二章

 恐ろしく湿度の低い、干からびた風が私の横を吹き抜けていく。風が肌を撫でるたび、私の表面から水分が奪われていくのを感じた。時折ホコリが目に入って非常に痛い。

 そして何より痛いのは、公園内の寂れた風景だった。

 何もない、なんて言葉では足りないくらいに何もなかった。遊具や建造物は勿論のこと、花壇や植木も何もない。あるのはせいぜいがボロボロのベンチくらいで、それすらなければこの空間は広場としての存在意義すら失って、ただの空き地と成り果てていただろう。そこらの建築予定地の方がいくらか豪華だろう。

 ただそんな空間にも一定の需要はあるようで、ベンチには何人かのご老人が腰かけているし、ランニングしている人も何人か見かけた。今が平日の昼間ではなく、例えば土曜日の午後であったら、恐らく小学生などがボール遊びなどをしているのだろう。

 それはどことなく牧歌的な、気の抜けるような風景だった。

 いつもの閉鎖的な、息苦しい空間とは大違いだ。たまにはこういうところに来て息抜きをするのも大事なのかもしれない。私は考えを改め直した。学校をサボって息抜きをするなんて発想が、果たして改めて直ったものなのかはさて置くとして。

「うーん、何しよう」

 目下、私の悩みどころはそこだった。なにせすることが何もない。私の年齢がもう少し低かったら、いくらでも遊び方は考えられるはずなのだが。中途半端に精神が成長してしまっている高校生にとっては、公園で暇つぶしするのは三次方程式の解を求めることと同等に難解だ。難解というか、単に考えるのが面倒。

そもそも、公園で出来る一人遊びって何だろう。公園は基本的に複数人で遊ぶことを想定して作られている場所であって、私のようなひとりぼっち用にはカスタマイズされていない。

 それに加えて、脳筋バカな私は財布すら持ってこなかったので、飲み物を買ってベンチで飲むという行為すら実行することが出来ないのだった。

 いやでも、暇つぶしの方法ってこんなにも思いつかないものだっけ? と首を捻ったが答えは数秒で見つかった。

 遊んだことが無いからだった。

 まともに友達と遊んだこともないのに、暇つぶしの方法を模索しようというのだから、そりゃあ中々に苦労するのは道理である。理に適い過ぎて窒息してしまうかと思った。

 取りあえず、当初の目的であった散歩でもしよう。行く当ても何もない、歩くためだけに歩くという本末転倒で手段と目的がごちゃ混ぜになった、地獄のような散歩を。

 頭のスイッチをオフにして、しばらく何も考えずにただひたすら歩いた。

 視界に飛び込んでくる景色を受け流し、鼓膜を揺らす空気の振動を無視したまま、私は歩みを進める。ここまで頭を使わない散歩は生まれて初めてだったが、案外良いものかもしれない。脳内がクリアになっていく感覚がとても心地いい。

 そうか、昔から疑問だったのだが、散歩が趣味というタイプの人種はこの感覚を楽しんでいたのか。それならそうと早く教えてくれれば良かったのに。

 それから少し歩いて、私は公園の入り口から一番遠いところまで辿りついた。ベンチのご老人たちが米粒のように小さく見えるので、改めてこの公園のだだっ広さに驚嘆する。そしてもう一つ、私は驚くべき事実を発見していた。

 公園の奥にはなんと、下へと降りる階段が存在していたのである。かなり昔に作られたのか、木製であるその階段はすっかり朽ちてボロボロになっているが、まだ使えそうなことは確かであった。階段は無駄に曲がりくねっていて、更に下へ行けば行くほど木々が生い茂っていたので、階段の先に何があるかは分からなかった。

 数秒。私は考える。

「よし」

 そう呟くと、私はフラフラとその階段を下りた。無意識のうちに、足取りがリズミカルなものになっていく。無為な散歩が、だんだんと本格的な冒険の様相を呈してきていた。抑えきれないワクワク感が気分を高揚させる。これが所謂、幼き日の少年の心持というやつなのだろう。私は少年でもなければ心躍る様な幼少期を過ごしたわけでもないので、これは単なる想像にしか過ぎないが。でもこれが正解というのなら、私はなんて損な幼少期を過ごしてしまったのだろう。今更どうしようもない過去を恨んでしまうくらいには、羨んでしまうくらいには、今の私はテンションが上がっていた。

 先ほどまでとは打って変わって辺りの空気は湿っぽく、小さな黒い虫が数匹、私の周りを飛び回っている。

 階段を下りていくと、果たしてそこには不思議な光景が広がっていた。

 まず目につくのは鬱蒼と茂った雑草。上の広場の様子からは到底考えられないほどの雑草が生い茂っていた。恐らく長い間整備もされていない上、誰かに踏み荒らされることもなかったからだろう。風に揺られて、カサカサと音を奏でている。

 そして次に目に付くのは、少し奥へ進んだところにある溜め池のようなものだった。こちらも水質管理が杜撰だったのだろう、溜め池の水は緑色に濁っており微かな異臭が私の元にも漂ってきていた。私は顔を顰めながら、その溜め池に近づいていく。

 周囲に柵のようなものは見当たらない。本当に、何の手入れもされていないんだなと実感する。子供が溜め池に落ちてしまったらどうするんだろう。きっと、どうにもならないんだろうな。もしかしたら、溺れるほど水深もないのかもしれないし。

 私はそのまま、溜め池の周囲をぐるりと歩いてみることにした。特段意味はない。何か面白い発見があれば僥倖、何もなくても構わなかった。

 いつもよりゆっくりとした歩調で溜め池の淵にそって歩く。そうして一周して、元の場所に戻ってきた瞬間。何の発見もなかったことに、私がいくらかがっかり感を覚える一瞬手前。私は、さっき降りてきた階段を下ってくる人影を視界に捉えた。突然の不審人物の登場に私は思わず身構えたが、向こうからしてみればこんなところをうろついている私こそが不審者であることは間違いないので、お互い様であった。ならば、と私は警戒を解く。不審者同士の邂逅だ、ここは一つ軽快にご挨拶といこうじゃないか。

「こ」

 んにちは、という言葉は最初の一文字目であえなく途切れてしまった。切らざるを得なかったという方が正しい。だって、階段を下りてきた、その不審人物の正体は。

「やあ、昨日ぶりだね」

 彼は、ヘラヘラ笑いながら私にそう挨拶を投げかけてきた。私はそれに、答えない。ただただ身動き一つせず、呼吸の一吸いすらせず、彼を見つめた。

「そんなに見つめるなよ、照れるだろ」

 彼はおどけたようにそういって、首からかけていた一眼レフのカメラを構える。そしてそれを私に向けた。私とていくら馬鹿でも回避行動くらいは取れる。ほぼ動物的な本能行動に基づいて、私は顔を両手で覆った。覆った後に気付いたが、反応の仕方は完全に人間のそれではなかったし、本当に本能でしか生きていないんだなと実感してしまった。

「ちぇっ、一枚くらい撮らせてくれたって良いだろ。別に減るもんじゃないし」

「減らなきゃ撮ってもいいって理屈は間違ってるでしょ」

「いや、あながち間違いでもないさ。撮っても減らないということは、撮ったら増えるかもしれないという可能性を否定していないんだからね」

「何が増えるっていうの?」

「君の羞恥心とか?」

「殺す」

 私はドスの効いた声で呟いた。彼は気にした風もなく、構えていたカメラを下ろす。どうやら本気で撮る気はなかったらしい。私は安心して両腕のガードを解除した。

 カシャッ。

 この場面においてはどんな音よりも危険な音が、私の鼓膜に届く。

「は?」

「別にカメラは、構えてないと撮れないってわけじゃないんだぜ?」

 得意げに、彼はそう言い放った。

 私は何も言えなかった。写真を撮られた羞恥心よりも、彼に騙されてしまったことに対する敗北感が勝ってしまったからだ。違う意味で恥ずかしい。

「む…………」

 私の写真を確認していたのだろう、カメラを見つめていた彼が眉根を寄せて不満そうな声を上げた。なんだ、私の写真写りはそんなに悪かったのか。勝手に撮っておいて写真写りに不満を漏らすなんて、信じられないくらいに失礼な奴だ。怒りなのか恥ずかしさなのか自分でも分からないが、顔が赤くなっていくのを感じた。

