第二章

山月記の夜に1

 書川町かくがわちょうは田舎と言うほど田舎でもなく、都会と言えるほど賑わってもいない。観光地もない為、テレビや新聞で取り上げられることも少ない場所だ。

 しかし御厨みくりや九重ここのえがじっと見ている新聞の切り抜きに、その名が記されていた。書川町連続殺傷事件。この一週間で死者が一名、負傷者が四名出ているらしい。

 視点を手元から正面に移して、御厨は長い息を吐き出した。彼が背にしているのは彼の営む服飾屋だ。その入り口に面した通りの、少し先にある和菓子屋の前に、パトカーと救急車が一台ずつ止まっていた。御厨は、野次馬や警官を眺めるように一瞥してから、洋館じみた民家を目指して足を進めた。

 服飾屋から東側へ真っ直ぐ進み、横断歩道を二つ渡った先に、目立ちそうな廃墟風の一軒家がある。けれどこの町は木々が多く、民家の傍やその一軒屋の傍にも木が聳えているおかげか、あまり人目に付かないようだった。外壁に僅かながら蔓が伸びていることも、存在感を薄くしている要因であると言える。

 元々、民家兼古本屋だったものの、店主が亡くなってから空き家になっていた建物だ。そこが現在の家主に与えられたのは、五年前のことになる。

 御厨は石階段を上って、鍵の掛かっていない玄関をくぐった。鈴が家主に来客を知らせる。家主は今日も執筆に精を出しているのだろうか、と思いながら、本棚に挟まれた廊下を進んで行くと、普段は静かな室内が喧しかった。


聖譚病せいたんびょう患者は少ないんだ。仕事がないのは当たり前だろう」

「えー、でもつまんないですよー! 綴者ていしゃの仕事をしてる先生が見たいですー!」


 ああ、そういえばあの子がいたな、と思い出して、御厨は苦笑を浮かべた。

 一週間ほど前に聖譚病に罹り、ここの家主である文月ふづき八尋やひろに治療してもらった少女、榊田さかきだ七瀬ななせ。文月を「先生」と慕い、彼のような綴者となって聖譚病患者を救うことを夢見ている。彼に救われた翌日から、日毎この場所に通い詰めているようだ。

 書川町で聖譚病に罹る者は、多くて一年に二人。今年は七瀬を治療した為、文月は暫く仕事がないと思っているだろう。働きもせずに小説を書き、書き上がった作品を出版社に送る日々を過ごすつもりの彼にとって、七瀬は邪魔者のようだった。


「今日も仕事はないから、君は帰ってくれ」

「なんでですか! 傍で学ばせてくださいって言った私に、勝手にしろって言ったじゃないですか!」

「君は現状を見て学べることがあると思っているのか!?」

「はい! 贋作じゃなくても、文月先生の作品を横から覗きたいです!」


 どこまでも真っ直ぐな瞳を向けられて、文月が困惑していた。御厨は可笑しそうに吐息を跳ねさせてから、テーブルを挟んで言い合いをしている二人に歩み寄る。

 文月の打見を受けた御厨は、手にしていた新聞の切り抜きを胸ポケットに仕舞い込み、御厨の来訪に気付いていない七瀬の頭を優しく撫でた。


「昼間から元気だなぁ」

「あっ、御厨さん! 今日もイケメンですね!」

「マジか。もしかして七瀬ちゃん、俺に惚れちまったか? ふっ……愛してるぜ」

「きゃーっ!」


 金に染めた髪を掻き上げた御厨に、黄色い歓声が飛ぶ。七瀬は頬に両手を当てて、とても嬉しそうに破顔していた。そんな彼女の長い髪が、一見短髪と見間違える程すっきりしていて、御厨は編まれたそれを留めている髪飾りに触れた。


「編み込みかぁ、器用だな。花の髪飾りもすげぇ似合ってる」

「ありがとうございます! この髪型が一番楽で!」

「セーラー服姿もいいけどワンピースとか着てるのも見てみてぇなぁ……ウチの店来ねぇか? 安くしてやるし、一着プレゼントしてやるよ」

「ホントですか!? 御厨さんホントかっこいいっ!」

「可愛い子に言われると照れるなぁ!」

「そういうのは他所でやってくれないか?」


 楽しそうに声を弾ませる二人に呆れの視線を送ってから、文月は出窓の傍に置かれている椅子へ腰を下ろす。七瀬の相手を御厨に任せて、執筆に取り掛かろうとしている彼に、御厨が人差し指を向けた。


