一章

私が最期に見たものは、憎たらしいほどに真っ赤な夕暮れだった。

 私の人生は、こんな陳腐な文章で幕を閉じるはずだった。

今まで歩んできた中身も意味もない薄っぺらな人生を、全て凝縮するとこの程度の文章に収まってしまうだろう。収まって、ちょっと空しくなって、それでもどうしようもないから全部を終わらせるしかなくて。そこで私という人間の物語は終幕を迎えるはずだったのに。

カシャッ。

という小気味いい雑音が、私の足を止めた。何もない空中へと踏み出していた私の足は、文字通り宙ぶらりんになってしまった。

「は……?」

 私は想像もしていなかった出来事に、思わず後ろを振り向いた。お昼時ならともかく、こんな時間に私以外の誰かが屋上に来るなんて。しかも、よりによってこんなタイミングで。

 私の口からついて出た疑問は、それ相応の鋭さを伴っていた。

「誰…………?」

「あ、えっと、あの、ごめん……」

 果たしてそこには、小柄な身体に見合わない、大きめの一眼レフを構えた男の子が立っていた。私は思わず眉間に皺を寄せて彼を凝視する。それはもう無遠慮に穴が開くほど、じっくりと。数秒の沈黙が流れ、彼は私の視線に耐えられなくなったのか明後日の方に顔を背けた。

私の心の中では色々な感情が乱れ飛んでいた。誰だコイツは、何が目的だ、私をどうするつもりだ、いやしかし可愛い顔してるな。最後のは完全に余計な私情だが、そんなことを考えてしまうくらいには私の心は混乱していた。

 一方の彼は、時折私の顔色をチラチラと窺っている。その姿が怯える小動物のようで、あまりキツく追及するのも可哀想だなと思いつつ、しかし今の私にそんな余裕はないのだった。

「貴方、誰……? というか、こんなところで何してるの?」

 尋ねながら、それは彼も同じ気持ちだろうと思った。むしろこの言葉は彼から私に投げかけられるのが妥当で、私が言って良い言葉ではない。こんな、放課後の屋上で、フェンスの向こう側に佇んでいる私が、使うべき言葉ではなかった。

 当然ながら、彼からの答えはない。私も最初からそんなものは期待していなかった。それでも、なんとなく、もう一度彼に尋ねてみる。

「貴方、名前は?」

「……名前なんて、この際どうでもいいと思わない?」

 躊躇いがちに呟いた彼の答えは、私の想像していたより遥かに棘があった。どうでもよくないだろう、と憤慨しかけたが、ふと思い直す。

 今更、知らない誰かの名前を知る必要が、果たして私にあるのだろうか。これまでもこれからも、私だった過去と私になる未来も、全部捨てようとしている今。目の前に立ち尽くしている人間の名前を知ることは、私にとってどんな意味を持っているのだろう。

 確かに彼の言う通り、どうでもいいことだった。

「そうね、どうでもいい……」

「だろ?」

 彼は得意げな表情を浮かべてそう言った。先ほどまでの態度と打って変わって勝ち誇ったような態度を取る彼に、私は少しイラッとする。このイライラを解消しないままこの世を去ってしまったら、確実に未練に引っ張られ三途の川で溺れ死ぬ。完全にオーバーキルだ。踏んだり蹴ったりも良い所である。

 そこで私は、質問の趣向を変えることにした。

「それ、貴方のカメラ?」

 私は彼の胸元を指さしながら尋ねる。彼は軽く頷きながら微笑んだ。

「そうだよ」

「良いカメラね。よくわからないけれど」

「ずいぶんと適当なことを言うね」

「あれ、気に障った?」

「別に」

 彼は不貞腐れたように顔を背けた。私はその様子を見ながら心の中でガッツポーズする。これで勝負は五分五分だ。なんの勝負かは分からないけれど。

「シャッターの音が聞こえたみたいだけど、写真を撮ったの?」

「うん」

 彼は少し自慢げに、肩にかけていたカメラを手に取り私に見せる。カメラを持つ彼の顔はとても楽しそうだった。まるで草むらで取った昆虫を自慢する小学生の様に、キラキラと輝いている。あんまり楽しそうにするものだから、私は思わず噴き出してしまった。

「なんで笑うのさ」

「ううん、なんでもない。それで? さっきは何を撮ったの?」

 私の足を止めたシャッター音。あの時彼は何を撮ったのか。どんな景色を切り取ったのか。

 彼は恥ずかしそうにした後、恐る恐るといった感じで私を指さした。

「君の、写真を」

「……わ、私の?」

 私は思わず素っ頓狂な声を上げる。私の写真を撮ったのか? わざわざ、何の絵にもならない私の姿を? 数秒後にはもう『人』ではなくなる私を? 考えただけで恥ずかしい。やめてくれ、そんなこと。第一、撮られてしまったのはよりのもよって一番撮って欲しくない瞬間だった。

「なんで私の写真なんか……」

「いや、なんか凄く、綺麗だったから……」

「綺麗……?」

 彼の言っていることが一ミリも理解できなかった。私のどこを見て綺麗だと思ったのだろう。少なくとも私と彼の立場が逆だったら、私は絶対に彼の写真なんか撮らないだろう。そんな人間をカメラに収めるくらいだったら、カメラを叩き壊した方がいくらかマシだ。

 私はため息を吐いて視線を前に戻した。夕日はやっぱり赤色で、瞼を下ろしても赤色が目の中に染み込んでくる。ジワジワと目の中が熱くなっていって、血のような涙が一筋零れた。

私はこの時点で、彼に対する全ての興味を失っていた。私の命を先延ばしにしていた彼への関心は遠く彼方へと消え去り、後に残ったのはほんの少しの後悔だった。

「よく分からないけど、もういいや。目を瞑っといた方が良いと思うよ。人が死ぬところなんて見たくないでしょ? それとも、その場面もカメラで撮ってみる?」

「…………」

 彼は答えない。もういないのかもしれなかった。それならそれで好都合だ。これでようやく、一人で静かに終わりを迎えられる。

 ようやく、ようやく。

 一人で静かに、というのは私が普段から第一としている信条であった。なるべく誰とも関わりを持たずに、一人でひっそりと生きていく。そのための努力は惜しみなくしてきたつもりだった。誰にも干渉しないし、誰からも干渉されない。そんな日常が私の理想だった。

