辿るは夢十夜2

 込み上げる感情を押さえつけるべく、榊田が生んでいる長い静寂。震えた気息が、僅かに高くなった声音を伴って吐き出された。


「少し眠ったら、すぐに良くなるから。だからもう少しだけ待っていて――そう、言って、微笑んだまま目を閉じたそうです」

「……そう、ですか」

「七瀬、もう高校生なのに、葬儀が終わった後も理解出来ていない子供みたいに、何度も言っていました。お姉ちゃん、少しだけって言ったのに。少しだけってどれくらい待てば良いの? いつになったらお姉ちゃんに会えるの、って」


 泣き出しそうなのを堪えるように、榊田は唇を噛んだ。何も言わず、先を促すこともしない文月の耳に、掛け時計の秒針の音が突き刺さる。

 七瀬が七海の死に受けた衝撃と悲しみは、文月が容易に想像出来ないくらいの痛みを誘ったのだろう。大切な人と二度と会えなくなる辛さには、誰しも胸を穿たれる。

 榊田や七瀬の痛みを理解した気になって、次第に歪んでいく表情を、文月はそっと落とした。喜怒哀楽のどれでもない仮面を貼り付け、なんとも思っていない風に、榊田の言葉を受けとめる。


「あの子の心が、酷く傷付いているのは分かっていました。けれどあの子にはあの子の人生がある。だから、落ち着くまでは学校に行かなくても良いから、本を読みなさいって言ったんです。それで、七海の部屋にある本を、七瀬は少しずつ読み始めました。良い傾向だと思ったんですけど、あんな病気にかかってしまうなんて……」


 ふ、と、優しく空気が揺れる。榊田は俯かせていた顔を上げて文月を正視した。柔らかな笑みを湛えている彼を見て、感情に流され乱れていた心が落ち着いていく。

 文月は弧を描いた唇を薄らと開いた。


「聖譚病に罹る人は、とても感受性が豊かで、繊細な人です。他人と自分を重ねて物事を考えることの出来る、優しい人であることも多いんです。榊田さんの話から想像出来る七瀬さんは、まさにそういう人、ですね」

「は、はいっ。本当に、良い子で……だから」

「待っていて下さい。必ず、目覚めさせてみせますから。お話、ありがとうございました」


 榊田がハンカチを取り出して目元を押さえ始める。深い皺を刻む目尻が濡れていく。

 文月は彼女に頭を下げると、リビングを後にした。七瀬のいる部屋に向かおうとしたが、リビング側の壁に背を預けて、廊下に御厨が立っていた。彼は立ち止まった文月をじっくりと眺め、意地の悪そうな笑みを浮かべる。


「感受性が豊かで、繊細で、優しい、ねぇ? 俺の知ってる元聖譚病患者サンは、あんまりそうは見えねぇけど」

「なら君の目が腐っているんだろう。良い眼科を紹介してやろうか?」

「結構だ。俺は眼鏡すら必要ないくらい視力が良いん――って最後まで聞けよ!」


 既に廊下にはいない文月の後を追い、御厨は和室に駆け込む。

 文月は七瀬の傍らへ座り込んで、数刻前に御厨が見た彼と同じように、深く頭を下げていた。上半身を起こした彼は、ガラスペンを握った。横に倒したアタッシュケースの上に原稿を置くと、そこへ穂先を擦り付ける。

 下敷きの代わりに使えるよう、文月は凹凸のないデザインのアタッシュケースを選んでいる。黒革の表面には文字の跡が薄らと浮かんで見えそうだった。

 紙と硝子の擦過音に耳を傾ける御厨は、立ったり座ったり、片膝を立ててみたり正座をしてみたりと、落ち着かない――というよりも退屈そうだ。

 綴者として原稿と向き合う文月の目界では、紙と文字以外輪郭を保てない。彼が聴いているのはガラスペンが奏でる調べのみで、今御厨が声をかけても、見向きもしないはずだ。

 真剣な眼差しの彼を横目で捉える御厨は、退屈しのぎに、七瀬の朗読をしかと聞いていた。


「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、――あなた、待っていられますか」


 百年。その年数が御厨の頭の中で想起される。御厨にとって、文月が贋作を書き上げるのを待つ時間でさえ長く感じる。というのに、『私』はこの時間と比べ物にならないくらい長い長い年月を、待ち続けなければならないのだ。

 女への気持ちが一切無かったなら、それは拷問にも等しい時間だろう。百年も一人で待ち続けられる『私』は、女のことをとても愛していたのではないかと、御厨は手持ち無沙汰な頭で考えた。

