山月記の夜に4
「山に関しては様々な推測が立てられるが……月は李徴の人間の心との繋がりを持っている、とは俺も思う。そういう解釈に結びつくような描写があるからな。それに月は感情や感受性を意味する。ただ、他にも様々な象徴を持っているから、なんとか贋作を真作とは違う結末に持っていけそうだ」
「象徴……ってなんか面白いですね。山は?」
面白いといわれたことが嬉しかったのか、それとも質問を受けたことが嬉しかったのか、文月の瞳は優しさを帯びて細められる。
「山には、自我の確立、困難、創造性といったような象徴があり、人はしばしば、山を神のような存在として崇めてきた。『山月記』という題名は、全てを見知っている神に近い存在――山が記した、月の話……とも考えられるな、と俺は思っている」
「へぇ……!」
七瀬の感嘆の吐息が夜空に吸い込まれて行く。文月から聞いた話を七瀬が頭の中で纏めている間、遠くから聞こえる鈴虫の鳴き声が緘黙を埋めていた。煉瓦の歩道から書川橋に進めば、靴音が高く響き、下方を流れる川と涼やかな合奏を始める。
気まずさ無しに自然と会話が無くなった中で、先に話し出したのは文月の方だ。
「そういえば、俺を助けてくれた綴者に聞いたことがあるんだが……とある綴者が、自身の仕事に関して綴った物語があるらしい。綴者になりたいという君の助けになるかもしれないから、時間がある時に探すつもりだ」
「綴者が書いた日記みたいなものなんですかね? なんか、すごく参考になりそう……! 楽しみにしています!」
「あまり期待はせずに待っていてくれ。俺の恩人によると、大して良いものでもないらしい。ただ、筆者の綴者がどんな風に仕事をこなしていたか細かく書かれているらしくてな。綴者を目指している段階である君には、勉強になるのではないか、と思ったんだ」
「うーん、じゃあ、少しだけ、期待します!」
横に引かれた七瀬の口から、「へへ」と嬉しそうな息が漏れる。真ん丸の瞳を動かして文月の方を見てみたら、彼は遠くの景色を捉えたまま、郷愁を覚えているようだった。
「文月先生って恩人の綴者さんと仲良しなんですか? 私みたいに、学ばせてくださいって言いに行ったりしました?」
「仲良し……どうだろうな。君のように言いに行ってはいないぞ。治してもらったお礼と、綴者を目指し始めたことなどを手紙に綴り、恩師に送りはしたが」
「手紙かぁ……返事、来ました?」
「いいや。代わりに、本人が俺の家に来た」
回顧する横顔は困ったように笑っていた。七瀬は、自分では作れそうにない相貌に、彼が大人であることを実感させられる。
「連絡もなしに来たものだから、あれには驚いたが……俺は自分で思っていた以上に彼を慕っていたようでな。顔を見た瞬間に駆け寄って、お礼と『貴方のようになりたい』という思いを、勢いに任せてぶつけてしまった」
「でも、そう言われて嫌な気持ちになる人はいないと思いますよ」
「そうだな。あの人も……人のことを犬のように撫で回して、『綴者について沢山教えてあげよう』なんて、いきなり講義を始め出した」
その様を想像してみた七瀬が、可笑しそうに小さく吹き出す。
「文月先生もその人みたいだったら良かったのに」
「……君に『勝手にしてくれ』と言った後に、何故あの人のように優しく受け入れられなかったのだろうと、自分で思ったよ」
「えっ、あ、あの、今のはちょっとした冗談っていうか! だって、迷惑になるようなことを言った自覚ありますし! それでも面倒見てくれてる文月先生優しいなって思いますし!」
「それは……少し違うな」
文月の指先に僅かながら力が込められた。さりげなく引っ張られた七瀬が彼に近寄ると、広い橋の真ん中を一台の車が駆け抜けて行った。切られた空気が風を起こして、七瀬の右肩を小さく震わせる。
七瀬は、言い消されたものが何であるのか分からず、文月の声に回答を委ねていた。
「優しさではない。ただ……嬉しかったから、俺は君を拒まなかった」
「そう、だったんですか……?」