だが意外にも、世界は私のことが大好きだったようで、そんな小さな願いは叶うことはなかった。いや、この場合は世界に嫌われていたと形容した方が正しいのかもしれない。とにかく私は、一人で生きることなんて出来なかった。無論、人間は一人の力では生きられないとか、そういうつまらない妄言の類でもなく、勿論良い意味でもない。言葉通り、私の生きる世界は私のことを放っておかなかった。現実のしがらみは私を雁字搦めにし、鎖の如く私の首を絞めつけた。

端的に言ってしまうなら、私はいじめられていたのである。こんな言葉で片づけてしまうと随分味気ない感じがして嫌なのだが、こればっかりは真実なのでどうしようもない。

今となっては既にテンプレと化してしまった類のいじめは、大抵全て経験してきたつもりだ。新調した靴はその日のうちに姿をくらましたし、トイレに籠れば滝に打たれるし、殴る蹴るの暴行は朝飯前で、机の上はキャンバスの様に色鮮やかな罵詈雑言で彩られていた。

 不運にも私が生まれ落ちてしまったこの世界には、もしかしたら、望んだものを与えず望まぬものを押し付けるというシステムが存在しているのかもしれない。そう考えてしまう程度には、私は恵まれていなかった。少なくとも、私の主観的な感想では。

 だからと言って、私が死のうと思った直接的な原因はこんなありきたりなものではない。いじめられている人間なんてものは、集団の数だけ存在しているし、つまりはありふれている。ありふれていて、溢れかえっている。その事実を私は理解していて、だからこそ私は自分が悲劇の中心にいるなんてことは一度も考えたことがなかった。

 私が考えていたことはたった一つだけ。

 『面白くない』

 この一言に尽きた。

 この一言に尽きて、私の人生に対する興味は尽きた。枯れ果てた、と言っても良い。

 面白くない、面白くない。これしか考えられなくなって、これ以外の考えがなくなったとき、私は選択肢の一つとして『死』を選んだのだった。自分の人生に幕を下ろし、文字通り現実から逃避することを決意したのだった。

 これが事の顛末。

私という物語のくだらない結末。起承もなければ転結もしない、一人の終末だった。

「あのさ」

「……まだいたの」

 本当に、いちいちタイミングの悪い奴だ。人が頭の中で気持ちよく人生のエピローグ的なものを語っている最中に邪魔をするんじゃない。私は意外と形を気にするタイプなんだぞ。特撮番組でヒーローの変身中に攻撃してくる敵キャラはいないだろう? それと同じくらいタイミングと礼節を弁えていない。

 そんな私の怒りを彼は知る由もなく、呑気に些細なお願い事をしてきた。

「もう一枚だけ、写真を撮ってもいいかな?」

「はぁ?」

 ふざけているのかこの男は。それとも私をバカにしているのか。どちらにせよ私の癇に障る。一回ぶん殴っておいた方が良いのかもしれない。しかしぶん殴ろうにも、私と彼の間には背の低い柵が立ちふさがっているのだった。これを超えない限り、超えて戻らない限り、私と彼の距離が縮まることは永遠にない。

「綺麗なんだよ。凄く。夕日と、街灯に照らされている街並みと、それと君の後姿が」

「…………」

 彼は私に構わず、独り言のように譫言のように語り続ける。壊れたオルゴールの音色みたいに、私の頭では一つ一つが理解しきれなかったけれど、それでも彼がなんとなく楽しそうなのは分かった。

「一つ一つじゃダメなんだ。どれか欠けても味気ない。今が、なんというか、完璧なんだ」

「……変なヤツ」

「なんとでも言ってくれ。とにかく僕は、今、この瞬間を撮りたくて仕方ないんだよ」

「撮ってもいいけど、有料よ」

「金なんて要らないだろ。いつ使うのさ」

「貴方、最低ね」

「知ってる」

 ははっ、とお互いに笑い合う。私は確信した。彼は間違いなく良い人間じゃない。どちらかというと悪い人間だ。何がって、主に性格が。まだ出会って数分だけど、間違いなくこの男は性格が悪い。しかも、それを隠そうともしない。それがなんだか清々しくて、私は一周回って彼のことを気に入り始めていた。尽きていたはずの興味が、新しいベクトルを得て復活の兆しを見せている。私は今、彼のことが知りたくて堪らなかった。

 しかし、私はある程度の覚悟を固めてこの柵を乗り越えている。今更柵の内側に、一度さようならをした私の世界に戻るなんて、とても決まりが悪い。後味が悪い。別に死ぬのが怖いとか、意地を張っているとか、そういう問題じゃない。要は恰好が悪いというだけの話だ。

 だから私は再び、彼に問いを投げかける。

「ねぇ、写真撮らせてあげる代わりに、一つ質問に答えて」

「いいよ」

 そう言って彼はカメラを構えた。撮る気マンマンかよ。突っ込む様な空気じゃなかったから言及はしないが、やはりその態度は気に入らない。

私は大きな深呼吸をして、言葉を紡いだ。

「貴方は、私に生きてほしい?」

 カシャッ。

と、シャッター音が響き渡った。

 彼はカメラを下ろして、私の目をじっと見つめる。彼の瞳には、温かい夕日が小さく灯っていた。私と違って、彼の目から涙は流れていない。彼はファインダーから目を離し、ニッコリと微笑んで、答える。

「知らないよ、そんなの。君が生きたければ、生きればいい。僕に責任を押し付けないでくれ」

「…………ふふっ、貴方は絶対にぶん殴るわ」

 私はひとしきり笑ってから柵を飛び越えた。飛び戻ったと言った方が正しいのか。どちらにせよ、私は彼をぶん殴るまで死なないと決意を新たにした。

「あーあ、なんか普通になっちゃったね。綺麗だったのに、残念」

「貴方本当に性格悪いわね。三発くらい殴らせなさい」

「君に言われたくない」

 私は右手を固く握って、彼に向かって走り出す。私の本気を察知したのか、彼はカメラを抱えて逃げ出した。こんな状況なのに、私も彼もバカみたいに笑顔だった。

 たぶん本当に、バカなんだと思う。


                    §


 思い返せば、全力疾走をしたのなんて十年ぶりとかそんなレベルだ。その十年の間に私の足腰は完全に老朽化が進んでしまったらしい。ついでに筋肉とかスタミナとかも単身赴任で何処かへ出張してしまったようだ。私と彼の追いかけっこは数分も持たずに収束を迎えた。走るのが苦手なのは彼も同じようで、二人して廊下に倒れこんでしまった。幸いなことに校内にはもう誰もいないようで、地面で無様に倒れ伏している姿は誰の目にもとまることはなかった。こんな姿を見られてしまっては、いじめのネタが増えてしまいかねない。苦痛ではないが、ただひたすらに面倒だ。もうそんなのには飽き飽きしているんだ私は。