 御厨は、ふと思う。自分が死ぬ際に、相手の残りの人生を、死んだ自分の為に使ってくれと言えるだろうか。


「……ねぇな」


 唇に触れる、曲げられた人差し指の側面に、一瞬の熱が吹きかかった。愛する者を死んでまで縛り続けていたくはない。そう思うのは、それほど愛おしいと思える人間を思い浮かべられないからだろうか。

 御厨が普段使わない思考を巡らせている間にも、文月は数枚原稿を舞わせていた。どれが一枚目か分からなくならないのだろうか、と思うくらい、書き上げた紙はばらばらに散らばっている。

 最後の一マスを埋めた文月は、ガラスペンを唇で咥えて、空いた右手で素早く原稿を薙いだ。ふわりと浮かんだ紙はすぐに畳へ落ちて行く。

 綺麗に落ちたかどうかなど文月は一切気にしていない。眼路から消えた原稿にもう用はないと言わんばかりに、彼は目の前だけを見据えていた。


     (二)


「深い愛を知ってしまった人間は、それを失った時、また別の愛を探して掌中に収めても、物足りないと感じるのではないか、と俺は思う」

「なんだよいきなり」


 ガラスペンをペン置きに置くなり、文月は今まで使っていなかった口を動かした。星散している原稿を一枚一枚丁寧な手付きで掬い上げ、文月はそれらを順番に並べていく。白く細いものの、男らしく骨ばっている彼の手を眺める御厨へ、男性にしてはやや高めの声が投げられた。


「物語の解釈は人それぞれだ。登場人物がどういう心境でその言葉を発し、動いているか、書かれていないのなら、こうかもしれないと幾つも想像出来る」


 重ねた原稿を片手で器用に整えると、文月は原稿を床に預けたまま立ち上がって、窓に手をかけた。銀色の突起を手前に引いて鍵を開けたら窓を開け放ち、流れ込んで来た涼風を口に含む。


「俺の考えを述べるなら――死んでしまうと分かってしまった女は、心からの愛を示してもらいたかった。だから百年待っていてくれなんて、あまりに難題なことを頼んだ。それでも『私』は確かに首肯してくれた。待っていると答えてくれた。最期に真っ直ぐな愛を受けて、女はきっと、嬉しかったはずだ」


 営業時以外の彼の優しい声色を、御厨は珍しく感じた。好きなものについて語る際の彼は人が変わったようになる。語ることに熱が入ったように、彼は止まることなく喋々ちょうちょうする。


「『私』は女に愛を向け続けた。大きく膨らんだ愛のやり場は女以外に無かったのだろうし、他へ向けるなどという考え自体浮かばないくらいに、二人は千切れることの無い、深い愛に結ばれていた」

「百合の花に生まれ変わったのも、愛の力、ってことか?」


 窓の向こうに広がる庭も、その先にある石塀も茜色に染まっている。これから沈みゆく残陽を瞳に宿して、文月は御厨の方を振り仰いだ。


「君のような、本を一切読まない人間でも、百合の花が女であるという解釈を出来たのか……やはり素晴らしい作品だ」

「なあそれ俺のこと馬鹿にしてるよな、そうだよな?」

「俺は口頭で大体のあらすじを君に話しただけだから、白い百合と女の接点はあまり分からなかっただろうが……読んでみて、自然に綴られている繋がりに気付いた時、感動するぞ」

「あーはいはい、気が向いたら読む」

「さて」


 滑らかな外気が二人の肌を撫でる。紙と紙が擦れて鼓膜をくすぐる。文月は庭を背にして七瀬に向き直り、正座をすると、凛と細めた双眸で文字を辿った。


「こんな夢を見た」


 文月の贋作夢十夜の中で、女は姉、『私』は『私』として綴られていた。勿論、この『私』というのは七瀬のことだ。七瀬の視点で、姉に対する思いが感情的に書かれている。

 真作と同じように姉は、大きな真珠貝で穴を掘って、天から落ちて来る星の破片を墓標に置いてくれと口にする。『私』は言われた通りに姉を埋め、昇っては沈んで行く陽を眺め続けた。やがて墓石から百合の花が顔を出し、それを指先で撫でた『私』は遠くの空を見つめて呟く。百年はもう来ていたんだな。

 歌うように朗読し続ける七瀬の声に、文月の贋作の唄が重なる。詠われる偽物の夢十夜が、彼女の耳に届いているのかいないのか、それは当人にしか分からない。

 自身の朗読を終えた文月が、乾ききった七瀬の唇をじっと見つめた。

 小さく口を動かし続ける七瀬は、第一夜の朗読をやめていなかった。


「……駄目だったか。文月、ちょっと休憩でも――」

「いや、のんびりしている暇はない。少し黙ってくれ」


 文月は初め、榊田に、入院や手術をする必要はないと説明したが、聖譚病がすぐに治せない場合、植物状態の患者のように入院させなければならなくなる。

 綴者として、そうなる前に七瀬を治してやりたかった。

 何が足りなかったのか、自身の綴った物語を見つめて思案の海に浸る。元の第一夜と贋作の第一夜の、一致点と相違点に目を付けるも、どの部分が七瀬に物足りなさを与えたのか分からず呻吟する。

