潮騒

麻生慈温

潮騒


警察へ行く前に、従兄に逢っておこうと思い、高萩行きのバスに乗った。バスは幸い空いていて静かで、乗り込んだ途端、私は眠った。


 上野から特急に乗ってもよかったのだが、バスの方が安く済むのと、時間がかかるのでそちらを選んだ。なるべく早く済ませてしまいたい気持ちもあったが、やはり気後れするところもあったのだと思う。


 高萩に着いて、すぐ電車に乗り換えようと思ったら、三十分後だった。仕方なく駅の近くをぶらぶら歩いて適当な喫茶店に入り珈琲を飲んだ。落ち着こうとしても気が急いているのか、私はそれがくせになって何年にもなる、左手の薬指にはめた指輪を撫でたり回したりして、気持ちを落ち着けようとした。そしてまたぶらぶらと駅に戻ると、切符売り場で老人が駅員に何かまくし立てているところに出くわした。訛りがきつくてちゃんと理解できなかったが、この駅へ行くにはどうしたらいいのかと訊いているようだった。わずかに残った頭髪は白く、無精ひげも白いものが混じり、前歯も欠けて顔は土気色で深いしわが刻まれていた。着ているものもずいぶん着古したスウェットで、ナイロンのコートもぴらぴらして寒そうだった。足元を見るとスニーカーだが穴があいていた。


 口のきき方といい、身なりといい、お世辞にも魅力的とは言えなかった。自分自身の行く末を見るような気がして私は目をそらせ、自動改札を通った。


 ホームには人気がなかった。ベンチに腰を下ろして電車を待っていると、あの老人がよろよろと階段を降りてきて、私の座るベンチの反対側の端に座り、ぶつぶつ言いながらポケットを探ると缶ビールを取り出し、飲み始めた。やがて電車がホームに滑り込んでくると、よろよろと乗り込み、がら空きの車内にどっかりと座り込んでぶつぶつ言いながら缶に口をつけている。歩き方は明らかに酒飲みのそれだった。おととしから酒を断っている私は多少の同情と、それを上回る嫌悪感を抱いた。嫌な思い出が甦りそうで、私は老人から目をそらそうとしたが、かえって惹きつけられてしまい、無視できなくなっていた。さっさと降りてほしかった。車両を移ろうと立ち上がった時、電車が駅に着いて扉が開いた。すると老人が慌てたように飛び上がり、外へ出てしまったので、なぜか私も一緒にホームへ降りてしまった。彼は缶ビールを飲み干してホームのごみ箱へ空き缶を投げ捨て、とぼとぼと歩き出した。なぜか私は後をついていく形になってしまった。その駅舎そのものは建て替えられたばかりのようで新しく綺麗だったが人気はなく閑散としていた。見たことのない駅名だったが、風に乗って潮の匂いがした。海が近いようだ。


 老人は一段一段、這うように階段を昇り、改札へ向かった。改札前に、私と同年代のスーツを着込んだ男と、五歳くらいの男の子が立っていた。老人は改札を通らず、駅員に直接切符を渡すとその二人に向かって両手を挙げてみせ、男の子が歓声を上げて老人へ駆け寄った。スーツ姿の男は老人と幼児を冷やかな目で見守りながら、自らは近寄ろうとはしなかった。


 私は何気ないふうを装いながらICカードで自動改札を通り、横目ではしゃぐ老人と幼児を見た。スーツ姿の、幼児の父親だろう男が警戒するように私をちらりと見た。ほんの一瞬のことだったが、私はこの男が老人を快く思っておらず、知り合いもしくは身内と思われるのも嫌なのだろうと想像した。身なりからして老人と正反対で、それなりの企業に勤める真っ当な人間なのだろう。この三人は、おそらく祖父、父親、孫なのだろうと思われたが、なぜ、こんな辺鄙な海辺の町で待ち合わせなどしているのだろうか。多少の興味がわいた。


