02

 瞼を開くと、そこには高級感を放つ木目が見えた。頭の下には柔らかい枕があって、身体の下にはふわふわの布団がある。どうやらあの素晴らしいベッドの上で、私は再び目が覚めたみたいだ。

 あと少しだけ、もう少しだけ眠っていたい──そう思っていたところで、部屋の扉の方から足音が聞こえてきた。

「小学生の記憶を辿っていたら、気持ちまで小学生になった?」

 クスクスと笑いながら、メモリアは寝転がる私を覗き込んできた。

 気持ちまで小学生──なんだかそれも悪くない気がしたけれど、それでは今のこの大学生の身体ではあまりに格好が立たないので、私は頬を緩ませてから起き上がった。

「寝たら落ち着いたかい?」

「うん。それなりに気持ちは落ち着いたかも」

「それはよかった」

 メモリアの優しい口調は、記憶の追体験で思いのほか疲れた身体に優しく染み込んでいく。

「取り敢えず、あなたが忘れてしまった大切な記憶は、小学六年生の記憶のようだね」

「君は私の記憶も見れるの?」

「そうだね。あなたが見ている記憶の世界の中に、僕もいつて行くからね。あなたが見る記憶は、僕も見ることになる記憶だ」

 だから一人じゃないよ、とメモリアは言う。

「でも、あなたが見た以外の記憶は見れない。僕があなたの記憶に這入れるのは、あくまであなたが記憶に這入っている時だけだよ」

「·····そっか」

 私はベッドから降りて、部屋の大きな鏡の向かいにある、こちらも綺麗で高級感の漂うテーブルへと向かった。そこにはティーセットがあり、ちゃんと中身も入っていた。

 メモリアが言っていた通り、ここは心を落ち着かせる場所というだけあって、こういう配慮が行き届いているみたいだ。

「これからの為に先に言っておくけれど、もし僕が邪魔な時は、素直にそう言ってね。記憶に這入って欲しくない時も、そう言ってくれたらいい。僕の仕事は、あくまであなたのサポートだから」

「うん。わかった」

 ティーカップに注いだ温かいアールグレイを口に含むと、味わったことのないような豊かな香りが口の中に広がった。夢の世界だと、こんな素晴らしい紅茶も簡単に作れてしまうみたいだ。

「次は、いつ行けるの?」

「いつでも行けるよ。あなたの決心がつく時に、いつでも言ってくれればいい」

「それじゃあ、君もこっちに」

 そう言いながら、私はメモリアに手招きをした。

 メモリアは不思議そうに首を傾げながら、私の手招きに素直に応じてテーブルへとやって来る。

「そこに座って。一緒にティータイムにしよう」

「仰せのままに」

 無邪気な笑顔で冗談めかしてメモリアは言う。まるで悪戯少年のようだ。呼応するように私の頬も緩む。

 てっきり、型にはまった感じの気難しさを併せ持つ少年なのかと思っていたけれど、こんな冗談を言ったりと、やっぱり年相応の無邪気な一面を見せることもあるみたいだ。

「一人で飲むのは、なんだか寂しいからね」

「その為に僕がいるから」

「だとしたら、君の仕事は大変になるよ。私、わがままだったことはよく覚えているから」

「やっぱりあなたは強敵だ」

 そんな談笑をしながら、私はメモリアと共に味わうアールグレイで心を落ち着かせた。口にはしなかったけれど、やっぱり辛いとわかっている記憶に飛び込むというのは、自然と身体が震えてしまうことだったから。




 一頻り談笑し終えると、私は心の準備をしてメモリアと一緒に再び大きな柱時計の前へと向かった。

 荘厳な柱時計は、相変わらず時間の流れを感じていないかのように佇んでいた。特に、明らかに重力を無視してゆっくりと振れる金色の振り子がとても気になる。あと一つ、少し気になっていたこともあった。

「やっぱり·····」

 私は隣のメモリアにも聞こえないくらいの小声でこぼす。

 金色の振り子の上、そこにある大きな円盤にはローマ数字が刻まれていて、長針と短針がちゃんと備えられている。しかし、そのどちらも、私が初めてこの柱時計を見た時の位置から動いていないのだ。

