幕間

 悪や善なんて、所詮は主観的な価値観によって左右される相対的な感想でしかない。これは僕の両親の受け売りだった。物心付いた時から嫌になるほど聞かされて、僕はいい加減そんな面白くない言い回しにはうんざりしていた。それに、僕は百年にも満たない短い時間を生きてきて、その言葉に対する反証を手に入れている。

 まず、主観と相対は数が集まれば客観と絶対になり得るという事実だ。これは言わば多数決の原理であり、この世で最も正しく覆すことの出来ない原則である。これは集合と認知の問題にまでその裾野を広げかねない真理的な命題であるが、しかし僕はこの場を借りて言い切ってしまおうと思う。

 みんなが「青」と言い張れば、赤信号は青になるように。

 みんなが僕を悪というなら、きっと僕はどこまでも悪なのだ。

 それともう一つ。集団の中で生きていくに当たって、立ち位置というのは非常に大きな強制力を持つ。さながら戒律で縛られたヒエラルキーのように、一度決まったパーソナリティーとキャラクターは、そう簡単には払拭できない。一度立ち位置が決まってしまえば、それを一生引きずっていかなければならないのだ。虐めっ子はいつまでも苛めっ子だし、苛められっ子はずっと虐められっ子だ。ただし、そこには『立ち位置に立っている人間が、相も変わらず存在し続けていれば』という前提があるにはあるが。

そして僕は、永遠に悪い悪い悪魔だった。

僕はこれからしばらく死ぬ予定はないし、悠久に等しい時間、ずーっと悪だ。

本当に、悪い冗談だよな。笑っちゃうぜ。

そして。

母曰く、旧約聖書において悪魔が殺した人間はたったの「十人」なんだそうだ。それに対して、天使や神といった存在が贖罪と称して殺した人間は数万人に上るという。この数字を見ても、人間は我々を悪だと断罪できるのか、としょっちゅう憤慨していた。

逆ギレするな、と僕はその話を聞くたびにそう返していた。人を殺したことには変わりがないんだし、その罪の大きさは人数云々が問題なのではない。過程なんかどうでもいい、人を殺したという結果と事実こそが重要なのであり、それ自体が罪で、それ自体が悪なんだ。だからこそ僕らはいつまで経っても悪魔なのである。それでは何万人も殺した天使や神は悪ではないのかという疑問が浮上しかねないが、それこそ立ち位置の立ち方の問題だ。

主人公は主人公として主人公しているように、悪魔が悪として悪事をしているように、神様は善として善行をしているだけなのである。それこそ、大衆の主観的な客観によって定められた相対的な絶対によって。

更に。

父曰く、物の見方によって事実は百八十度姿を変えることがあるんだそうだ。例えばの話、悪魔は基本的に悪事を行っている。一つの見方では、それは確実に非難に値する行為である。しかしそれが、悪魔の家族を守るためだったとしたらどうだろう。その悪事は善行に姿を変え、一概に非難は出来ないはずだ、ということだった。

くだらない、と僕は答えた。そんなのは口八丁の詭弁に過ぎない。そもそも、父の話には「もしも」「例えば」という仮定があまりに多すぎる。エッセンスとして用いるなら構わないが、ここまで大胆に仮定を織り交ぜてしまったら、それは現実に即した話ではなくただの妄想だ。くだらない絵空事で、悲しくなるほどの空想だ。そんなもの、僕は信じない。

僕は。

間違いなく。

悪だ。

「な、何を言ってるの・・・・・・」

 目の前の相手に対して朗々と僕の人生観を語っていたら、いつの間にかドン引きされてしまっていた。僕が誰かと話すと最後にはいつもこうなってしまう。常日頃から反省はしているが、反省するだけにとどまっていた。そこから何も成長していない。人間は生きている限り成長し進化し続けなければならないというのに。