「うーん……? なんでだ?」

「……何が」

「いや、こっちの話。気にしないで」

「こっちもそっちもないでしょ? 私の写真見て、そんな顔しないでよ。恥ずかしさの上塗りだから」

「いやいや、写真の君を見て首を捻ってるわけじゃないさ。僕だって自分の命は大切なんだ」

「人をシリアルキラーみたいに言わないで。殺すわよ」

「そういうところだよ……とにかく、君に不満があるわけじゃない。安心してくれ」

 彼は苦笑いを浮かべた。なんとなく、その口ぶりに違和感のようなものを感じ取ったが、ここでそれを究明するのも時間の無駄だ。そんなことをするくらいなら散歩で時間を浪費した方がよっぽど有意義である。

「ここに、何をしにきたの?」

 私は話題を変えるため、彼にそう話を振った。しかし彼は意外そうな顔をした後、今度は首をさっきと反対に傾げた。

「そりゃ写真を撮るために決まってるだろ。見て分からない?」

「それもそうか……」

 それもそうだった。首からあんなでっかいカメラを引っ掛けた人間に、写真撮影以外の目的があるとは考えにくい。あるとしたら盗撮あたりだが、こんな場所で何を盗み撮るというのだ。

やっぱり私はバカだった。

「分からないのは僕の方だよ。君こそ、こんなところで何してるんだ?」

 ごもっともである。特に何も装備していない私は、彼の方からしたら本当に何のためにこんな場所にいるのか分からないだろう。明らかに不審なのは私の方だった。

「別に、何も……」

 自然と返答も、オドオドしたものになってしまう。完全に完璧な不審者だった。

「何も、ってことはないだろ」

「本当に、何もしてないよ。ただの散歩」

「ふーん。散歩ね」

 彼は得心行ったという風に頷いた。案外、彼の脳みそも単純な構造をしているのかもしれない。そしておもむろに再びカメラを構えて、今度は空に向けてシャッターを切った。

「今日は本当にいい天気だね。最高の散歩日和だ」

「そうね。気温も丁度いいし」

「うん。君は学校をサボって正解だよ」

「うん…………うん?」

 今度は私が首を捻る番だった。あれ、私は彼に学校をサボってるなんて話したっけ?

「不思議そうな顔をするなよ。だらしない」

「だらしない言うな」

 私は開けっ放しになっていた口をそっと閉じた。確かにだらしない、と内心で同意する。

「だって今は平日の昼過ぎだぜ? そんな時間に外をほっつき歩いてる高校生なんて、サボりじゃなきゃ、何だって言うんだよ」

「頭良いんだね、貴方」

「君の頭が悪いだけでは?」

「殺す」

「加えて語彙も少ない」

 ぐうの音も出ないとはこのことだろう。私は彼の感想に対してなんの反論も出来なかった。反論の余地がなかった。

 悪口雑言罵詈雑言、誹謗中傷恫喝恐喝、汚い言葉はずっと昔から日常的に聞かされてきたというのに。私のそういった類の語彙は一向に増えなかった。聞くに堪えないような言葉もたくさん聞かされてきたというのに、なんで一つも覚えられなかったんだろう。少しくらいは覚えても良かったはずなのに。

 あるいはそれが、聞くのを堪えず覚えないという行為が、一種の精神的な防衛反応だったというのなら笑いごとだ。実に面白くない。

 そういう語彙が増えなかったおかげで、今ここで彼を傷つけなくて済んだのだから、それで良しとしよう。あんな薄汚れた言葉は、本来ならば言葉とは言えない。あれはそう、凶器とか鈍器とか、そういった類のものだ。

「ま、僕もサボりなんだけどね」

 彼はあっけらかんとそう言った。

「でしょうね」

 私が私服なのに対して、彼は学ランを着てのサボりだった。実に堂々としたものだ。いっそ清々しい。彼曰く、何を着たら良いか悩む必要が無いから学ランを着ているのだそうだ。思考回路も単純で、導き出された答えは当然ながら底が浅い。

「だってそう思わない? 私服だったら、何を着ようか悩むじゃないか」

「そう?」

「なんで疑問形なんだよ……」

 女の子なんだから、服はたくさん持っているだろ? と彼は不思議そうに言った。確かに、私が一般的な女の子であればそうなんだろう。

「悩むほど服持ってないし、組み合わせに悩む服なんて持ってないから」

「…………だろうね」

 私の全身を一瞥した後、彼は首肯した。そこは少しくらい否定してくれても良いんじゃないかとも思ったが、こればっかりは完全に自己責任なので口を噤む。

「ところで、なんで君はサボってるんだ? その感じだと、あんまりサボるのに慣れてないみたいだけど」

 サボるのに慣れるという不可思議な日本語を創るな、とツッコミを入れそうになったが思いとどまる。そんなことをしていたら話が進まない。

「寝坊した。それだけ」

「分かりやすいね。僕は好きだよ、そういうの」

「貴方は?」

「学校がつまらない。それだけ」

「分かりやすいね。私は嫌いだよ、そういうの」

「言ってくれるなぁ」

 しかし彼は満更でもなさそうに笑うと、頭を掻いた。学校がつまらないなんて使い古されて腐りきった言い訳を、よくも抜け抜けと使えたものだ。私の言い訳も大概だが、悪質さだけで言えば彼の方が上のように思う。

 まずもって、それは理由になっていない。「つまらない」というのは結果でしかなく、学校を休む理由は「なぜつまらないと思ったか」の方を使うのが正しいからだ。なぜそれが好きなのか、という問いに対して「好きだから」と答えるのと同じくらいに、彼の理由は論理的に破綻してしまっている。

 だが同時に、私はそういう言い訳に一定以上の信頼を置いていた。

 好きだから、好き。

 嫌いだから、嫌い。

つまらないから、つまらない。

だからこそ学校を休む。

人間の感情に対する理由づけなんて所詮はその程度だし、行動の動機付けもこの程度で十分だ。十分すぎるほどに完成されている。

だからこそ私は、なんとなくそれが嫌いだった。なぜなら、嫌いだから。

「僕も暇だし、君の散歩にご一緒させてもらっても良いかな?」

「別に。勝手にすればいいでしょ」

 私は彼にぷいっと背を向ける。立ち位置の関係上、彼に背を向けてしまうと溜め池をもう一周しなければならなくなるが、それでも構わなかった。無駄にする時間は持ち合わせてないが、浪費しても良いほどには持て余している。

「ちょっと、待ってって」

 慌てて彼が追いかけてくる。雑草を踏む軽快な音が、妙に心地よく聞こえた。私も試しに強く地面を踏んでみると、気の抜けた音しか鳴らせなかった。もしかしたら、走った方が良い音が出るのかもしれない。一周目を歩いてた時は、さっきみたいな気持ちのいい音はしなかったし。よし、走ってみよう。

「あ、おい! なんで走るんだよ!」

 背後から怒号が聞こえてくるが、気のせいという事にして聞き流す。今はそんな雑音を聞いている場合じゃない。私にはもっと、聞きたい音がある。

 雑草を踏みしめる軽い音。風を切る愉快な音。心臓の方から聞こえてくる微かな心音。

 なんだかまるで可笑しなオーケストラみたいで、私はちょっと楽しくなった。

「あっはは!」

「何笑ってんだよ! おい! ……ったく」

 カシャッ。

小気味いいシャッター音。今はそれさえも楽器の演奏のように聞こえた。

 ふと気になってチラッと後ろを振り返ったが、写真を確認する彼の表情はやはり芳しいものではなかった。その表情に疑問と不安を覚えながらも、私は足を止めなかった。

 そのまま私は溜め池を一周走って、再び元の位置に戻って来る。そして倒れた。その場で、仰向けに。視界は青と白で満たされ、草の匂いがツンと私の鼻を刺激した。

「わお、見事なぶっ倒れ方だ」

「それは……どうも……」

 私は肩で息をしながら、彼の皮肉に応える。応酬とまではいかなかったのが悔しいが、体力的にしょうがないだろう。彼は私に追いつけないと悟ってから、追跡を諦めて階段の方に戻っていたようだ。汗まみれで息の上がっている私とは対照的に、涼しい顔をしている。彼に見下ろされている形になっているのも頂けない。普通にムカつく。