 私が駅舎を出て、適当に左へ曲がると、例の三人組も同じ方角へやって来たらしいのが、幼児のはしゃいでいる声で分かった。国道をさけて、潮の匂いを頼りに海岸へ出た。海でも人気はなく、波が思いのほか荒かった。漁船も見えないが、遠く、波打ち際に近いところに幾人か人がかたまっているのが見えた。とりあえず、あそこまで行ってみよう。従兄には連絡も入れていないし、私が行くとは思ってもいないだろうから急ぐことはない。途中下車した縁でこの町の警察署へ行ってもいいだろう。何となくそんな気持ちになって私は砂浜を歩き始めた。歩きながら指輪をひねり、考えをまとめようとしたが、とにかく波音が邪魔をする。夕方になって潮が満ちてくるのか、波打ち際が私に近づいてくるようだった。こんなに荒い波を間近で見るのは初めてかもしれない。


 後ろで、波音に混じって幼児の声が聞こえた。振り返ると、やはり、駅で見かけた老人と幼児が手をつないで波打ち際ではしゃいでいた。老人は欠けた前歯を露わにして笑い、男の子も楽しそうにしている。その二人からやや離れたところで、父親らしい男が所在なげに歩いていた。表情まではもちろん見えなかったが、楽しそうではなかった。


 都心の一流企業に勤めるエリート、もしくは官僚が、幼い息子を連れて離れて暮らす父親に逢いにさびれた故郷へやって来たという図を思い描いたが、どう見ても老人を迎えに来たのは男の方で、老人が訪ねてきたようだ。それに、女親はいないのだろうか。


 ぼんやり歩く私の横を、老人と幼児が追い越した。この世に二人以外の何者も存在しないかのように。父親らしき男は仲間外れにされた子供のように見えた。苦虫を噛み潰したように唇を歪め、スーツのポケットに両手を突っ込んでさっさと通り過ぎようとする。おそらく駅で出会った私と、ここでまたばったり出会ったことが不快なのだろう。誰にもこの老人といるところを見られたくないのだろうという気がした。


 幸福で楽しそうな老人と幼児の様子には心ひかれたが、それ以上にこの男の醸し出す暗い陰影のほうが気になってきて、私もさっさとこの三人連れをやり過ごすことにした。そのうち、私が目をとめた人だまりのところへ来た。何のことはない、釣り人の集団で、三~四人の中年の男達が、ダウンや帽子や耳あてなどで完全に防寒して釣り糸を垂れ、時折、仲間のところへ調子はどうかと尋ねてきているのだった。


 釣り人達は等間隔に離れて各自の持ち場をこしらえ、チェアや荷物などで釣竿を固定して動かないようにしてあった。仲間同士で何やら笑い声を上げていたが、荒い波音のせいで会話はまったく聞こえなかった。


 少し先を行き、振り返ると、幼児と老人は波打ち際のところで、波をよけて笑い声を上げていた。二人から離れて佇む男の表情はやはり険しかった。


 しばらく歩くと、コンクリートの堤防に着いた。砂浜を歩き疲れたので私は階段を昇り堤防に腰を下ろして荒れた海を見た。夕暮れが迫り、潮風も冷たく、荒い波は大きくうねり私を呑み込みそうだった。だがこの荒れた海を見るうちに、私の胸の内のざわめきは静まり、心が安らいでいくのを感じた。海は生きているんだなと当たり前のことを思った。ふと横を見ると、白い、大きな建物が目に入った。古そうだがホテルのようだった。もし、部屋が空いていれば、今夜ここに泊まるのもいいかもしれないと思った。外観は悪くないが、そう高級そうでもない。第一、リゾートでも観光地でもなさそうな荒海の町で、こんな晩秋に客が押し寄せるとは思えない。部屋も値段も何とかなるだろう。海側の部屋が取れれば、この波音をひと晩じゅう聴いていられる。案外ぐっすり眠れそうだ。疲れも取れるだろう。警察へ行くのは明日、従兄に逢ってからにしよう。そう決めたものの、私はなかなか立ち上がれないでいた。思いがけず遠くまで来てしまったことが胸に迫り、それは物理的なことだけではないことに気がついていたからだった。私はまた左手の指輪をひねった。