しかし、そこで僕は思い出した。

 僕は人間じゃなかった。

「つまりさ、キミにはもう生きるか死ぬかの選択肢しか無いわけだよ」

 当たり前だけれど。普通の人生にはその二つしか選択肢が存在しない。死んだように生きたり、生き生きと死ぬという特殊例はあるものの、基本的にはその二つだ。

 生きたくなければ死ぬしかないし、死にたくなければ生き続けるしかない。

 しかし、僕が今『彼女』に問うているのは、そういう根本的な話じゃなかった。もっともっと、そこの浅い低俗なお話。悪魔のような、陳腐で即物的な問いかけだった。

 今ここで、生きることを諦めるのか。もしくはこれからも先、死なないように生きていくのか。そういうお話だった。

「別に強制はしない。生きたいなら、好きに生きれば良いさ。僕は何も否定しない。むしろ歓迎だ。人間の生を眺めていることほど楽しいことはない」

 僕は彼女に本音を話す。嘘を吐いたってしょうがないし、きっと彼女なら嘘を嘘と見抜いてしまうだろう。だか僕はバカ正直に思っていることを話す。

「ホントに面白いよね。見ていて飽きないよ。人間ってやつは、みんな汚くて痛くて苦しくて嘘吐きで偽善者で性悪で嫉妬深くて強欲で異常で、どうしようもないくらい可哀想。それなのに、生きることにしがみ付いて、しがらみに絡まれて、そうしてみんな溺れていく。先に立たない後悔だけをどっさり抱えて、『僕ら』の元へとやってくるのさ」

 僕が熱弁を振るえば振るうほど、彼女の体が震えていく。それは恐怖からなのだろうか、未知への絶望からなのだろうか。若しくは、僕というモノに対する不安が原因かもしれない。次に何を喋ろうか考えつつ、クルクル変わる彼女の顔色を楽しんでいた。彼女がエクソシストだから武者震いしているんじゃないかという可能性も捨てきれなかったため、内心怖かったのは内緒である。

「その中で、僕が一番に興ざめなのが自分で自分の命を絶つ行為さ。僕がせっかく楽しんでいるのに、どうしてそんなことをする? これから楽しい所だってのに、最悪だよ。だからこそ」

 僕は俯いてしまった彼女の顔を覗き込むようにしゃがんでから、一呼吸置いて言った。

「キミが死にたいなら、愚かにも死を選ぶというなら、その命を僕に預けてくれよ。有効に活用してあげるからさ」

 そして彼女の白けるほどに青白い顔を、カメラで撮った。写真を確認してみたけれど、やっぱり写真には何も写っていなかった。

 この現象を、ホワイトアウト、と僕は呼ぶことにしている。

 もったいないことに命を捨てようとしている人間をこのカメラで撮影すると、不思議なことに写真は真っ白になってしまう。まるで絵の具をぶちまけたみたいに乱暴なまでの白。僕はそういう写真を撮るたびに、こうしてその人間の目の前に現れては、究極の二択を迫る。

 そして、掻っ攫う。刈り『撮って』しまう。

 意味もなくドブに捨てられかけていた、僕がこの世で一番愛している、人間の生という奴を。

「命には質量があるって、知っていたかい?」

 僕は彼女にまともに取り合ってもらおうと、寄り道をすることにした。

「人間が死んだときに、体重がほんの少しだけ減るんだ」

「え、ええ…………?」

「およそ二十一グラム。それが人間の命の重さだ」

 彼女は押し黙ったままだ。僕はそれに構わず続けた。せっかくの大立ち回りだ、こんなところでやめてしまったら勿体無いじゃないか。

「それは呆れるほど明らかに、命は物質ということを表している」

「何を言ってるの……?」

「目に見えないその物質は、人が死んだ瞬間に大気中へと解放されて、そして、残骸となったソレは、喰らい尽くされる」

「喰らい尽くす? 誰に……」

「僕の仲間さ。悪魔だよ」

「冗談でしょ?」

「残念ながら冗談じゃない。本当だよ」

 僕はため息を吐きながら、そう答える。彼女は理解できないという風に首を振ったが、残念ながらこれは紛れも無い事実なんだ。諦めてもらうしかない。

「だから、そんな有象無象に食われてしまう前に、僕が命を預かってあげようというお話なんだ」

「……」

「使い道は僕に一任してもらうけれど。まあ大抵は他の人に少しずつ分け与える、ってのが普通かな。それで、その人の余生を観察するんだ。とっても楽しいよ」

「性格が悪すぎよ……まるで悪魔じゃない」

「さっきからそう言ってるだろ。僕は悪魔なんだよ」

 彼女はこの期に及んでまだ僕の言葉を信じきっていないようだった。別に初めから信じてもらおうだなんて思っちゃいないけど、こんなに色々喋ってきてまだ信じていないとは驚きだ。理解力のなさに反吐が出る。

 実は悪魔です、なんて自己紹介して、はいそうですかとすぐに受け入れられても困るといえば困るのだが。

「待ってよ、ワタシはまだ……」

「まだ、なんだい?」

「まだ……まだ……」

「やり残したことがある? 会いたい人がいる?」

「…………」

 黙りこくってしまった彼女に、僕は皮肉たっぷりの笑みを浮かべて、鋭利な言葉を投げ掛けた。投げつけた。的確に、深く深く、彼女のくだらない心を抉り取るように。

「ないよなあ、やり残した事なんて! 会いたい人もいないはずだ! だって君には友だちがいないんだから! だから死のうとしたんだろ!」

「うるさい……」

「あーあー、可哀想に。どうせキミは自分の事を悲劇のヒロインだとか思ってるんだろ? そんなわけないだろ目を覚ませ! キミは所詮端役の端役の端役、通行人Bの友だちAの知り合いDなんだよ! 思い上がるな!」