 背中の方でクッションになっている雑草が首筋に当たって少しくすぐったい。視界いっぱいに映る青空は秋らしく突き抜けていて、吸い込まれてしまいそうだった。

「飲み物を買ってくるくらいの甲斐性を見せたらどう?」

 ようやく口が開けるくらいには回復したので、彼に向かって嫌味を投げかける。我ながら性格が悪いなと思った。

「いやいやそんな、お嬢様のお口に合う飲み物なんて、そうそう用意できませんよ」

 向こうも向こうで相当に性格が悪かった。最高に最悪だ。

「そろそろ立ち上がったら? 体に雑草が生えるよ」

「うるさい雑草」

 私は売り言葉に買い言葉で返し、悲鳴を上げる太ももに鞭打って立ち上がった。昨日に引き続き、今日のこれだ。針金のように細っちい私の太ももはもう限界を訴えていた。これから自転車を漕いで帰宅しなければならないという事実からは目を逸らす。逸らした先には階段があって、これは幸先良くないなと、漠然と絶望した。

「さて、僕ももう写真は撮り終わったし、そろそろ帰るよ」

「え? 少し早くない?」

 まだ十六時を少し回ったところだ。夕飯時にしては早すぎるし、小学生だってもう少し遅い時間まで遊んでいるだろう。体力は既にあまり残されていないが、気力はまだまだ十分だ。せめてもう少し暇つぶしをしてから帰りたい。

「早くないだろ。なんで君基準で考えなきゃならないのさ」

「悪い?」

「開き直りが素晴らしいね。感動したよ」

「やった褒められた、嬉しいなあ」

「せめて笑顔でも作ってから言おうよ。真顔過ぎて引いてるんだけど」

「他に撮るところはないの?」

「うーん、他の所って言ってもなぁ」

 どうやら彼も、私が数時間前にぶち当たっていた壁に悩まされているようだ。そりゃそうだ。私だって苦渋の決断の末にこの公園にやってきたのだから、恐らくそれは彼だって同じなのだろう。私と同じ理由で同じ場所に訪れた人がいるという事実に、私は不覚ながらも少し嬉しく感じてしまった。傍目から見たら冗談にならないくらい気持ち悪い感情だったので、私はすぐに頭を振って打ち消した。

「この街は本当に不思議だよね」

 彼は唐突に、そんなことを言う。

「急にどうしたの? 頭でもおかしくなった?」

「頭はいつにもまして明瞭だよ」

「じゃあ感性が中学二年生で止まっているのかな」

「そんなわけねえだろ」

 そんなわけないらしい。うーむ、確実にどっちかは合ってると思ったんだけどな。ニアミスというやつだろうか。

「この街には何もない。遊ぶところも、暇を潰せるところも。何もなさすぎる。でもね」

 彼はここで言葉を切った。そしてカメラを愛おしそうに撫でて、呟く。

「切り撮りたくなる瞬間に、溢れてる。だから、好きなんだ」

「……ふうん」

 今の私のリアクションは、自然に出来ていただろうか。何とも思っていなくて、彼の言葉には一つも興味がない、というフリは出来ていただろうか。

 私は彼の、儚げなその表情に、見惚れてしまっていた。

 私の視線の、その全てを奪われていた。

 そして同時に、ほんの少しだけ悲しくなった。

 私は彼と、同じ思いは抱けなかった。

 私はこの街が嫌いだ。

 この街で暮らす誰もが、焦点の合っていない、腐りきった二つの目をぶら下げて、夢遊病のようにそこら中を徘徊している。そんな光景が堪らなく嫌いだった。

 みんな何が楽しくて生きているんだろう。ふとした瞬間に気になって、辺りをキョロキョロと見回してみても、果たしてそこには楽しそうな顔なんて一つもないのである。勿論、見回している私の顔も、恐らくは疲労と不幸を煮詰めたような顔になっているのだろう。

 宙を漂う私の疑念は人と街を回遊し、「じゃあみんな何で生きているんだろう」という点に収束する。自分の人生が楽しくないなら、みんなはどこに生きる理由を見出しているのか。そもそも、生きる理由に基づいて生きているのだろうか。例えば、大半の人が私と同じような生き方だったら。

 死んでも良い理由を必死で探して、生きているのだとすれば。

 それが見つけられなくて、惰性で生きているのだとすれば。

 暮らしているだけで、歩いているだけでそんなことを考えさせられてしまう、この街が。

 私は大嫌いだった。

「……ん? どうかした?」

 彼は私の目を覗きこんで、そう問いかける。その悪戯っぽい目は私の全部を見通しているかのように輝いていて、わたしは少し不安になった。

「どうもしない。……ところで、貴方の口ぶりだと、この街以外にも住んだことがあるみたいな感じだったけど」

 私は彼に見つめ続けられるのが、そして何より彼を見つめ続けてしまうのが怖くて、なんとか話題を逸らすことにした。

 彼は明後日の方向を向いて、腕組みをしつつ答えた。

「そうだよ。僕は転勤族なんだ。この街に来たのは二年前、つまり高校入学と一緒にこの街に引っ越してきたってわけ」

「前はどこに住んでたの?」

「どこだと思う?」

 見当が付かないから聞いているんだろうが。

「知らない。火星?」

 適当に答えた。どうせこんな返答をされた時点で、彼に教える気が無いことくらい想像がついている。私はため息を吐くと、彼から視線を外した。

「ちゃんと答えてくれないと、僕としては非常にやりづらいんだけど。まぁ、とりあえずは秘密ってことで」

「あっそ」

 吐き捨てるように言った。話題を逸らした方向があまり良くなかったらしい。結局ははぐらかされてお終いになってしまった。納得いかないし、何より少し気分が悪い。

 全然、面白くない。

「…………帰る」

「君は情緒不安定なの? それとも若年性健忘症? さっき自分で言ったことをもう忘れたのかよ」

「うるさい、とにかく帰る」

 やれやれと言った風に腕を広げる彼の横を通り過ぎ、私は階段の方に向かった。すれ違う瞬間、ほんの少し肩をぶつけて。我ながら幼稚な、僅かばかりの抗議のつもりだった。少し変だったのは、割と強めにぶつけたつもりだったのに、ほとんど反動が来なかったことだった。

「じゃあね。また、いつか」

 彼は昨日と同じ別れの言葉を私に投げかける。私はそれに、無言という形で答えた。


                  §


 私はミステリー小説が苦手だった。誰かが殺されるために用意された舞台、誰かを殺すために用意された犯人、殺されるべく存在する被害者、そしてそれを必ず解決する名探偵。そんなご都合主義で塗り固められた、言ってしまえば一種のマンネリズムを孕んだお決まりの展開というやつが、どうにも性に合わなかった。

小説の話に現実を持ち込んだところでどうにもならないのは重々承知だが、それでも現実世界に落とし込んで考えるなら、そんな風に上手く用意された設定なんてものは存在しない。いや、この言葉は些か正確性に欠けるな。より正確に言うなら、だ。

元から用意された設定なんて、存在して欲しくない。

そんな存在は許せない。許すことなんて出来なかった。

そんな設定が仮に存在するとしたら、存在してしまうとするなら。

私はどうしようもなく、どうしようもない程に、自分の存在を否定されてしまう。

「はー、嫌だ嫌だ」

 無事に自転車による帰宅を果たし、私は玄関の前で一息ついた。服は汗まみれの泥まみれ、膝には道中での転倒による擦り傷が複数個所、自転車のかごは若干歪んでしまっているが、無事は無事だった。帰宅に三時間もかかってしまったけれど、無事だ。生きていればそれで十分だと、誰かが言っていたではないか。生きてさえいれば万事が無事なのである。意味の取り方を間違えている気もしなくはない。