「なぁ七瀬ちゃん、文月は? 好みじゃねぇの? 七瀬ちゃんの思うイケメンには含まれねぇか?」

「文月先生は……まぁ、良く言えば綺麗系っていうか、悪く言うなら弱そうっていうか。守ってくれそうなイケメンじゃないので、あんまり私好みじゃ……」

「あー、綴者の仕事を除いたら無職ってのも、女の子にはモテなさそうだよな。可哀想に」

「七瀬、御厨。もう一度言うぞ? そういう会話は他所でやってくれ」


 眉間に深い皺を刻み、眉を吊り上げている文月だが、苛立ちを堪えているつもりか、唇はなんとか笑みを形作っている。軽口で彼が不機嫌になるなど、御厨にとってはいつも通りのことである。けれども付き合いの浅い七瀬は言い過ぎたと思ったのか、慌てたように妙なステップを踏んで、彼の前にあるテーブルへ両手を叩きつけた。


「でも、私っ、文月先生の作品は好きですよ。私の為に書いてくれた贋作の原稿、何回も読み返しているんです」

「……そうか」

「あの贋作だけで泣きそうになっていたのに、必死な声で私の名前を呼んでもらえて、何が起きているのかとか正直分からなかったけど泣いちゃいましたもん」


 疲れたような息が吐き出されたが、それは文月の照れ隠しだ。頬杖を突いて窓の外へ顔を向けた彼の口元は緩んでいる。七瀬はそれに気付かず、目を逸らされたことに疑問を抱いて、彼の顔を覗き込もうとした。しかし突然立ち上がった彼に驚き、思わず後退していた。

 文月は、少し離れた所に立っている御厨に近付くと、空いている椅子を一瞥してから彼の目を見る。


「話があるんだろう? 座ると良い」

「お、おお。よく分かったな」

「入ってきた時、君は新聞の切り抜きを手にしていた。切り抜いたのは今日の新聞に載っていた、連続殺傷事件のものじゃないか? そんな事件の話をわざわざ俺に持ってくる理由として、俺がすぐに思いついたのは二つだ。『七瀬を一人にするのは危険だから送り迎えをしろ』又は、『聖譚病患者が絡んでいる、仕事だ』。――それで、正答は?」

「……エクセレント。両方だ」


 吃驚して息を呑んでいた御厨から答えを聞いたら、文月は「支度をしてくる」と言って廊下を歩いて行った。本棚の向こうに消えた背中は、御厨の返答を待つ前から支度をしに行くつもりだったように思える。ほぼ確信していたのだろう。

 新聞の切り抜きを手にしている時の御厨を、文月が捉えたのは瞬刻だ。彼の位置からでは文字は読めなかっただろうが、恐らく紙の色と、字の羅列を見て新聞と判断した。

 そんな彼に心の奥で拍手を送っていると、御厨は腕を引かれる。首を傾けた御厨が視線を下げれば、七瀬が左腕を引っ張っていた。


「あの、御厨さん。ずっと気になってて、でも本人に聞くのもどうかなって思って、御厨さんだけに聞こうかと思っていたんですけど」

「あ、あー……なんだ? 文月の話か?」

「文月先生、左腕ってどうしたんですか?」


 問われて、御厨は文月の、歩く度にひらひらと揺れる左袖を想起する。それから目の前の七瀬をじっと見た。彼女がこんな問いをしているのは、左腕がない彼を嫌だと思っているわけでも、彼の身に起こった不幸を嘲笑したいわけでも、純粋な疑問でもないのだろう。彼をただ単に心配しているような顔に幼さはなく、大人びてもおらず年相応で、御厨の表情を綻ばせた。


「事故で失くしたらしいぜ。初対面時には既に無かったから、綴者になる前だろうな。元々左利きだったらしくて、字を書けるようになるまですげぇ苦労したみてぇだ」

「そう、なんですか……。片腕が無いって、大変ですよね」

「そりゃそうだろ。つーか俺はてっきり、文月の好みのタイプとかを聞かれるのかと思ってたんだけどなぁ」

「えっ? 文月先生って、人を好きになるんですか?」

「――何の話をしているかと思えば……当たり前だろう。君のことも御厨のことも嫌いではない」


 凹凸の無いデザインのアタッシュケースを手にした文月が、心底つまらなさそうに目を細めて、廊下から御厨達のもとへ歩いてきた。

 思い出したように木製の椅子を引いて座った御厨へ微笑を向けてから、文月は彼の向かい側に腰掛けようとしたものの、七瀬に気遣うような視線を送る。座るか、と尋ねている切れ長の目の奥に、彼女はその問いを見つけられなかったようだ。文月が立ったままであることなど気に留めず、先刻の話を引き摺った。