「うるさい……うるさい……」

 彼女の口から垂れ流しになっている怨嗟を、僕は軽々と聞き流す。そんな汚いもの、僕の耳に入ることすら烏滸がましい。そこらドブか溜め池がお似合いだ。

「自分の立ち位置の所為にして! 一人でメソメソ気味の悪いこと考えて、誤魔化してきたんだよな! それでキミの気分は晴れたか! 少しは慰めになったか!」

「黙れ黙れ黙れ……」

「ざまあみろよ! それがキミの限界で、それがキミの運命なんだよ! 理解できたか? 出来たらさっさとこの僕に、その命を差し出せ!」

 そんなつもりはなかったのだが、僕の語気はどんどん威力を増していった。もう自分の力では手が付けられないくらいに、加速して肥大して、そして破裂する。

「自分の役割も去り際も分からないような人間は! 苦しむ間もなくさっさと死ね!」


「黙れっっっっっ!」


 彼女の怒りの塊が炸裂し、残響となって僕の鼓膜に爪跡を残していった。僕はそんな彼女の様子がたまらなく滑稽に思えて、愛おしくなる。僕は彼女の姿ではなく、今も目に見えているその外面ではなく、魂と形容すべきところの、最深部を見据えるように目を細めた。

「黙らないよ。黙るのはキミの方だ」

 僕は再びカメラを構えた。今度は、写真を撮るためではない。眼前に立ち尽くす、この哀れな女の子の人生を終わらせるために、そして僕の単なる道楽の為に。

その命を『撮る』。

「少しくらいは猶予をあげよう。その間は好きに生きるがいいさ。僕は一切干渉しないし関与しない。キミがどう生きようが、僕の知ったことではないしね。僕にとって重要なのは、キミがどう死ぬかなんだから」

 カシャッ。

 間の抜けたシャッター音が、容赦なく鳴り響いた。彼女の体にはこれといって変化はないが、その表情を見る限り、恐らく理解したのだろう。その頭で、その心で、遅ればせながら理解してしまったのだろう。

自分の寿命が取られてしまったことに。

 自身に赦された猶予が、あと一週間しかないことに。

 これが、命を自ら投げ捨てようとした罪に対する、悪魔である僕なりの断罪だった。僕個人の裁量で勝手に下した、私刑と呼ぶべき死刑宣告。

 残念だったね。僕に出会った時点が運の尽きだ。自分の運の悪さを呪ってくれ。

「それじゃ。もう君に会うことはないだろうね」

 僕は彼女に向かってヒラヒラと手を振った。地面を穴が開くほど見つめ続けている彼女の視界に、その行為が映ることはなかった。僕は静かに手を下げて、踵を返す。

 ドアを開けて校舎内に入った。そしてドアを閉めようとしたその刹那、僕は彼女に呼び止められた。

「ねえ」

「ん?」

 僕は振り返ることなく、その呼びかけに答える。本当は無視してしまいたかったが、これも最後の戯れだ。付き合ってやろうじゃないか。

「最後に、ううん、最期に、私の写真を撮ってくれない?」

 この言葉を聞いた途端、僕の中では彼女に対する怒りが渦を巻いた。

写真を撮れ、だって? 今のキミの姿を? 最後に自分が生きていた証を残しておきたいとでも言うのか。その、見るに堪えない、無残で悲惨で残酷なキミの姿を、証として?

 冗談じゃない。

「冗談じゃない」

 心の声がそのまま口から飛び出していた。やってしまった、これは僕の悪い癖である。しかし僕は反省することなく、ならばいっそと言葉を続けた。

「今のキミみたいな汚いもの、写真で撮る価値なんかないよ」

「…………は?」

「今のキミはゴミと同じかそれ以下だよ。良かったね、これでキミもゴミのお仲間だ」

「なん……」

「せめて劇的な死を。それじゃ」

 僕はなるべくゆっくりドアを閉めた。

 そういえば、キミの名前を聞くのを忘れていたね。まあ聞いていたとしてもすぐに忘れてしまうから、どっちでもいいんだけど。僕にとってはそんな些末事、気にするほどの事じゃない。

 バイバイ、さようなら。

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