「ただいまー」

 ピンポーン、と玄関のチャイムを鳴らす。出掛けるとき本当に自転車の鍵以外に何も持たずに出てきてしまったから、今の私には自分の家の玄関を開けることすら出来なかった。情けない事限りなしだ。

「はいはい」

 やたら気怠そうにドアを開けてくれたのは、他でもない妹だった。部活帰りで疲れているのだろうか。目つきにいつもの鋭さがない。ちょっと悪いことをしたなとぼんやり考えていたら、私の姿を見るなり妹は血相を変えて私の体を触り始めた。

 おいおい妹よ、私にそんな趣味はないぞ。武器を携帯しているわけでもないし。

「ねぇ、お姉ちゃん」

 一通り体を触り終えて、妹は私の目を覗きこみながら問いかける。

「『誰に』こんなことされたの?」

「…………」

 我が妹ながら、おかしなことを言うものだ。寝言は寝ていうものだし、冗談は休み休み言うものだぞ。せめて寝るか休んでからにしてくれ。

「いや、自転車で転んだだけ」

 私は素直にそう答えたが、妹はそんな言葉など聞いていないかのように視線を外そうとしない。やめろよ、照れるだろ。そんなに見つめないでくれ。

 そんなに、見つめないでくれ。

「おかえり」

 妹の背後で声がした。声の主は間違いようもなく母であった。私はそれに軽く手を振ることで答える。母は腕を組んで嘆息した。

「夕飯出来てるから。早くシャワーでも浴びてきなさい」

 母は落ち着き払った声で、そう言った。

「お母さんっ!」

 妹は振り向いて、母に怒声を浴びせる。しかし母はそれを意に介した様子もない。

「あんたは早く着替えなさい。いつまで部活のジャージ着てるのよ」

 妹はほんの数瞬だけ母に目を向けたが、分かった、と短く返事をして家の中に引っ込んでいった。情緒不安定と形容するなら、妹の方こそが相応しいと思わない?

 私は靴を脱いで中に入る。靴を脱ぐとき、やたら踵がボロボロになっているのを発見したが、いつもの事なので特段気にかけることもなかった。

 服を全部洗濯機に投げ入れて、軽くシャワーを浴びた。お湯の熱さが膝の傷に染みて、私は少しだけ涙を流した。それもすぐに全部、シャワーで流されてしまった。水滴と涙の境目は消え失せて、私の顔は水滴でびしょびしょに濡れた。

 何も、面白いことはない。

 そのあとは夕飯をみんなで食べて。そして私は今、自室のベッドに臥せていた。

 疲れた。本当に疲れた。軽い暇潰しのつもりで外出したのに、暇どころか私の体が押し潰されそうだった。疲労と鈍痛が私の体中を縦横無尽に駆け巡っている。

「全く、やんなっちゃうなあ…………」

 悩み事や弱音を延々と心の中でリピートしていると、なんだか悲劇のヒロインを気取っているんじゃないかと誰かさんに説教されてしまいかねないが、実際嫌なものは嫌なのだ。それに、私という人間にヒロインという配役は相応しくない。そんなことをする演出家はドラマターグに撲殺されてしまえばいい。私に相応しいのは精々が『通行人Aの友人の従妹』くらいのものである。

 そうあって欲しくはないと思っているが、一方でそれ以外ありえないという現実も、私は正しく認識し理解している。

 全世界は劇場で、全ての男女は演技者で、人々は出番と退場の時を持っていて、人間は一生のうちに多くの役を演じる。演じさせられる。そんな、圧倒的なまでのご都合主義。

 それが多分、どうすることもできない現実。そして私は今、『そういう役だった』というだけの話だ。実に単純な構造のお話。いっそ面白くなってしまうほどに、簡単なおとぎ話。

 ところで、そう考えていくと、彼はどういう役割なのだろう。

 学校という舞台をつまらないと切り捨て、独り飄々と写真を撮ることに耽っている彼は、一体どんな役割を演じているのだろう。これは私の主観的な感想だが、あれは一つの大きな舞台の一役者という感じではない。どちらかと言えば、町はずれの小劇場でひっそりと上映されている、一人芝居の主人公。

 私も本当は、そんな役回りが希望だったんだけれど。思いのほかオーディションは厳しかったようだ。私は端役の端役、一方彼は独壇場の主人公、この差は一体どこで生まれたのだろう。演技力に自信があったわけではないけど、彼にそれがあるとも考えにくい。出会ってまだ二日しかたっていない人間の何が分かるんだという話ではあるが。

 彼と私の、些細な差異。

 こんなクソくだらないこと、考えるだけ無意味に体力を使ってしまう。私の脳と体は、とっくに活動限界を迎えていた。もう眠ってしまおう。

 明日はちゃんと早起きして、学生という身分に相応しく、規律を守ってやろうと心に決めて。彼は明日も学校をサボるのだろうか。そんなことを気にしながら。

 それじゃあ。おやすみなさい。

 目を瞑り、暗闇の中に溺れながら、私は眠りについた。

 そして私はとても久しぶりに、夢を見た。

 夢は浅い眠りの時に見るものだという話を聞いたことがある。普段はベッドに倒れこんで死ぬように眠っているのだが、今日はちゃんと自発的に眠りについた。それに学校に行っていないので、体の疲れはあっても精神的な余裕はあったわけだ。眠りが浅くなって夢を見るというのも納得できる。

 夢で私が見た景色は、いつも見ている現実の世界と何ら変わらない、単調過ぎるものだった。夢なんだからもう少しファンタジックな光景を見せてくれたって良いじゃないかとも思ったが、それは偏に私の想像力が極端に欠如しているというだけの話である。

 いつもの通学路。錆が目立つボロボロの校門。まるで監獄のように見えてしまう校舎に、楽しそうに笑う生徒たち。所々に少しゴミが落ちている廊下を進むと、私の所属するクラスの教室がある。扉を開けると、いつものように、いつもと変わりなくクラスメイト達が全員私の方に視線を向けてきた。

 全員が、私を見つめた。

 そして一斉に笑い出す。

 狂ったように早くなっていく心臓の鼓動、それは私の鼓膜にまで直接届いてきて、うるさいうるさい、何も聞こえなくなっちゃうじゃないか、足も壊れたみたいに震えだして、全身から冷汗が滲み出してきて、不快だ不快だ止まれ止まれよ気持ち悪い気持ち悪い、なんでみんな私を見るんだ嫌いなら放っておけばいいじゃないか目障りなら見なければ良いじゃないか死んでほしいなら殺せば良いじゃないか私にこれ以上どうしろって言うんだ、私はこれ以外どうすればいいんだ、目が回る目が回るグルグルグル平衡感覚はとっくの昔に失われて、あれ、あれ?

