方。
ログアウトでもなければフェードアウトでもない。誰とも関わることがなく、誰にも迷惑を掛けないまま、ただ一人でひっそり静かに最期を迎えるなんてことも出来ない。生きていることがつまらないなんて、ありきたりな言い訳が許されず。世界に好かれていただとか、神様が私に意地悪をしただとかいう妄想は塵となって崩壊して。私が今まで考えてきたことは、全てが水泡となって淡く消えていき。
ただただ、誰にも知られることなく、それはきっと例外なく自分だって意識することなく、私はこの世界という舞台から退場していく。
ホワイトアウト。
これこそが私にただ一つ与えられた、終わり方のト書きだった。
観客はきっと、彼一人なんだろう。
せめて私がいなくなったら、盛大な拍手の一つでもしてもらいたいものだ。
私は心から、そう思った。
ここから始まるのは、私という一人の人間の、終幕を告げる終わり。
私だけの、緩やかな自殺だった。
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