「……ああ。その嬉しさをどうしたら良いか、分からなくてな。おかげで、俺が恩師にしてもらったようには出来なかったんだ」
面映いといった様子で唇を歪めてから、文月は「この話は終わりだ」とぶっきらぼうに投げた。七瀬の「はぁい」という声が嬉しそうにしか聞こえず、彼は顔を顰めていく。
時刻はまだ十九時くらいだが、人の通りは少ない。方今、七瀬の右側を一台の車が駆け抜けて行ったきり、車とも人ともすれ違わなかった。
橋を渡ると、秋風が金木犀の香りを運んできた。落ち着いた夜道は人通りの多い昼間よりも、町に漂う季節を深く匂わせる。どこか古風なガス灯の、夕陽に似た灯りに背を向けて、七瀬は『榊田』と書かれたプレートが貼られている石塀の間を通り抜ける。文月の指先に彼女の袖が擦れて、遠ざかった。
敷地内に入らず、煉瓦が敷き詰められた歩道にそのまま佇む文月へ、七瀬が破顔した顔を振り向かせた。柔らかに撓った、静穏さを滲ませる目元は、淡い月明かりでほんの少しだけ大人びて見える。
「文月先生、送ってくれてありがとうございます。明日、寝坊しないように早寝早起きしますねっ」
控えめに手を振った七瀬は早足で、玄関まで続く石畳を踏んでいく。その音の余韻に耳を澄ませながら、文月は再び橋を渡った。
虹彩を少し動かせば、川が視界に入った。街灯や月光で仄かに煌く水は、夜空から溢れた藍色で塗られている。星空を薄らと映している
そんな彼が橋の上で足を止めたのは、一分にも満たない短い時間だ。それでも、その顔を覗き見た者がいたなら、彼の視線の先を思わず辿ってしまったろう。
それくらい、彼は水面に揺蕩う三日月に、眼を縫い止められていた。
(三)
午前零時。文月が七瀬を送り届けた時よりも、心做しか夜の暗色が濃くなったように思われる。書き上げた原稿をダブルクリップで留め、それを右手に持って御厨の店の前へ赴いた文月は、手を振る御厨を目にして唖然とした。正確に言うなら、彼の傍にいる一名の、警察の制服を着た若い男性を目に留めて、だ。
「……御厨、君、そうか。俺は患者のことばかり考えていたから、そこまで頭が回らなかった」
「いや、一時間くらい前から彼が見回りしてたからよ、あっと思って声掛けて、事情を話したんだ」
御厨に、まるで知人を紹介するような手振りと視線を向けられた警察官が、文月に向けて綺麗な敬礼を見せた。
「郵便局前と花屋の前にも、それぞれ一名を控えさせています。……それにしても、まさか犯人が聖譚病に罹っているなんて……。目覚めさせなければどうにもなりませんから、犯人の治療をよろしくお願いしますね」
「分かりました」
彼に頭を下げた文月は原稿を眺め始める。緊張感からか、意図せず吐き出した長い息が、紙にかかる。文月は御厨の店の前辺りにある電柱に寄りかかって、書川橋に一瞥をくれてから、自身の書いた贋作を読み続けた。
それからどのくらいの時間が過ぎた頃だったか、何かを地面に落としたような金属音が響いた。微かに、とても小さな声も聞こえる。服飾屋の向かい側にある建物の、そこから一軒西側に建っている和菓子屋。その辺りから聞こえた音に、御厨も警察官の男性も顔を上げている。ゆっくりと音の発生源へ近付いて行く男性の顔が強張っていることと、指先が僅かに震えているのを見て、文月は唾を飲んだ。
連続殺傷事件を起こしている患者が現れれば、いくら護衛に御厨や男性がいてもどうなるかは分からない。警察官と言えど彼も人間だ。文月は自身の、戦慄に近い緊張を、唾と共に飲み下した。
ひ、と息を吸い込んだような、悲鳴に似た声が文月の耳を突いて、文月は電柱から背を離し、和菓子屋の方を睨み据える。後退した男性が慌てながらも、暗闇から突き出た腕を掴んでいた。
男性に引きずり出されるように、街灯に照らされる位置まで足を進めて姿を現したのは、白いワイシャツにジーンズを履いた男だ。掴まれている腕の先には、包丁が握り締められていた。彼の袖口が乾いた絵の具で彩られているのを確認して、文月は彼が四ツ木雅也であると確信する。