 多分、この柱時計は時間を刻む為の物ではない。

 では一体、真っ直ぐに上を向いたままの長針とほんの僅かに左に逸れた下を向く短針は、何を意味しているのだろう。

 私が深く推理しようとしていると、腕に温かいものが触れた。

「準備はいい?」

 それはメモリアの手だった。

 隣を向くと、少しだけ心配そうに、メモリアが私を見上げていた。

「うん。大丈夫だよ」

「わかった。それじゃあ、再び記憶を辿ろう。それと──」

 金色の振り子に戻しかけていた視線を、私は再びメモリアに向けた。何か言いたげな少年のような眼差しで、何やら話づらそうにしている。

「どうしたの? 何かあるのなら、全然言ってくれていいよ」

「あなたは、どう呼んだらいいのかなと」

 どうやら、私が私の名前が思い出せないから、メモリアは私をどう呼ぶべきか思案していたみたいだ。となるとやはり、代わりとなる名前を決めておく方がいいのかもしれない。

「うぅん·····でも、いきなり名前決めるのも難しいよね」

「だね·····それじゃあ、『ユーグ』とかはどう?」

「ユーグ?」

「ユグドラシルを人の名前っぽくしてみただけ。あんなに活力に満ちていたユグドラシルは久しぶりだったから、きっとあなたとは深い何かがあると思うんだ」

「なら、うん、それでいいよ」

 私は今、メモリアから新たな名前を貰った。

 それは私が自分の名前を取り戻すまでの、いわば偽名のようなものに過ぎないけれど、彼に名前を考えてもらえたことは素直に嬉しかった。

「わかった。それじゃあ行こう、ユーグ」

 開かれた硝子の張られた扉の向こう、金色の振り子から溢れ出す眩い光の中──目眩く閃光の中に、私はゆっくりと沈んでいった。




「ほら、施設が見えてきたよ」

 肩を揺さぶられて、私は眠りの世界から引き戻された。

 寝惚け眼を擦ってバスの窓の外に目をやると、白い壁に黒ずみが目立つ年季の入った大きな建物が、一面の緑の中に違和感なく建っていた。

 ここは山の上なのか、耳の奥が詰まったように痛かったけれど、何度か嚥下えんげするように喉を動かすとすぐに治った。

「あそこが、泊まる所?」

「あれは天体観測をする施設だよ。僕達の泊まる所は、また違う所」

 天体観測をする──と言っても、空はまだ明るかった。確か私は、お昼ご飯を食べる為に立ち寄ったパーキングエリアでお弁当を食べた後、バスの座席に座るや否や眠ってしまったんだった。だからまだ、天体観測と言うには早過ぎる時間だ。

「お昼でも星さんが見られるの?」

 まだ目がとろっとしている私が言った疑問が変な質問だったのだろうか、隣のたくやくんは可笑しそうに微笑む。

「違うよ。あの施設には、天体に関する展示とかがたくさんあるから、それを見て回るんだよ」

 あんな古そうな建物にどんな展示があるのだろう。もしかして、月の石とかでもあるのだろうか? そう考えると、なんだかわくわくしてきた。

 バスは施設の近くの駐車場に止まり、私達はバスに持ち込んだ方の小さな荷物だけを持って施設に這入った。

 外観に反し、建物の中はかなり綺麗に整えられていた。入口から続くロビーで、みんな上を見上げている。不思議に思って真似をすると、高い高い天井からは太陽系の惑星が吊り下げられていた。

「たくやくん、あの輪っかがあるのが土星だよね?」

「そうだよ。そして一番大きいのが木星。地球はほら、あんなにも小さいんだ」

 地上から見れば夜空に浮かぶ土星や木星は掴めないくらい小さいのに、模型で並べられている地球は同じ模型の木星や土星よりも随分と小さかった。

 しかし反対に、地球よりも小さな惑星もあった。星の大きさがそれぞれ違うのは知っていたけれど、実際に模型にして見るとかなり大きさの差がある。

「水金地火木土天海、って覚えるんだよ」

「すいきんちかもくどってんかい?」

 何かの呪文みたいで、変な響きの言葉。

「太陽系の惑星の順番さ」

「へぇ。変な言葉だから覚えやすいかも」

 また一つ、いいことを教えてもらった。

 館内にはたくさんの天体や宇宙にまつわる展示物があった。しかし、さすがに月の石はなかった。むしろ読めない漢字だらけの難しい文章が多く、なんだか疲れてきそうだった。けれど、隣にいたたくやくんがとても楽しそうで、だから私も自然と楽しくなっていた。

 館の最上階にある部屋の中央には、大きな鉄の球を二つくっ付けた生き物のような変な形の機械が台の上に備えられていた。部屋はそこそこの広さで丸く、大きな機械を囲うように座席が円状に配置されている。

