彼女の泣き顔をはじめて見た。


 五つ下の、いつも明るくて楽しいことが大好きで、イタズラ好きというかもはやお笑いモンスターのように日々他人を笑わせるのが好きな後輩。


 そんなだから自分の部署以外にもとにかく知り合いが多い子で、俺とも部署が違うのに顔見知りになってからは容赦なくネタをぶん投げてくるから必然的に仲良くなる。それから惜し気もなく他人に「大好き!」とかいってしまうような子だった。手のかかる子ほど可愛いというか、妹のようなお転婆娘のような。


 そんな後輩が、会社の死角みたいな非常階段から飛び降りようとしていた。


 耳慣れない中年男性の叫び声がして、思わず非常階段への出入口を開け放つと、今まさに飛び降りようとしている姿があって全身の血の気が引いた。


「何してる!」


 無我夢中でその腕を掴んでこっちに引き戻した。とにかくまた飛び降りないように、動けないように、しっかりとホールドする。


 そのわりには抵抗もしないようだったから、しばらくして恐るおそる顔をのぞきこんでみると、子供のようにぼろぼろと泣いていた。はじめて見る泣き顔だった。


 可愛がられていると同時によくいじられている子で、いじられてはぽこぽことよく怒っているのを見たものの、彼女の喜怒哀楽のうち哀しい顔はついぞ見たことがなかった。


 ぼろぼろと泣く彼女は、意識してるのか無意識なのか、俺のシャツの袖をぎゅっと握ってくる。


 一つ下の階には、けっこう体格がよくて厳めしい顔つきの、見たこともない人が立っていた。中年のおじさんというにはまだ少し若いかもしれない。


 思わず泣いている後輩をかばうように前に出る。


「どちらさまですか」


 硬い声で聞くと、強面の中年男性は途端に困った顔をして、胸元から黒い手帳を取り出した。


「すみません、お騒がせしています」


 本物の警察手帳を見るのもはじめてだった。


 ほとんどが昼食のため外に出ていて、非常階段からすぐの廊下に人はいなかった。好都合だった。無言でうつ向いている後輩を連れて、もっと人目につかなそうな場所へと移動する。


 廊下の突き当たりでトイレからも遠い曲がり角まで行ってから、ようやく振り向いた。


 じつは彼女の親友である女性が飛び降りを図りまして、という話は刑事の人から聞いていた。五日前の話だと聞いて驚いた。


 ただの友人でもショックなのに、親友だという人間がそんな目に合っていて、だけど彼女に特に変わったところはなかった。いつも通りうるさかった。


 男女では少し友情の形も違うのかもしれないが、親友がそうなったとしたら、俺はすぐさま病院に駆けつけるだろう。それ以外にできることも思い浮かばない。


 そういう気丈に振る舞っていた彼女の態度が逆に誤解を招いたこと、それから彼女が見舞いに行こうとしないこと。


「親友なんでしょ」


 二人きりの静かな廊下でそっと聞いてみると、こくんと彼女の首が縦に振られた。


「見舞いに行かないの」

「いやだ」


 二十代にあるまじき駄々っ子のような回答が返ってきて、思わずため息をついた。


 女性にしては背の高い彼女がヒールを履くと、成人男性とそんなに目線の高さが変わらなくなる。だからうつ向いていても、彼女を下からのぞき込むのは簡単なことだった。


「行かなかったらきっと後悔する」


 かなり危険な状態だと聞いた。あと何日、ひょっとしたらあと何時間もつのかもわからないと。


 こういっては不謹慎なのかもしれないが、死んでからでは遅い。死んでしまったらもう二度と会うことはできない。もう二度とチャンスはない。


「親友なんだろ」


 行かなければならないとさえ思う。今、突然こんなことになって彼女はわけもわからず混乱しているのかもしれないけれど、一番大事な友達なら会いに行かなくてはダメだ。絶対に。


「行かなかったらきっと、今よりもっと泣くことになる」


 選べるうちに選択した方がいい。会えるうちに会った方がいいに決まっている。今すぐにでも、タクシーを拾って彼女を詰めて、親友がいるという病院まで送りたいくらいだった。


「行って、どうするん、ですか」


 少しだけ顔をあげて答えた彼女の目元は真っ赤だった。声も泣きすぎて息を上手く吸えずにガタガタしていた。


 笑顔かふざけているときの顔しか記憶にない彼女の瞳から、堰を切ったように涙が溢れていた。


「いつ死ぬかわからないって。包帯だらけで血まみれでチューブだらけで機械でギリギリ生かされてる状態だって、聞きました。そんな姿見たくない。夢に出ちゃいます。怖い。もしわたしが行って帰るまでにあの子が死んでしまったら、死ぬとこに居合わせてしまったら、そう思うと怖くてたまらないんです」


 ぼろぼろと後輩が泣いている。気のきいたことの一つもいってやれなかった。


 ただハンカチを貸して、せめて落ち着けるように抱きしめて、背中をぽんぽんと叩きながらあやしてやることしかできなかった。

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