見上げるはよだかの星3

「それで? 文月くん、だったかしら。どういうつもり?」

「どういうつもりもなにも、私は患者を治療したいと思い、患者の母親である貴方に、綴者のことをしかと理解してもらいたいだけですよ」

「治療って、贋作を書くんでしょう? 馬鹿馬鹿しい。そんなの治療じゃないわ」

「貴方は、小春さんが眠ったままでも良いと思っているんですか?」


 九美の、形の良い眉が寄る。吊り上がった目尻が、不服さを表していた。


「そんなわけないじゃない。あの子はあれでも、私の大切な娘なの」

「なら、どんな手を使ってでも、目覚めさせようとするべきでは?」

「それならもっと医学的な手を使ってもらいたいわ。贋作を書かれるなんて嫌」


 文月は顔を顰めることなく、生真面目な面をして彼女の話を聞いていた。彼女はコップを手に取り、喉を鳴らして水を飲み下す。置かれたコップの音さえも、彼女の苛立ちを顕著に見せ付けていた。


「よだかの星は、私にとっても思い出の作品なのよ。大好きなの。治療だなんて理由でその贋作を書いて、偽物を自信満々に朗読するなんて、ふざけないで欲しいわ。そんなの、本物に対する冒涜よ。あの作品を汚さないでちょうだい」

「大切なものを踏みにじられるような気分になるのは、分かります。ですが、小春さんを救えるとしても、心変わりはしませんか?」

「そんなのであの子が救われるなんて嫌に決まってるでしょ!」


 淡々とした空気が弾ける。感情を爆発させてしまったように、九美の手はテーブルに叩きつけられていた。その勢いで思わず立ち上がっていた彼女は、はっとしたように目を瞠る。静黙とし始めた空気の中、唇を噛み締めてから座り直したら、彼女はそれまで通りの静かな語調で続けた。


「あの子、何かを一人で抱えていたんでしょうけど、それを誰にも相談しないで一人で堪えているのを、強さだと思ってた節があるの。馬鹿みたいでしょ。あの顔だってそう、昔の自分を見ているみたいで、本当に苛々したわ。それでも、自分でお腹を痛めて産んだ子ですもの。愛していたのよ。愛しているのよ。けれどね」


 真っ直ぐに、鋭く研がれた白刃の切っ先が、眼前へ突きつけられる。そう錯覚するくらい剥き出しの怒りに、けれども文月は眉一つ動かさなかった。ただ静かに見返され、唾を飲んだ彼女が、それでも愚痴を聞かせるような響きで言葉を捨てて行く。


「本物を汚して貶して冒涜するような作品に……そんなものに胸を打たれて目を覚ますなんて、それで目を覚ます人間なんて、私はもう娘と思いたくない。贋作なんて、ただ素晴らしい作品を真似ただけのものでしょう? 本物の価値を理解出来ずに偽物に目を輝かせるなんて、そんな子、愛せる自信がないのよ」

「……綴者は、真作に敬意を払い、大筋を拝借して、患者自身の物語を綴ります。基になった作品は勿論素晴らしく、その魅力を借りると言うのは、貴方の言うように真作に対する冒涜に値するのかもしれません。けれどそれは、そこに悪意がある場合のみ、ではないでしょうか?」


 言い返そうとした九美を、文月は目つきだけで制した。彼女が蔓延させている刺々しい空気の中で、文月は場違いなくらい、切れ長の目を柔らかく細める。


「私達も純粋に物語を愛しています。真作を素晴らしいものだと思っています。それゆえ、敬意を払うことや、頭を下げることを忘れません。――御厨さん、文明がここまで発展したのは何故だと思いますか?」

「な、なによいきなり」

「現代にあるもののほとんどは、過去、偉人が残してきたものを基盤に造り上げられたものでしょう? 過去を生きた人間の功績があったから為せたことは、現代に数多くあるはずです。もっと言えば、今私達が簡単に会話を出来ているのも、過去に生まれた言葉が現在まで継がれているからでしょう。貴方はそういったことまで、先駆者を貶していると、馬鹿げた真似事だと言いますか?」

「……話を逸らさないで。私は今、小説の贋作を、治療だと言って正当化している件について話しているのよ」


 文月は、コップに一切触れず、ずっと膝の上に乗せていた手を持ち上げた。顎に手を添えて、小さく息を吐き出す。


「薬剤師は、新しい薬を製薬する時に、何も参考にせず作らないと思いますが」

「別のものに例えるのはやめてちょうだい」

「……綴者が書く贋作は、確かに偽物かもしれません。素晴らしい作品を基にしているのだから目を惹かれるのかもしれません。ですが、我々の贋作に胸を打たれるのは、恐らく患者だけです。患者の為に書かれた贋作、その魅力を全て理解し得るのは、患者自身だけです。どうしてか分かりますか?」