四ツ木を取り押さえようとしている警察官から視線を逸らした文月は、唇を噛み締めて、手元の原稿の文字を追った。
――四ツ木雅也という男は、描画の才能に優れ、学生時代には学内のコンクールだけでなく、県内のものでも賞を得られたが、彼は己の手筋に自信がなかったことに加えて、大学時代交際していた女性と婚姻する予定もあった為、絵描きの道に背を向け一般企業に就職を果たした。しかし、人よりも画布と相対することが多かった彼は、妻以外の人間と上手く接することが出来ず、それゆえか職場の者に軽視されるようになって、不安や不満といった重い感情の塊を心髄に蓄積していった。沈淪させ続けたそれが咽喉まで込み上げるのに、さほどの時間を必要としなかった。ものの数年で、彼は業を煮やして辞職し、再び絵を描き始める。描いた絵を様々な場所へ持ち込んだが、彼の絵は誰にも絶賛されることなく、見ているのかさえ分からない打身と、気持ちのない謝辞だけを投げられた。
行き場が思い当たらずに、黒目だけを彷徨させる四ツ木を、妻が「ゆっくりで良いから無理はしないで」と慰める日々。一時の甘えを自身に向けた四ツ木が、馳せる勢いで家を飛び出したのは、それからすぐのことになる。
一週間が経過した頃、連続殺傷事件が起きている書川橋へ、深夜、四ツ木の妻が足を運んだ。橋を渡ろうとした彼女の前へ躍り出たのは、一匹の狼だ。犀利な牙を月明に晒し、狼は彼女に飛び付こうとしたが、既の所で身を翻すと建物の影へ転がり込んだ。
「危ないところだった」という呟きに、四ツ木の妻は、もしやと声を上げた。あなた、と、聞き間違えるはずもないくらい耳にこびり付いている音吐が、狼の耳を掠める。震える呼吸を漏らしながらも、かろうじて「ああ」と返事をした彼だが、家を飛び出した挙句こんな姿になった自分を、妻に見せるのは忍びなかった。
四ツ木にとって彼女は、学生時代最も親しい友人であり、人付き合いが苦手な四ツ木を一度も軽視したことのない人物だった。だからこそ現在の関係に落ち着け、生涯を歩みたいと思った矢先の、自身の出奔だ。顔向け出来るはずがない、と思っていれば、妻が、何故出てきてくれないのかと問うてきた。
先程、僅かな時間とはいえ、この獣の身を曝け出したのだ。分かっているだろう、と返したはずの口は、四ツ木の考えとは全く違う風に動いている。「どうしてこうなったか、その場で聞いてくれないか」。その言葉に伴われていたのは、確かに彼自身の声遣いだった。独りきりで堪えていた感情が流露するように、声は続けた。
家を飛び出したあの日、何かに誘われるようにひたすら地面を踏みしめ、駆け続けていた。気付いたころには橋の上にいて、この瞳には流れる川が映っていた。遠く、遠くにある川に薄らと浮かぶ自身の面影。それは不思議と、俺の知っている自分ではないように思えた。口唇の隙間から漏れる息がやけに荒く、夜音が普段よりも殷々と響いてくる。それを感じながらも、けれどおかしいとは感じていなかった。夢を見ている気持ちだった。だが、橋を通りかかった人間を見た時、意識がどこかへ飛んだ。自我を取り戻した時には俺の両手は血に塗れていて、口の周りに不快感を覚えた。嗅覚を刺激する腥い香りが体に染み付いていたのだ。眼を下ろせば、そこには人だったモノが倒れており、そこで抱いたのもまた「おかしい」というものではなかった。ただ、慄然していた。その
ああ、だけど、恐ろしい。物陰で、すすり泣くように四ツ木は繰り返し、続けた。
恐ろしい。何故こんなことになってしまったのだろう。人は死期も分からず生きているが、やがて死ぬことは分かっている。しかし誰が想像出来るだろう、己が獣に身を落とすことなど。誰が思うのだろう。こんな形で、終わりを迎えてしまうなど。君、そうだ、筆を貸してくれないか。自我が消えてしまう前に、最後に一枚、絵を描いておきたいんだ。頭に死を過らせたことは何度となくあった。だがこうして最期を身近に感じると、まだ死にきれないと叫びたくて堪らないんだ。まだ、何も手に入れられていないんだ。もう一度だけでいい。筆を握りたい。描きたいものがまだある。最後の一枚くらいは、認めてもらえるかもしれない。だから――けれど、ああ。そうか。忘れていた。俺は今、獣だったな。