「あの、そうではなくて、恋愛感情? みたいな好きは、やっぱりないですよね」

「……以前恋い慕った女性ひとがいたが……彼女は、きっと素敵な家庭を築いているのだろうな」

「えっと、つまり、失恋したんですか?」

「まぁ……いや、こんな話はどうでも良い。御厨、君の話を聞かせてくれ」

「えーっ、文月先生の恋バナの途中なのに」


 七瀬は口を尖らせて、立ち並ぶ本棚の奥へ去ってしまう。彼女が通り過ぎた本棚は、廊下側のものではなく、台所がある方だ。

 この家は本棚ばかりが室内の殆どを占めている為、台所や居間などは、本棚の奥に追いやられている。玄関から入って右手側に階段があり、左手側に正面へ真っ直ぐ伸びる廊下がある。廊下を歩きながら左右を見れば、沢山の本の背表紙と向かい合うことになる配置だ。その先の部屋は、右手奥の出窓の傍にテーブルが一台、椅子が二脚。それだけしか置かれていない。左手側にはまた本棚がいくつもあり、その裏側に台所が備えられていて、更に奥へ行けば居間がある。

 七瀬はここに来るようになってから、文月が居間にいるところを見たことが無い。彼はいつも窓から差し込む自然光を浴びながら、ひたすらガラスペンを動かしたり、読書をしたりしている。内装の造りも相俟ってか、彼が原稿用紙と向き合っている姿は絵になるな、と七瀬は密かに思っていた。


「それにしても、七瀬を治したばかりだというのに、今年はもう二人目か」

「感染症とか季節病じゃねぇんだから、いつ何人発症するか分からねぇもんな。もしかしたら、今年はこの頻度で患者が出るかもしれないぜ」

「同時に数人の患者が出た場合は困るな……流石に二人分の贋作を平行して書くのは難しい」

「仕事が増えるの嫌だなとか思わないあたり、流石って感じだ。文月センセイ」

「聖譚病が寝たきりになるなどの症状を起こさないのなら、喜ばしいことだがな。本を読む人間が少なくなっている世の中で、自身と登場人物を重ねて物語に入り込んでしまうくらい、書物に感銘を受ける……というのは」


 文月と御厨の会話を聞きながら、二人分のブラックコーヒーを淹れて、七瀬はカップを片手に一つずつ持ち、二人のいる部屋に戻る。

 先程まで文月の原稿が置かれていたテーブルは、すっかり空いていた。これから出掛けることを考えて、片付けたのだろう。七瀬はコーヒーを零さないようにそっと、二人の前へカップを置いた。


「ありがとう、七瀬。生憎椅子が二脚しかないんだ。話が終わるまで、居間にあるソファを使って休んでいてくれ」


 一度七瀬を見ただけで、それからは御厨の方に視線を戻した彼に淡々と告げられ、七瀬は少し不服そうに唇を曲げる。綴者と患者の関係であった時はほぼ常に向けられていた、彼の微笑。あの関係が無くなってから、彼はあまり笑わなくなった。七瀬はそれに、ほんの少し、寂しさに近しい感情を抱いていた。

 立ったまま二人の話を聞いていようかとも思ったが、文月がそんなことを許さないはずだ。だから七瀬は、台所の方に向かい、本棚の裏側に背を預けて床に座り込んだ。

 七瀬が去ったのを見送ると、文月は「さて」とカップに口付けた。熱いコーヒーを喉に通し、真剣なまなこを御厨へ向ける。置かれたカップと机が木琴の音色に似た音を鳴らした。


「聖譚病と、書川町の連続殺傷事件は、どう関わっている?」

「事件の犯人が聖譚病患者だ」

「……待て、聖譚病の者が動き回って、人を傷付け殺めていると言いたいのか?」

「ああ。言っておくが事実だぜ。風の噂とかじゃなくてな。犯人の朗読をこの耳で聴いたんだ」


 珍しく御厨が笑みを浮かべていない。それが彼の真剣さを語っている。文月は反射的に、そんなことがあるはずがない、と返そうとした自身を咎めるべく唇を噛んだ。綴者を志したばかりの頃、綴者や聖譚病に関して調べていた時の記憶を漁る。それでも、寝たきりではない聖譚病患者の記述など見たことが無かった。

