辿るは夢十夜3
「七瀬さんが寝ている部屋は、彼女の部屋ではないんですか?」
「あそこは寝室です。七瀬の部屋は、元々七海と二人で使っていた部屋なので、物が沢山あって寝るスペースが無いんですよ。だから、二人共あの部屋に布団を敷いて寝ていたんです」
七瀬が寝ている和室の向かい側――リビングの隣室へ、木製の扉を開けて中に入る。部屋の左右に一つずつ、勉強机と本棚、クローゼットが置かれていた。どれも色が違うだけでデザインは同じになっており、左側は薄桃色が基調になっていて、右側は黄緑色が多い。
榊田は右側の勉強机に近寄って、引き出しの一番上を開ける。未使用の文房具やアクセサリーなどの小物の上に、一枚の栞が置かれていた。真白な短冊形の紙の下方に、美しい桔梗の花の絵が描かれていた。上の方には、洒落た筆記体の英字で、花言葉が綴られている。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
栞を受け取った文月は、榊田に頭を下げた。
「七瀬さんの所に戻って、贋作を書いてきますね」
「お願いします。どうかあの子を……起こしてあげてください」
「ええ」
(三)
元の原稿を全て丸めて捨てて、一から書き直した文月が筆を止めたのは、窓の外が濃藍で染まってからだった。空が暗いのは夜のせいだけではない。月の光を遮る雨雲が、夜景に灰色がかった影を落としていた。自然の音を劇伴にして、七瀬の物語を読み上げるつもりだったものの、流石に雨が降ってしまっては窓を開けるわけにはいかない。
「雨……」
庭の木の葉から落ちた
「榊田七瀬」
部屋の隅で欠伸を漏らしていた御厨は、文月の声に目を瞠った。
患者に向ける普段の彼の声差しとは違う。それは御厨や親しい者に放たれる音に似ていた。けれどもそこに含有されている、鋭さを帯びた優しさが、それを聞いている御厨の苦笑を誘う。
文月は本当に、不器用の塊だ。気付けば御厨は、唇の裏でそう呟いていた。
「贋作を聴いて目を覚ませ。君の物語は現実にしかないのだから」
七瀬の目覚めを切に願う言葉は、静かに揺らめく蝋燭の火のようだった。溶けてしまいそうな冷静さを唾と共に飲み込んで、文月は細めた瞳の焦点を、自身の綴った物語へ定める。
感情を吐息に乗せ、涼やかな音容で、七瀬の朗読を遁走曲の如く追いかけ始めた。
――こんな夢を見た。
白く柔らかな布団に姉が横たわっている。私は涙声で姉に駄々を捏ねていた。熱せられた硝子が溶け出すように、熱い瞼から涙が溢れて止まらなかった。
滲んだ視界の中でも、姉は綺麗だった。白らかな微笑が、夜半の月影を硝子越しに浴びていた。血色の失せた青白い肌と、紫の唇が、私の胸を震わせる。長い睫毛が交差してしまえば、もう二度と開かない予感がした。
姉の乾ききった唇が「もう死ぬの」と吐息混じりに告げる。日毎衰弱していく姉を見続けていた私は、その日がいつか来ることを分かっていた。いつか、が来なければ良いと幾度も願った。私の心臓を立ち割って、この血潮を一滴でも分け与えたかった。
私は目元を擦るけれども、姉の眼の中に、酷く情けない顔をしている自分を見つけてすぐ、再び涙ぐんだ。
嫌だ、死なないで。咽喉の奥からせり上がってくる悲壮の
そんな私の頬に冷たい手が触れた。姉が、痙攣した細い腕を持ち上げて、涙を拭い去ってくれた。悲しいくらい力の感じられない指が私の頬を下っていく。
「ねえ七瀬。死んだら埋めて欲しいの。大きな真珠貝で穴を掘って。墓標には、真っ白な栞を置いてちょうだい。そうして墓の前で、待っていて」
死んだら、なんて言葉を受け入れて頷けるほど、私は大人ではなかった。初めこそ首を左右に振り続けていられたが、姉の潤んだ瞳が細められてゆくのを見てしまって、断るに断れなくなってしまう。余喘を保っている時でも姉の微笑はとても綺麗で、色褪せてしまいそうな記憶と結び付く。桔梗の花が星のようで好きなのだと、そう微笑んだ姉はもう、あの淡い紫の星に触れられないのだ。
花を撫でる姉が好きだった。花言葉を教えてくれる姉の楽しそうな目顔が、好きだった。もう諧謔を交えることすらないのだと思ったら、細い糸みたいな希望に縋りたくなる。
いつまで待てば良いの、待っていたら会えるの。張り裂けそうな喉で掠れ声を放てば、姉は噛み締めた唇をたわませて、淋しい笑い方をした。