「おおっ! この施設には、こんな物もあるんだ」

 何やら関心深そうに、たくやくんは黄色い声でそう言った。これはたくやくんが目を輝かせている時の声だ。

「たくやくん、これ知ってるの?」

「これはプラネタリウムだよ。星に見立てた光を天井に映す機械。すごい·····これ、見れるのかな」

 たくやくんを真似て天井を見上げると、他の部屋とは違って丸い天井だった。この部屋は半球のような形をしているみたいだ。

 たくやくんが興味のあるものなら、私も見てみたな。どうにか見られないだろうか·····あれ、でも確か、ここが次の集合場所じゃなかったかな。

「確か、集合場所がここだったから、みんなで見るのかも」

「本当に!?」

 たくやくんは無邪気に飛び跳ねて喜ぶ。そんな姿を見ていると、なんだか私の頬も自然と緩んでいった。

「なら、いい席取っておこうよ」

 たくやくんの提案で、私達は大きな機械に一番近い場所に陣取った。どうしてか知らないけれど、機械に近い座席は全て二人がけの座席で、だから私は自然とたくやくんの左隣に座ることになった。

 バスの座席も隣だったのに、それとは何か違う感じ──変な緊張感というか、妙に落ち着かなくなってしまう。

「プラネタリウムもきっと綺麗だけど、本物の星空はもっと綺麗なはずだから」

 恐るおそる隣を見ると、たくやくんは私に向かって微笑んでいた。

 少し後ろに傾いた座席。腰から深く支えられているような座り心地は、自分の全てをゆだねられるような安心感がある。

 そして私の一つ隣にも、私を安心させてくれる大切な人がいる。

 そう考えていると、胸の辺りが急に熱くなっていった。

 しばらくすると、部屋に他の生徒や引率の先生、館の職員さんが這入ってきた。それぞれが席に座ると、部屋が真っ暗になっていく──けれど、不思議なくらい心細くはならなかった。

 館の職員さんが少し話した後、お姉さんのアナウンスと共に真っ暗な天井に明るい星さん達が映し出された。

 それは見たこともない幻想的な景色で、私達が住む町から見上げる夜空よりも何倍も綺麗な作り出された星空だった。

 夏の星空、冬の星空、それから日本からは見られない星空なんかもあった。その度に星の位置が変わり、少しの時間で色々な所から星空を見上げているような気分になる。

 そうして星空を映す天井を眺めていると、座席の肘掛けに置いた右手に、温かい何かが重なった。そこから伝わる温かみは血の流れに乗って一直線に心臓へと向かい、鼓動を早まらせた。

 私の右手にいるのは、たくやくんだ。

 恐るおそる視線を下ろす。自分の右腕の方を見ると、私の右手にはたくやくんの左手がそっと覆いかぶさっていた。温かみと早まる鼓動の原因は、たくやくんの左手だったみたいだ。

 それを見て理解すると、急に頭が何かでいっぱいになっていった。頭上の星空も、お姉さんのアナウンスも、何も頭に入ってこない。

 どうするべきなのだろう、どうしたらいいのだろう、わからない、わからない──そんなことが頭の中で渦巻いて、ますます鼓動は早まっていく。何より、あれだけ私に安心感を与えてくれていた人が急に私を混乱させてきたという、その現実に混乱した。

 いくら落ち着こうとしても高鳴る鼓動がそれを許さず、考えれば考えるほどに頭の中はごちゃごちゃになっていき、私はこの座席に縛り付けられているような気分になった。

 気が付けば天井の星さん達は消え、部屋が次第に明るくなっていった。その直後、私は怖くなって逃げるように席を立ち、勢いよく部屋から飛び出していった。

 とにかくここから離れたかった。もうあの気持ちは、ごちゃごちゃした何かはあの場所に置き去りにしてきた。あれは、今の私には抱えきれない何かだった。

 廊下を走り、階段を駆け下り、とにかくあの部屋から距離を取った。

「あなたの後悔は、これなのかな?」

 混乱する私を宥めるような優しい声が聞こえてきて、私は足を止めた。

 その声は、太陽系の惑星の模型が吊り下げられているロビーにいたメモリアの声だった。奥の自販機のすぐ近く、壁に沿って配置された四角いカラフルなソファーに腰を下ろしている。