 父親らしい若い男が、いつの間にか堤防へ来ていて、私の少し離れたところに座り、ポケットを探って煙草をくわえ、またあちこちのポケットを探った。状況はすぐわかったので、私はそっと立ち上がり、男のところへ行った。相手は私を見てぎょっとしたように目を見開き、口から煙草を落とした。が、私が百円ライターをさしだすと少し表情を和らげ、もごもごと礼を言って受け取り、火をつけて返してくれようとした。私はもう煙草をやめていたのでそう伝え、ライターをそのまま男にあげることにした。男はまたもごもごと礼をつぶやき、すまなそうな、情けない表情で私に頭を下げた。私はこの男が涙を流すのではないかと思ってちょっと焦ったが、そのまま踵を返し、立ち上がるきっかけができたのだからと、そのまま目の前の建物へ向かった。


 そこは案の定ホテルで、古い外観だが内装はなかなか洗練されていた。ロビーは広くはなかったが、アンティーク調のソファーセットがあり、飲み物の自動販売機もあった。さらに、大きなガラス扉の向こうは、直接、浜辺へ繋がっているようで、波音がかすかに聞こえてきた。


 フロントに行き制服姿の若い女に予約はしていないがひと晩泊まりたいこと、できれば海の見える部屋がいいことを伝えた。彼女は訛りはきついが丁寧な態度で対応してくれた。彼女の説明によると、このホテルの客室はすべて海側を向いているという。食事はどうするかと訊かれ、値段を訊くと思いのほか安かったので、夕食と朝食をつけることにした。フロント係の女は、この建物の最上階に露天風呂があり、天然の温泉ではないものの六時から男性が入れるようになると教えてくれた。 

 夕食を八時からにしてもらって部屋の鍵を受け取り、夕食の前に風呂へ入ろうとエレベーターへ向かうと、入り口のドアが開いてあの三人組が入ってきた。父親の男は私を見てぎょっとしていたが、さすがに私も驚いた。

 

 まさか子供連れで、このホテルへ食事だけしに来たとは思えない。私は部屋へ入るとベッドに寝そべった。

 風呂へ行こうと思っていたが、この分では風呂でも鉢合わせする可能性がある。別に気にする理由はなかったが、さすがに風呂まで一緒になるのはためらわれた。部屋は古いものの清潔に保たれ、窓は閉まっていても波音が響いた。起き上がって窓の薄いカーテンを開くと、少し驚くほど海が近かった。先ほどは安らぎを感じたが、さすがにひと晩じゅうこの調子で波音を聴かされては、嫌気がさすかもしれない。私はカーテンを閉めてまたベッドに横になった。一気に疲れが吹き出し、そのまま少し眠ってしまった。浅い眠りで、波音が耳に入り、夢を見た。

 

 私は五歳の子供になっていて、母に手を引かれてこの浜辺を歩いていた。いつの間にかその五歳の子供は私ではなく、きょう偶然出会ったあの男の子になって、父でも祖父でもない、母に手を引かれているのだった。


 私は夢の中で、自分がまどろみの中にいることを感じていた。なぜ父でも祖父でもないのか、私には男親の記憶がないからだろう。夢の中でも母らしい背の高い女は私の手を引いて砂浜をぐんぐん歩き、ついに波の中に足を踏み入れてしまう。靴が濡れるのも構わず、母は先を急ぎ、白いホテルの中へ入る。だがそこはこのホテルではなく、あの駅舎だった。改札の前では、あの老人が缶ビールを飲みながら座り込んでいた。母はその老人へ近付くと、私の手を離して、じゃあこの子をよろしく、と言って改札を通って行ってしまった。私は慌ててその後を追いかけるのだが、足が重くて動かせない。老人は相変わらず酒を飲みながら、しわを深め、へらへらと笑っているのだった。

 

 そこで目がさめた。

 

 まどろんだだけと思っていたが、思いのほか眠っていたようで七時をまわっており、外はとっぷり日が暮れていた。部屋も外も暗いせいか、波音がいっそう鮮明に私の耳に流れ込んでくるようだった。


 結局、露天風呂には入らず、浴衣の上に羽織のような上着を重ねて食事処へ行くと、まだ食事客が大勢いて賑わっていた。しかし子供は少ないようで、探さなくてもあの子の声が私の耳に届いた。幸い私はひとり客なので、家族連れが座るような大きなテーブルからは離れた隅の席へ案内されたのでよかった。料理は素朴で、品数ばかり多かったが、さすがに魚の刺身はどれも新鮮だった。