「ほんの少しよ。けれど、陽が昇って、沈んで……それを繰り返す中で、雨に打たれるかもしれないし、雪だって降るかもしれないわ。それでも、貴方は待っていてくれる?」
喉からこれ以上声を絞り出せそうになくて、私は黙ったまま頷く。姉を困らせたくなくて私も微笑もうとした。
途端、「待っていて」と、哀切にまみれた聲が私に刺さった。
姉も私を困らせたくなかったのかもしれない。私の前では、きっと姉らしく微笑んでいたかったのだ。一体どれほどの不安と恐れを押さえ込んでいたのだろう。
待っている、と何度も首肯をしながら目元を擦った先で、解語の花が綻ぶ。事も無げに頬を緩める姉は、私の好きな顔をしていた。思い出の中でも優しく破顔している姉を、回想すればするほど、哀しみに侵される。消えそうな灯火を守りたくて、姉の袖を引いた。姉もまた、縋るように早口で紡いでいた。
「大丈夫だから。少し眠ったら、良くなるから。だから少しだけ、待っていて」
姉の瞼が、その眼に映っていた私の姿を覆い隠してしまう。睫毛に絡む露だけが、私の影を揺らしていた。姉の息吹は果敢なく、悄然と切れてしまった。私もぼろぼろと
やがて朝陽が差し込み、そこでようやく私は立ち上がった。庭へ降りて、手にしていた真珠貝で穴を掘っていく。鋭利な縁をした大きな真珠貝は、沢山の土を掬った。滑らかな貝の表面に指の腹を滑らせて傾ければ、土は砂糖みたいに落ちていく。湿り気のある土の香りが、どこか懐かしさを連れてくる。
隣を見れば姉がいるような気がした。花の種を手の平にのせて微笑む姉が、瞼の裏に映される。私は一人きりの影を地面に落とし、そこへもう一度、真珠貝を半分くらい沈めた。何度も何度もそれを繰り返して、やっとのことで、姉を埋められる程の穴を掘ることが出来た。
抱えた姉をそっと暗がりに寝かせて、土をかけていく。だんだんと、姉の姿が見えなくなる。姉が本当にいなくなってしまうような気がして手が止まった。しかしどうにか土を掬い続けた。姉に頼まれたことを果たしたかった。姉の姿を覆い尽くした土へ、手の平を滑らせた。地面をならすように撫でてみれば、陽光を浴びているからか、人肌のような温かさを感じた。
私は再び部屋へ戻り、机上に置かれていた短冊形の厚紙を手にした。庭へ足を運んで、大きめの丸い石を地面に置くと、栞をそれに立てかけた。太陽の光で熱を帯びたのか、ほの暖かい紙から手を離しても、指先にその優しい熱は残っている。
私は墓石を前にして、庭の上に腰を下ろした。姉が早く良くなることを希い、真白な栞を凝視した。
そうしていると、いつの間にか太陽は沈んでいた。暗がりの中で見えにくくなった墓石と墓標を、それでも夜すがら眺め続けていれば、やがて陽が昇る。経過した一日を、一つ、と指を折って数え、びゅうと吹いた風に目を細めた。
どこか遠くで鳥が鳴いているのを聞きながら、ぼんやりとする。幼い私に、あれは鳩の鳴き声なのだと姉が教えてくれたことを、思い起こしていた。
気が付くと、空に太陽がいなかった。代わりに居待月がやってきて、薄らと墓を照らしていた。暫くしたら空が東雲色に染色され、燦然たる陽が雲間に掛かる。二つ、と指折り勘定する。
いつしか、陽が昇って落ちてゆくのを、何度数えたか分からなくなってしまった。もう十を超え、二十も超えたのではと思うけれども、まだ待たなければならないのであろうことは確かだった。
姉の声が聴きたくなる。姉の優しい体温に触れたくなる。もう一度姉の暖かな明眸で私を映してもらいたい。その日が来ることへの希求がひたすらに募った。
ふ、と空気を吸い込むと、泥と埃を水に沈めて混ぜたような、湿った香りが鼻腔を通り抜けた。
雨の匂いだ。そう思った時には、雫が沢山降って来ていた。額から流れて口に入り込んだ雨は少しだけ塩辛い。濡れたままでは風邪を引いてしまうけれど、姉を待たなければと考え、寝ぼけている時みたいにぼんやりとしていた頭がハッと冴えた。
栞が濡れてしまう。雨の斑点が付いた真白な栞に、手を伸ばした。この栞が破けてしまったら、姉に二度と会えないような気がしたのだ。
愛おしむように栞を撫でてみると、濡れた部分から、淡い青紫色の星が姿を現す。ぽつりぽつりと雨に降られる度、色はより濃くなり、それが星ではなく花であることが分かる。
