山月記の夜に2
「虎の話なのか? 我輩は猫である、みたいな」
「元は人間だった
思い出しながら語っている文月に、御厨は相槌を打つ。半分にも満たない量のコーヒーを見つめて、カップを傾けたり揺らしたりしている御厨から、作品への興味はあまり感じられない。けれども彼の耳は、文月の話をしかと聞き留めていた。
「それから李徴は、自分がこうなったのは臆病な自尊心と尊大な羞恥心が原因であり、それらが胸の内に飼っている猛獣であったこと、そしてそれが、自身を内面に相応しい姿に変えてしまったことを自嘲的に語る。やがてすぐに、彼が虎に戻らねばならない時がやってきて、李徴は最後に、妻子のことを袁傪に頼んだ。虎になったことなどは伝えず、自分を死んだと伝えて、妻子が飢え死ぬことなどないよう計らってくれと」
「頼み事多いな」
「君は多いと感じたのか。俺には、最小限に留めたように思えた。もし自分が人ではなくなると分かった時、李徴よりも多くの頼みを口にする人間はきっと多いだろう」
「というか長いな。まだあるのか?」
思っていたことを口に出し、文月の顔色を窺ってから、御厨は口端を引き攣らせた。彼は作品について語ることを楽しく思っていたのだろう。こういった時にしか見られないくらいの綺麗な微笑が、御厨の一言で固まっていた。
太陽が雲に隠された時みたく、容易に分かる程、彼の顔に陰が差す。御厨は、今し方の笑みが目の錯覚だったのではと疑ってしまう。彼が表情を無くして遠くを見るような目をしていることに、微かな申し訳なさが御厨の胸を巡った。
「君が飽きてきたようだからこのくらいにしておこう。……そういえば、作中で李徴は、自分が人間であったのなら、妻子のことを先に頼むべきだったのだと口にするが」
明らかに声のトーンを落としているのは、意図的ではないのだろう。それでもまだ饒舌に語る彼へ、「このくらいにするんじゃなかったのか」と口を挟みそうになって、御厨はコーヒーのカップを唇に押し付けた。余計な一言をコーヒーと共に嚥下している内にも、彼は話を続けていた。
「俺は、彼が人間であるからこそ自身の頼みを先に口に出してしまったのだと思えた。それでもそのことを後悔して自嘲する彼は、どこまでも人間らしかった。――っと……済まない。少し延びたのは許してくれ」
文月はトレンチコートのポケットから腕時計を取り出し、文字盤をじっと見つめる。上げられた彼の瞳は、御厨よりも後方を映していた。居間へ続く廊下に背を向けている本棚。そこに、立ち上がった彼は声を掛けた。
「七瀬、君を家まで送る。それと……そんな所に座り込むな。あまり掃除をしていないから、汚れるぞ」
背中の向こう側から文月に呼びかけられ、七瀬は息を呑む。何故、いつから気付かれていたのだろうと思いながら、その疑問を振り払うように頭を左右に動かし、スカートの埃を払いながら立った。本棚から彼らの方を覗き込むと、御厨が椅子に座ったまま、苦笑いだけを振り向かせている。
「七瀬ちゃん、ここじゃ革靴の音は響くんだから、足踏みとかした方が良いぜ。あと、本棚に背中ぶつけないように座るとか」
「御厨、君はどうする? 付いて来るか? それともここで待っているか?」
「あー、間を取る」
「は? ……七瀬、行こう」
数秒考えて、御厨がどうするのか察したらしい文月は、呆れた、と視線で彼に伝えてから七瀬に向き直る。付いてくるだろうと思って歩を進めた文月だが、足音は自身のもの以外響いてこない。歩みを止めて背後を窺ってみれば、七瀬の不服そうな視線に射抜かれた。
「文月先生、どうして聖譚病患者が出たのに私は除け者なんですか」
「……話を聞いていたんじゃないのか。今回の聖譚病患者は、連続殺傷事件を起こしている者だ。それに患者と接触できる時間は深夜から早朝にかけて。君はきちんと睡眠を取り……いい加減学校に行った方が良い」
