東京中野ドタバタ日記
吉村 剛
第1話 前書き
『東京中野ドタバタ日記』
前書きに変えて
はい、那智勝浦町昔懐かし話全100話を書き上げ、その前にパソコンがぶっ壊れ、あれやこれやといろんな方法を試して何とか元に戻ったと思ったら、なんと武士の刀の一太郎ソフトだけ正確に作動しない。なんでやねん。直そう直そう思ってこれもいろいろ試していて早一週間たち、あきらめました。人間あきらめも肝心なのよ~。僕は仕事で一太郎というソフトを使っていてワードが使えない。しかしこの際ワードを使うこととした。人間決断も大事なのよ~。というわけで今ワードのタケちゃんと化しているのである。今回の小説(なんかプロみたいだがズブの素人ですからね。趣味で書いてますので)は、1.僕の高校卒業し上京のシーンから東京中野の坂本荘での2年間の専門学校生生活、2.そして約8年の社会人生活、そして我が愛しの坂本荘を離れてからの約2年間と、さらば東京中野とバカ友たちよというシーンに大きく分かれると思う。思うというのは、まだ全然書いて無くこれから書き上げていくのでどのように変わるか分からない。ただ、頭の中ではあのこともこのことも、とドタバタ話が湧き上がってくる。書き方も那智勝浦町昔懐かし話のように、エッセイのようにⅠ話完結型をとるか、短編小説風にいくつかのタイトルで書きあげるか、また僕という主人公の長編にするか悩んでいる。皆さんご意見ください。ただ、Ⅰ話完結型というのは結構ネタで大変なのである。たぶん短編小説風かな。まあ、とにかく
最初の上京シーンをこれから書いていきます。皆さんおっちゃんの悪趣味とまあ又つきあってやってください。名称もできるだけ実名で書きたいが、人名は仮称で行こうと思う。それでは、近いうち
書き初めでお会いしましょう。では、それまでお元気で。
前書きに変えて タケちゃんより
『東京中野ドタバタ日記』
第一章 上京 Ⅰ
「いや~良かったよ。おめでとう。素晴らしい演奏会やったで」クラブのOBの皆さんや観客の皆さんが口をそろえてそう言いながら、ロビーにいる僕たちに声をかけてくれた。昭和57年3月21日、新宮高校吹奏楽部第1回定期演奏会。場所は新宮市民会館大ホール。今その歴史的定期演奏会が終了したところだ。僕の名前は吉村剛(よしむら たけし、昔からタケちゃんと呼ばれていた)。公立の新宮高校をこの3月の初めに無事卒業したところだ。高校の時の3年間は、中学からの親友の吉中功(いさお君と呼んでいた)が、「ブラバンに興味あるからいっしょに見学に行こう」との悪の言葉にだまされ、2人共その日に入部してしまい、いさお君は、かっこええサックス、僕は分けわからんユーフォニウムというピンクレディの歌みたいな楽器をうけもち3年間風の日も嵐の日も部活の拠点であった生徒ホールに通い続けた。その仲間に、大川賢一がいた。(幼稚園からの親友でピアノの名手、のちに勝浦のモーツアルトと呼ばれるようになる。通称けんたん。)けんたんが、僕らが2年の2学期の時上級生がクラブ卒業し部長なった。けんたんは、いつもクラブに新しい風を。今までにないものを。と言っており、定期演奏会をやろうじゃないかと皆と顧問の先生に提案し皆の賛成を得た。しかしすべて初めてであり、すべて手作りの定演会。チケットも手作り。手売り。会場もなんとか新宮市民会館を抑えて、なんと僕らが卒業式を終えた3月開催となったのである。演奏のうまさも今でこそ金賞を取るくらいの実力だがその当時はB部門の銅賞、つまり県内で一番下手だった。でも本当に部員はじめ0B、OGや先生方や先生方等のご協力によりこの定演の日を迎えたわけだ。会場は満員。校長先生の挨拶等から始まり僕もユーフォニウムとエレキベース、いさお君はサックスとエレキギターと曲により持ち替え、けんたんはトロンボーンをうけもった。演奏会の途中卒業生の紹介があり顧問の山中先生より卒業生に花束が贈られた。