桔梗の花が
栞の中で、桔梗の花が優しく綻ぶ。この花が好きなのだと笑った、姉のように。
顔を上げれば、太陽と有明の月が、遠い空の中に浮かんでいる。潤んだ視界に陽光が満ちて、霞んだ月を溶かしてしまう。
「私、待っていられたよ」と呟いたら、栞が風もなくふわりと揺れた。
「…………」
――文月は、原稿をそっと畳に置く。朗読している際には気が付けなかったが、いつの間にか七瀬の唇は僅かに開いたまま、声を発していなかった。それは聖譚病が治ったからなのか、それとも彼女が力尽きてしまったからなのか、すぐには判断が出来ない。七瀬の細い手首を、文月は優しく引っ張った。
「起きてください、七瀬さん」
七瀬の乾いた唇がゆっくりと震えて、大きめに開かれる。文月は「七瀬さん」と繰り返し呼びかけた。お、の形に口を動かした彼女の腕は、力なく文月の手から落ちていこうとする。
「…………んな、夢を……」
高く綺麗な、けれどもざらついた声で紡がれたのは、第一夜の冒頭。だらりと落ちる彼女の小さな手の平を、文月は逃すことなく掴んだ。震えるくらい力が込められる。彼が吸った一息、その空気さえも、寒空の下みたく痙攣していた。
音一つ無い室内で、御厨が文月に歩み寄ろうとした。しかし、凛然と響いた彼の声に、御厨は全身を固め、思わず鳥肌を立てる。
「起きろ榊田七瀬! 君は姉を待つ必要なんてない! 桔梗の花言葉が『永遠の愛』であることを知っているんだろう!? 君と彼女の間の愛は途切れないんだ! 物語に縋らなくとも、君はここで生きていける! 目を開け、七瀬ッ!」
懇願の響きを伴う叫び。あまりに慟哭に似ていて、文月が泣き出すのではと思うくらい、聞いている者の心臓を大きく揺さぶるくらい、尖った声だった。風の鳴くような音が立てられ、御厨は息を呑む。七瀬に掛けられていた布団が、文月に取り払われていた。
「おい文月!」
文月が七瀬の肩を揺さぶろうとする寸前で、御厨は声を張り上げる。その声が聞こえたからか、それとも別の理由によってか、文月は七瀬に触れる前に止まり、そのまま固まっていた。
しんと静まった中で鳴っている速い拍動音は誰のものであったのだろう。御厨は人知れず震えた息を飲み下して、文月の背を見つめる。
「――夢を、見ていたの」
丸い真珠みたいな潤んだ瞳が、文月を見上げていた。申し訳なさそうに下げられた眉と、笑っている口元はちぐはぐだ。目を見開いてそれを見つめる文月に、彼女――七瀬が目を細めて笑みを咲かせてみせた。
「すごく、あったかくて、お姉ちゃんが近くに居るような、そんな夢だった」
睫が白い頬に影を落とす。瞬きをした刹那、その頬を涙が伝った。何か言葉を掛けようとした文月は、しかし息を詰まらせる。
長い黒髪を揺らした七瀬の頭は、文月の胸元に押し付けられていて、細い両腕がしっかりと背中に回されていた。小刻みに震える体を前に、文月は戸惑いつつも、右手でそっとその頭を撫でてやる。堪えたような泣き声を文月の衣服に全て押し付けて、七瀬はそれから長い間、幼子のように叫び続けていた。「お姉ちゃん」という言葉を、何度も何度も繰り返し、それこそ、数え切れないくらい繰り返していた。
異変に気付いたのだろう、何事かといった様子で廊下を駆けてきた榊田に、文月は七瀬を撫でたまま、困ったように微笑んだ。
(四)
ガラスペンとインク瓶が鳴らした音は、澄んだ空気に呑まれて行く。文月は出窓の傍に置かれたテーブルで、原稿用紙と向き合っていた。書いているのは贋作ではなく、彼のオリジナルの作品だ。先へ書き進められないのか、ガラスペンは紙の上を彷徨っている。
結局、インクを付けたものの一文字も書かなかったペンをペン置きに乗せて、文月は台所に向かった。湯を沸かしてインスタントのコーヒーを淹れていたら、本棚から台所を覗き込んだ闖入者がいきなり注文をし始めた。
「俺にも一杯、ブラックで」
面倒くさそうに細めた目をそちらに向けてみれば、文月の予想通り、そこにいたのは御厨だ。乾いた舌打ちを響かせ、文月はカップをもう一つ取り出して、コーヒーの粉末と湯を注ぎ、スティックシュガーを流し込む。一本に止まらず、二本、三本、四本と入れられるのを見て、御厨が慌てて文月の腕を掴んだ。
「待て、待て待て待て! ブラックって言っただろーが! 一本なら許してやったのに何本分入れてんだよ!」