「……おはよう」

 ここで私は目を覚ました。寝覚めの部類としては最悪だ。部類というか、ぶっちぎりで最悪だった。寝巻は寝汗でびしょびしょになってて不快だし、何より疲れが全く取れていない。取れていないどころか、三割増しで疲れていた。なんで眠ったのに疲れなきゃならないんだろう。

 時計を見ると、まだ朝五時だった。どうりで外がまだ薄暗いわけだ。もうひと眠りしようかとも考えたが、今の状態ではもう眠ることは叶わないだろう。ちょっと早めだけど起きるか。

 体を起こすと、軽い眩暈に襲われた。それこそ夢と同じように、平衡感覚が吹き飛ぶ。なんとか倒れないように耐えていると、数十秒で眩暈は収まった。遅れて平衡感覚も戻ってくる。朝から踏んだり蹴ったりだなぁ、何か悪い事でもしたっけ、私。心当たりは一つもないんだけど。お前の存在それ自体が悪だと断罪されてしまったら、それはそれで何も反論できない。

 私はとりあえず寝巻から制服に着替える。クローゼットにしまわれていた制服はしっかりアイロンがけまでされていて、母には感謝の気持ちしか湧かなかった。ほんのり洗剤の良い匂いがする制服に身を包まれると、なんだかそれだけで少し元気が出る。

 一階に降りて寝巻を洗濯機に入れて、そして私は第一の問題にぶつかった。いつもは起床すると既に朝ごはんが出来ているのだが、この時間だとまだ母も寝ている。必然的に私は自分で朝ごはんを用意する必要が出てくるのだが、そもそも私は自分の食事なんて作ったことがない。パンを焼くことくらいは出来るのだが、残念ながら今パンの在庫はこの家には存在していない。どうしよう、早々に詰んでしまった。おとなしく布団の中で母の起床を待つべきだったか。

 三秒だけ考え、私は持ち前のバカさを発揮することにした。

 パンが無いなら、何も食べなければ良いじゃない。

 マリーアントワネットでも流石に控えるだろう発想を、私は実行に移した。

 私は駆け足で二階に戻り、通学カバンを引っ掴んで再び部屋を飛び出す。私があまりにドタドタ階段を上ったせいで目を覚ましてしまったのだろう、妹が部屋からひょっこり顔を出してきた。

「ん……お姉ちゃん?」

「おはよう妹よ」

 私は手を振って妹に微笑みかける。寝ぼけ眼をこすっている妹にいつものような快活さはなく、いつもより可愛らしく見えた。いつもこうだったら、さぞ世の男たちから可愛がられるだろう。勿論、そんなことを考えてしまうくらいだから、実際の所はお察しの通りだ。

「私はもう学校に行くから。あんたも遅刻しないようにね。それじゃ」

「は……はあ?」

 姉の意味不明な発言に頭を叩き起こされたのか、妹は目を見開いて私を凝視する。信じられない、という内心が露骨に伝わってくる。ごめんな、嘘みたいだけど嘘みたいな本当なんだ。

「いってきまーす!」

 私は母にも聞こえるような大声でそう宣言すると、階段を駆け下りて玄関に向かう。慌ただしく靴を履き、ドアを蹴破るように開けて外へ。

 当たり前のように外はまだ薄暗く、普段とはまた違った様相を呈していた。まるで街もまだ眠っているみたいに静かで、彩度と色彩の両方を失っている。実に私好みだ。ゴミの掃きだめみたいなこの街にも、こんな顔があったなんて。もっと早く知っていたらなぁと、小さな後悔に襲われた。

 試しに一つ、大きく深呼吸してみた。冷たい空気が体の中に入ってくる感覚。嗅いだことのない匂いを感じて、これが朝の匂いというやつなのかと考えてみたりした。

「さて、出発だ」

 呑気にそんなことを呟いて、私は気持ち大きめの歩幅で一歩を踏み出した。足音がいつもより大きく聞こえて、少しびっくりする。

 ここまで静かで誰もいないと、もしかしたらこの世界にはもう私しかいないんじゃないかという錯覚に陥る。全世界が全て私の独壇場、何をしても良いし何もしなくて良いし、誰からもそれを咎められることはない。それはとても自由で私の理想ではあったけれど、同時に酷い御伽噺だった。空回りした机上の空論で、空転して空を切った私の理想は儚く、それは描いただけで現実を痛感させられる類のものであった。

 スキップに近い足取りで学校へと歩みを進めていく。別に学校に着いたところで何か楽しいことがあるわけではないのだが、それでもなんだか気分が良かった。それは、今の時間なら学校に誰もいないだろうという安心感からくる勘違いかもしれない。それでも私は、その勘違いを否定するでも目を背けるでもなく、ただ漫然と肯定して受け入れる。

 夢でさえ良い思いを出来なかったんだから、せめて今だけは、世界に私しかいない今だけは都合のいい幻想を見ていたかった。

「ふんふーん」

 柄にもなく、へったくそな鼻歌を歌ってみたりする。恐ろしいくらいに調の外れた気味の悪い鼻歌になってしまったけれど、誰にも聞かれていないので構わず歌い続ける。

 思えば私は歌がとてつもなく苦手だった。音痴というか、耳と頭と喉の回路が切れてしまっているんじゃないかと思えるほどに正しい音程で歌えなかった。小学生の頃は、それをネタに良くからかわれたものだ。アレをからかいと表現していいものなのかは別として。

 しかし、そう考えると不思議なものだ。他にも原因があったとは言え、ただ『歌が他人よりも下手』という理由だけで、集団からは爪弾きにされるなんて。挙句の果てには一己の人間という枠からもはじき出されてしまうなんて。集団という生き物はかくも冷酷で、自分の意志通りに動かない不確定分子や、意志通りに動けない欠陥品は迅速に排出しようとする。もしくは、自己の機能改善に利用したりするのである。

 しばらく歩いて、学校に到着した。当然だが校門はまだ固く閉ざされている。この感じだと校舎の扉もまだ開いていないだろう。失敗した。テンションだけが先行して、こういう事態を一つも想定していなかった。校門はなんとか超えられるとしても、校舎の鍵だけはどうにもならないだろう。これは諦めて校門の前で待ちぼうけをしていた方が得策か。

 なんて考えていると、校舎脇にある広い花壇の近くに、ぼんやりと人影のようなものを見つけた。警備員か当直の教師か? と思ったが、この学校にはそのどちらもいないという事実を思い出す。第一そんなのは漫画か小説にしか出てこない。普通の学校にはそのどちらも、滅多に存在していないのだ。警備員はともかくとして当直の教師なんて言葉はもはや死語である。

 じゃあ、あれはなんだ? 薄暗い上に私の視力の低さも手伝って、ぼんやりとシルエットしか見えない。黒っぽい服を着ているので男子生徒である可能性が一番高いが、果たして。

「…………あ」

 私は唐突に、一つの可能性に気が付く。私の認識内には一人だけ、こういう変なことをする奴がいた。そしてそれは、人影が花壇に向かって何かを『構えた』ことによって確信へと変わる。

 私の体は自然と動いていた。数瞬遅れて体が動いたことを意識する。校門に手を掛け、躊躇も思考もなにもせずに、飛び越えた。勢い余って転びそうになったが、なんとか踏みとどまる。そして私は、全速力で駆けだした。なんか私最近走ってばっかりだな、なんてぼんやりと考えながら。体は軽く、まるで羽でも生えたかのようだった。景色は過去最高速で通り過ぎていき、私を取り巻く光景は目まぐるしくその様相を変化させる。

 遠くに見えていた人影がグングン大きくなっていった。

「くらえっ!」

 小学生よろしく大声でそう叫び、私は。

 飛んだ。

 それはお世辞にも綺麗とは言えなかったが、渾身というには十分に強烈な飛び蹴りだった。小学生的表現に準拠するなら、それは必殺のライダーキックだった。

 そんな私の必中必殺が、彼の背中にクリーンヒットする。

「おわっ!」

 彼は素っ頓狂な声をあげ、花壇に突っ込んだ。運動神経は良いほうなのか、途中で体を捻って背中から倒れこみ、手に持っていたカメラはなんとか死守したようだった。

 私は私で運動神経がゴミなので、飛び蹴りした体勢のまま地面に落下して腰をしたたかに打ち付けた。肺から空気が全部吐き出され、一瞬だけ酸欠のような症状に見舞われる。しかも、せっかく洗濯してもらった制服が砂まみれになってしまった。最悪だ。

「最悪だ……」

 それは彼も同じ気持ちだったようで、花壇を踏み荒らしてこちらに歩きながらそう呟いた。私は腰の痛みが尋常ではなかったので、彼の言葉には何も返さなかった。

「何するんだよ、こんな朝っぱらから……」

 あらあらごめんあそばせ、と心の中で言い返す。上手く息が吸えない。やっぱり無理はするもんじゃないな、と何度目かの反省をした。これからも、あと何度か同じ反省を繰り返すことだろう。私の頭に学習という二文字は存在しない。基本的に鳥頭なので、三歩歩いたら大抵のことは忘れてしまう。ただし、一度覚えたことは二度と忘れることはない。

