03
「ごめんなさい」
目が覚めた私は、誰に対して言うのでもなく、ただそうこぼした。そう言わないと、逃れられない罪を背負うことになる気がしていた。
相変わらず例の高級なベッドで眠っていた私は、そっと上体を起こした。けれど、部屋の中にメモリアはいなかった。
次にメモリアに会った時は、ちゃんと謝らなくちゃ──
「ごめんなさい、たくやくん──」
届かないとはわかっていたけれど、そう言わないと心が押し潰されそうだった。
なんでこんなに辛いのだろう。忘れてしまった記憶を、心のどこかでは覚えているのだろうか? だから、あの記憶が余計にやるせなくなるのだろうか? 変えられそうな距離にいたのに変えられなかった自分が、より罪深く思えてしまうのだろうか?
なんにせよ、精神的に
私はベッドから降り立ち、鏡の向かいのテーブルイスに座った。そこで温かいアールグレイをティーカップに注ぎ、目を瞑って味わう。口の中に存分に香りを充満させ、それをすっと喉に通すと、目を開くことなく深呼吸した。
大丈夫だ。ここは安心できる世界だ。辛いのは記憶だけで、ここにはどんな苦もない。いつだってここに逃げ込める。そう自己暗示のように繰り返して落ち着こうとした。
「目が覚めたかい? 気分はよくなった?」
声の方を向いてそっと瞼を開けると、部屋の扉の近くに微笑むメモリアが立っていた。
「メモリア·····本当にごめんなさい」
私は立ち上がり、深々と頭を下げた。
「いいよいいよ。ほら、頭上げて。あれが僕の役目だし、あれが僕にできる唯一のことなんだから。ね?」
「それでも、私──」
子供のようにぐちぐちと続けようとする私に、メモリアは一層頬を緩め、「やっぱり、精神的にも小学生になりつつあるのかもね」と幼子を宥めるように言った。
「あなたは、大人しそうな見た目と優しい心に反して、実はとても強情な人なんだね」
心が強くないのに、情だけ強くたって──
「だから、結局何もできないんだよ·····」
無意識のうちに言っていた。
「そんなことはない」
そう断言するとメモリアは私の手を取り、部屋の外へと連れ出した。
廊下を進むと、明るい庭園が見えてきた。荘厳な世界樹・ユグドラシルに守られている草花の庭園だ。
「ほら、こっちへ」
手を引かれるがまま、私は庭園に足を踏み入れた。一歩を踏み出した瞬間から麗らかな太陽に照らされ、身体の奥の方が温まるような感じがした。甘くて爽やかな花々の香りが、私を包んでいく。
「勇気がなくなった時、挫けそうになった時には、人は誰かに頼るということが大切なんだ」
そう言いながらさらに庭園を進み、メモリアは私の腕から手首に持ち替えると、無気力な私の手のひらを目の前の大きなユグドラシルの幹にそっと当てた。
「えっ──」
すると、自然と一筋の涙が頬を伝っていった。
お母さんに守られているように、この木が私に「大丈夫だよ」と声をかけてくれているような気がした。
私は二度、ゆっくりと頷く。
そうだ──本当に謝るべきことは、あそこでたくやくんを避けたことではなく、彼に関する記憶を今まで封印していたことだ。けれどそのことは、実は本当は謝るべきことではない。
謝るのではなく、ちゃんと思い出すべきことだ。思い出して、大切に抱え込むべき記憶だ。
「記憶は変えられない──けれど、変わらないからって何も変えようとしないのは、やっぱり嫌だ」
私は決意を口からこぼす。
その記憶は変わらなくても、私にとっては掛け替えのないものだ。辛いからって、たくやくんを忘れたままにすることはできない。
「記憶は変えられなくても、記憶の見方は変えられる」
後ろから、メモリアが優しく呟いた。
「幼い頃には気付けなかった想いにも、今なら気付けるからね」
私はあの時、たくやくんの気持ちがわからなかった──けれど、今ならわかる。たくやくんには、私に伝えたいことがあったはずなんだ。それは、あの時覆いかぶさっていた左手から、ほんの僅かに伝わっていた。
「焦ることはないよ。ここにある記憶は風化したりしない。あなたのペースで、ゆっくりと進もう」
「うん──ありがとう、メモリア」
「どういたしまして」
甘く爽やかな香りを含んだ緩やかな風が、庭園を優しく吹き抜けていった。
「この館には、私とメモリアしかいないってこと?」
「そうだね。でも、庭園にはたくさんの人達の記憶もいてくれるから」
記憶の館には他にも美しい場所がいくつかあった。その一つ、私の部屋がある方と反対側の廊下の一室には、綺麗に磨かれた大きなクリスタルのような原石が部屋の中央に置かれていた。それに青いステンドグラスが張り付けられた窓から注ぐ光が乱反射し、部屋全体を薄く青く照らしている。
「二人だと寂しいかい?」
「そんなことないよ。私、集団は少し苦手だから」
「ならよかった。僕には遠慮せず何でも言うんだよ?」
メモリアの優しさに頷き、私は部屋の空気を大きく肺に取り込んだ。
部屋はまるで海中にいるような青色で満たされていて、このままだと自分がどこまでも漂ってしまいそうだった。