 九美が向けられる眼光はどこまでも直線的で、見間違えようがないくらいの真剣さを纏っているのに、彼は紳士的な笑みを絶やさない。しかし、声色にだんだんと、人間らしさが入り混じってくる。彼の凛然とした声は、熱情を芯としていた。


「私達は面白がって贋作を書いているわけではありません。悪意を持って真似事をしているわけでもありません。患者に伝えたいことがあるからです。『貴方の人生は確かにこの物語と似ている。けれど貴方の人生は、こういったものであり、その物語だけでは表しきれない。より貴方の人生に似た物語を作ったので聴いてください。そして理解してください。本当の貴方の物語は目を開かなければ見えない。貴方の人生のどこかにある希望は、真作の中にも贋作の中にもない。現実にしかない』――それを、贋作を使って、ただ伝えたいだけなんですよ。何かに胸を打たれている人間は、その時、その何かに関連するモノにしか大きな関心を向けません。だから綴者は、耳を向けて貰える様にその真作なにかを彷彿とさせる語りを始めるんです。そうして贋作にしかと意識を傾けてもらう。それで、患者自身の人生を見つめ直して頂きたいんですよ」


 無言のまま九美は、組んだ手をテーブルの上に置いて、それを見つめていた。彼女の薄い唇が真横に引き結ばれているのをちらと見て、文月がゆっくりと話を続ける。


「貴方は先程、別のものに例えるのはやめてくれと言いました。けれど私の話に最後まで耳を傾けた。それは、貴方の興味が向いているものを彷彿させる内容の話であったからでしょう」

「……それで?」

「……私達綴者が贋作を書くのは、単純に言えば患者の気を引くためです。夢の中に入り込んでいる意識を、引っ張り出すためです。そこに悪意は一切ありません。素晴らしい作品を貶したいだなんて、思っていません。綴者の書く贋作は、他人から見ればただの贋作です。ですが患者から見れば、未来への道を指し示す唯一の物語。私達は患者に、現実をしかと生きて欲しいと願っているだけです。私達の書く贋作が、ただの贋作でなく、患者にとっての道標になればいい。そういった類の思いだけで、私達は贋作を書き、患者に読み聞かせているんです」


 椅子が擦れて床が鳴く。音につられて面を上げた九美は、瞼を大きく開いた。

 席を立った文月が、深く頭を下げていた。九美の目の前にテーブルが無かったなら、彼は膝を突いて土下座をしたのではと思うくらい、深い礼だった。


「御厨さん。どうか小春さんの人生を、彼女の人生の中にある希望を、私に書かせて下さいませんか」


 顔を上げないまま、はっきりと伝えられた頼みには、切実で誠実な響きが伴われている。今の文月の胸には、小春を助けたいという思いしかない。それを感取したからこそ、九美はその美貌に困惑の色を塗っていた。

 承知も不承知も口にされない。彼女の声が聞こえて来ない中で、文月は自身の拍動音の五月蝿さに顔を顰めた。緘黙によって生じている耳鳴りのような無音さえも、耳を刺してくる。

 一向に開口する様子を見せない九美へ、頭を上げた文月が矢庭に鋭く言い放った。


「目を覚ました小春さんに対して貴方が失望する必要は一切ありません。彼女は彼女の人生に目を向けて瞼を開く。自分の意思で現実を見据えた者に、誰かが失望を向けるのは間違っていると思いませんか」


 下唇で上唇を押し上げた九美が、不満をありありと顔に出す。かち合う視線は双方共に逸らさない。譲る気が全く窺えない文月の瞳に、九美はやがて居心地が悪そうに俯き、茶色い頭を掻いた。


「……本当に、あの子を目覚めさせられる自信があるのなら、勝手にしなさい。けれど、あなたの贋作の朗読を、私にも聞かせて」

「構いませんよ。私の話を聞いて下さり、ありがとうございました。それでは、朗読する際にお呼び致します」


 綺麗な一礼を見せて、文月はトレンチコートを翻した。リビングから廊下に出て、階段のある左手側に進めば、そこに御厨が立っている。文月と九美の話を聞いていたのであろう彼の前を通り過ぎて、文月は二階へ上がる。御厨の部屋に戻ってくると、すぐに御厨も室内へ顔を覗かせた。