「カメラが壊れたらどうしてくれる……」

 彼はカメラを弄りながら、ポンポンと叩いたり息を吹きかけたりしていた。あの転び方なら絶対に無事だと思うのだが、それでも気になるらしい。ちょっと悪いことをしたかな。一眼レフのカメラって凄く高いって聞くし。

私はどうにかこうにか立ち上がり、そして彼に視線を向けた。そして、わざとらしく挨拶する。なるべく優雅に、したたかに。あ、違う。しなやかに。

「あら、ごきげんよう。こんな所で会うなんて必然的な偶然ね」

「日本語メチャクチャじゃないか……」

 彼は呆れ返ったというふうに、そう言った。その表情に怒りは浮かんでいなかったので、私は一先ず胸を撫で下ろす。ここで怒られたらどうしようかと思った。

「こんなところで何をしてるの?」

「それは僕のセリフだと思うけどね……」

 彼は困ったような表情を浮かべた。そして私に見せつけるようにカメラを掲げる。これで分かるだろ、とでも言いたげであった。なるほど確かに、彼の場合はその可能性しかありえないかもしれない。というか、まったく同じような内容の会話を昨日交わしたばかりだ。

「こんな早い時間なのは、うるさい人たちに邪魔されたくないからだよ」

「うるさい人たち?」

「僕は風景写真が専門なんだ。基本的にはね」

 基本的には、の部分が妙に強調されていた気もしたが、恐らくは私の聞き間違いだろう。

「人の写真はあんまり撮りたくないんだよ」

「どうして?」

「…………無駄な情報が多すぎる」

 語尾が曖昧だった。そして微妙に差し挟まれた意味深な間が気になる。しかし私は、その真意を推し量れるほど彼について知らなかった。

「ふうん……」

 とりあえず頷いたものの、私はその実、彼の言葉の意味を上手く理解できていなかった。それは写真を撮ったり見たりしていないからなのかもしれないが、撮影する対象物によって写真の情報量が違うという概念が理解できない。

 それに、コイツはつい一昨日屋上で私の写真を撮ったではないか。なんだ、私は情報量の少ないスッカラカンな人間だとでも言いたいのか。

 うん、何も間違っていない。

「じゃあ同じことを聞くけど、君はこんなところで何をしてるの? というか、何をしに来たの?」

「別に、何も」

「はぁ?」

「目的なんてない。ただ早く起きちゃったから、早く登校してきただけ」

 この会話も、昨日とほぼ同じだ。私も彼も同じようにお互いが分かっていなくて、お互いを分かっていない。ついでに言うと多分、自分の事も分かっていない。だからこそ、自分と相手を確認するように、尋ねてしまう。気になってしまう。

 私は、基本的に目的も目標も意思も意図もなくて。彼の動機は写真を撮ること、その一点に集約されている。それをただただ、確認するためだけの会話の応酬。それは機械的な点呼に他ならなかった。

「それにしちゃあ、随分と早すぎる気がするけどね……」

 彼は校舎の壁に設置された時計を見上げた。私は改めて自分の行動の意味不明さに恥ずかしさを感じ、時計からは目を逸らした。すると今度は彼が突っ込んだせいでぐちゃぐちゃに踏み荒らされてしまった花壇が目に入り、私の良心は呵責によってゴリゴリ削られていった。勢いに任せて行動するのはもうやめにしよう。しかしあくまで努力目標、善処しますというやつだ。

「僕は満足したし、そろそろ教室に行こうかと思うんだけど」

「え、教室? まだ正面玄関の鍵って開いてないわよね?」

「そりゃあご覧の通りだろ。開いてないよ」

「じゃあ、どうやって?」

「校舎に入る方法は、何も正面玄関だけじゃないんだぜ」

「へえー」

 彼は不可思議なことを平然と言ってのけた。そんな方法があるとは全くもって考え付かなかった私は、口を半開きにしてひたすら感心する。私としては彼を少し見直したつもりだったのだが、私の表情は彼の目に煽りとして映ってしまったらしい。彼から冷たい目線をプレゼントされてしまった。

「生徒はこの時間に来なくても、この時間に来るかもしれない教師はいるだろ?」

「ああ、試験とか授業の準備でってこと?」

「そう。だからこそ職員玄関なんてものがこの世に存在してるのさ」

「あ、なるほど。職員玄関か」

 そうか。私は超がつくほど模範的な一般生徒だったので、職員玄関を利用する機会になど恵まれることがなかった。だからこそその存在は頭から抜け落ちていたし、まさかこんな時間から開いているという事実は知る由もない。

「案内するよ。ついてきて」

 彼はクルリと踵を返し、校舎裏に向かって歩き始めた。私は校舎裏という舞台にうすら寒い感触を覚えながら、震える足をごまかすように駆け足で彼を追いかける。校舎裏は、私の九とカバンの墓場みたいなもので、たまにそれらの死屍累々が積み上がっていたりする。

 それにしてもこの状況。薄暗く影を落とす校庭に、私たち以外の生徒が一人もいない静かな校舎。踏みしめた砂利の音が驚くほど大きく周囲に反響する。そよ風が吹いただけで草木が大合唱を始めるし、周りを飛ぶ鳥はそれに聞き惚れたように鳴き声を潜めていた。

 なんだかとても、そう、ドキドキする。

 私はなんとなく、彼の右手をジッと見つめた。軽く内側に握られた彼の右手はとても綺麗で、私の視線は自然とその手に吸い込まれていた。そしてなぜか、同時に私の左手も吸い込まれていく。彼の右手と私の左手、距離が縮まるほどに近づく速さが増していく。まるで磁石の様に、最後にはしっかりとくっついて重なった。

「ん…………?」

「…………ん?」

 タイミングのずれたリアクションが不協和音を奏でる。彼の首に掛かったカメラがカチャリと揺れる。その音で、断絶されていた私の意識と体がようやく繋がりを取り戻す。

 私の左手は、彼の右手をしっかり握っていた。

「えーと」

「…………」

 私の中の時間が止まる。それなのに頭だけは妙に冴えていて、回遊していた思考が収束した。収束してしまった。何をやっているんだ私は。

「ご、ごめん」

「あはは」

 彼は本当に面白そうに笑うと、右手を強く握り返してきた。離そうとしていた私の左手は再び、彼の中に落ち着いてしまう。おいおい、なんだこれは。自分からやっといてこんなことを言うのは間違っていると思うが、何をしているんだお前は。

 その言葉を言われるべきは私だ。何が言いたいのか分からなくなってきてしまって、つまりはそれくらいに私の頭は収拾ついていなかった。思考が乱れ飛び、散乱している。

「さ、行こうか」

 彼は満面の笑顔を浮かべたまま、私の手を引っ張っていく。最初は抵抗しようとしたが、死後は流れに身を任せることにした。どうせ振り払おうとしたって彼はそれを許さないだろう。そんなことを許したら、多分彼にとって何も面白くないだろうから。無意識の内に手を握ってしまった私を恥ずかしがらせて、その様子を面白がっているのだ。手を離すわけがない。私としは、今すぐにでも手どころか縁すら切ってしまいたい心境である。

 職員玄関は、思ったよりも近いところにあった。校舎裏というよりも、校舎横という表現の方が正しいだろう。奥の方を覗いてみると、広めの駐車場があった。

「ほらね」

 自慢げな表情を浮かべ、彼は私にそう言った。なぜお前が誇らしげなんだ。別にお前が開けたわけじゃなかろうに。

 彼に手を引かれるがまま、私は職員玄関から校舎へと侵入したのだった。靴は後で取りに来れば良いと判断し、玄関に放置したままである。

まだ廊下の電器は一つもついておらず、太陽の光が差し込まない分、中は思ったよりも真っ暗だった。ホラー映画などでよく出てくる場面にそっくりで、気を抜いたら廊下の奥から白装束の女が追いかけてきそうな雰囲気がある。これ以上妄想を続けると私の心が恐怖で壊れるので、私はなるべく何も考えないように、左手に意識を集中させた。

 二年生の教室は二階にあるので、私たちは足音を潜めながら階段を上った。足音を小さくする必要はないのだが、周りの雰囲気が自然とそうさせた。大きな物音を立てた瞬間に、教室から何か得体のしれない怪物が出てきて襲われそうだったからである。

 そして二階に着いたとき。

私は強烈な違和感を全身で感じ取った。

 何がどう違って違和感かと言われると、そもそも登校時間から違うのだから普段とは比べようもなく、中々に判断が難しいところではある。しかし、その時私が感じ取ったのは紛れもなく確信的な違和感であった。飽和しきった異常性が私の頭に警報音をガンガンと鳴らし始める。

 これは、なんだ?