僕らは、観客の皆さんを送り出し控室に戻った。そこには、テーブルに差し入れのお菓子とジュースがあり、まず部長のけんたんの合図で乾杯。そしてなぜか僕の合図で皆で万歳をした。今もその時の音源と写真は宝物である。その席で僕ら卒業生は再度皆に挨拶した。いさお君は「え~、皆さんありがとうございます。今日まで大変やったけどブラバンやり続けてよかったと思います。サックスの部門も後輩の皆さんに無事任せられます。僕はこれから大阪のミキサーの専門学校に行きます。大阪に来たときは連絡ください。」けんたんは、「あのう、あのう、あのう、みんなほんま、ありがとう。やりきりました。団結したら何でもできます。僕はこれから名古屋の芸術大学でピアノとトロンボー習います。ありがとう」。そして僕は「皆さん、ありがとう。チケットも手売り。全部手作りやったけどよかったよね。ほんま満足です。僕はこれから東京の中野の専門学校へ行きます。上京します。ほんま、ありがとう」
と。これが、上京への10日前のことであった。
第一章 上京2
定期演奏会から遡ること約2か月の2月上旬、僕は東京の大学の受験のため一人で高校のクラブの先輩の住んでいる東京目黒に勝浦から夜行列車に乗って向かった。東京へは、中学の修学旅行以来、もちろん一人で行くのは初めてである。勝浦駅発東京駅着なので、その到着ホームには先輩の坂上さんが待っていてくれることになっていた。出かける前にも確認の電話をしていて、僕も安心して列車に乗り込んだ。予定通り列車は寒い2月の東京駅に着き約2週間先輩のアパートにお世話になった。その当時今のファストフードがはやり始めた時で、吉野家やマクドナルドも登場した頃だった。目黒駅前には吉野屋があり、僕らは朝飯にそこに入った。初めて食べる牛丼。僕はこの世の中にこんなうまいもんがあるのかと驚き、それからの2週間、3食全部牛丼、受験の日は、牛丼弁当の大盛りを持って行った。受験は4校受けたが全滅。しかし長男で家の仕事を継ぐため経営や会計を学びたかったのでちょうど不合格が分かった時に届いた中野の会計のN簿記学校の会計学科へ行くことにした。大阪や名古屋に興味なかった。俺は東京へ行くと決めていた。そして今度は母親といっしょに2月の終わりごろ夜行列車で東京の中野に向かい、その翌日に中野のアパートを決め最終の列車で勝浦に戻った。それがこの小説の舞台となる坂本荘である。そして3月の初めに高校の廊下で西村正和に会った。僕らの学年は、11クラスあり1組から7組まで文化系、8組から10組まで文理系、11組は理数系、そして建築科と土木科が別にあったので、2組の僕と7組の西村とは、教室が離れていたのでめったに会わなかった。「よう、吉村元気か大学きまったんか。俺は東京の日芸へ行くことになって、豊島区の東長崎いうとこへアパート借りて住むようになったんや。」と西村から声かけてきた。「ほんまか、俺は大学あかなんで、東京の中野の会計の専門学校へいくんや。同じ東京やね。あとで俺の住所と電話番号教室まで持っていくわ。お前も良かったら教えてくれよ。」そう、この会話がこれから始まるドタバタ日記の始まりの元になるとは誰も気づかなかった。西村と僕は、高校の1年の時しか一緒じゃなかったが、西村は長髪で銀縁メガネかけており、あの新宮高校の近くにあった城西レコード店の裏に住んでおり、そこのレコード店に入り浸っておりかなりの音楽通でビートルでは無くストーンズが好きで、村上龍が好きで、僕と同じ甲斐バンドの大ファンでそのことで気が合いよく音楽の話とかしていたが、2年になりクラスが変わると、ご無沙汰していた。がり勉みたいな顔してたが、勉強嫌いで、しかし成績は良く、なんか変わった奴だった。僕らは約束通り連絡先を交換し東京で会おうやと約束した。僕ら2人は、共に俺には東京しかないと思っていたのである。
第一章 上京 3
