03

 大きな正面扉は、軋むような音を立てることもなくすんなりと開いた。メモリアに続いて館の中に這入ると、そこには大聖堂のような明るく広い廊下が続いていた。色鮮やかな硝子の窓からは色とりどりの暖かな陽射しが射し込み、豪奢な赤い絨毯が廊下の真ん中に敷かれている。

 廊下の奥には、文字通り柱のように大きな木造の柱時計が立っていた。数字はローマ数字で書かれており、長針は真っ直ぐ上を向いていて、短針はほんほ僅かに左に傾きながら下を向いていた。その大きな円盤の下、ガラスの中に入った金色の振り子が明らかに重力を無視したスピードでゆったりと揺れている。もちろん、この柱時計も新品のように美しかった。

 その柱時計がある所に突き当たりにして、左右に廊下は続いていた。

「まずはこっちに行こう。見せておきたい物があるんだ」

 メモリアに続いて廊下の突き当たりを左に進み、さらに廊下を右に折れると、その先には鮮やかな花々と瑞々しい草が生い茂る庭園が広がっていた。そして庭園の中央に、一際注意を引く大きな木がそびえ立っていた。

「あの木は、いわゆる世界樹、ユグドラシルだよ」

「ユグドラシル·····」

 その荘厳な響きの名前と姿に、私の視線は釘付けだった。その木からは何か、他の草花からは感じられない偉大なオーラが放たれているようだった。

「この世界を支える木だよ。そして、あなたの記憶が帰るべき場所。あそこには、たくさんの人の記憶が蓄えられているんだ」

「あそこには、たくさんの人の思い出が詰まっているんだね」

「そうさ。そして、その人達の想いでこの世界は支えられている」

 麗らかな太陽の光を鮮やかに反射させる植物達は、まるで私を歓迎してくれているようだった。そして、初めて見た場所なのにとても心が落ち着く懐かしい感じがした。

「みんなあなたを応援している。あなたがあなたを思い出すことを、願っているんだよ」

「そうだね。私はちゃんと、私と向き合わないといけない」

 私にどんな辛い記憶があったのかはわからない。一度は私が拒絶したような記憶だ、ちゃんと直視できるかどうかと訊かれれば自信はないけれど、それでもそれを知ることで、私がここにいる意味が生まれるような気がした。

 メモリアに続いて案内された部屋は、寝室のような部屋だった。見たこともないくらい広い部屋で、あの丘の上にあった物と同じベッドや西洋風のテーブル、そして大きな金色の縁の鏡が置かれていた。

 私は鏡の前へと小走りで向かう──鏡に映ったのは、まだ若い自分だった。多分、大学生くらいの私だと思う。

「ここに現れる自分の姿は、最も思い出深い時の姿なんだよ。だからあなたは、きっと大学生の時に何か大切な経験をしたんだろうね」

「大学生の時か·····私がいつ死んだのかってわかるの?」

「あなたが覚えていない以上、あなたの記憶を辿るしかないね」

 鏡に映る自分に頷き、私はメモリアの方へと向き直った。メモリアはふかふかのベッドの上に座り込んでいて、どこか楽しそうに私を眺めていた。

「どうかしたの?」

「いやいや。あなたみたいにほとんどの記憶を忘れてしまっている人って、大体は記憶を見ることを嫌がったり、乗り気じゃない人が多いんだけど──あなたは、最後はいい死に方をしたのかもしれないね」

「だとしたら、記憶を辿る勇気になるよ」

 私は、私を取り戻そう。

「ここは寝室として使ってくれたらいいよ。夢の世界だから睡眠は必要じゃないけれど──これから先、独りになりたい時もあるだろうから」

 重たい鉛でも吐き出すように、メモリアは俯き加減に言った。

 確かメモリアは『案内役』と言っていた。だからきっと、私以外にも色々な人をこうして案内してきたのだろう。そしてその中で、たくさんの人がそういう状況に陥ってきたということなのだろう。