 この部屋を出る前と同じように、御厨は机の前の椅子に座り込む。文月は立った状態で、今更のように冷や汗を浮かばせ始めた。


「なあ御厨。俺は何か、言ってはいけない言葉や、不快に思われるような発言をしていなかったか?」

「あー……まぁ、大丈夫じゃねぇの? 母さん、それほど怒鳴ったりしてなかったしな。意見が食い違ってるところから話が始まったんだし、不快に思われたりすんのは仕方ねぇだろ」

「そう、だな……」

「あの人に『勝手にしろ』って言わせたんだ。お前の、綴者に対する熱意がちゃんと伝わったんだと思うぜ。良かったな」


 御厨にそう言われて、文月がほっとしたように双肩を落とす。項垂れているようにも見えるほど力を抜いたかと思えば、文月はすぐさま背筋を伸ばした。


「そうだ、早速贋作を書きに、家に戻ろうと思うんだが、君の妹の日記を借りても良いだろうか?」

「あ、ああ。勿論」

「それと、君は贋作を書いてみた、と言っていたが、どのようなものを書いたか、差し支えなければ教えて欲しい」


 机の上に置かれたままだった日記を文月に渡しながら、御厨は眉を顰めていた。空いた手を椅子の背もたれに乗せて、目を泳がせる。閉じた口から唸り声を溢れさせると、御厨は意を決したように正面を見た。


「書いた贋作は捨てちまったから、手元にはねぇし、内容もうろ覚えだ。俺は文才とか発想力とかそういうのは持ってねえ。だから単純に、よだかの名前を小春にして、登場人物を人間にして、舞台を学校にした」

「結末はどうしたか、覚えているか?」

「確か……小春にひたすら道を走らせて、空にある星に近付かせようとした。高い山の頂まで駆け上った小春が、星に近付こうとして崖から跳ぶ。そこで小春は、星になった。そんな感じの結末だ」

「……そうか。ありがとう。参考にさせて頂く」


 日記帳を手にして、部屋を出て行こうとした文月に、御厨ははっとして付け加える。


「贋作を書き終えたら、連絡をくれ」

「電話を滅多に使わないから、使い方を忘れているかもしれない」

「それはジョークか? それとも本気で言ってんのか? まあ、電話が嫌なら、店のカウンターまで来て、俺を呼んでくれたって良いからな。好きな方にしろ」

「分かった。その時の気分で決めることにしよう。一応言っておくが、君の電話番号はちゃんと記憶しているからな」


 スーツの胸ポケットからメモ帳を取り出し、そこに自分の携帯電話の番号を書き記していた御厨の手を、文月が口頭で止めた。ボールペンとメモ帳をポケットに仕舞い直して顔を上げてみれば、そこにはもう文月はいなかった。

 階段を下る足音が微かに聞こえてくる。彼の贋作を聴く時間まで、少し睡眠でも取ろうかといった様子で、御厨はベッドに寝転んだ。

 文月はきっと、書き上げた贋作で簡単に小春を目覚めさせてしまうのだろう。そう考えた御厨の内側で、未だに燻らせていた劣等感が小さく膨らんだ。噛み合わせた歯が嫌な音を鳴らす。

 自分の内面から目を逸らすように、御厨は瞼を閉じた。


     (四)


 夕陽に目を細めながら、文月は自宅の戸を開けて中に上がり、廊下を進んで行く。コートのポケットに仕舞っていた日記帳を取り出し、廊下の先にある部屋へ行くと、普段文月が座っている椅子の向かい側に、七瀬が着座していた。

 天真爛漫な彼女が、珍しく冷静な顔つきで一冊の小説と向かい合っている。それがどこか微笑ましく、文月の頬を緩めさせる。

 机上に日記帳を置いてから、椅子を引いて腰を下ろした文月は、読書に没頭している彼女へ問いかけた。


「七瀬、何を読んでいるんだ?」

「……あっ、文月先生お帰りなさい! お邪魔してます! えっと……」


 声をかけなければ気付かないくらい、集中して読んでいたようだ。文月を映した瞳がやけに水っぽく、泣き出しそうに見え、文月は僅か、目を張ってしまった。

 七瀬はすぐに視線を下げて、左手側に置いていた一冊の本を持ち上げると、その表紙を確認する。


「最初に銀河鉄道の夜を読んでいたんですけど、読み終わっちゃったので、今は葉桜と魔笛を読んでました。……なんかこれ、すごく、胸にぐっと来るようなお話ですね。妹の、『あたしの手が、指先が、髪が、可哀そう。死ぬなんて、いやだ』って台詞で、泣きそうになっちゃいました」