 自身が治してきた患者のことも一人一人思い出していき、ふと文月の耳に蘇ったのは、七瀬の言葉だ。夢を見ていた。その言葉で、文月は自身がかつて聖譚病に罹っていた時の記憶を辿る。僅かに開いた唇から、嗚呼、と息が漏れた。


「そうか、聖譚病患者は眠っている。だとすれば……患者が睡眠時遊行症に罹っていた場合、その症状も現れる、のか」

「睡眠時……なんだって?」

「聞いたことがないか? 夢遊病や夢中遊行症とも言われている。眠っている間、無意識下で歩き回ったりする病だ。大人がこの病に悩まされているのはあまり聞かないな。そして幼い子供が聖譚病に罹ることは滅多に無い。だから今回のような、歩き回る聖譚病患者はごく稀だろう」

「夢遊病の聖譚病患者、か……」


 眉を顰めて文月を見てみれば、彼も御厨と同じように顔を顰めていた。「厄介だな」というとても小さな独り言は、彼の心から溢れたものと思われる。

 綴者は患者が聖譚病になった原因の書物――聖譚の贋作を書き、それを患者に読み聞かせなければならない。患者が寝たきりであるから、読み聞かせることは容易に出来ていたが、動き回り、ましてや殺傷事件を起こしている患者に贋作を最後まで聞かせるのは、非常に難しいだろう。

 文月は、深閑とした室内に薄れ行くコーヒーの湯気を黙って眺めていたが、思考の整理がついたのか、問いを投げた。


「その患者の身元や、普段どこにいるかは分かっているのか? いつ頃人を襲っているかの情報も欲しい」

「身元はまだ調査中、どこにいるかは不明。被害者が襲われているのは深夜から早朝が多いみたいだ。深夜徘徊している学生や、仕事帰りの大人、新聞配達員等と、被害者に共通点はない」

「場所は共通しているのか?」

「書川橋の手前――俺の店とかお前の家がある、こっち側だな」


 書川町は、東側と西側の中間、といっても少し西寄りに、橋が三つある。北から南へ流れる書川を、横目に見ながら渡ることの出来る石橋だ。文月は背もたれに寄りかかって、顎に手を添えた。


「どの通りの橋だ」

「三つ全てみたいだぜ。郵便局の通りも、俺の店がある通りも、花屋がある通りでも被害が出てる。日によって違う通りみてぇだが、どの通りをどの日に襲っているか、みたいな規則性はない。ただ、あの付近にいるのは確かだな。お前の周りじゃ被害は出てないだろ?」

「ああ。橋の東側だけか? 西側には?」

「西側は今のところ大丈夫だ」


 ほっとしたような息をコーヒーの中に溶かし、文月は空になったカップをテーブルに置いた。彼が胸を撫で下ろしたのは、七瀬を心配していたからだ。七瀬の家は橋を西側へ渡ってすぐの所にある。

 文月が西側はどうかと聞いてきた時点で、その問いの根源に彼女の存在があることを見抜いていた御厨は、微笑ましいと言わんばかりに唇を湾曲させていた。茶に近い黒目を上げた文月が彼の笑みを捉えて、不服そうに口元を歪める。幾許か低くなった声を、その隙間から吐き出した。


「それで、患者の聖譚はなんだ?」

「少し朗読を聞いただけだから、題名とかは分からねぇ」

「君が聞いた朗読はどんなものだった?」

「うろ覚えだが……己の玉にあらざることを恐れるが故に、敢えて、こ……コックして? えーっと、だな」

「……敢えて刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった――君が聞いた部分はこれか?」


 これまで聖譚病患者の情報を口にした際、文月が題名を当てられなかったことはない。そこから、彼が多くの作品を知っていることを御厨は理解していたが、まさか文章まで諳んじることが出来るなど、思ってもいなかった。

 瞼を持ち上げて驚きを示している御厨は、首肯してみせた。


「知ってるんだな?」

「少し待て。今思い出している」

「あ、ああ」


 冷めてしまったコーヒーを飲みながら文月を待っていると、彼はぶつぶつと何かを呟き始める。声は小さく、言葉は早く紡がれていく為、傍にいる御厨でも何を言っているのか上手く聞き取れなかった。ようやく聞き取れた「虎だったのだ」という一言に、御厨は思わずその名詞を反芻した。


「虎?」


 御厨が声を発したからか、それともそこで思い当たる名があったのか、文月は独白を停止して、御厨を正視した。


「中島敦の山月記だ」

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