「この世界には時間の概念がないんだ。だからずっと太陽は出ているし、どれだけ眠っても大丈夫だよ」
「なんだか人をだめにさせるような場所だね」
「そうなる人はここには来れないよ。言い方は悪いけれど、言ってしまえばここは一種の魂の留置所だからね」
記憶を失くして価値のはかれなくなった魂を留めつつ、記憶を追体験することで魂の価値を見出す場所──それが記憶の館だと、メモリアは教えてくれた。
では、記憶を思い出すことを投げ出した場合はどうなるのだろう? 気になるけれど、今それを考えると自分に都合のいい逃げ道を与えようとしているみたいで、必死に頭蓋の外へとその愚かな考えを追い出した。
「──優しい留置所だね」
「ここに来る人には、それが必要なんだ」
それは、次の記憶に進む為の癒しだ。傷付いては治し、ゼロから前へと進む──それが記憶の館。
「そんなこと、私に教えちゃっていいんだね」
「知る権利はあるよ。信頼関係というのは、お互いに心を開き合わないと始まらないからね」
「お互い心を開く、か──」
それは多分、私が生前に最も苦手としていたことだと、直感的にわかった。あるいは克服できたのかもしれないけれど、根本的な私はそれを苦手としていたに違いない。
少なくとも、取り戻した小学生までの記憶の私は、たくやくんとの関係上でそれができずに
簡単なことなのに──私には簡単ではなかった。
「得意な人も不得意な人もいるさ。しようとする人もしようとしない人もいる。けれど、できない人はいない」
柔らかな声で、しかし力強く、メモリアは言ってくれた。
この館が、メモリアが、全て私の味方でいてくれる。それだけで、私は何度でも立ち直れるはずだ。
何度でも、自分の記憶と向き合おう。
「それじゃあ、行こうか──あなたの辛い記憶を取り戻しに」
私とメモリアは澄んだ海のような綺麗な部屋を後にした。
当たり前のことだが、私の心持ちがどうであれ、大きな柱時計になんら変化が起こることはなかった。もちろん長針や短針の位置にも変化はない。あるいは元々その位置で固定されているのかもしれない。
「記憶の核心に近づくほど、それは辛い記憶になる。覚悟は大丈夫?」
記憶が辛くなればなるほど、私の忘れてしまった部分、本当は思い出さなければいけない部分に近づける。もちろんそれも辛い記憶ではあるけれど、同時に私が一番取り戻したい記憶だ。
不安はあるけれど、迷いはない。迷うこともない。
進むべき道は見えているから。
「うん。行こう──」
「わかった」
大きな硝子張りの扉が開き、メモリアの手が金色の振り子に触れる。溢れ出す眩い光に私達は呑まれ、温かい何かが全身から中に流れ込み、私はそれを受け入れていく。
多分、この次の記憶がこの記憶の核心部分だと、なんとなくそう思っていた。
外が真っ暗になるほんの少し前頃、宿泊施設のグラウンドに合宿に参加した全員が集合していた。
私は道に迷っている振りをして、たくやくんとタイミングをずらして集合した。今は、たくやくんといつも通りに話せる気がしなかったから──一緒にいるべきではないと思ったから。
引率の先生が色々と説明していたけれど、もちろん頭には入ってこなかった。逸らすように空を見ていると、あの日と同じように赤から青、そして黒へと変化していくグラデーションの空が見えた。黒い方の空には、すでにたくさんの星さん達が輝いている。けれど、今はそれらもあんまり見たくなかった。
たくやくんはどこにいるのだろう。
自分から離れたくせに、すごく気になる。でも、顔を上げて探す勇気もなかった。もし、万が一にでもたくやくんと目が合ってしまったら、どんな顔をすればいいのかわからなかったから。
団体は動き出す。目的地までは、ちょっとした登山のような道のりらしい。とは言ってもほとんどは遊歩道で、そんなに疲れる道ではなかった。
しばらく歩くと背の高い木々はいなくなり、煌めきを散りばめたような星空が視界いっぱいに見えてきた。そんな星空が眺められる開けた草原で、しばらくの自由時間となった。
改めて星空を見上げる──その星空は、全く違う星空だった。本で見たのとも違う、テレビで見たのとも違う、プラネタリウムで見たのとも全く違った──それらは足元にも及ばないくらい、圧倒的な迫力のある星空だった。
手を伸ばせば届きそうで、私は小さな腕を星空へと伸ばす──すると、横からもう一つの腕が伸びてきた。気になってその腕を辿るように目線を落とすと、そこにはたくやくんがいた。
「こうしているより、寝転がった方がたくさん見えるよ」
たくやくんが近くにいることで鼓動が高鳴ってどうしたらいいかわからなくなっている私を
「ほら。××も早く」
掠れた単語が耳に痛い。
何もわからない私はただ、たくやくんの言う通りに草原に寝転がった。彼との間には、もう二人くらいは入れそうな距離が空いている。
寝転がってみると、視界は一面、輝きの海となった。
「あれとあれとあれで、夏の大三角」