姉の死後、学校に行かなくなっていた七瀬。聖譚病に罹り、治った後も登校していないことを、彼女がここに来る時間と曜日を鑑みて、文月は知っていた。彼女も隠していたわけではないだろう。しかし、学校という名詞を口に出されて、その顔に不機嫌の色が表れる。
「別に、学校に行ったって、そこで学べることは私にとってどうでも良いことだし。お姉ちゃんが亡くなってから、私を腫れ物扱いするような空気が鬱陶しいし」
「君が綴者になりたいと強く望めば、確かに学校に行かなくても独学で学んで、いつかは綴者になれるはずだ。けれど、君のその時間は今しかないんだぞ。後悔する未来が少しでも見えるなら、ちゃんと行った方が良い」
文月は、まるで親や教師みたいなことを言う。彼の言葉と、頭に浮かんだ大人の顔が重なって、七瀬は俯いた。自分を救ってくれた人でも、結局は他の大人と同じなのか、と唇を噛んでいたら、彼の嘆息が聞こえてきた。
「まあ、行きたくないなら無理にとは言わない。君が鬱陶しいと言っていた空気がどういうものか、想像はつく。ただ、綴者になりたいのなら学ぶことを疎かにするな。学校ではなく俺の家に通うなら、教科書を持って来い。どの教科も教えられる範囲で教えてやる」
「文月、先生」
「……済まない七瀬。俺は高校の授業も受けてみたかったから、君にとっては口にしないで欲しいことや鬱陶しいことを言ったかもしれない。不快に思ったなら全部忘れてくれ」
呆然としたように文月を見上げる七瀬に「行こう」と投げかけて、文月は再び玄関へ歩き始めた。慌てた足取りで七瀬が彼の背を追いかける。扉の開閉音を聞いてから、御厨は二人の後を追った。
外へ出て、歩道を辿る文月の隣に、七瀬は駆け寄る。
「文月先生は、なにをどう学んで綴者になれたんですか?」
「そうだな……ひたすらに小説を読んで、書いていたな。新しい作品や古い作品、本屋や図書館にあるものを全て読む勢いで何冊も読んでいるうちに、自然と書きたい思いが湧いていく。それで、読むのを一旦やめて物語を作ってみる、ということをしていた。他に何をどう学べば良いのか俺には分からなかったんだ」
「……どうして綴者を目指したんですか?」
煉瓦が敷かれた歩道を進みながら、七瀬は、自分よりも頭一つ分くらい高い位置にある文月を見上げた。歩道と車道の間に並ぶ木々から陽光が漏れている。木漏れ日を浴びた彼は薄く笑っていた。
「君と似たような理由だ。聖譚病に罹って、綴者に治してもらった。目を覚ました時……箱の中に残されたままだった希望を、見せてもらったような感覚を覚えた。片腕が無くて働けない俺でも、書くことは出来ると思ったから、綴者を目指したんだ」
「……やっぱり私、文月先生みたいな綴者になりたい」
照れ臭そうに、けれど楽しそうにも見える表情で語る彼に、七瀬はぽつりと零した。車の通りが少なく、その呟きを掻き消すほど大きな音はどこからも響いていなかった為、彼はその一言をしかと聞き取っていたようだ。彼の切れ長の吊り目は、柔らかく細められる。
「なら、沢山の本を読んで学ばなければならないな」
「沢山、頑張って読みます。それで、文月先生が贋作を書いて読み上げる姿を、沢山見ていたいです」
「そうか。だが、今回は危ないから駄目だ」
「えーっ、ケチ! 先生だって危ないじゃないですか! だから私が先生の左腕になろうと――」
思ったのに、と言い切る前に、七瀬は唇を結んでいた。気付けば、文月の右手が頭の上にある。撫でることに慣れていないような、ほとんどと言っていいほど力の込められていない手が、軽く頭を擦って離れていった。
「俺には御厨という……盾、というか、壁に近い奴がいる。だから心配するな」
心地良い風に流されて行く文月の声に、七瀬は下を向いて、頬を膨らませた。
(一)
書川橋を渡って七瀬を家に送り届け、再び橋に向かおうとした文月は、橋から川を眺めている御厨に溜息を吐き出した。
「それで、君は何故尾行の真似事をしたんだ?」
「師匠と弟子を二人きりにしてやった方が良いかと思ったんだが、余計なことだったか?」