「どうしたの?」

 心臓が早鐘を打っているのに顔面が蒼白になりつつある私に対して、彼の顔は変わらず涼しいものだった。彼が極端に鈍感なのか、私があまりに敏感過ぎるのか。

 私は何に対して、違和感を感じている?

「早く行こうよ」

「待って……お願いだから少し待って」

 私は彼の手を強く握りしめて抵抗の意図を伝えた。もう少し、私に考える時間をくれ。頼むから。もう少しで分かりそうなんだ。何がいつもと違う? 自問して自答は出来ないまま時間だけが過ぎていく。数秒の経過が十分にも二十分にも感じられる。時間と認識の乖離。現実と意識の剥離。考える能力が私の頭から剥奪されたように、思考回路に靄が広がる。

 考えに考えて考え切ったとき、私の左手が軽く引っ張られた。

「大丈夫?」

「……うん」

 彼が私の顔を心配そうにのぞき込む。どうやら、相当深刻な顔をしていたらしい。私はこれ以上考えても答えは出ないだろうと限りをつけて、教室に向かうことにした。

「僕は一組なんだけど、君は何組なの?」

「三組よ。クラスが違ったから面識がなかったのね」

「あとは僕が不登校気味だったってのもあるかな」

 それが主な原因では? まあどうでもいけど。私の教室までは少し距離があるので、私は誰か他の生徒が来るまでは彼の教室で時間を潰すことにした。話し相手がいれば、時間も潰しやすいというものだろう。昨日のような無謀さは微塵もない。それに、彼と話していれば誰かが来た時に安心できると思った。私が誰かと仲睦まじくおしゃべりしているというイレギュラーで、私に近づいて来ようとする人間を牽制できるはずだ。

 それにしても、と教室のドアに手を掛ける彼を眺めながら考えた。

 さっきのは一体何だったんだろう。こうして落ち着いて廊下を眺めてみても、おかしい所は何一つないし変わったところは見つけられない。揚げ足取り的に一つ挙げるとするなら、いつもと違う時間に来ているのに「何も変わっていない」ということ自体がおかしいという事だけだが、それこそアホみたいな戯言だ。あまりにもバカげている。

 もしかしたら、そもそも違和感という表現が間違っていたのかもしれない。なんとなく頭の中に漠然とした疑念が浮かんできたから便宜上違和感という言葉を使ったが、それは例えば本能的な何かだったのかもしれなかった。

 そんなことをぼんやりと考えていると、彼は勢いよく教室のドアを開けた。それはまるで静寂を突き破るような、あまりにも勢い余った開け方であった。私が思わず肩をビクッと震わせて後ろに一歩下がってしまうくらいには乱暴な開け方だった。しかし後に、それは彼なりの優しさだったのではないかと気づいた。

 最初に。

 私の目には、モノが映った。

 彼の目には、何が映っていたんだろう。

「……あ、あ?」

 ソレは空中に浮いていて、ソレは天井からぶら下がっていて、ソレはまるで見下すかのように私たちを見つめていて、ソレの見た目は私たちと同じ。

 人間のようだった。

 人間に、とても良く似ていた。

 限りなく人間ではない、人間だった。

「…………」

 声は出ない。声なんか出ない。声なんて出せなかった。それは目の前にぶら下がっているモノも同じで、その口はだらしなく広がっていて粘液やら液体やらで怪しく煌めいていたが、言葉が紡ぎだされることはない。ソレの足もとには水たまりのようなものが広がっていて、強烈な異臭を放っていた。私の脳裏には昨日の溜め池がフラッシュバックしたが、そんなことは最早『どうでもいい』。

 私が何を思おうが私が何を考えようが私が何を感じようが私が何を見て何を聞こうが関係ないしどうでもいい。そんなちっぽけなことで目の前の圧倒的で壊滅的な現実は、面白いくらいに何も変わらない。

 私は目を見開いて、その、閉ざされた現実を直視した。

 私の知らない誰かが、死んでいた。


                   §


主人公についての考察。

こう表現してしまうと堅苦しい雰囲気が漂ってしまうが、特になんてこともない、つまりはただの『立ち位置の立ち方』について考えてみようという話だ。

小説において舞台において、そもそも主人公というのはどういう立ち位置に属するのだろう。もし主人公がいなかったら、その物語が端役や脇役で構成されていたら、一体どうなってしまうのだろう。そもそも主人公になれる資格はどうやって得られるのだろうか。

まずは考えてみてほしい。今、自分の目に見えている現在進行形の物語において、果たして自分は主人公でいられているのかどうか。この問いに対する回答いかんによって、全てが決定されると私は考えている。

もしこの問いに対してイエスと答えられるならば、その人は疑うべくもなくその一生において死ぬまで永遠に主人公でいられるはずだ。一切の異議を受け付けない程度には完璧に主人公足り得ている。周りの人間は間違いなく主人公を彩るためだけに存在している脇役に過ぎない。お姫様を殺すヒーローにも、喜劇のヒロインにもなることが出来るだろう。

対して、例えば私のような人間は、この問いに対して間髪入れずに反駁するかの如く簡潔に即決に、こう答えるだろう。

『彼が彼女が主人公だ。私はそんなものじゃない』

 要は、自分の見えている世界と他人に見えている世界を同じと考えるか違うと考えるかの違い。これこそが立ち位置の立ち方の違いというものであり、多分私が一生をかけて考え続けなければならない至上命題だ。

 しかしそれは決して、このような状況で考える問題ではないということは理解している。

「…………え、っと」

 私は頭をグルグルと無駄に回転させていながら、体と口の方はほとんど動かすことが出来なかった。まさに茫然自失の前後不覚といった感じで、もし彼の手を握っていなかったらその場に座り込んでしまっていただろう。足に上手く力が入らず、完全に彼の手に縋りついてやっと立っていられるという状況だ。

 一方で彼の顔に浮かぶ表情は全く動いておらず、何を考えているのか私には分からなかった。何も考えていないのかもしれないし、考えようともしていないのかもしれない。

 それにしても、なんだこれは。いや、状況はあまりにも明白で分かりすぎるほどに分かり切っているのだけれど。意味が分からなかった。分からないというか、脳が理解するのを拒んでいると言った感じだ。分からないことが分からない。まさに無知の無知である。

「はっはー、壮観だなこれは」

 などと彼は呑気に呟いた。壮観なんて適当な表現で片づけていい光景じゃないと思うんだけど、これ。壮観じゃなくて、まさしく惨状で、漂っているものは悲壮感以上の何かだった。

 そして私は思い出す。一昨日、私は『これ』と同じ結末を迎えようとしていたという事を。あの高さから地面に落下するわけだから、私の場合はもっと酷いことになっていた可能性がある。地面に真っ赤な花が咲いて、毒々しく華々しい人生の幕引き。

 なんて私らしい、惨憺たる最期だろう。想像するだけで背筋がざわつく。

「と、とりあえずどうしよう……」

「まずは先生に報告じゃないかな」

「あ、え、そっか……」

「ちょっと落ち着こうよ。慌て過ぎじゃない?」

お前が落ち着きすぎなんだよ。この落ち着き方は、はっきり言って異常だ。これじゃあまるで、アレがこうなることを前から知っていたみたいじゃないか。私にとっては想定外の出来事でも、彼にとっては予定調和の筋書き通りだったとでも言うのだろうか。