 そうだ。これは記憶なんだ──

「私、どうしよう·····たくやくんに酷いことしちゃって·····」

 急に思考が大人になったような感じがした。するとすぐ、今すぐあの場所に戻らないといけないという強い思いにさいなまれた。

 今すぐ戻って、たくやくんに謝らなくちゃいけない──

 しかし、矮躯わいくは動かなかった。微動だにしなかった。振り返り、あの場所に戻ろうとすると、足が竦んで動かなくなるのだ。

「なんで·····?」

 私はあそこに戻らなくちゃいけない。傷付けたたくやくんに謝らなくちゃいけない。なのに──

「それは、あなたの知らない過去だからだ」

 焦燥に震える身体に、優しい声が染み渡った。その声に絡め取られたように、あの場に戻りたいという思いの勢いは止まる。

 なんとなくわかっていた。どれだけ必死にもがいても、この道を戻ることはできないんだって、どこかではわかっていた。

「ここでできることは記憶を書き換えることじゃない。上書きすることだよ」

 温かな手が肩に置かれた。反射的に膝が壊れ、私はその場に糸を切られたあやつり人形のように力なく崩れた。

 悔しくて、情けなくて、不甲斐なくて──目から温かいものが流れ落ちるのを止めることさえできない。

 なんで小学生の私は、こんなにも弱いのだろうか──火の温かさを知らない動物が火を嫌うみたいに、大切な人の温かみに怯えてしまうのだろう。

「大丈夫。大丈夫だから、ほら、あっちに行こう」

 崩れた私の腕を取り、メモリアは私を立たせようとする。けれど、どこにも力が入らない。見兼ねたメモリアは腕を離し、私の全てを抱えて持ち上げた。

 糸の切れたあやつり人形は、カラフルなソファーの上に置かれた。

「私、たくやくんに·····たくやくんはいつも、私を大切にしてくれていたのに·····」

「裏切った。そう思っているのかい?」

 私は俯けた頭をさらに下げた。

「すれ違うことくらい、誰にだってあるよ」

「でもたくやくんはっ──」

 ──私に合わせてくれていた。だから彼とはすれ違うことがなかったんだ。なのに·····。

 私が転校してきた時に初めて話し始めた時からずっと、たくやくんは私に合わせてくれていた。だから私は彼に対して余計な気を遣うことはなかったし、彼とは上手く噛み合ってきたんだ。

 だから私も、たくやくんに合わせないといけない時だってあると、わかっていたのに──私は彼に合わせることができずに、想いがすれ違った。

 あんなに近くにいたのに、今はたくやくんが星よりも遠くに行ってしまったような気がする。

「酷いことをした·····たくやくんを裏切った·····なんで、小学生の私はこんな簡単なこと·····」

 後悔の念だけを続ける私に、メモリアも困っているのがよくわかった。でも、メモリアのことを慮るような余裕は、今の私にはなかった。

「簡単ではないよ。人と合わせて、心を通わせる──それは簡単なことじゃない」

「でも、できなかったら同じだよ。そして、しようとしなかった私は、もっと最低だ」

 いつしか後悔は自己嫌悪に変わり、変えられない過去の自分でいることが惨めになってきた。

「変えられなくても、上書きはできる。見方を変えれば、きっとこの記憶だって──」

 それでもメモリアは優しく、そう道を示してくれていた。けれど私は、

「そんな上書きなんて、ただの都合のいい解釈だよ」

 と、そんな温かみすらないがしろにした。

「そう、だよね·····」

 私は優しく慰めてくれているメモリアすら突き放した。そしてさらに自分が嫌になった。

 重苦しい沈黙の中でただ時が過ぎるのを待っていると、階段の方から慌ただしい足音が聞こえてきた。残された力を振り絞るように頭を上げると、そこには息を切らしたたくやくんがいた。

「たくや、くん·····?」

 顔がぐしゃぐしゃになっているのも目が真っ赤になっているのも忘れて、私は立ち上がり、たくやくんを見つめた。けれど、たくやくんは辛そうに目線を逸らしていた。

「本当にごめん、××──」

 耳につんざく、痛い雑音がたくやくんの口から放たれた。

「私こそ──」

 ──ごめん。

 そう言おうとした時に、一つの大きな心拍音が聞こえた。そして、記憶の世界の時間が全て止まった。

 引き戻されるように、周囲の景色が真っ直ぐに引き伸ばされていく。私の見る先、そこに集約されていくように、全てが吸い込まれていった。

『置いていかないで──!』

 それすら言葉にならず、私は全てとは反対方向に引き摺り込まれていく。合わせて、意識もぼんやりと薄まっていった。

 歪んで滲む視界の中で、ぼやけたたくやくんが、そっと手を伸ばしているのが見えたような気がした。

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