02

「え·····?」

 突然のメモリアの発言に、私の思考は到底追いつかなかった。

「信じられないよね。その時の記憶がないんだから、まぁ無理はないと思うけれど·····でもあなたは、もう死んでいる。これは事実なんだ」

 心苦しそうにメモリアは続けた。

 ベッドを囲うレースの帳が優しく揺れ、心地よい風が吹き抜けていった。危うく気持ちまで流されそうになってしまい、私は慌てて我に返る。

「死んだって·····それじゃあここは·····」

「まぁ、一種の死後の世界だね」

 死後の世界、か──荒唐無稽な話に思えるけれど、しかし言われてみると、なんだか納得してしまう。

 まず、この高級感のある清潔なベッド。明らかに私には手の届かないような豪奢なベッドであると同時に、どこか現実離れしているような風格があるのだ。本体の木の部分といい、ふわふわな布団といい、柔らかな枕といい──全てが夢のような心地よさをしている。そしてベッドを囲うレースの帳の向こうには、麗らかな空と明るい草原が広がっていた。どうやらこのベッドが置かれている場所は、その草原の中にある小さな丘の上みたいだ。

「あなたは、どうやら記憶を封じているようだね」

「記憶を封じている·····?」

「ここに来て思い出せないというのは、つまり心がその記憶を見ないようにしているということなんだ。あなたが思い出せない記憶は、あなたがなかったことにしようとしている記憶なんだ」

「なかったことに·····」

 私は無意識のうちに力なくメモリアの言葉を繰り返す。

 忘れている記憶は、私が忘れようとした記憶。ということは、死んだ時のことや自分の名前も含めた生きていた時の全ての記憶を、私は忘れたいと思いっていたということなのだろうか。

「でも、大丈夫だよ」

 薄いレースの向こうの明るい草原からメモリアに目線を戻すと、メモリアはにっこりと微笑んでいた。まだ幼さが残る顔立ちなのに、その笑顔にはどこか頼れるような男の子らしさを感じる。

「ここには、ちゃんと全ての記憶がある。そして、あなたはその全てをもう一度見る必要がある。見て、納得して、もう一度記憶するんだ」

「もう一度、見る·····」

 メモリアの言葉は勇気や希望に満ち溢れているものだった。けれど私は、メモリアの言ったことに自然と身体が震えた。

 私の記憶をもう一度見る──恐怖なんて感じていないのに、むしろ忘れている記憶を取り戻せるようで嬉しいはずなのに、身体が勝手に震えてしまうのだ。

「無理もないよね。封じ込めるような記憶なんだ、きっと辛い記憶に違いない。けれど、あなたには辛いことが多過ぎた。自分の名前すら切り捨ててしまうなんて·····」

「私が私を思い出せないのは、その全てを拒絶したから·····?」

「封じ込めるとは、つまりそういうことだよ」

 メモリアは俯きながら辛そうに言う。その姿を見ながら、私は震えを必死で堪えた。

 辛い記憶。忘れてしまおうとして、忘れてしまった記憶。しかし本当に、このままでいいのだろうか? 本当に私はもう既に死んだ人だとして、その生前をしっかりと思い出すべきではないのだろうか? 辛くても、悲しくても、それでもそれは全て、大切な私の足跡だ。

 私の大切な、生きた証だ。

「その記憶、見られるの?」

 メモリアは不意をつかれたような表情を浮かべる。

「私が忘れてしまった記憶は、今からでも見られるの?」

「うん、もちろん。ここにはあなたの全ての記憶があるんだ。あなたが忘れたいても、あの館には全てあるよ」

 メモリアのか細い指が差した方を見ると、そこには白い城のような館があった。先ほど見渡した時には草原が広がっていたはずなのに、なぜ突然あんな所に·····。

「驚いた? ここは死後の世界、つまり精神世界みたいなものなんだ。夢の世界って言った方がわかりやすいかな。だから、そんなに驚くことじゃないよ」

「へ、へぇ。じゃあやっぱり、私って死んでるんだね」

「うん·····辛いけれど、それは紛れもない事実だ」

「なんだろう·····本当なら、こうして辛い記憶を忘れてしまえることは嬉しいことのはずなのに、今はとっても悔しく思ってしまう。ちゃんと取り返さなきゃって、思っちゃうの」

「だからあなたは、ここに来られたんだ」

 メモリアはベッドの上で立ち上がった。それからレースの帳を開き、草原へと降り立つ。メモリアが降りた付近の草は、ふわりと彼を避けているようだった。

「あれが記憶の館だよ。あなたが取り戻したいものは、あそこにある」

「私の記憶が、あそこに·····」

 私が封じ込めた記憶──辛くて悲しい記憶とは、一体どんな記憶なのだろう。

 それを再び見て、思い出すことはとても怖い──けれど、それをちゃんと思い出さないといけないと叫んでいる自分がいる。

 傷付いて、抱えられなくなって、捨ててしまった記憶には、私が知るべき事実があるような気がした。

 私はベッドから降り立ち、草原の大地を踏み締めた。ふと足元に目をやると、私はスニーカーを履いていた。このスニーカーはよく覚えている。大学生の時のお気に入りで、しょっちゅう履いていた靴だから。着ている服もよく覚えていた。この白色基調のシフォンシャツと淡い青色のジーパンも、大学生の時のお気に入りの服だった。

「それじゃあ、行こうか──過去は変えられなくても、記憶の上書きはできるからね」

 差し出されたメモリアの白い手を取り、私は記憶の館へと向かった。

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