 しばらくの間、息を整えつつ天井を見上げていた。あまり手入れがされていないのか、天井には茶色いしみが大きく広がっていたが、どこか風情を感じさせるものであった。たかがシミに風情もへったくれもないはずだが、極限の疲労状態では空気中のホコリにさえ世界の奇跡を見出すことが出来る。人間とは得てしてそんなものだ。

「まさか……本当にぶん殴りに来るとは……」

 彼が息も絶え絶えに抗議の声を上げている。私はそれを無視した。無視せざるを得なかった。正確を期するなら無視ではなく、普通に喋っている余裕がなかった。今言葉なんかを発しようものなら、酸欠で絶命する自信がある。まだ死なないと数分前に決意したばかりだ。

「君も大概……変な奴だな……」

 よく言われる、と頭の中で言い返す。変な奴。うん、悪くない響きだ。何度聞いても心地良い。一般的で没個性の普通人間と評されるよりかは数千倍マシだ。打たれる運命にあるとしても、私は飛び出た杭でいたい。しかし悲しいかな、私は飛び出た釘になることも出来なかっただけでなく、飛び出てないのに執拗に打たれていたのだった。

 ようやっと、息が整い始める。喋る余裕も出てきた。ただ余裕はできたものの、今度は話題が消え失せた。元来私は人と喋ることを得意としていないので、こういう状況で何の話をしたらいいのか、とんと見当が付かない。結果、私は無言のまま天井を見上げるしかなかった。不覚である。主に前後が。

「死にそうになってるところ悪いけど。僕は帰るよ……」

 そう言って彼はゆっくり立ち上がった。私はなんとか這いずり寄って彼の足首を掴んだ。その行為に大層驚いたのか、彼は小さく悲鳴を上げる。おい、人を妖怪か何かと勘違いしてないか。私を穢れた化外と一緒にしないでくれ。心は汚れているけど、私は立派な人間だ。

「な、何さ……」

「名前を、教えなさいよ……貴方をぶん殴るまで、死なないから……」

 今度こそ、彼の名前を聞き出す大義名分を得ることが出来た。私は勝ち誇ったような顔を浮かべながら、彼の顔を見上げる。

「怖い事言うなぁ……仕方がない、教えてあげるよ」

 彼は苦笑いを浮かべながら、その名を名乗った。

 ―――――――。

「随分と変わった名前ね」

「本名とは限らないさ」

「本名を教えなさいよ、偽名とか普通にキモい」

「偽名とも限らないだろ」

「どっちよ……」

 本当に、捉えどころのない男だ。本人としては捉えられたらたまったものじゃないと思うが。それにしても、なんだか不思議な名前だ。偽名にしても、もう少しまともな名前を考えられなかったのだろうか。本名だったら親を怨むべきだ。

「じゃあね。また、いつか」

「覚えてなさいよ。絶対に貴方を捕まえるから」

「あー怖い怖い」

 ケラケラと笑いながら、彼は重い足取りで立ち去った。私は徐々に小さくなっていく彼の背中を見送りつつ、太ももの鈍痛に顔を顰めるしかなかった。これは確実に筋肉痛になるだろう。果たして私は明日、登校できるのだろうか。そもそも今日これから歩いて帰れるのかさえ怪しかった。

「でさー…………あれ」

 しばらく廊下に倒れたままになっていたら、遠くの方で話し声が聞こえた。反応から察するに、私の存在に気付いたようだ。もう校舎には誰もいないと思っていたのだが、それは私の希望的観測に過ぎなかったようである。しかも、どこかで聞いたことのある声音だった。嫌な予感がする。予感というよりは、予言に近いものだったが。

「あれ、あれあれー? 誰か倒れてると思ったらー」

 気持ちの悪いハイトーンな声が私の方に近づいてきた。この学校の生徒で、私の存在を知っていて、かつこの姿を見て『嬉しそうな声を出せる人間』は限られてくる。名前は寡聞にして存じ上げないが、恐らく私を虐めている連中の一人だろう。残念ながら私の認識の外にいる人間なので、連中の一人とは言ってもそれぞれに区別がついているわけではない。ゲームやアニメで通行人Aと通行人Bの区別がつく人なんていないのと同じだ。彼らはそう、私にとっては人生という舞台における置物にしか過ぎず、脇役でさえないのだ。いてもいなくても同じ、下層も下層の最下層に位置する人種である。

 しかしそれは残念ながら、私も全く同じだった。

「××××じゃーん。元気ぃ? あ、元気なわけないかー」

 ××××というのは内容から察するに私の呼び名らしい。連中が私を指して呼びかけてくる名前はコロコロ変わるため、私はいちいち把握していなかった。そんなセンスのない名前、覚えた端から脳みそが腐ってしまう。私は自分の体を無駄に傷つける趣味はない。無駄に、というところが重要で、別に傷つけないとは言っていないところがポイントである。

 私の身体は、人から傷つけられている以上に、ボロボロだった。

「ねぇねぇ、こんなところでなにしてんの? そんなに床が好き?」

 いやしかし、人が廊下で倒れている姿を見て、よくもまぁこんな言葉を投げかけられるものだ。人を痛めつける嗜虐心と、他人より上に立っているという優越感は人間をここまで歪めてしまえるものなのか。いっそ感心するばかりである。

 人を痛めつけられる立場にいられる安心感と、他人より上に立ってなくてはいけないという強迫観念に追い立てられている可能性も捨てきれないが。

「おい、無視してんじゃねぇよ! ゴミのくせによぉ!」

 おいおい、今度は逆上し始めたぞ。この女、頭に何か別のものが詰まってるんじゃないのか。もしくは何も詰まってないかの二択だ。私は何も言わずに目の前の女に冷ややかな視線を送った。