自嘲的な声が高く響き、夜空の高い所へ登った満月へ吸い込まれて霧消する。空の鉄紺色はほんのりと明度を上げたように思える。四ツ木は建物の影から、嘆声を発した。
きっと、俺は何もかも胸に仕舞い込んだままだったのがいけなかったのだ。胸間に蓄積された君への罪悪感と、そこから生じる劣等感が、あまりに恥ずかしく、孤高と言う虚勢で覆わなければ、もうどこにも行けなかったのかもしれない。自分すら騙すよう、強い自尊心を大きくしていくうちに、罪悪感も劣等感も、全てが胸裡で飽和して、俺を狂わせたのだろう。人間の、感情的になるあまり暴力的になってしまう面を発露し、それだけに止まらず、内側から溢流した俺の真情がこの身すら変えてしまったのだろう。女である君が息せき切って仕事に精を出す中、男である俺が一銭も稼げない。そんな恥ずかしく情けない自身の、せめて外面だけでも強くありたかったのだと思う。俺は強さの意味を履き違えていたようだがね。だからだ、誰の力も借りず、自身だけで絵の才を磨き、他人の言葉は受け入れぬまま、画力を保つことに必死になっていた。独りで何かを成すことで、賞賛を得られると信じていたのだ。だが、どうだ。何にもならなかった。俺が強さだと、讃歎に繋がると信じたものは、ただ他者へ目を向けることで膨らむ劣等感から逃避しただけだ。独りきりで閉じこもっていては、実力も言辞も、何も得られなくて当然だったのだ。何年も描き続け、もう終わるのだと思ってから気付いた。漸くだ。あまりに、遅い。俺はどうすれば良い。どうしたものかと思えどどうにも出来ぬのだ。分かっていても、堪らなくなる。そういう時、俺は込み上げる衷情を遠吠えに乗せ、あの月を眺める。誰か、この痛哭を聞き届けたものに、同情とは違う、他の、もっと優しい何かを向けてはもらえないだろうかと、
四ツ木が語るうちに深まっていく夜は、空気にひやりとした冷たさを纏わせていく。青白い月影を受けながら、妻は四ツ木に耳を傾け続けた。四ツ木は自身を嘲弄するような語調で言った。
もう、お別れだ。俺が消える時が近付いてしまったから。名残惜しく思うが、君を寒空の下でいつまでも引き止めてはおけない。君は、こんな獣のことなど忘れて、二度と夜にこの道を選ばないで欲しい。
四ツ木は暗闇から飛び上がるように躍り出た。妻の方など一切見ないまま、彼は橋の高欄の上へ昇る。白く淡い月を眺望し、ふと呟いた。
君、最後に一つだけ頼んでも良いだろうか。俺の絵を全て、捨てて欲しい。君が忘れられるように。俺が、悔いを残さぬように。躊躇わなくていい。どれも、ただの無価値な紙切れだ。
嘲謔が呻吟のように吐出される。四ツ木の眼の中で――。
――朗読をそこまで続けて、焦燥に塗れた声に、文月は目を細めた。右手で原稿を持ち、読み終えた用紙を咥えて引き千切り、地面に吐き捨てては次の用紙を読み、と繰り返していた文月は、御厨と警察官の声を朧げに聞きながら、近付いてくる乱れた靴音をしかと耳に留め、残り数枚の原稿用紙を上空へ投げた。
「文月!」
用紙で遮られていた視界に、眠ったままの四ツ木が迫ったのは、文月が予測していたよりも速かった。小さな舌打ちを零した文月は、背を道路に打ち付ける。文月の右肩を押さえ付けた四ツ木が、腕を持ち上げた。白く煌く刀身にひとたびも目を向けず、文月はトレンチコートの内側に手を差し込んだ。袴の腰の紐で固定していたモノを引き抜き、刃が振り下ろされる前に四ツ木の顔面へ突き付ける。
包みを取り去られた三輪の薔薇。それを顔に押し付けられ、数秒動きを止めた四ツ木だが、その腕は文月を突き刺しに来る。しかし、御厨に右腕を、警察の男性に左腕を掴んで引かれ、文月から離された。