「大サービスだ、喜んで飲め」
御厨の手を振り払った文月が、素早くもう一本手に取って、その上部を噛み千切り、御厨のコーヒーへ余すことなく注ぎ込む。
流し台の下に置かれているゴミ箱へ、砂糖が入っていた袋を捨てると、文月は自分のコーヒーカップに人差し指を引っ掛けて机の方へ戻っていった。恨めしげに彼の姿を追いかけ続けていても意味が無いと悟った御厨は、仕方なしにコーヒーを一口啜る。
今にも文句を垂れそうなほど顔を歪めて、文月の正面の椅子を引いた。広げられている原稿用紙に容赦なくカップを置いたのは、コーヒーを甘くした文月への仕返しだろう。不快そうに眉を寄せている文月をにやりと見て、御厨は何かを思い出したように「あ」と口を開けた。
「そうだ、昨日はお疲れさん。頬の痛みは引いたか?」
「当たり前だろう。それほど強く打たれたわけではないからな。大体、あの時笑いを堪えていた君に心配されたくないんだが」
長い嘆息を吐き出した文月の脳裏を掠めたのは、昨夜、七瀬に抱きつかれていた時の記憶だ。
あの後泣き止んだ七瀬が、恐る恐るといった様子で顔を上げて文月と数秒見つめ合い、今更目が覚めたように「誰?」と問いかけた。綴者であることや成り行きを説明しようとした文月に平手打ちが飛ぶなど、あの場の誰が予測出来ただろう。
変態のような扱いを受け、叩かれた後に突き飛ばされた文月だが、落ち着いた七瀬が榊田の説明を聞いて、文月に一切の非が無いことを理解するとすぐに頭を下げてくれた。
何度も謝罪をした七瀬に「元気そうで安心しました」と返した文月を、御厨は部屋の隅でずっと笑いながら見ていたのである。
文月と同じように御厨もあの出来事を思い返していたのか、彼の笑声が文月の意識を現在に引き戻した。
「あれは傑作だったな。まさか文月が変態呼ばわりされて叩かれる日が来るなんて……あんなに呆然としてるお前を見たのは初めてだったぜ」
「御厨が痴漢の容疑で逮捕される日はいつ来るだろうか……」
「冤罪で捕まるのだけは御免だぞ!?」
「実際にやるなよ? 俺は取材を受けても『良い人だったのに……』なんて言ってやらないからな」
「やらねぇよ!」
飲んでいたコーヒーを噴き出しそうになったのを堪え、御厨は声の勢いに任せてカップをテーブルに叩きつける。跳ねたコーヒーが茶色い染みを広げたのは、文月の原稿用紙の上に、だ。
室内に蔓延し始めた沈黙の中で、鈴の音が一つ響いたが、文月も御厨もそれが聞こえていないかのように固まっていた。頬を引き攣らせながらも笑って弁解をしようとした御厨の前で、文月が立ち上がる。そんな彼の手が握り締めたのは、空席となった椅子の背もたれだ。
「御厨……これはアルエットの恨みだ!」
「アル……なんだって? というかそれはやめろ! 暴力反対! 悪かった、わざとじゃないんだ!」
「彼の物語に染みを作った罪は重いぞ!」
「お前に椅子を投げつけられる痛みの方が俺にとっては重く思えるんだけどなぁ!」
艶のある木製の椅子はそれほど軽くないようで、文月がやっとのことで持ち上げたものの、彼の右手から椅子は滑り落ち、耳を塞ぎたくなるような衝撃音を響かせた。落とした際に指を負傷したらしく、手を握って呻いた文月が御厨に怒鳴ろうとした。大きく開かれた彼の口は、「あの!」という高い声を耳にして、吃驚で何も発せなくなる。
次第に唇を閉じていき、文月は声の方――廊下を背にして立っている少女をじっと見た。彼女が身に着けているのは、茶と緑を混ぜたような、所謂
「榊田七瀬……?」
仕事時のスイッチが入っていなかったため、文月の声は色を変えずに流れた。花弁を広げるように笑った七瀬の胸元で、紺色のスカーフが揺れる。彼女が深く頭を下げたのだ。
「昨日は、ありがとうございました。私、文月先生に憧れて、綴者になりたいっていう夢が出来たんです。だから是非、先生の傍で色々と学ばせてください!」
言い終えて上げられた顔は、太陽みたいな輝きを纏っていた。期待と羨望の眼差しを向けられている文月がどう返すのか、御厨は興味津々といった様子に見える。
文月の整った顔立ちが次第に顰められて行き、彼は、溜息混じりに吐き出した。
「……勝手にしてくれ」
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