「あ? 何その目。ムカつくんだよ!」

 言うが早いか、彼女は私の脇腹を思い切り蹴り上げた。予想外の攻撃に私は対処しきれず、ダメージがもろに内蔵へと浸透していく。こみあげてくる吐き気と、冷汗を伴う鈍痛が全身を駆け巡った。彼女の抉るようなキックは一度では終わらず、私のうめき声を無視して二発目、三発目を脇腹に突き刺さしていく。内臓が破裂してしまったら先ほどの決意は水の泡になってしまうので、私は必死にお腹に力を込めた。

「おらおら、なんか言ってみろよ」

 この女、気でも違っているのか。ニタニタとヒキガエルを捻り潰したような笑顔を浮かべつつ、彼女は私の腹部に足をのせてグリグリ踏みつけてくる。痛いなぁ、やめてくれよ本当に。制服も汚れてしまうじゃないか。洗濯するのは私じゃなくて、お母さんなんだぞ。

 はぁ、と深いため息が口から漏れ出た。

 本当に。

 本当に。

 心の底から、くだらない。

 面倒だ面倒だ面倒だ。つまらないつまらない、本当に面白くない。

 私の命に価値があるとは言えないけれど、こいつらの命に価値が無いという事は断言できる。少なくとも私にとっては一銭の価値もない。価値が無いどころか、彼女たちはいわば借金のようなものだ。言葉を交わしただけで負債が発生し、関係を持った瞬間に破産が確定だ。

 せっかく、彼と言葉を交わして楽しくなっていた所なのに。ぶち壊しにしやがって。価値も無ければ質も悪い、こんな『ゴミ』のせいで。私にはそれが許せなかった。

 もう、いっそ終わりにしようか。

「足をどかしてよ、このゴミ野郎」

 私はそう言い放ち、彼女の足を掴んで思い切り転がった。突然の反撃に反応しきれなかったのか、彼女はそのまま勢いよく転ぶ。転んだ勢いが殺せなかったのか、顔面を床に強打していた。今こそ私は、さっきの言葉をお返しするべきだろう。私は朗々と、明朗軽快高らかに決別の言葉を吐き捨てる。

「こんな所で何してんの? そんなに床が好き?」

私は痛む足に鞭打って立ち上がり、近くの教室に入った。目的は武器の取得。目標は、そう。

 椅子だ。

「は……?」

 そりゃあ、顔をあげたら目の前に椅子を構えている女が立っていたら、誰だって呆気に取られるだろう。私は教室にあった椅子を振り上げて、彼女の前に仁王立ちしていた。

「な、何を」

「バイバイ、さようなら」

 私は構えていた椅子を、思い切り振り下ろした。彼女の腹部めがけて、手加減なく。

 ボコッ、という面白いくらい軽い音と共に椅子が彼女の腹部にヒットする。彼女は悲痛なうめき声をあげてその場に蹲った。液体が流れる音がしているから、もしかしたら嘔吐しているのかもしれない。そんな彼女の姿を見て、私が抱いた感想はたった一つだった。

 ざまあみろ。

 彼女の後ろに控えていた取り巻き共は、命の危険を感じたのか青ざめた顔で退散していく。どうやら、それくらいの判断力と理性は残っていたらしい。私は素直に驚いた。あんな知性と理性を耳から垂れ流してどこかに放置してきてしまったような連中でも、自分の体は大事らしい。滑稽なものだ。なんの冗談だ、まったく。自分の体の大切さを理解しているのなら、私の身体も同様に私にとって大切だという事が、どうして分からないのだろう。

「もう私に関わらないでね。面倒だから……いや」

 前言撤回。手放した言葉を回収する。錬成された文章を、改行して改変して改悪して。言葉に思いの丈を乗せて、今度は言葉で目の前のゴミを殴りつける。

「全然、面白くないから」

 私は椅子を放り投げ、その場を立ち去った。廊下に響き渡る金属音は、ほんの少しだけ耳障りだった。


                   §


 最悪の気分だ。全身は筋肉痛だし、重いものを振り回した影響で両腕が痺れている。私はベッドに顔を埋めて低く唸った。

 帰宅した私が一番最初に取った行動は自室のベッドにダイブすることだった。自前の足で立って何かしらの行動を起こす気力は、もうゼロである。そんな気力は学校で使い切ってしまった。それが勉学に対するものであるなら私は相当に優秀で優良な学生なのだろうけど、残念ながら気力の対象は一種の無意味な破壊行動で消費されてしまったのだった。チンピラか何かか私は。自分でもそう突っ込まざるを得ない、なんとも悲惨な惨状だ。

 全く、なんて面白くない。

 ほんの数分前に「ご飯よー」という声が階下からした気もするが、私の鼓膜は酷く怠け者のようで、その意味合いを正確に脳まで届けてくれはしなかった。そしてたった今、爆音を立てながら誰かが階段を上がってくる気配がしているが、それもきっと私には関係のない事なのだろう。いっそこのまま眠ってしまおうか。そうだ、それがいい。私は瞼を閉じて、生ぬるい暗闇の中に意識を「さっさと降りてこい、このバカ娘!」脇腹にキックがヒットした。

「おげふっ……」

 カエルを踏み潰したような声が漏れた。肺の空気が逃げ場を探して口から吐き出される。私を蝕む痛みが新たに一つ追加された。学校で蹴られたのと反対側の脇腹へのダメージ。私にはそういう、痛みを蒐集する趣味はないんだけど。

「ご飯できたって言ったでしょ! 冷めちゃうから早く降りてきなさい」

 脇腹キッカー、つまるところ私の母は冷めきった視線を娘である私に向ける。ご飯が冷めることは気にするのに視線は冷めているなんて、ちょっと矛盾していて面白い。が、それを笑う余裕は私にはないのだった。

「動けない。無理。死ぬ」

 単語レベルでの意思疎通を試みる。血を分けた親子なのだから、これだけで私が何を言いたいか理解できるだろう。

「はぁ?」

「あ、ごめんなさい」

 何を言いたいかは理解してもらえたようだが、悲しいことに返答も単語レベルだった。私も母が言いたいことを理解する。つまりは、そういう事ですねお母様。

「下で待ってるから。早く降りてきてね」

「あい」

 私はヒラヒラ手を振って応じる。母は言葉通り私の部屋から出て行った。

 私は色々な場所に手をつきながらなんとか立ち上がり、母の後を追うように部屋から出る。廊下はなんとか歩けたが、階段を前にして私の歩みは止まった。どうしよう、今の状態では『転がり落ちる』という選択肢しか思いつけないのだけど。これは決して私の思考力が貧困すぎるからではなく、しいて言うなら私の体が貧弱だからだ。