そんな視界の端に見えた指先は、輝く海の中のいくつかの場所を指していた。けれど、私とたくやくんには距離があり過ぎてどこを指しているのかはわからなかった。
「夏の大三角には、織姫様と彦星様がいるんだよ。よく離ればなれになっていて一年に一度しか会えないと言われるけれど、実は二人は繋がっていて、夜空に大きな三角形を描いているんだ」
心地の良い夜風が草原の上に流れ、私達の間を吹き抜けていった。頬を撫でる涼しい風に、私は心細さを覚えた。
「××──」
優しい風を妨げて、痛い雑音が耳に届く。
「××、こっち向いてよ」
私も辛かった。けれど、たくやくんの声も辛そうだった。自分が犯した失敗をどうにかしなくちゃならないと、必死で思っているのが伝わったきた。
私は勇気を振り絞り、片耳を草原にくっつけた。
そこには、悲しそうな目をしたたくやくんがいた。
「××、ごめん。僕、そんなつもりはなかったんだ。けれど、どうしてもあそこでああしないといけないと思った。わかってもらえないと思うけれど、本当にごめん」
一言一言振り絞るように、胸の痛みを堪えるので歪む顔でたくやくんは謝ってくれた。けれど、もうごちゃごちゃになった心はどうにもならなかった。
たくやくんは謝った。だから、私も許すべきだ。そして私は許そうとしている。なのに、彼の目を見ていると鼓動が高鳴り、声を聞くと緊張するのだった。
そして、それが私を、未だかつて知らない不安へと陥れた。
瞳から瞳へと、一直線に何かが流れていくのがわかった。
「××? ごめん。本当にごめんって。だから泣かないでよ──」
どうしようもなく辛そうに、たくやくんは必死に謝り続ける。けれど、私の涙も感情も、どうしようもなかった。
「僕は、××の大切な友達でいたいんだ。いつになっても──どれだけ離れても」
そう言い、たくやくんは悲しい瞳を私に向けた。それからゆっくりと瞼を閉じ、顔を星空へと向けてしまった。
目線が外れ、高鳴る鼓動が治まっていく──落ち着いていく私の前で、彼は錆び付いたように動きにくそうな口を開く。
「僕、明日引っ越すんだ」
美しい星空に吐き捨てるように、たくやくんは言ったのだった。
心臓がゆっくりと、しかし力強く、張り裂けそうなくらいに締め付けられていく──
「え──何を言ってるの? たくやくん」
「父さんの仕事の都合で引っ越すんだ。本当はもう少し先の予定だったんだけど、先週末、予定が早まって明日になったんだ」
どこまでも澄んだように輝く星さん達の海は、辛そうなたくやくんの言葉さえも寛容に受け入れていくようだった。けれど私は、そのたくやくんの告白を受け入れられなかった。
「そんなの·····だってそんなの、あんまりだよ。どうして明日なの?」
「仕方ないよ。僕にはどうすることもできないんだ」
「だって、そんな·····私、まだ·····」
留まりかけていた涙が、想いが、溢れるように再び湧き上がってきた。
声が震えていく。視界が滲んでいく。勝手に頭が横に振れる。
こんな悪夢みたいな現実は、この夜空に広がる夢のような世界が閉じたのと同時に、きっと覚めてくれるはずだ。だって、これは夢なんだから。本当はそんなはずないのだから。
あの優しいたくやくんが、私を置き去りにしてどこか遠くにいってしまうわけがないから。
「だからどうしても、××の手を握っていたかった──本当にごめんね」
握っていたかった──握れなかった。
たくやくんが私を置き去りにするのではなく、私がたくやくんを置き去りにしたんだった。
なのにたくやくんは微笑みながら、再び私の方を向いてくれた。
「でも、最後にこうして話せることが何よりも嬉しいよ。僕は今日のことを、一生忘れない」
でもその笑顔は、いつもの笑顔と違っていた。そして、そんなたくやくんの表情は何かを誤魔化している時の表情だと言うことを、私はすでわかっていた。
たくやくんは、まだ何か言いたいことを残している──そして私にも、何か言いたいことがあるような気がする。
本当に離ればなれになる前に、伝えなくてはいけないことが──
「たくやくんなんて、大っ嫌いっ!」
言いたいこととは違うのに、口はそう叫んでいた。
小学生でも呑み込めるようなわがままから生まれた気持ちを、そのままたくやくんにぶつけたのだった。
「大切な友達だと思っていたのにっ! いつまでも仲良くしてくれると思っていたのにっ! なのになんでっ·····なんで私の置いていくのよぉ·····」
溢れ出す想いは大粒の涙となり、両目から滂沱した。
ふらふらとその場に立ち上がり、私は逃げるようにたくやくんからゆっくりと離れていった。けれど、たくやくんは止めてはくれなかった。
振り返ることもできないまま、私は一人、暗い草原をただ歩いた。しばらくすると心配した様子の引率の先生に捕まり、私は宿泊施設へと帰った。
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