 

 酒は断っていたので、ウーロン茶で出された料理を食べていると、バンとテーブルを叩く音が響き、続いてガチャンと何かが倒れる音がした。近くで食事していた何人かが振り向いたが、その店全体が静まり返るほどではなかった。見ると、例の三人組の老人と若い男が何やら言い争っているようだった。老人は酔っているからだろうが、顔を真っ赤にして「お前はいつもそれだ」と怒鳴った。酔いと興奮のせいか、老人はひどくどもっていた。

 

 それに応える若い男のほうは静かで落ち着いた口調だった。そんな諍いをしている大人に挟まれた男の子は明らかに居心地が悪そうだった。老人は立ち上がると、男の子の手を引いて店から出て行った。残された若い男は、肩を落として俯いていたが、やがて立ち上がると、やってきた従業員に、騒いだことを詫びて出て行った。あっという間の出来事だった。

 

 私が小学校に上がったくらいの頃、母に恋人ができて、しょっちゅう私達の暮らすアパートに入り浸っていた。なかなか優しい男で、私のことを可愛がってくれた記憶がある。ある夜、母と恋人と私の三人で夕食をとっていた時、母と恋人が言い争いになり、男が母を殴ってそのまま出て行ってしまった。二人が何を口論していたのかは覚えていないが、目の前で、自分の母親が殴られたことがショックだった。今度あいつが来たら母の仇を討ってやると密かに意気込んでいたのだが、それきり男は現れなくなった。

 

 それ以来、母は恋人ができても家に入れなくなった。息子の前で殴られたくはないのだろうが、そのため母の不在が多くなり、私はひとり、取り残されたような気持ちになったものだった。

 

 あの三人は男同士だから、幼い男の子の感じた怯えや孤独はまた別ものだろう。それでも、あの子の気持ちは少しだけ汲み取れるような気がする。犠牲になるのは子供だ。

 

 そんなことをつらつら考えながら残りの料理を平らげ、ふらふらと食事処を出た。部屋へ戻ろうと、ロビー横にあるエレベーターへ向かうと、そのロビーのソファに腰かけてぼんやりと煙草を吸っているあの若い男が目に入った。老人と男の子が出て行ったのが三十分ほど前だったから、つまりこの男はあれからずっとここで座り込んでいたのだろうか。おそらく、喧嘩した老人と同じ部屋にいるのが気まずいのだろう。

 

 興味がわいたわけでも、同情したわけでもないが、私はエレベーターとは反対方向の、ロビーの隅にある自動販売機で缶珈琲をふたつ買って男に近づいた。彼も、もう私を見ても驚いたりしなかった。立ち上がって去ってしまうかと思ったが、私が来るのを落ち着いた表情で待ち受けていた。それでも、私が缶珈琲を差し出すと驚いた顔をし、次に申し訳なさそうな、弱々しい笑みを浮かべ、すみませんと言った。

 

 私は彼のはす向かいのひとり掛け用のソファに座り、部屋へ戻らないのかと訊いてみた。男は、一度戻ったのだが連れの二人がいなかったので、このホテルの周囲を少し探し、今帰ってきたのだと答えた。おそらく二人で夜の散歩へ行ったのだろう。寒いし、風邪を引かないといいが……。

 

 そう説明する男の表情には、意外にもいたわりの気持ちが表れていた。私の手前、心配するふりをしているのではなく、心から二人を案じているように感じた。あの老人を、毛嫌いしながらも、どこか放っておけないのだろう。

 

 半年ぶりに逢ったのに、必ず喧嘩してしまう、そんなつもりはないのにと男は自嘲ぎみに笑って言った。私はうなずいて、分かりますと応えた。

 

 もっと何か話してくれるかと思ったが、男は口をつぐみ、煙草を消すといただきますとつぶやいて缶珈琲に口をつけた。私も自分の分の缶珈琲を飲んだ。今度は男のほうからお一人ですか?と訊いてきた。私が一人旅なのは分かりきっているだろうに、沈黙が気まずいか、何か質問でもしなければ私に悪いとでも思ったのだろうか。私は苦笑して、ひとりだが従兄が近くにいるので逢いに来たのだと話した。昔から兄のように慕っている人なのだと。男はそうですか、と応じ返し、また沈黙が流れた。