 手すりに掴まり、なんとか一段目を降りる。その瞬間、太ももで鈍痛が蠢いた。歯を食いしばって、どうにか耐える。これ、意図的でなくとも階段を踏み外して転がり落ちてしまいそうだ。さすがにそれはシャレにならない。冗談じゃない、という感じだ。

 そこからさらに数分かけて、ようやく私は一階に辿り着くことが出来た。一応成功なので僥倖と言って良いのかもしれないが、母の般若のような形相を見て、私の心は戦々恐々である。

「早く、席に着きなさい?」

 意味深に挟まれた句読点と疑問符に、私は伺いたてるような作り笑顔を浮かべることしかできなかった。でへへ、と不気味な笑い声が出てしまった。

「アンタどうしたのよ。随分と満身創痍だけど」

 沈黙だけが支配する食卓で苦行のような食事を続け数分のち、母が私に声を掛けてきた。怒りが冷めたようだ。良かった良かった、私の肝が冷え切るところだった。ちなみにご飯は冷めていた。

「ちょっと、学校で色々あって」

 私は言葉を濁す。当たり前だ。学校で自殺しようとしていたところをカメラで撮られて、そいつを追いかけていたらイジメっ子と邂逅し椅子でぶん殴ってきたなどと、親に報告できる人間がどこにいるというのだ。そんな人間がいたら、相当に頭がぶっ飛んでいる。

 だから、色々。

 陳腐な言葉に、ちんけな出来事を沢山詰め込んだ。

「そう……」

 母は理解してくれたのだろうか。十中八九理解はしていないのだろうけど、なんとなく分かっていて欲しかった。伝えなかった、伝えられなかった言葉が届くはずもないが、それでも、なんとなく。これは私の自分勝手なエゴだ。

 晩御飯を食べ終え、私は食器を片づけて自室に戻った。小学校の時から使っている学習机に向かいつつ、私は思案に耽る。確か明日は数学の課題プリントが提出期限だったはずだ。しかしそんなプリントは当の昔に破り捨てられてしまったので、提出できるはずもない。加えて、プリントのコピーを頼めるような友人は私にはいないのだった。これが所謂チェックメイトというやつで、私は今から数学教師になんと言い訳をしようかと考え始めていた。実に茶番だった。

 椅子を軋ませつつ、私は背伸びをして後ろに仰け反った。微かにくすんでしまった天井が視界に映る。学校の天井とは違って風情もクソもない、ただの天井だった。

 きっと。

 屋上で見た空がこんな面白くない景色だったなら。

 私は何の躊躇いもなく、何に足を止められることもなく、死んでいたのだろう。

 そう考えると、自然と口角が上がってしまうのだった。結局私は、柄にもなく最後の最期で余計なことを考えてしまったのだ。だからこそ、あんなイレギュラーが起きた。予測もつかない不測の事態。

 彼は一体何だったのだろう。何者、とかではなく単純に『どんな存在なのか』が私には分からなかった。第一印象としては、単なるコンピューターの不具合で生み出された奇怪なバグという感じなのだが。恐らく、大方間違っていないのだろう。この程度のバグは、日常茶飯事に誰でも起こっていることだ。

 例えば、急いでいるときに限って電車が遅延したり。

 例えば、旅行に行く日に限って天候が荒れに荒れたり。

 例えば、好きだった人が事故であっさり死んでしまったり。

 その程度の、当たり前の些事なのだろう。私は、そういう風に割り切ることにした。

 現時点での私の切なる願いは、出来ることならもう一度彼に会いたい、それだけだった。この思いが何を動機としているのか、自分でもいまいち分かっていない部分もあるが。

「なんだよそれ…………」

 出所不明の動機とか、根拠不在の自信よりも不確定で恐ろしいじゃないか。それはもはや、重度の精神病患者のそれと同じである。精神の方は健康優良児だと勝手に思っていたのだが、どうやらそれは私の勘違いだったらしい。

 さてと。

 さっきからドアのノック音を無視していたのだが、それも無視できない段階になってきていた。初めはキツツキが木を叩いている程度の威力だったのに、今やゴリラのドラミングもかくやというレベルである。そろそろドアが粉微塵になる。というか、部屋にいることが分かっているなら普通に入ってくれば良いものを。どうしても私の返事が欲しいらしい。吸血鬼か何かかお前は。私は椅子から立ち上がり、ドアの方へ向かう。

「はいはい、何ですか? うるさいなあ……」

 頭を掻きながらドアノブに手を掛けた。同時に扉『が』思い切り『開いた』。あれ、扉を思い切り開く予定だったんだけど。

ちなみにこの部屋のドアは内開きだ。これだけ伝えればあとは分かってもらえると思う。

「あぶぇっ!」

 顔面が潰れた。見事なまでに扉が顔面に叩き込まれ、おでこが熱源体に早変わりした。鼻から何やら生暖かいものが流れてくるのが分かる。おいおい、この家には私に身体的ダメージを与えるヤツしかいないのか。

「あっ、ごっめーん。まさかいるとは思わなかったー」

 わざとらしい口上を並べ立てて私の部屋に入ってきたのは、私の妹だった。私は床に蹲りながら、妹を睨み付ける。しかし妹はそんな視線を意にも介していないようで、私の本棚を物色し始めた。おいおい、待て待て。

「強盗か何かなのか、妹よ」

「そうだよ」

「ええ……」

 そうらしい。ならば私は今すぐにポリスメンを呼ばなければならないのだが、身内から逮捕者を出すわけにはいかない。そもそも妹は中学生なので、例え捕まったとしても少年法という最強の盾がある。私は鼻を抑えて睨むことしかできないのだった。妹は本棚から数冊の本を抜き取ると、憎たらしい笑顔を私に向ける。クソ、それは当てつけのつもりなのか。