「たけし、頑張ってこいよ。都会のあかに染まったらあかんぞ。」「大丈夫やっておじいちゃん、俺まじめなんやで。2年したら帰ってくるし夏休みとかにも帰ってくるわ。親戚のおいさんらも横浜におるしなんかあったら連絡できるさか。」おじいちゃんは、頑固一徹の明治男。横わけした白髪頭で着物姿。昔から悪い右足をいつものごとく木の棒でトントンとたたきながら僕にそう言った。「こう見えてもおじいちゃんさみしいんやよ。初孫が東京へいくさか。たけちゃん気を付けて行っておいでよ。」とおばあちゃん。お父ちゃんは黙って何も言わない。「さあ、いこか。」とお母ちゃん。昭和57年3月末僕とお母ちゃんは、夜行列車に乗り東京へ向かった。お母ちゃんは、何もわからない僕のために5日間だけ僕についてきてくれ、家財道具や役所への手続等手伝ってくれることになっている。「ほんじゃ、行ってくるわ、頑張るからな。」と家族の見送りの中ボストンバックを手にし、僕らは歩いて勝浦駅に向かった。荷物はすでにアパートに送っている。駅にはすでに東京行きの夜行列車が停まっており、僕らは乗り込んだ。3段式の寝台車。お母ちゃんは一番下。僕は真ん中。一番上は空いていた。しはらくして列車は動き出した。通路の椅子に腰かけ窓の外を見つめていた。しはらくは、お別れか。流れる暗闇に所々家々の明かりが見えた。ちょうと家族団欒の時間だ。お母ちゃんは、疲れているらしくもう寝ているみたいだ。僕は、しばらくそうして時間を過ごし、そして自分の寝台席へと階段を上った。天井を向いて眼を閉じる。これからの期待と不安で複雑な気分になる。「けんたんは、名古屋か。なべっちや、いさお君は、大阪か。ほとんどの奴らが大阪とか関西やもんな。あいつらが嫌いな訳やない。でも恰好つけてる訳ないけど、あいつらとは、違うとこへ行きたいと思ったんや。俺は東京なんやな。あいつらとは違うんや。あっこれが、恰好つけか。」僕はクスッと笑った。寝台車の揺れは慣れれば大丈夫なんだろうけど、僕には眠ろうとしている疲れた男を揺り起こしているようなものに思えた。静寂の中時々聞こえる誰かの咳の音。僕は朝まで眠れず、ずっと今までのことを思い出していた。「これからは、全部ひとりでやっていかんとあかんねんなあ。料理もできんし。クラブの先輩とかは、なんとかなるっていうてたけど。ほんまかいな。まあ、やるしかないよな。」こう考えてみると、一人の若者が故郷捨てて上京するドラマのような恰好ええシーンを想像してたけど、なんと情けない田舎者の上京シーンだったのである。まあ、そんなこんなで、時間が過ぎていき僕は一睡もできず、列車の外がうっすらと明るくなってきた時にそっと階段を下り通路の椅子に腰かけ出発した時のように外を眺めていた。景色は薄明かりの中で、確かに田舎とは違う都会の景色に変わりつつあり、しばらくしてお母ちゃんも起きてきた。
「あんた、ずっとここにおったんかん。寝てないんかん。」「いや、ずっとやないよ。さっき上からおりてきたんや。うすぐ着くさか顔洗ろてくるわ」そう言って僕は洗面所へ向かった。しばらくして車内に、もうすぐ終点の東京に着くとアナウンスが流れた。僕ら親子は黙って通路の椅子に腰かけ外を見つめ到着を待った。列車は、東京駅のホームにゆっくりと入っていき僕たちは、3月末といえどまだ肌寒い東京駅のホームに降り立った。さあ、これから東京生活の始まりである。
第一章 上京 4
午前6時30分に東京駅に着いた僕らは、オレンジ色の中央線に乗り中野に向かった。電車の中から見える景色は確かに僕の田舎には無い景色で、人々も動きを早めにセットした人形みたいに道を急いでいた。平日のまだ通勤時間前であり電車の中は、すいていた。僕らは中野駅の南口に降り立った。「お母ちゃん、、おなかすいてないかん。立食いそばたべたいなぁ。」僕らは、以前アパートを探しに来たときに、この中野駅前の立食いそは屋を利用していた。揚げたての天ぷらがうまかった。僕らは天ぷらそばを食べそして、少し上り坂になっている道をアパートへと歩いた。