「別に師匠では……まぁいい。聞き込みに行くぞ。自称情報屋である君が、不甲斐無いことに仕事を怠っているようだからな」
「俺だって忙しい時は忙しいんだよ」
川のせせらぎに靴音を響かせ、文月は石橋を通って行く。そんな彼を追いかけた御厨は、彼の右手をちらと見やった。
「なあ、文月」
「なんだ?」
「……あー、いや、やっぱりいい」
珍しく、静かな声音で口を閉ざした御厨に、文月は眉根を寄せた。御厨を後目に見ると、彼は悩むような顰め面を正面に据えている。文月の視線に気付いていないのか、進行方向だけ凝視する彼の黒目は動かない。
黒いブーツで煉瓦の歩道を踏みつけると、文月はようやく御厨の視線をこちらに向けさせた。言葉や声で、ではなく、彼の横腹に軽く肘を打ちつけることで、だ。
「いっ……てぇな、なんだよいきなり!」
「少しぶつけた程度でそれほど怒るな」
「いきなり攻撃されたら誰だってキレるだろ!」
「それは、分かるな。君だって、俺が真作に敬意を示す一礼を終えた際、後頭部を殴ってきたじゃないか」
「それはお前が、声を掛けても気付かなかったからだって言ったじゃねぇか!」
お相子だ、と小さく返した文月は、御厨の革靴を踏む勢いで彼との距離を詰める。吃驚しているような彼の顔を、文月は鋭さを帯びた瞳で見上げた。
「君が何に悩んでいるかは知らないが、あまり無理をするな。先程言いかけたことは、言いたくなったら、ちゃんと言ってくれ」
「…………ああ」
「ちなみに言っておくが、今俺が鞄を持っていないのは忘れたからではない。夜までに情報を集めなければならない為、邪魔になると判断して置いてきただけだ」
「あ、ああ。そんなことは気にしてなかったし、言おうと思ったのはそんなことじゃねぇぞ?」
目を丸くした文月は、御厨が多少なりとも鞄のことを気にしている、と思っていたみたいだ。何も持っていない自身の手に一度視線を移した後、文月は空気を変えるように御厨へ背中を向け、道を眺めた。
「この通りで事件の被害が出たのは何回だ?」
「ここは、三日前に負傷者が一人出ただけだ。俺の店がある通りは四日前に死者が一名、昨日と今日は負傷者が一名ずつ。郵便局がある通りは一昨日負傷者が一名出てる」
「そうか。なら、取り敢えずこの通りで聞き込みをしたら、次は君の店がある方へ行く。……聞き忘れたが、負傷者や、亡くなった者の身元は?」
御厨はグレーのスーツの胸ポケットから黒い手帳を取り出した。そういったことに関しては調べていたようだ。紐の栞が挟んであるページを開くと、彼は書かれていることを述べていく。
「この通りの被害者は、花屋の店員だな。腕を、軽くだが切られたみたいだ。俺の店がある通りは、和菓子屋の店員が軽傷、新聞配達員が軽傷、仕事帰りの男性が亡くなってる」
「ならまずは……花屋か」
文月が目を向けたのは、橋を渡り、歩道を歩いて行けば二軒目にある建物だ。店の入り口に色とりどりの花が置かれており、テント看板には『書川生花店』と書かれている。
早速文月は店の前まで行くと、入店する前に左右を見て、右手側にある花桶へ手を伸ばした。彼が手に取ったのは、三輪の薔薇の花束だ。長く真っ直ぐな茎に、一輪だけ、薄い桃色の大きな花が付いている。花弁を鼻先に近付けて眉を寄せてから、彼は地面に顔を向け、とても小さなくしゃみで肩を震わせた。
その一部始終を見ていた御厨が、可笑しそうに笑いながら首を傾ける。
「文月、お前なにやってんだ」
「……確認しただけだ」
「花の匂いが無理なことを?」
「違う」
嘲笑に似た笑みを向けられ、文月は御厨を睨んで、店内に足を踏み入れた。中で鉢植えの整理をしていた三十代くらいの女性が「いらっしゃいませ」と笑顔を咲かせる。
文月は手にしていた薔薇の花束を彼女に差し出した。
「これを、お願いします」
「かしこまりました」
花束を受け取った彼女が、いくつもの花桶を通り過ぎてカウンターの奥へ進む。レジを操作し始めた彼女に、御厨がメモ帳を開いて問いかけた。