「じゃ、借りていくね」

「待て、前に貸した分を返してからにしなさい」

「嫌です」

「そうですか……」

 そこまでキッパリ断られてしまうと、強く言えなくなってしまう。押しに弱いという事が私の弱点である。こんなやり取りも、もう数えられないほど繰り返してきてしまった。その結果、私の本棚に入っていたはずの大量の本は、半分が妹の部屋に略奪されたままとなっている。きっとしばらくは帰ってこないのだろうと考えると、どうしようもない悲しみに襲われた。

 妹が今手にしているのは、私のお気に入りの本だった。言い回しが回りくどいことで有名な作家の本を数冊。あとで読み直そうと思っていたのだが、それは夢のまた夢となった。

「じゃ、読み終わって満足したら返すから」

 満足したら、という条件がクリアされるのは一体いつのことになるのだろう。私は悠久にも等しい時間に思いを馳せ、あとおでこの痛みのせいで涙を流した。九割がた痛みのせいだった。

 バタン。

 無慈悲に扉が閉められる。来るときも唐突なら、去る時も突然だった。嵐のようなやつだなあ、なんて訥々と考えたが、想像力のなさに閉口してすぐにやめた。

 とにもかくにも、鼻血が止まらないという問題をどうにかしなければならない。鼻を抑えていた掌は既に真っ赤に染まっていた。とりあえずティッシュを、と思って机の上を見たがそんなものは姿形もなかった。うーむ。おかしいな、昨日までは机の上にあったはずなのに。

 しばらく悩んでいたが、私の視線は自然と机の横に放置されている通学用カバンに向いた。僅かばかりに残された私の良心が、視線を他に向けようとしてくる。しかし時間に猶予はなかった。虚弱体質に貧血を配合した私の弱すぎる体では、今の出血量は不味い。早くも頭が痛くなってきたので、そろそろ気絶する可能性がある。血を流しながら床に倒れている私の姿を家族の誰かが目撃したら、どんな反応をするんだろう。

 多分、気絶した人間が二人に増える。

「うん、致し方なし」

 カバンを開け、中から適当なプリントを掴みだして鼻を抑えた。白かったプリントたちはみるみる間に真っ赤に染まっていく。血塗れになる積分定数や読まれることのなかった評論文を眺めながら、私の胸に去来したのは悲しいほどの空しさだった。

 まぁ、多分今後も使うことはないだろうし。使う時が来たとしても、きっとその時までには盗まれるか捨てられるか破られるかしていると思う。持っていてもしょうがないから、むしろ今使われた方がプリントも幸せだろう。

「うあ…………止まったかな」

 鼻からプリントを離して様子をみる。生暖かい感触は消えたので、どうやら正常に止まったようだ。血でビシャビシャになったプリントをゴミ箱に放り込む。ベチャッという汚い音は聞かなかったことにした。

 一つ大きな深呼吸をする。それからフラフラ立ち上がって、窓の方を見た。

 外はもう暗く沈んでいて、光を反射するようになっていた窓には、薄らと私の顔が映りこんでいた。血色の悪い不健康そうな顔つき。常に半開きのような目つきは、まるで何かを睨み付けているようで、今はその対象が私自身だった。本当に、笑えないくらい気持ちの悪い最低最悪な私の姿が窓に映っていた。

 私だって、望んでこんな風になったわけじゃない、はずだ。

敢えて断言を避けたのは、この現状がどうしようもないくらいに現実で、因果関係によって雁字搦めにされた逃げようもない結果であるからだった。そこに私の望みの有無は一つも関係ない。望んだからこうなったとか、望んでいなかったのにこうなったとかは、後付けの言い訳に過ぎないのである。望もうが望むまいがこうなっていたのだろう。

 それにしても。

 ここまでの仕打ちを受けるような罪を、私は犯した覚えがない。この仕打ちを罰と捉えるなら、という前提ありきだが。もしもこれが罪の代償としての罰でないなら、それはまことに救いようがない。たまたまの偶然だという言葉で片づけられてしまったら、私は胸中でさえ世界に対して反旗を翻すことすらできないだろう。

 誰も救ってくれないからこそ、否、誰にも救えないからこそ、私はせめて心の中では世界に牙をむいている。なのに、それさえも出来ないようになってしまったら、私という存在はその時点で終わりを迎える。

 だからこそ。私は今日、あの屋上で終わりを迎えるはずだったのだ。

「……ひっでぇ顔」

 私は両頬を掌で強く叩き、目を塞ぐようにカーテンを閉じた。外の景色も自分の顔も、同時に見えなくなる。これで、明日の朝が来るまでこの部屋は完全に閉じた空間だ。私にはこれくらいが丁度良い。閉じこもって、光を嫌って、闇に嫌われて。どっちつかずの優柔不断な私には、およそ相応しい場所というものが分からなくなっていた。

 時計を見て時刻を確認する。二十時を少し回ったところだった。まだまだ眠る時間ではないが、なぜか強烈な眠気が私の瞼を押し下げ始めた。落ち着け私の瞼よ、今ベッドに飛び込むから。

 倒れこむようにベッドに寝ころんだ。多少ホコリが舞い上がって鼻がムズムズする。だがクシャミなんてしたら眠気が吹き飛びそうだったので、すんでのところで我慢した。

 今日はとてつもなく疲れた。疲れすぎた。今日は早めに寝てしまおう。

 私はカメラのシャッターのように一瞬だけ、目を閉じる。

 それだけで十分だった。

 格好悪く生き残ってしまった世界の景色は、私の頭に写し撮られて。

そして刹那の後に暗闇に包まれた。


                   §


 やたら騒がしい鳥の声で私は目覚めた。朝になると私の家の周辺では鳥たちの談合が行われるらしく、私は毎朝その喧騒に叩き起こされるのである。しかし、今日はいつもとなんだか鳴き声の種類が違うような。普段なら朝に相応しく清々しい鳴き声なのだが、今は非常に下品というか、もっとはっきり言ってしまうならカラスの姦しい声がする。

 なんだなんだ、あの清涼な声の持ち主たちは真っ黒な集団に追い出されてしまったのか。それはそれで少し寂しい。

 などと考えつつ、私の視線は壁掛けの時計そこ一点に注がれているのだった。

 現在時刻、十時三十七分。

「……っかー!」

 受け入れられなかった現実を認識した瞬間、私の口からはカラスの鳴き声のような奇声が発せられていた。これはまさに世間一般の言葉で言うところの、そして学校規則に書かれた言葉を拝借して言うところの、遅刻というやつだった。どう考えても遅刻で、例え私がこの場で逆立ちをしようとも、揺るぎなく遅刻だった。