途中には今度から僕が通う日商簿記専門学校があり、しばらくすると中野公会堂、桃山公園、そして下ると城山公園、そしてしばらく歩くと谷戸小学校があり、坂本荘はその真裏にあった。1階に大家さんの坂本さんの住まいがあり、壁の左端にドアがあり、ドアを開けると2階へ続く急な階段がありその階段を上りきった向かいに1部屋、階段の横の奥に水洗だが和式の共同トイレ、その横に1部屋、その奥にもう1部屋という2階に3部屋だけのアパート。アパートというかなんか間借りみたいだった。部屋の広さは入口に小さな流し付きの台所、そして4.畳半の和室と押入れといういわゆる安アパート。家賃1万8000円、水道代は別途月5000円、電気代は各自支払い。僕は階段上がって向かいの部屋だった。大きな窓がひとつ。外は大家さんの物干し台となっいて1か所洗濯物干しに使ってもええことになっていた。もちろん電話はなし。携帯などない時代。大家さんの家にピンクの電話があり、かかってくると部屋のブザーが鳴るようになっていた。僕らは部屋に入り、荷物だけの部屋に座り込んだ。僕は、そのまま少し眠った。起きるとお母ちゃんは送った布団や荷物を片付けていた。「たけちゃん、いびきかきやったで。昼前やから大家さんに挨拶して、どこかでお昼食べて電気屋でテレビとか冷蔵庫とか買いに行くかん。」「ああ、そうしょうか、ちょっと顔洗うわ」僕は台所で顔洗った。今日上京することも大家さんに言っていたのですでに水道とか電気は使えた。僕らは下に降りて大家さんに挨拶し、この辺のお店を教えてもらった。近くには、金物店、床屋、クリーニング店、蕎麦屋、コインランドリー併設の銭湯の寿湯、電気店、お総菜屋、一本大きな通りに出るとバス停もあり、マルマンという大きなスーパーもある。公衆電話ボックスも近くにあり米屋もあった。まあ暮らすには困らないみたいだ。僕らは中華料理屋で昼飯食べそれから家財道具を買いアパートまで夕方届けてもらうようにした。その日の内には、ほとんどの家財道具がそろい、晩御飯はお母ちゃんが、カレーライスを作ってくれた。翌日からお母ちゃんの帰る前日まで僕らは役場に行ったりこれから僕が一人暮らししていくための準備をすませた。そしてお母ちゃんが和歌山へ帰る日僕は東京駅に送りに行った。「お金無駄遣いしたらあかんで。計画立てて使わなあかんで。たまには電話しなさい。食料とかも大分こうたあるからしばらく持つやろ。まあ頑張りなあよ。そんじゃね。」お母ちゃんは和歌山へ帰って行った。とうとうほんまに一人だ。東京駅から中野へ向かう中央線が新宿に着いた。僕の頭の中に甲斐バンドの新宿が流れてきた。「目がくらむほと゛の人混みをしり目に右に左にかきわけて、」
東京生活の始まりである。
第二章 専門学校 1
4月の初め僕は、中野の丸井で買ったスーツを着て(その頃は青山とかアオキとかは、なかったのである。)中野の北口にそびえ立つ中野サンプラザに向かった。小ホールでの日商簿記専門学校入学式に出席するためである。中野北口には一人暮らしを始めてから何度か来ていて中野サンモールや中野ブーロードウェイとか来ていた。また、赤いカードの丸井も出来たばかりの頃である。中野ブロードウェイには、1階から3階までいろんな店が入っておりなかなかディープな店が多かった。今でこそ有名な、まんだらけも出来たばかりで、僕が初めて行ったときは、誰もお客がいなかった小さな店だった。そんな北口の中野サンプラザ。校長の挨拶や来賓の挨拶があり約1時間ぐらいで終わり、次の日から坂本荘から中野駅方面に歩いて約10分の所にある学校に通いだした。会計学科。簿記を2年間習う。初日の事。「担任の横山です。1年科の皆さんは1年、2年科の皆さんは、2年間よろしくお願いします。今から名前呼ぶので、返事してください。」机の上には、あらかじクラスの生徒の名前と何年科かと出身地が書かれた文書と、この学校でのカリキュラムみたいなものが書かれた書類が置かれていた。席は自由だった。