 メモリアは、相手が辛くなることがわかっていても、その案内をしなくてはならないのだ。

「うん。わかった。絶対大丈夫だよ。私は、私の記憶とちゃんと向き合うからね」

 励ますように、少しでもメモリアの気持ちが軽くなるようにと、私は力強くメモリアに宣言した。

「本当に、あなたは変わった人だね。でも、あなたには本当に辛い記憶が多いようだ──一度踏み入れたら引き返せないけれど、本当に大丈夫かい?」

 私のことをおもんぱかるように、メモリアは引き返すなら今だと言うように選択を迫った。けれど私は、その選択を聞き入れるつもりなどはなからなかった。

「大丈夫。よくわからないけれど、なんだか思い出さないといけないって気がしているの。だから──」

 だから、きっと大丈夫。

 私が自分から切り離した記憶は、しかし自分には欠かせないものだったのだろう。それがないと、私は私ではいられない気がする──失くしてはいけない想い。知るべきだった真実。向かい合うべきだった過去。そして、私──今の私が、それをちゃんと思い出すべきだということ。それが昔から染み付いていた使命のように、私に強く前に進めと言っているようだった。

「それじゃあ、案内するよ」

 メモリアは屈託ない笑顔を取り戻してそう言うと、ベッドから立ち上がって部屋を出ていった。私は私の『案内役』であるメモリアに続く。

 庭園を先ほどとは逆手に見ながら廊下を戻り、大きな柱時計の下まで来た。こうして近くで見ると、本当に凄い迫力だ。短針だけでも私と同じくらいの背丈があるのではないだろうか。

「ここに、あなたの記憶は眠っている」

「この柱時計の中に?」

「刻まれているんだよ」

 美しい柱時計の木目を撫でながら、メモリアは自慢する。

「記憶は順番に見るんだ。あなたが忘れてしまっていて、その中で特に思い出さなければならないと思っている記憶をね」

 ゆっくりと振れる振り子を眺めながていると、ふと疑問が浮かんできた。

「一つだけ、訊いていいかな?」

「なんだい?」

「記憶を見て、思い出して、それでどうしたらいいの?」

「見ること、思い出すことに意味があるんだよ。そしてそこに未練が残るのなら、それをあなたは上手く噛み砕く必要がある·····そして、ちゃんと受け入れることが目的だよ」

 記憶を見ることの真意を明かしながら、メモリアは少し心配そうに私を見つめた。

 先ほど部屋でメモリアが言っていた「独りになりたくなる時」というのは、そうして未練と葛藤している時のことみたいだ。そうやって自分の記憶と向き合って、理解して、受け入れることこそ、私が私の記憶を見る意味なのだ。

 そして、私がここに来た意味なのだ。

「それでもあなたは、記憶を辿る旅に出るのかい?」

 最後通告をするように、心配そうな表情をより一層強めてメモリアは問う。

 確かに、一度は受け入れられずに手放した記憶だ──簡単に受け入れることはできないと思うけれど、それでも私は記憶を思い出す覚悟をしていた。思い出して、自分なりに理解して、ちゃんと私の中に取り戻す決意をしたのだ。

「もちろん。なんだか、自分の記憶からは逃げてはいけない気がするから」

「そっか──大丈夫だよ。僕も記憶の旅には同伴する。僕はあなたの記憶には直接触れられないけどね」

「心強いよ」

 私が笑顔でそう言うと、メモリアも不安な表情を払って微笑んでいた。

「それじゃあ出かけようか──あなたの記憶を取り戻す、記憶の旅に」

 メモリアが大きな硝子の張られた扉を開き、ちょうど真下に来たゆっくりと振れる金色の振り子に振れると、その奥から眩い光が溢れ出し、すぐに私達は光に呑まれていった。

 光の中では様々な風景が目眩めくるめくように駆け抜けていって、その一つ一つがとても懐かしいような感じがした。そして同時に、光に触れる全身から、私の中に何か温かいものが流れ込んで来るような感じがした。それらは全て素直に頭へと向かっていく。

 少し、ほんの少しだけ思い出してきた──小学生の時に、私は取り返しのつかないことをしたのだ。

 これから先、一生背負っていくような大きな大きな後悔を、まだ幼かった私は残してしまったのだ。

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