 今まで遅刻なんてしたことなかったのに。学校生活はともかくとして、体面上と書類上では勤勉にして優秀な生徒であるところの私が、ついに遅刻。これで晴れて有象無象の不良に仲間入りである。しかし私はその不良たちに嫌われているので、不良に仲間入りというか不良品に成り下がったという方が正しい。

 いやいや良く考えろ、元から不良品だったじゃないか。失念していた。失敬。

「まぁ、いいか……」

 一度くらい遅刻したところで、何かが変わるわけでもない。むしろ今まで一度も遅刻したことが無かった方が異常なのだ。何が悲しくて、わざわざ自分が不利益を被る空間に時間通りに行かなくてはならないのだ。私は変態か。被虐趣味の変態なのか。

 いやしかし、本当に何故だろう。客観的に見て非常に謎だ。なぜ私は毎日凝りもせず、性懲りもなくちゃんと学校に行っていたのだろう。いじめられに行っていたわけでは勿論ないが、だからといって勉強が好きだからとか青春したいからとか、そういう理由でもない。

別に勉強は人並みに嫌いだし、青春出来る余地なんて一つもなかった。勉強するための教科書は接着剤で頑丈に固められていたり、カッターで切り刻まれていたりするし。青いのは春ではなく、私の腹部の痣だし。散々も散々、惨憺たる残念の寄せ集めみたいな学校生活だった。

じゃあ、なんでだろう。

 好きな子がいたから? いやいや、私はクラスメイトが全員嫌いだ。憎くてしょうがない。あんな加虐趣味の変態と観測者気取りの傍観者とそれ以外のゴミしかいないようなクラスメイトのどこに、好きになる要素があると言うのだ。

 それじゃあ、学生は学校に行かなければならないという腐りきった常識に縛られていたからか? それも違う。私の中に学生としての義務感なんてこれっぽっちも存在していない。強いて言うなら不真面目な行為を教師に咎められて、説教を受けるのが面倒というのが挙げられるが、それも決定打とは到底言えない。

 その時ふと、私の脳内にあの男の子の顔が浮かんできた。

「………ああ」

 嘆息交じりに、私の口から力ない声が漏れ出した。思いついてしまった。思い当たってしまった。私が無意識のうちに学校へ毎日通っていた、その理由のようなものを。私の根本的な行動原理を。分かってしまえば実に単純なものだった。単純で明快で軽快で、それでいて実に軽薄な、私の中のアルゴリズム。

 要するに私は、ただただ夢を見ていただけだった。身の丈に合わず、身の程も知らない私は、ありとあらゆる希望的観測を全て失ってもなお、夢を見続けていたのだ。

 起こる筈も無い、奇跡みたいな日常の変革を、ただひたすらに待って、待ち続けていたんだろう。鬱屈とした毎日の破壊を、まだ見ぬ誰かさんに望んでいたのだ。白馬の王子様がキスで助けるのはお姫様だけだというのに、私は一体何を勘違いしていたのだろう。表面上は諦めきって、達観していたつもりのこの私は、結局のところ何からも手を離せずにいたという、単純な結論だった。これならば、今日人生で始めて寝坊したことにも一応の説明がつく。

私の馬鹿馬鹿しいほどに馬鹿げた一縷の望みは、彼の登場によって叶えられたのだから。こんなの、いっそ悲しいほどに倒錯的で狂おしいほどに滑稽だ。

本当に、なんて面白くない。

「などと考えてる内に、時刻は十二時をお知らせしています」

 独り言で、そう締めくくった。これ以上余計なことを考えていたら、きっと私は泣いてしまう。そんなみっともないマネは御免だ。

泣くには、まだ早い。

 私は頭を振って思考を切り替えた。気付けば、お腹が強烈な空腹を訴えているので、まずは何か栄養を摂取せねばなるまい。こういう時、私はなぜ自分が植物ではないのかと嘆いてしまう。植物になれば太陽にあたるだけで栄養を生成できてしまうというのに。

 あ、でもダメだな。私、日光嫌いだし。どちらかというと趣味嗜好的にはもやしのそれに近い。つまり徹底的な日陰栽培。それじゃあ今と何も変わらないなぁ。

 部屋から出て、階段を下りる。階下からはお昼のバラエティ番組の音声らしきものが聞こえてくるので、母が居間で昼ごはんでも食べているのだろう。私もそのお零れにあずかろう。きっと何かしら用意されているはずだ。

「え? 特に何もないけど」

「うーん」

 私は死んだ。

 いやいや、まだ家に娘がいるんだから昼飯くらい用意しといてよお母様。寝坊かつ遅刻という不徳を犯している自覚はあるけど、さすがに昼飯くらいは作ってくれないものか。

「カップ麺がまだ残ってたはずだから、それでも食べときなさい」

「成長期の娘にかける言葉なの? それは」

「寝坊したくせに何を偉そうな事言ってるの?」

「はい、すみませんでした」

 私は戦略的撤退を決意した。

 それにしてもお母様、実においしそうな豚の角煮を食べていらっしゃる。羨ましい限りだ。そのままブクブク太ってしまえ、このクソババア。反抗期の中学生よろしく内心で毒づきながらも、私はヤカンに水を注いで火に掛けていた。私は根っからの平和主義者で博愛主義者だからな。無為な争いは好まないのだ。売られた喧嘩が大特価なら買う、私の金銭感覚はそれ相応に正しく育っていると思う。

 お湯を沸かしている間に、私は棚の中を漁る。カップ麺は三個ほど残っていたが、それはどれも塩味だった。これはきっと妹によるセレクトだろう。私は断然みそ味派なので思わず顔を顰めてしまったが、まあ仕方が無い。まさしく背に腹は変えられないので、断腸の思いで一番味の濃そうなカップ麺を選んだ。

 沸かしたお湯を注いで待つこと三分間。

 私の昼飯が完成した。

「ところでさ」

 私が麺をジュルジュル吸っていたら、母が気だるげに話しかけてきた。その様子はなんだか変に演技がかっていて、わざとなのがバレバレであった。それはきっと、母なりの優しさなのだろう。ここは何も気づかないふりをしておくというのが、優しさにかまけている私に出来る精いっぱいの礼儀だった。