教室に来たものから自由に座れる。どうやら関西出身の者は僕だけ。ほとんどが東京、そして埼玉と神奈川だった。遠くて山梨である。僕が一番遠かった。一通り説明が終わり、休憩時間となった。僕の前の奴が振り向き「俺、向田(むかいだ)よろしく。」とひげづらのがっしりした体格の奴が挨拶してきた。その風格から年上だと思ったので「僕は、吉村剛です。和歌山出身です。よろしく。」と敬語を使った。もろ関西弁である。「そんなに、かたい挨拶いらないよ。俺年上だと思うけど同じ1年生だから。敬語なんて使わなくてもいいんだよ。」久しぶりに聞く東京弁。体中がむずがゆくなってきたが、まさか半年後には自分もこんなしゃべり方しているなんて思いもしなかった。僕と向田が話しているのを聞いてか関西弁が珍しいのか何人かこっちによってきた。「よう、。俺、金指(かなざし)赤羽から通っているよ。こいつは連れの春日。」にこにこしながら金指が挨拶してきた。こいつとは今も友達で東京に出張の時なんかあっている。春日は同級生やけどすでに、50歳のおっさん。「どうも、吉村いいます。よろしく。」金指は、相変わらずにこにこしていて、春日は小さい声で「ども」といった。その横から「僕、成田です。よ、ろ、し、く、お、ね、が、い、し、ま、す。吉村くん」と舌足らずの言い方で、かばみたいな奴が挨拶してきた。「よろしく。吉村です。」と僕。横に座っている女の子が話しかけてきた。「はじめまして。あたし、雑賀慶子です。東京出身よ。吉村くんは、和歌山出身だよね。アパートなんかに住んでるの。」ボーイッシュなショートカットのなかなか、かわいい女の子である。「ああ、吉村いいます。中野の城山いうところにアパート借りて住んでいるんや。ここから歩いて10分くらいのとこや。」「あはは、もろ関西弁だね。久しぶりに聞いたよ。城山って、あたしも城山に住んでいるのよ。城山のどこ。」なかなか笑顔もかわいい。「谷戸小学校の裏の坂本荘。」と僕。「えっ、あたしの家のすぐ近くじゃん。あたしの家クリーニング店よ。」「えっ、あの雑賀クリーニング店か。そうか。」「なあんだ。ご近所さんじゃない。これも何かの縁ね。帰りいっしょに、帰ろ。」「ああ、ええよ。」冷静に答えたつもりだ、心臓ばくばくであった。それから僕らは、クリーニング店の前までいっしょに話しながら帰った。そのあとは普通に別れた。僕はアパートに帰り、一人暮らしもなかなか、ええやんかと、思い始めていた。 つづく
第二章 専門学校 2
上京し、お母ちゃんが和歌山へ帰る間、実は、僕は人生で初めて髪の毛にパーマをかけた。
「タケちゃん、東京で暮らすんやからちょっと垢抜けやなあかんで。パーマかけたらどうね。近くに散髪屋あったやろ」とお母ちゃんに言われ、5000円握りしめ歩いて1分の飯田理容店に行った。おじさんとおばさんがおり、「いらっしゃい、さあ、ここへどうぞ」と椅子をすすめた。おじさんが「はじめてかな。どのようにしましょ」と聞いてきたので、「すいません。パーマかけてほしいんですが」と言った。「わかりました。少し時間かかるけどいいかな。」とおじさん。「ああ、ええですよ。」と僕は答えた。「お客さん、学生さん」「はい、中野駅の近くの専門学校いくことになってます。そこの坂本荘に住んでるんです。」「そう、近くだね。関西の方。」「はい、和歌山です」おじさんは、、僕の髪をはさみで切りながら色々と話しかけてきた。そのうちパーマのセットが終わり頭にヘルメットみたいなのをかぶせてしばらしてそのパーマセットをはずした。「さあ、できましたよ」鏡越しに見る僕の初めてのパーマ姿。頭がやけに大きい。似合わんこともないんちゃうか、と僕は思った。「ありがとうね。良かったらまたきてね」とおじさんとおばさんは笑顔で送り出してくれた。それから僕が和歌山へ帰るまでここでお世話になった。アパートにもどりお母ちゃんは、最初に少し笑った。それが、やけに気になった。「似合うかん。」と聞いた。「似合うよ。今は、おばさんパーマみたいやけど、1週間もしたらようなってくると思うよ」