 照れ臭そうに頬を掻きながら、唇で三日月を象った七瀬に、文月は小さく息を吐き出した。呆れられただろうか、と顔色を窺うような七瀬の目線を受けたものの、文月が口にしたのは心配しているとも取れる言葉だった。


「……また聖譚病に罹る、なんてことがないよう、気を付けながら読んでくれ」

「聖譚病って、一回罹った人でももう一回罹ったりするんですか?」

「滅多に無いな。そもそも珍しい病だ。その病に二度も罹るなんて、宝くじの一等を二回連続で引き当てるようなものだろう」

「今までに二回罹った人っています?」


 文月が眉を寄せて、テーブルの上を見つめる。しかし、その空間を見ているわけではないのだろう。彼は記憶を漁っていた。眺める先は変えることなく、思い起こしたことをぽつりと零した。


「いた、と思う。……君は、一つ一つの物語、一文一文の情景、一言一言の感情に入り込みすぎるところがありそうだ。だから、これから様々な作品を読んでいくことになるだろうが、あまり感情移入しすぎないように注意してくれ。君がまた聖譚病に罹る確率は、低いにしても零ではないんだ」

「は、はい。でも、文月先生がいるなら、好きなように本を読んで、好きなように没頭しても大丈夫じゃないですか?」

「どうしてそうなる……」

「だって、何度でも助けてくれそうじゃないですか」


 七瀬が笑顔で文月を見てみれば、彼は今にも叱責を飛ばしそうなくらい唇を歪めていた。笑って誤魔化しながら、七瀬は慌てて両手を振る。


「半分くらい冗談ですよ、気を付けます」

「半分は本気だったのか」

「まあ……いつ現実から逃げたくなるかなんて分かりませんし。そうやって逃げちゃっても、文月先生の素敵な贋作で目を覚ませるなら嬉しいじゃないですか。文月先生の朗読って、なんか、すっごく素敵なんですもん。前へ歩いて行きたいって思えるような……もう立ち止まってなくていいんだって、そう思えるような感じで」


 言いながら、何かを思いついたように、七瀬が両手を叩き合わせた。双眸を輝かせて、テーブルに身を乗り出した彼女の勢いに、文月は無意識下で上体を逸らす。背もたれに寄りかかった文月へ、力説するかのような彼女の声が高く響いた。


「そう考えたら、この前先生が言ってた待雪草の花言葉の『希望』って、すっごく先生の贋作に似合ってますよね! 患者に希望を与えられるって、ホントすごい。やっぱり、文月先生みたいになりたいです!」


 文月が目を皿のようにしたのは、戸惑ったからだろうと推察した。けれども彼を見れば見るほど七瀬は、その推察に自信を無くして行く。照れも呆れもしない彼の言葉は、いくら待っても紡がれないように感じた。七瀬は不安になって、彼の瞳孔の奥まで見入るよう、顔を近付けた。

 まるでどこかへ行っていた意識を取り戻したみたいに、文月がようやく焦点を七瀬に合わせる。視線が真っ向からぶつかり合って、動揺したのは七瀬の方だ。彼の虹彩が、水面の月のように淡い色をして、揺れていた。


「先生?」

「……七瀬。俺は、誰かに希望を見せられていると思うか?」


 力の欠けた声は微かに震えながらも、空気の中に霞んでいく。それがどこか細雪ささめゆきに似ていて、彼が溶け消えてしまいそうな響きに、七瀬は心ともなく声を張り上げた。


「……はいっ! そう言ってるじゃないですか! 私は文月先生に希望を――」


 急に立ち上がった文月の右手に頭を押され、七瀬は内心吃驚しつつも、静かに俯いた。ほんの少し暖かな手の平が、足音と共にそっと離れて行く。


「ありがとう、七瀬」


 台所の方で、硝子が擦れた音色が聞こえてくる。七瀬は、コーヒーを淹れにいったのであろう彼に届くよう、声を投げかけた。


「私の分は用意しなくて良いですからね! 今、喉渇いてませんから!」


 掛け時計の秒針以外が響くことの無い室内で、張り上げられた七瀬の声はしかと文月に届いただろう。それでも不安にはなるらしく、彼女は椅子の背もたれに臍を向け、セーラー服姿だというのに両足を大きく開いて、跨るような姿勢で台所の方向をじっと正視していた。

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