「今日はなんで寝坊したの? こんなこと初めてじゃない」

「まあ、なんとなく。ちょっと不良の仲間入りしてみたい気分だったの」

「そう」

 母はそう言うと、視線をテレビに戻した。きっと、昼飯を用意しなかったことが母なりの説教だったということだろう。もっと怒ってくれた方がこちらとしては気が楽なのだが。そういう放任主義的なところは昔から変わっていない。そのスタンスには常々感謝しているが。

 母はなんとなく気付いているのだろう。なんとなく、確信しているのだろう。確実性六十パーセントの確信。一見矛盾しているようではあるが。

『私の娘は多分何かを隠していて、多分それを教えてくれることはなくて、多分それは想像も及びつかないようなことで、それでも多分自分が考えていることとはそれほど相違がないのだろう』。そんな多分多分が連続した希望的観測の、いや、絶望的予測による確信。

それでも私に何も言ってこないのだから、私はそこそこ信用されているという事なのだろうか。それこそ、母の口から聞かなければ分からないことだけど。

あれこれ考えをこねくり回したが、私はそれを全部、麺と一緒に飲み下した。

ジュルジュル、と。

「ごちそうさま」

「はいよ。片づけはやっといてあげる。早く学校に行ってきなさい」

「うっす」

 私は軽く頭を下げ、そそくさと二階へ戻った。そして寝巻を脱ぎ捨て、という行動に移ろうとした瞬間、私はとても大事なことに気が付く。

 あれ、どうして私は既に制服を着ているんだろう。

「あ、そっか」

 昨日は帰宅直後にベッドにダイブして、そのまま夕飯を食べて、そして再びベッドにダイブしたんだった。良く見てみると、制服はところどころが皺くちゃになっている。これは洗濯とアイロン掛けが必須だ。あとで母に頼んでおこう。

「……ん?」

 あとで、っていつだ? 私はこれからこれを着て学校に行かなきゃいけないんだぞ。でも皺くちゃな制服を着ていくのは流石の私でも憚られるから、洗濯等々を頼もうという段取りのはずだ。これじゃあ延々とループしてしまうじゃないか。バカか私は。

 うんうん唸って、頭の悪い私が導き出した答えは。

「よし、今日は学校をサボろう!」

 いかにも頭の悪そうなものだった。

 前提条件からの結論がショートカット過ぎる気もしたが、私の中の辞書に熟考という二文字はない。代わりに実行という二文字に大部分が侵されている。

 だから私は、それと決めたことを実行する迅速さには自信があった。制服を一気に全部脱ぎ捨て、そのまま一階の洗面所へと向かう。下着姿で家を疾走する娘の姿をどう捉えたのか分からないが、母の驚いた顔が途中で視界の端に映った。

 洗濯機に制服を全て放り込んで、そして腰に手をあて思案する。視線はフヨフヨと辺りを泳ぎ、無意識に無意味な情報を無差別に脳内へかき集めていた。それらを全て無視しながら、私は今日これからの行動を考える。

 平日のこんな時間に暇を持て余すことになるなんて、学生である私にとっては大型連休の時以外には有り得ないことだった。だからこそ、何をして時間を潰せばいいのか、なかなか見当がつかない。そもそも私が住んでいる辺りは中途半端に田舎であるがゆえ、娯楽施設などは皆無だ。娯楽施設どころか、ショッピングできるような場所もない。近所に商店街があるが、あそこをショッピング感覚でうろつく人間なんていないだろう。あそこはどちらかというと老人向けのコミュニケーションの場だ。私のような若輩が気軽に出向いていいような場所ではない。

 とすると、ここから自転車を少し飛ばしたところに広い公園があるから、行くとするならそこか。だがその公園は「広い」以外の利点を挙げるなら「広い、広い、あとはそう、広い」となってしまうくらい、広い以外には何の取り柄もない広場なのである。まともな遊具は一つもない。あったところで私は遊ばないけど。

 困ったな。公園に行ったところですることと言えば散歩くらいのものだ。散歩は何かを「している」と表現していいものなのか。むしろ「何もしないこと」をしていると言っても過言ではなく、生産性は欠片もない。暇つぶしに生産性を求めるのもどうかと思うけどね。というかそもそも、生産性なんてことを議論し始めてしまったら、私は今まさにこの場で血を吐いて死んでしまうべきだ。少なくとも主観的に評価して、私という一個人に生産性はゼロである。むしろマイナスだと断言してしまってもいいかもしれない。

「いやいや、ダメだろ……」

 泳いでいた視線を自分の元に戻し、頭を振る。ダメだ、考え事をするとついつい余計なことまで考え始めてしまう。どう暇を潰すかを考えていただけなのに、なんで自分の人生について考えなければならないのか。意味が分からない。

 これ以上余計なことを考えてしまう前に、まずは行動だ。私は元から頭脳労働は不得意なんだ。行動ありきで枝葉末節は全部後付けしてしまう、質の悪い脳筋バカなんだからな。

 まずは公園に行ってみよう。

「お母様、今日わたくしは学校をおサボり申し上げます」

 敬語と謙譲語をバランスよく取り合わせたハチャメチャな日本語で、私は母にそう宣言する。

「ぶっ殺すわよ」

 母から放たれた言葉は実に無骨でストレートだった。

 母と激しい攻防戦の末、結局は母が折れて私は自由を勝ち取った。下着姿で家の中を闊歩する娘に何を言っても無駄だと悟ったのだろう。というか、言い争いをしている間も私は下着姿だった。バカもここまで来ると極まっている感じがする。どこか虚しさのある決着のつき方だが、この際過程はどうでも良かった。重要なのは結果だ。

 私は未だ不満げな母を差し置いて二階に駆け上がり、自室に戻ってクローゼットを開けた。適当な服を選びだし、手早く着替える。私は服装に関してそんなに興味はないので、服を選ぶ時の基準は自然と機能性を重視しがちになる。結果、私の着る服は着やすさだけが先行して見た目なんて度外視した、女子力皆無のスッキリした格好になってしまうのだった。これなら、近頃の女子中学生の方がオシャレな服を着ていることだろう。

 まぁ、特段誰が見るでもなし。恥ずかしさを感じる必要もない。

「さてと、行きますか」

 机の引き出しから自転車の鍵を取り出して、と。

世界一無意味な冒険に出発だ。

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