 文月が改稿せずに聖譚病患者の意識を取り戻せた数と、改稿してようやく意識を取り戻せた数は今回のものも合わせて半々となる。目覚めない患者を何度その目に映しても、焦燥感は簡単に抑えられない。自身を急かせば急かすほど、直すべき場所を視野から取り零してしまっているような感覚に襲われていた。

 表情と言う表情を浮かべてはいないが、文月が僅かな焦りを滲ませ、苦悩していることは御厨に伝わっている。それは、文月が綴者となり、書川町に配属されてから、もう五年の付き合いになるからだろうか。

 文月の後ろに立った御厨は、彼の茶色がかった黒髪の向こうの、手元にある原稿を覗き込んだ。悩んでいる友を放っておけない性分が胸の内から湧き上がっているのか、それとも放っておけないのは彼が綴者であり、救わねばならない存在がそこにいるからか。答えの出ない思考に終止符を打ち、御厨は夢十夜のことに脳を働かせる。

 贋作を書く上でストーリーを大きく変えるわけにはいかない。それを頭の隅にしかと残したまま、いくつもの構想を想像していった。


「埋める……真珠貝、星の破片、墓標……百合の花……――文月。どうして、百合の花なんだ?」

「黙ってくれと言ったじゃないか……まぁいい。百合……百合は清純、純潔、母性の象徴とされている。ちなみに『私』が見た暁の星は金星のことなのだが、金星は愛と美、そして女性性の象徴だ」

「その二つで女のことを表していたのか」

「どうだろうな。ただ、百合は真白で、女の頬も真白だ。花弁からぽたりと落ちた露は、女が死ぬ直前、流した涙と似ているようにも思える。……まぁそれよりも、重要なのは百年後にあう、という所だと俺は――」


 思い浮かぶ限りのことをつらつらと並べていた文月は、いきなり声を詰まらせた。突然電源を切られた機械みたいに固まり出した彼の眼前で、御厨が手の平をひらひらと動かす。目の前のそれすら見ていない文月の瞳は、硝子玉の如く澄んでいく。


「……そうか、もしかすると榊田七瀬の場合は百合である必要はないのか。何か、もっと思い入れのあるものを……」


 ぶつぶつと独り言ち、御厨の手から顔を背けて、室内をぐるぐると歩き出した文月。畳にゆっくりと円を描くよう足を進めながらも、彼は湧き上がる言葉を全て唇の隙間から垂れ流す。何重の円を描いた頃だろう、廊下に繋がる、開かれたままの障子をくぐって、榊田が顔を覗かせた。

 ちょうどそちらへ歩いていた文月が、彼女の姿に足を止める。


「あの――」

「文月様、御厨さん、夕食にしませんか? カレーを作ったんです。よければ召し上がっていってください」


 文月と榊田が声を発したのはほぼ同時だったが、すぐに文月が問いかけを飲み込んだ為、榊田は遮ったことなど気にすることなく、明るく言った。御厨の歓声が文月の後方で上がる。


「良いんすか? 嬉しいな……俺も文月もカレー大好きなんですよ! やったな文月!」

「いや、俺は――…………はぁ。分かりました。ちょうど行き詰っていたところでしたので、休憩をさせて頂きます」


 断ろうとした矢先に、鋭利な視線が御厨から向けられ、文月は仕方なさそうに頷こうとした。目の前に榊田がいることにはっとして、仕方ないという雰囲気をすぐに捨て去ると、端正な顔に完璧な笑みを貼り付ける。

 榊田が嬉しそうに漏らした「良かった」という小息に、文月の表情が自然と緩められていく。リビングへと向かう華奢な背中を追おうとした文月だが、御厨に肩を引かれて後ろへ倒れかけた。


