女優の海

小森 葵

第一章 羽美

第1話 憧れ

 あの舞台の上に立ちたい。そう思ったのは13歳の時だった。

 幼い頃から内気で、人前に立つのがとにかく苦手だった。授業で先生に当てられるのも嫌で、作文や歌の発表なんて大嫌いだった。とにかくどこまでも目立ちたくない私とは正反対に、母は誰もが知る大女優だ。私は母の演技が好きだった。テレビ越しに母のきらきら輝く姿を見るのが毎日の楽しみだった。そして、13歳の夏、私ははじめて舞台に立つ母の姿を観た。

 舞台女優としての母は、テレビよりもずっときらきら輝いていた。歌い、笑い、泣く母の姿にそこにいた誰もが魅了されているのがわかった。そして、カーテンコールで母が登場したとき、その日一番の拍手が沸き起こった。その日見た彼女の姿は、私の母ではなく、女優・有坂直美だったのだ。


「有坂、聞いてるの。」


 厳しい声が教室に響く。

 眉間にしわを寄せながら私を見る能勢さんと、私の代わりに背筋をぴんとさせる生徒たち。教室をぐるんと一周見渡して、自分の今の状況を把握した。


「すみません。もう一度お願いします。」

「…はあ。もう帰りなさい。やる気がない人を相手にしていても無駄な時間が増えるだけよ。」


 能勢さんが私の腕を掴み、教室のドアまで引っ張る。このままじゃ本当に帰らされる。でも仕方ないか。養成所の年に一度の大事な発表会に向けてのレッスン中に、考え事をして話を聞いていなかった私が悪いのだ。そんなことを思ってドアノブに手をかけた瞬間。


「先生、待ってください!」


 透き通る声。クラスで一番歌が上手い沙梨さりちゃんだ。


「倉田、どうしたの。」

「有坂さんが帰ってしまうと、次の場面で私が困ります。次の場面は有坂さんとの掛け合いなので。」

「代わりに私がやります。やる気がない有坂がやってもしょうがないでしょう。」

「いいえ、間のとり方や表現のニュアンスが他の人ではやりにくいのです。どうかお願いします。」


 沙梨ちゃんは、綺麗で、それでいて力強く芯のある声でそう言い放った。


「…有坂。」

「はい!」

「倉田に免じて今日は見逃してあげるわ。次はないわよ。」

「はい。すみませんでした。」


 能勢さんにバレないようにちらっと沙梨ちゃんを見ると、可愛い笑顔で微笑みかけてくれる。あ、り、が、と、う。口の形だけでお礼を伝えて、台本に目線を移した。

 沙梨ちゃんはいつも私を助けてくれる、優しい子だ。歌だってクラスで一番だし、演技もうまい。ルックスも抜群なので、発表会ではいつもヒロイン役を演じている。私より1つ年下だが、正直憧れだ。


「沙梨ちゃん、さっきは本当にありがと。」

「いいのいいの。羽美うみちゃんがいないとあの場面困っちゃうのは本当だし。」


 レッスンが終わって、私は一目散に沙梨ちゃんにお礼を伝えた。沙梨ちゃんは眉を下げて笑う。


「ごめんね。お母さんの舞台を初めて観たときのこと思い出しちゃって。」

「直美さんの?」

「うん。」


 そういえば、沙梨ちゃんはお母さんの大ファンだって言ってたっけ。


「3年前、『BATTLE!』で初めてお母さんの舞台に立つ姿を見たんだ。それまでテレビではちゃんとお母さんの演技を見てたんだけどね。」

「えっ、その舞台私も観に行ったよ!」


 沙梨ちゃんが興奮気味に立ち上がって言う。


「そうなの?」

「うん! 直美さんの絵里役、本当に綺麗で…女優を目指そうって思ったのはあの舞台がきっかけなの。」

「本当? 私もあの舞台を観て女優になりたいって思ったんだよ!」


 手を胸の前で合わせてうっとりと微笑む沙梨ちゃんに、私も前のめりになってしまう。


「すごい、偶然だね!」

「うん。でもたしかに、あの役はお母さんの代表作だって言われてるから、影響された人は多いのかもしれないね。」


 クラスの中で一番仲の良い沙梨ちゃんと、こうして母の話ができるのはとても嬉しい。帰ったら母にも教えよう。


「直美さんといえば、『天使がいた夏』も代表作だよね。」

「うん。お母さんの天使役は、デビュー作にして最高傑作って言われてる。」

「本当に美しくて…いつか私も、天使役をやりたいなあ。」

「沙梨ちゃんならきっとできるよ。歌も上手だし。」

「あの天使は歌でお祈りを捧げるんだもんね。羽美ちゃんにそう言ってもらえると嬉しいなあ。がんばらなくちゃ。」


 とびっきりの可愛い笑顔で言う沙梨ちゃんを見て、本当に天使みたいだなあと思った。


 レッスンからの帰宅後、母に沙梨ちゃんの話をした。母は嬉しそうに笑って、ありがとうと伝えてね、と言った。


「そういえば、『BATTLE!』、リメイクドラマの制作が決定したのよ。」


 人参をとんとんと包丁で刻みながら、母は言う。


「本当?絵里役は誰がやるの?」

「うふふ。わ、た、し。」


 振り返って子供のような笑みを浮かべながら母は言った。舞台が大成功した影響で、ドラマ版でも母が絵里役を演じることになったらしい。3年も経ったけどまた絵里役こなせるかしら、とまんざらでもない様子でそう言った彼女に、私はとてつもなく嬉しくなって思わず飛びついた。


「お母さんすごい! ドラマも、楽しみにしてる!」

「ありがとう。お母さん頑張るね。」


 母は少しだけ身を屈めて笑い、私の頭を撫でてくれる。ただいまー、と間延びした父の声が聞こえたので、母から離れ玄関に駆けて行った。

 誰もが知る大女優の母と、一般企業のサラリーマンの父。そんな二人の間で育ち、私は幸せを噛みしめていた。この幸せがいつまでも続けばいいと、そう思っていた。

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