 

 ふと、この行きずりの他人の男に、洗いざらい話してみようかという気持ちになった。なぜ従兄に逢いに来たのか、そしてやがて警察へ行かなくてはならないこと、母の最期の言葉も。私は左手の指輪をひねった。

 

 だがやめた。この行きずりの男は、十分、苦悩を抱えているようだし、他人の告白など聞かされても戸惑うだけだろう。

 

 その代りに、あの息子さんは幾つなのかと訊いてみた。男は苦笑し、来年から小学校に通うようになるが、あれは僕の子供ではないんですと言った。

 

 私は驚いた。

 

 あの子は、父親の息子なのだと男は言った。あの老人は、男の子の祖父ではなく父親で、父親と思われたこの男は、うんと年の離れた兄なのだった。

 

 恥ずかしい話だが、父親は七年前、自分の娘ほども年の離れた若い女を妊娠させ、仕方なく結婚したが、子供が生まれるとすぐ離婚した。原因は父親の酒癖の悪さだった。父親の妻だった女は、自分と年齢が近いせいか、夫の愚痴やら不平不満をぶちまけにしょっちゅうやって来て、離婚騒ぎにもだいぶ巻き込まれたと男は話した。

 

 優しいんですねと私が言うと、そんなんじゃない、と否定した。そんなんじゃない、犠牲になっているあの子が可哀想なだけだと。

 

 自分はまだ独身で、この先、結婚したいとも思っていないと男は言った。子供も好きではない。それでもあの子のことは可哀想だと思う。自分の幼い頃を思い出すのだ、と。

 

 男は缶珈琲を飲みながらしみじみと言った。僕はあの子と同じくらいの年頃に母親を亡くした。父親は昔から酒癖が悪く、ろくに世話もしてもらえず、そのうち息子が邪魔になったのか、母方の祖父母のところへ養子に出された。

 

 祖父は、僕を養子に迎えるにあたり、父親に条件をつけた。それは半年ごと、自分の息子に逢いに来るというものだった。この子はもう物心がついている。母親に死なれ、父親に捨てられては、この子の心に深い傷を残してしまうことになる。そうならないためにも父と子のつながりを絶やすな、と。

 

 父は了承し、本当に半年に一度、逢いにやって来た。そして遊園地や動物園に連れて行ってくれたりした。やがて半年が一年になり、二年に一度とあいだが空くようになったが、僕が祖父母のもとで育ち、大学を卒業し、就職しても、父は逢いにやって来た。

 

 そんな、短い父子の時間に、七年前からあの子が加わった。父は、別れた女に慰謝料や養育費もろくに払えなかったくせに、息子には逢いたがった。当然、女ははじめ拒否していたが、父が譲らなかったので、しぶしぶ同意したのだ。そして僕が仲介役となり、半年に一度、この海辺の町で逢うことになった。ここは、僕の母親の墓がある町だ。父親が今どこでどうやって暮らしているか、僕は知らない。知りたくもない。父は半年ごとに必ずここへ現れる。僕は、ここから電車で三駅向こうに暮らすあの子を迎えに行き、父と待ち合わせをする。

 

 実の父親と待ち合わせして逢うという暮らしも、もう二十年以上続けている。いつか終わりにしたい。これが最後になるといいといつも思っていた。ろくに子育ても稼ぎもしないくせに、子供に逢いに来る父親のことは心底、嫌いだ。祖父の約束だけ都合よく守る卑怯者だと思っている。

 

 だが半年前に、この待ち合わせを終えられる出来事があった。あの子の母親に恋人ができたというのだ。再婚を前提に交際をしていて、あの子のも相手の男になついているらしい。だから父親と逢うのを、これで最後にしたいとあの子の母親が言いだしたのだ。父親はしぶしぶだが同意した。その話を聞いて、僕も父親に、逢うのはこれきりにさせてほしいと頼んだ。父親は、息子ふたりに捨てられるのかといじけていたが、結局は了承した。それは僕が強引に決めたからだが、おそらく父親も、たまに逢うだけの「父子ごっこ」に限界を感じていたのだろうと思う。僕達は、明日、このホテルをチェックアウトをしたら別れて、完全にさようならをする。父と子の繋がりがある以上、完全に別れることは難しいが、こんなやり方で逢うだけの関係を終わらせるのだ。