 カシャッ。

 突然に鳴り響くシャッター音。私はその瞬間、彼の左手を振り払った。

 何を、何をしているんだ。そんな落ち着いた顔で。カメラのファインダーを覗きこみながら、どうしてお前はそんなことが出来る? この、こんな状況で。そんなの、そんなの普通の人間じゃない。

 彼は別段それを気にした様子はなく、たった今撮った写真を確認していた。

 その顔は、どこか慈しむようで、愛おしそうに、あるいは悲しむように、そして嘆くように、彼は笑って。それから、涙を一筋だけ、流した。

 ようやく差し込み始めた朝日が涙に反射して、その光が私の網膜を焼き尽くした。

気付けば私も、涙を流していた。とめどなく、とめようもなく涙が溢れてくる。色んな感情が濁流となって私の涙腺から滾々と湧き上がってくる。零れだす私の一部が制御不能で、手のひらで拭っても拭っても、それをあざ笑うように流れ続ける。体の底から這いあがってくる叫び声は嗚咽によって堰き止められ、胸の苦しさとなって私の体を痛めつけた。

彼はそんな私の顔をジッと見つめて、何かを決心したように溜息を吐いた。

「…………外に、行こうか」

 彼はそういって、私に手を差し出した。今度は、彼自身の意志で。しかし私は涙を拭うので精いっぱいだったので、その手を取ることはなかった。無言のまま頷いて、それに応える。彼は軽く頷いて私の頭にそっと、差し出していた手を置いた。

「ま、アレは他の誰かが見つけてくれるだろうし。放っておこう」

「…………良いの?」

「当たり前だろ。別に僕らが報告する義務はないしね。最初に僕らに見つかっちゃったアレが悪い。ご愁傷さまだ」

「そっか………」

 ご愁傷さま、という表現が比喩ではなく本当にご愁傷さまという場面に初めて出くわした。出来る事なら出会いたくなかった経験である。無駄な経験値を積んでしまった。

 それから私たちは、ゆっくりとした足取りで屋上に向かった。流し過ぎで枯れ果ててしまったのか、涙はいつの間にか止まっていた。涙が皮膚の表面でパリパリに乾いてしまいとても不快だ。私はそこを、爪でひっかいた。

 彼が屋上に通じる扉を開ける。その開け方は先ほどとは打って変わって、実に静かな開け方だった。ブワッと、外の空気が私を包み込む。朝日があまりにも眩しくて、私は思わず目を細めた。瞳の奥に鈍痛が走る。

 ドアを通り抜け、私たちは再び外に出た。ただし今度は四方を背の低い柵で囲まれた、せま苦しい空間だ。多少の息苦しさを感じながら、私は空を見上げた。宵闇が朝日で柔らかく溶かされ、薄い藍色が綺麗なコントラストを描いている。私はそれをなぞる様に、撫でる様にぼんやりと眺めた。視線を戻すと、彼はアスファルトの床を踏みしめながら辺りを歩き回っているところだった。カメラを構えているので、また写真を撮っているのだろう。本当に好きなんだ、写真。私にはそこまで好きになれたものは今までなかったな。

 好きなもの、ね。私は柵に寄りかかって遠くの街並みを眺めながら、自分の好きなものはなんだったろうかと考える。部屋にある本、近所の猫、食卓に並ぶ夕ご飯、様々なものが頭の中に浮かんでは消え浮かんでは消え、最後には全部消えた。

 特に何も、好きじゃなかった。

「なあ」

 後ろから彼に呼びかけられ、私は驚いて振り返る。それから、しまったと後悔した。この流れだと、振り向いた瞬間に写真を撮られてしまうだろう。

 しかしそんな私の予想を裏切る様に、私の後ろに立つ彼はカメラを構えてはいなかった。代わりに両手の人差し指と親指で四角い枠を作り、それを通して私のことを見つめていた。気障ったらしいその仕草が妙に似合っていて、私は少し悔しかった。

「君の質問に、答えることにするよ」

 彼はそう言って笑うと、両手を下ろした。指の四角から私の姿がフレームアウトする。私は彼の言葉に疑問を投げ返した。

「私の質問?」

「自分でしといて忘れてるのかよ」

「しょうがないでしょ。私は忘れっぽいの」

「だろうね」

 その同意には憤りを感じざるを得ないというか、もう既にブチ切れているが、なんとか押さえつける。それよりも彼の言葉の続きが聞きたかった。

「『貴方は私に、生きてほしい?』」

「…………」

「君は僕と初めて会ったあの時、僕にそう聞いたんだ」

「そう、だったわね」

 そうだった。確かにあの時私は、ほんの悪戯のつもりで、彼にそう聞いたんだった。もしくは名前も知らない誰かさんに、私の背中を押してほしくて。私の不確実で不安定な覚悟に確証が欲しかっただけかもしれない。

「それに僕は、知らないよって答えたんだけど」

「うん」

「本当は違う答えをしようと思ってたんだ」

「そう、だったんだ……」

「君の表情を見てたら、答えを変えちゃったんだけどね」

「私の表情……」

「うん、笑ってた」

 泣いてたけどね、と彼は付け加える。そうか、私はあの時、笑ってたのか。

 我ながら呑気というか、いっそ清々しい程に馬鹿っぽいというか。

 私にしては、なんとも面白い話だった。

「それでね、僕があの時本当に言いたかったのは」

 ここで彼が言葉を切る。そして一呼吸おいて、こう言った。

「『僕は君に、死んでほしいと思ってるよ』」

 きっとその時、彼の虚ろな目は私の姿なんか見ていなかったのだろう。

 きっとその時、彼の閉じた耳は私の声なんか聴いていなかったのだろう。

 きっとその時、彼の前の私は、生きてはいなかったのだろう。

 私はきっと、死んでいた。

「簡単に自分の命を手放そうって人間が、僕はこの世で一番嫌いなんだ」

「…………」

「だから矛盾するようだけど、僕はそんな人間にはさっさと死んでほしい」

 彼の声音は一切の震えがない。それに呼応するように、私の体は壊れたおもちゃの様に震えていた。上手く立っていることが出来ない。もう彼の手を離してしまっているから、膝からくずおれてしまうのも時間の問題だった。視界が右に左に傾き、グズグズに崩れていく。

「だけど」

 もう終わりかと思っていた彼の言葉には、しかし続きがあった。

 太陽を覆い隠していた雲の隙間から朝日が一筋差し込んで、彼の姿を明るく照らす。彼の足もとにはなぜか、影のようなものが見えなかった。だがそれを疑問に思うより早く、彼の口から言葉が紡がれた。

「今の君は、実にカッコ悪く生きようとしてる。悪あがきってこんな感じなんだろうね」

 彼はカメラを構えて、あの時と同じように、私を撮った。

「君は死にたいのか? 生きたいのか? こんなに分かりにくい人間は初めてだ」

「そんなの…………」

 決まってる、という語尾が掠れて消え失せ、空中に霧散していった。バラバラになってしまった単語をなんとかかき集めようとしたけれど、組み上がった言葉は明確な意味を持たない音の集合体に成り下がってしまっていた。

「そんな君に、選択肢をあげよう」

 彼はそう言うと舞台役者の様に大振りに、両腕を高く上げた。瞬間、彼の背後で真っ黒な鴉の群れが一斉に飛び立ち、私の目にはそれが大きな『翼』みたいに見えた。

「君はこれからも生き続けたいかい? それとも」

 私の事なんかお構いなしに、彼の大立ち回りは続く。そうか、そうだった。彼は私なんかとは違う、独壇場の主人公。舞台の端で蹲っているだけの私は、一人芝居の独白を見ていることしか出来なかった。

 飛び立った鴉が喧しい鳴き声を上げ始める。その声は錆び付いた鋸のごとく私の心を容赦なくズタズタに切り刻んでいった。

「僕に命を預けるか。さあ、選べ」

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