「あの、三日前、連続殺傷事件の被害を受けた方は、いらっしゃいますか?」
「え、っと、私ですけれど」
事件のことを問われるなどと思っていなかったのだろう、彼女は一瞬の動揺を見せた。しかし顔を上げて、カウンターの前に立っている文月の隣の、御厨の姿を認めて納得したように頬を緩ませる。
「あら、御厨くん。いたのね」
「いくら後ろにいたとはいえ、文月より俺の方が背ぇ高いのに気付かなかったんすか?」
「彼の格好があまりに時代錯誤に思えて……いえ、綺麗なお顔だったから見惚れてしまったのかもしれないわ」
「あ、良いんですよ、言ってやって下さい。お前ファッションセンスが異彩を放ってるぞって」
笑い合う二人を横目に、文月は弧を描いた唇を、裏側で噛み締めた。歪みそうになるのを歯で押さえつけつつ、レジに表示されている値段を確認して、コートのポケットに手を入れた。中を弄り、引き攣った笑みのまま、御厨の腕を小突く。
文月に怒られたのかと思った彼は、文月から一歩分程度離れると、冷や汗を浮かべた。
「か、からかい過ぎた。悪い」
「御厨、財布を忘れたようだ。払ってくれ」
「ああ、分か……っはぁ!? ったく仕方ねぇなぁ!」
御厨が黒い皮の長財布を取り出しているのを見ている文月に、「あの」と控えめに声が掛かる。焦点をそちらに変えたら、店員の女性が笑顔で言った。
「御厨くんはああ言っているけれど、あなたの静かな雰囲気とその服装はよく似合っていると思いますよ。御厨くんだって、煌びやかな雰囲気をしているから派手な格好が似合っているんですもの」
上品な笑みに、思わず文月は目を逸らした。褒められたことに照れたのだろうかと、御厨はにやけ面で彼を見ていたが、彼はすぐにはっとして顔を上げる。
「腕を切られたと聞きましたが、傷は、大丈夫ですか?」
「ええ。深くはなかったので。それで、聞きたいことは犯人の特徴とか、思い当たる人物とか、ですよね。警察の方にも聞かれたんですけれど、暗かったので、背格好から男の人だということしか分からなくて。何かをぶつぶつ呟いていましたが、怖くてちゃんと聞いていませんでした。ごめんなさい」
「いえ、男性だったんですね。ありがとうございます。貴方の知人で、ここ一週間ほど姿を見せていない方はいますか? それと、山月記という作品を、ここ最近目にしたことは?」
「一週間……ううん、常連さんは今週も来てくれているし、店長や他の店員も失踪などはしていませんし……やっぱり、思い当たる人はいませんね。山月記は、学生時代に少し読んだことがありますよ。この年になったらもう教科書を開くことなんてありませんけど」
文月に返事をしながら、女性は御厨から現金を受け取り、レジを操作して釣り銭を彼に渡す。
「そうですか……。教えてくださり、ありがとうございます」
文月は礼儀正しく頭を下げると、女性から花束を受け取って、店を後にした。財布を仕舞い直した御厨が文月の隣に駆け寄り、橋の方へ背を向けて真っ直ぐ進んだ彼と並んで歩く。彼が手にしている花束をまじまじと観察したら、ようやく意を決したように開口した。
「なあ、その花束、七瀬ちゃんにでもあげるのか?」
「何故だ? 七瀬が、花を欲しいと言っていたのか? そうなら、一輪くらい分けてやっても構わないが」
「いや、そうじゃねぇけど……お前花束を贈る相手なんていないだろ」
「何事も、こうだと決め付けて考えたら、本来浮かぶはずの分岐先が見えなくなるぞ」
横断歩道を前にして、渡りはせずに南側――右側へ方向転換し、曲がり道に差し掛かるとまた右へ進んだ。向かい側に御厨の店がある道だ。そこを橋の方へ進んで行く。
「贈らねぇなら、飾るのか?」
「そんなわけないだろう。そうだな……君の知らない人物に、見せびらかすんだ」
「……お前ってホント、何がしたいのか分からないよな」
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