 

 父親は、最後の別れの儀式に花火をやりたいと言っていたが、もう季節柄、花火など売っていないから、せめてたき火をしたいと言いだした。たき火をして、自分だけの思い出の品を燃やして、自分自身を納得させたい、と。

 

 僕ははじめ、勝手なことばかりして、周囲を悲しませてきておいて、自己満足もいい加減にしろと思ったが、ふと、それもいいかもしれないと思い直した。僕自身も、父親という呪縛から解放されるために、思い出を燃やしてしまおう、と。そこであの子にも、何でもいいから燃やしたいものを用意するようにと言っておいた。何を持ってきたかは分からない。おそらく、あの子にはまだ理解できないことだろう。

 

 あの子が父と逢って無邪気に歓んでいる姿を見ると、昔の自分を思い出す。

あの子が自分の立場を、父を、僕のことをどう思っているか分からない。あの子なりにいろいろ感じているだろう。そして大人になるにつれ、僕がそうだったように、父親を憎むようになるかもしれない。そうなる前に、新しい父親を得られるなら、あの子のためには結局いいかもしれない。

 

 私はそこで口を挟んだ。

 

 お父さんの美しい思い出はもう少し続くでしょう。もう少しだけ、逢わせてあげてはどうか。

 

 もう少し、もう少しと先延ばしにする意味はあるのか。男はそう問い返してきた。

 

 私は父親を知らずに育った。父親代わりになってくれる人間もいなかった。そのせいで人生がどうこうなるわけではないが、幼い頃、父親と遊ぶ夢を描いたものだ。あの子には、今はまだ父親が必要だと思う。いつか父親を必要としなくなる時まで、もう少し……。

 

 私はそこまで言って口をつぐんだ。ふいに、見知らぬ他人に己の胸の内を吐き出していることが恥ずかしくなったのだ。

 

 彼も、おそらく行きずりの他人に身内の事情を明かすことが恥ずかしくなったのだろう。急に黙り込んで新しい煙草に火をつけた。


 そこへ浜辺へ続くガラス扉が開いて、賑やかな子供の笑い声が飛び込んできた。


 彼は、火をつけたばかりの煙草をもみ消し、帰って来た父親と幼い弟を迎えるために立ち上がり、私に礼を述べた。私はソファーに座ったまま、男が父親のところへ行く背中を見送った。老人は息子の姿を認めると、もごもごと、先に寝ていればよかったのに、とか言い訳がましいことを口にしていた。三人は連れだってロビーを横切り、エレベーターのあるところへ歩いて行った。その途中、男は私を見て、また会釈をしていった。


 三人がいなくなった後、私は動けなくなり座り込んだ。体の奥から疲労がせり上がってきて押し潰されそうで、無意識に指輪をひねった。この期に及んで、なぜ他人の身の上話など聞いてしまったのだろう。


 私は重い体を起こし、部屋へ戻るとそのままベッドにもぐりこんだ。

 夕方に見た夢の続きを見るのかと思ったが、波音が柔らかくしみ込んでくるだけで、何の夢も見ずに私は眠った。


 翌朝、波音で目がさめた。窓のところへ行き、カーテンを引くと晴天で、やはり潮風が強く吹きすさんでいるようだった。

 

 ベッドの枕もとのアラーム時計を見ると、もうすぐで朝食が終わってしまう時間だった。食欲はまるでなく、もう一度眠ってしまおうかと思いながら窓辺に戻ると、私の眼下を、あの男の子が走っていくのが目に入った。

 

 急いで窓を開き、身を乗り出して男の子の様子を追うと、波打ち際のところであの老人と男が歩いていた。男は片手にバケツを下げ、もう片方の手に新聞紙や何かを持っていた。

 