「っなんだ。俺はカレーを食べに行くんだ、邪魔するな」

「いや、俺のおかげで良い空気を流せたんだから、ありがとうの一言くらいくれても良くね?」


 胸を張って、礼の一言を待っている御厨へ、文月は悩むような溜息を一つ吐くと、苦笑いを返した。


「何も言わなければ君に感謝の意を示したんだけどな」

「絶対嘘だろ」

「男は背中で語る生き物らしい」

「お前の背中には『よっし、カレー食うぞ!』ってことしか書いてなかったぞ」

「やはり君の目は腐っているようだ」

「お前は性根が腐ってるんじゃねぇか!?」


 御厨が口を大きく開けた時点で文月は片耳を塞いでおり、聞いていないことを物語るべく「あー」と言いながら廊下へ出て行く。おい、と呼びかけて和室を飛び出した御厨は、鼻腔をくすぐったカレーの香りに呆けた顔で固まった。彼自身が思っていた以上に、彼の腹は空いていたらしい。雷に似た音を鳴らして、胃袋が食べ物を求める。溢れ出そうな唾液を飲み込むと、リビングに小走りで踏み込んだ。

 四角いテーブルを挟み、文月と榊田が顔を合わせて座っている。御厨は文月の隣の椅子を引いて、テーブルに置かれているカレーに顔を近付けた。


「すげぇ美味そうっすね!」

「頂きます」


 文月は銀のスプーンをカレーに差し込み、滑らかなルーを掬い上げる。その中に、丁寧に切られた可愛らしい人参が浮かんでいた。


「星、ですか?」


 文月が零した笑声に、榊田の微笑が混ざり合う。隣で「美味い! 熱々で、良い感じの辛さが最高っすね!」と興奮気味に感想を述べている御厨と、二人の空気の温度はあまりに違っている。

 星のような形をした人参とルーを口に含んだ文月が、満足そうに緩頬かんきょうしたのを見て、榊田は上品に笑った。


「それ、星ではなくて桔梗の花のつもりなんです」

「桔梗の花……? 珍しいですね」

「七海が、昔育てていて。花の形と色が好きなんだって言っていました」


 文月の脳裏に、七海の写真が過った。そこでふと、榊田に問おうと思っていたことを思い出す。百合の花ではなく何を咲かせるか、悩んだ末に、咲かせる花は七瀬の好みに合わせたいと思っていたのだ。ほんのりと口内に広がる辛さに「美味い」と呟いてから、文月は本題に入る。


「七瀬さんも、桔梗の花が好きだったりしますか?」

「ええ。七海が七瀬に、誕生日プレゼントとして桔梗が描かれた栞をあげたんです。綺麗な花だねって気に入っていました。でもあの子、その時は桔梗っていう花の名前すら知らなかったんですよ」


 面白い思い出話を語る顔は、たまに陰を見せる。長女が亡くなり、次女が聖譚病に侵されては、笑っているのも辛いのではないだろうか。今更そのことに気付いて、文月はなんとも言えない、喉の奥がざらつくような、形容しがたい気持ちになった。

 不安や悲しみを取り除きたいと思えど、それを出来るような間柄でも、そんな人柄でもない。それでも諦めきれないのか、文月の口元は温然と撓んでいた。


「食事の後で構わないのですが、その栞を見せてもらってもよろしいでしょうか?」

「勿論、構いませんよ。あ、文月様さえよければ、七瀬の為の物語に、桔梗を出してもらえませんか? きっとあの子、喜ぶと思うんです」

「奇遇ですね、私も同じことを考えていました」


 くすり、と吐息だけで笑い合う二人が、互いに互いを気遣っている空気感。漂うカレーの匂いに溶けて行く仄かな気まずさは、自然に霧消していった。食器の音ばかりが響くようになって、何かがおかしいと感じていた文月は、カレーを食べ終えてからようやく、おかしいと思った事柄を理解する。


「榊田さん、ご馳走様でした。――ところで御厨、君は何かに取り憑かれたか? それとも明日の天気を雨にする作戦か?」

「っ違う! お前と榊田さんが真面目な話してるし、俺のグルメリポートが完全に聞き流されてるのが悲しくなって黙ったんだよ!」

「あら……ごめんなさい、聞いていなかったわ」


 立ち上がりざまに怒号を放った御厨へ、申し訳なさそうに榊田が謝罪をした。榊田にそんな顔をさせるつもりは無かったからか、御厨が慌てて謝り返そうとする。しかし、それよりも文月の叱責が飛ぶのが先だった。


「何故彼女に謝らせているんだ。君が謝るべきだろう。美味しいカレーを頂いておいて、ご馳走様でしたと礼を言うことも出来ないのか、君は」

「元はと言えばお前のせいだからな? 榊田さん済みません、コイツのせいで」

「おい、責任転嫁をするな」

「カレー、本当に美味かったです。ご馳走様でした」


 リビングから去って行く御厨に、もう一度「おい」と言いつつ追いかけようとした文月は、はっとして振り返った。視線を送られた理由を榊田は分かっているようで、彼女も椅子から立ち上がる。


「七瀬の部屋に行きましょうか」

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