立ち上がった文月は後ろへ落ちた原稿を拾い上げて、冬の空気よりも冷ややかな声音を、夜風に攫わせた。
「切りたければ切ればいい。だが、最後までしかと聴いてくれ。これは貴方の物語だ」
緊迫した空気を文月が吸い込んだ。漂う風が針のように鋭かったが、その瞬間に鋭さは嘘みたく薄れて行く。柔らかな空気に、薔薇の匂いが甘く広がっていた。
――君、最後に一つだけ頼んでも良いだろうか。俺の絵を全て、捨てて欲しい。君が忘れられるように。俺が、悔いを残さぬように。躊躇わなくていい。どれも、ただの無価値な紙切れだ。
嘲謔が呻吟のように吐出される。四ツ木の眼の中で、
いいえ。どの絵も、あなたが頑張ったものでしょう。あなたがあなたらしく在ろうとしたことの、何が無価値だったと言うんです。
小夜風が鳴くほどの深閑に、引き攣った吸気の音が透き通っていく。四ツ木はそれでも振り返ることが出来ずにいた。哀惜を絞り出すだけで彼の喉は締め付けられていた。
今の俺なら、今まで遠ざけてきたモノと、目を背けてきた弱さと向き合える。なのに、もう、遅いんだ。運命はあまりに非情だ。人に戻れたなら、奥へ追いやっていた情けない俺と、向き合えそうなものなのに。一時の激情で背を向けてしまった君と、もう一度顔を合わせられそうだというのに。なあ、君、俺はまだ獣か。獣の姿か? いや、自分で確かめれば良いな。いつだって俺は、君の力を借りてばかりだ。
風が舞う。泣き出しそうに、四ツ木の声が震えた。飛び上がった彼が目指したのは、夜空に浮かぶ月ではない。逆さになった景色に浮かぶ水月だ。
飛沫を上げた川を、妻は咄嗟に覗き込んだ。水面から顔を出したのは、妻が愛した男だった。
――包丁と道路が立てた涼やかな音に、文月は顔を上げる。御厨と警察官に腕を掴まれている四ツ木の手は、脱力したように下を向いていた。
「あ……、あ……」
彼は、開きっぱなしになった口から母音だけを零す。警察官が文月に頭を下げ、彼を連れて行こうとして、今更はっとしたようにトランシーバーを腰から抜いた。慌ただしく、震えた声で確保したと連絡し、花屋がある通りの方へ去って行った。彼らを見ていた文月の視野に、花束が差し入れられる。
地面に落ちていた原稿用紙を左手に持った御厨が、右手で薔薇を手にしていた。
「なあ、お前、なんでこの薔薇持ってきたんだ? 俺の知らない人物に見せびらかすって、まさか、今さっきのことじゃないよな……?」
「いや? 君の言う通り、四ツ木に突き付けるつもりでその薔薇を、ティーローズを用意した。ティーローズは香りが強めで、その香りには鎮静効果がある。精油よりも生花の香りの方が強く、効果も強い、と聞いたことがあってな、試してみたんだ。結局、君が止めに入ったから効果があったかは分からなかったが」
「止めるに決まってるだろ……というか護身用に持つならもっと武器になりそうなモノを用意しろよ!」
「相手に危害を加えたくはなかったし、万一気絶でもさせてしまったら、朗読を聴かせられないだろう」
呆れの意を込められて見上げられる御厨だが、彼も全く同じ視線を文月へ返したかった。しかし苛立ちの方が勝っているようで、文月を睨むように射抜くことしか出来ない。鋭く貫かれても、文月は全く意に介さず、朗々と語り出した。
「月の象徴が、真実への導きを与えるもの、だというのは知っているか?」
「知らねぇよ。それであの結末なのかよ」
「そんなところだ。それと、タロットの月の逆位置には、過去からの脱却。徐々に好転する。未来への希望、などの意味がある。……聖譚病から目覚めた彼に、幸運が訪れてくれれば良いんだがな」
御厨は、文月の顔を見て反射的に口を開いていた。けれども結局何も口にしないまま、上下の唇を合わせる。
患者の身や未来を心から案じ、目覚めた患者を優しい瞳で見つめる彼に、御厨は助けてくれと今すぐ叫んでしまいたかった。
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