 男の子は二人に追いつくと老人と手をつないで水際を歩いていき、その後ろから、距離を置いて男が歩いていた。


 別れの儀式が始まる。そう気がついて、私は急いで着替えて部屋を出た。この海からの強い風が吹きつのる砂浜で、火を熾すのはたやすいことではないだろう。

 

 ロビーから、砂浜へ続くガラス扉を押し開いて外へ出て三人を探した。

老人と男の子は、波打ち際を駆けては波に近づいたり逃げたりして遊んでいた。男は、堤防の下の、テトラポッドが無造作に積み上げられているところにひとりでしゃがみ込んでいた。おそらく、風をよけて火をつけられる場所を探したのだろう。私は男に近づき、手伝いますと言った。私を見上げた彼の顔は、情けなさそうに歪んでいた。笑おうとしているようだった。

 

 私は黙って、風をふさぐ位置になるよう、かたわらにしゃがみ込み、新聞紙を押さえた。男はもごもごと礼を言ってライターをつけた。

 

 なかなか大変な作業だったが、ようやく新聞紙に火がついた。男は、不審火でもだしてはおおごとになるから、さっさとすませたいという意味のことを言い、波打ち際で遊んでいる二人を大声で呼んだ。男の子のほうが走り寄って来た。後からついてきた老人は私をあからさまに不審げに見た。男は老人を、この人は悪い人ではないと言ってたしなめた。

 

 男が促すと、子供のほうは着ていたジャンパーのポケットから赤い折り鶴を大切そうに取り出し、おっかなびっくり、燃える新聞紙に落とした。折り鶴は端から焼けはじめ、ちりちと音を立てて焦げていった。老人はコートのポケットから何か銀色に光るものを取り出して火の中へ落とした。よく見ると女物のネックレスのようだった。最後に、男が白い封筒を取り出して、中身も検めず、ライターで火をつけて、下へ落とした。

 

 燃えつきるのを待ちながら、私は、男に自分も燃やしてしまいたいものがあるのだがいいだろうかと訊いてみた。老人は驚いていたが、男が黙ってうなずいてくれたので、私は自分の左手から銀色のつや消しを施した指輪をはずして熾火の中へ落とした。

 

 私が指輪を燃やしたのを見て、老人は呂律の回らない口調で、それは結婚指輪ではないのかと訊いてきたが、私は波音のせいで聞こえないふりをして答えなかった。男の子は火を見るのに飽きて、ひとりで波打ち際のほうへ行ってしまった。残された男三人で火を見守った。

 

 時間がかかったが、ようやく火はすべてを燃やし尽くして小さくなっていった。男がそれを見て、用意してあったバケツの水をまんべんなく回しかけ、火を完全に消した。さらに靴で燃えかすを踏みつけた。老人が、念のためだと言って手に持っていたビニール袋に燃えかすを丁寧に拾い集めていた。

 

 男は、波打ち際でひとり遊ぶ男の子を呼ぶと、その手を引いて歩き始めた。男の子は老人に手を振ったが、老人のほうは知らんふりでごみを拾いビニール袋の口をしめていた。男の子はしばらく老人を振り返りながら歩いていたが、男に促されると前を向き、それきり後ろを見なかった。男のほうは最初から父親を振り返りもせず歩いていたが、途中、ちらりと肩越しにこちらを見たような気がした。

 

 老人はぶつぶつ言いながらビニール袋をコートのポケットに突っ込むと、二人が歩き去った方向とは逆の道をとり、テラスから堤防へ上がっていき、やはり二度と振り向きもせず歩き去った。

 

 私はひとり残された。

 

 老人はすでに見えなくなっていた。若い男と幼児の姿が辛うじて見えていた。二人は砂浜の波打ち際をずっと歩いており、当然ながら老人と幼児の組み合わせより、ずっと父子らしく見えた。

 

 遠ざかる姿を目で追ううち、目に熱いものがこみ上げてくるのが分かった。私もああなりたかったのだと、今さら気がついたのだ。もう何もかも手遅れなのに。

 

 私はホテルへ戻るため、あの三人が別れた場所から離れた。くせになっている、左手を触ってみたが、もうそこには何もなかった。

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潮騒 麻生慈温 @Jion6776

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