その日からちょうど1週間目が前に書いた入学式の日だった。かちかちのおばさんの頭が割と自然なパーマ頭になりつつあった。僕はこの1年は、このパーマで過ごした。2か月に1回ぐらいの割合で
パーマをかけ直しに飯田理容店へ行った。授業が始まり金指や春日たちも授業終わりに僕のアパートに食い物やジュース持って遊びに来たりもしたし、雑賀慶子とは、たまに帰りがいっしょになったら話しながら帰るというお友達の関係だった。(若者よ、世の中そんなに簡単なものではないのです。)そして、6月には、日頃の勉強の成果を試す日商簿記3級試験を受け僕らは、ほとんどの生徒が合格し、7月になり、そして夏休みになった。僕は約1か月の夏休みの初め大阪のいさお君となべっちの所へ行き何日か過ごし、そしていっしょに勝浦に帰った。夏休み中、東京から金指と春日と成田が僕の田舎に3日間泊りに来た。お母ちゃんは息子の新しい友達だということで、刺身やら肉やら、これでもかというくらい、もてなした。近くの海水浴場にも泳ぎに行き奴らは自然の素晴らしさに満喫し帰って行った。そして秋になり2級合格のための授業になり、より一層まじめに通った。あいかわらず僕の周りは女っ気がなく、金指や春日、向田、成田等と帰りに中野駅前の立ち食いそばのあるビルの4にある牛丼、カレーの店に行ったりした。この店は向田が見つけてきて、ある日「なあなあ、中野の駅前に牛丼とカレーの店があるんだけども、かなりの大盛りで200円、月に1回半額デーというのがあり、あとスタンプカードがあって1回ごとに1つ印を押してくれて、5つ貯まると1回ただで食べれるという俺たちにはうれしい店なんだよ。行かないか。」と非常に皆に褒められる情報を持ってきたのである。その時だけは皆は口をそろえて「向田偉い、天才、さすが、向田、あなたは神様」と言ったのだがその時だけだった。僕らは昼休みや学校帰りに良く利用し当然半額デーは必ず行った。そして正月に少しの間勝浦に帰り、年があけ2月に2級試験を受けた。向田、春日、僕、そして慶子ちゃんは合格。金指、成田は毎日欠かさず一番前で授業受けていたが不合格。前から思っていたがその時確実に、この2人はアホと分かった。合否が分かった日僕のアパートで、「向田、春日、吉村2級合格おめでとう、おまえらはアホや、金指、成田またがんばりましょう会」を盛大に行い、皆、雑魚寝で僕のアパートに泊っていった。そんなこんなで、専門学校1年目が終わろうとしていた。
第二章 専門学校 3
坂本荘での生活は、かなり快適で、なんせ4畳半なので少し手を伸ばせば、なんでも手が届くという便利さ。必要なもの以外何もないという。シンプルな家財道具。3人しか住んでいないのでトイレとかも、ほとんど自分のトイレみたいなもの。あとの2部屋には、近くの工業関係の専門学校生の男が2人住んでいた。たまに顔を合わすが、挨拶を交わす程度だった。トイレ掃除も大家さんがやってくれていた。トイレットペーパーは自分の部屋から使うときに自分で持っていくという仕組み。僕は仕送りが10万で家賃が約2万なのでほとんど自炊していた。まあ、天才タケちゃん。何でもできるので、なんとなくカレーを作り、バーガーヘルパーという大変助かるものを使いハンバーグを作り、焼き魚、オムレツ、カレーと同じつくり方でシチュー、八宝菜、チャーハン等何でも作れた。俺天才やんと、いつも作って思った。金指とか遊びに来ても作ってやったが、評判良かった。料理するの好きやったし、まあ金あんまりなかったからね。専門学校でも狭いけれどキャンバスライフみたいなのがあり、6月に山梨にバス旅行に行ったり、2月には、1年制の卒業旅行も兼ねて富士急ハイランドにバス旅行に行った。僕は生まれて初めてスケートというものをやったが、立つだけで必死。金指や向田は慣れたもので、すいすい滑っている。慶子ちゃんはじめ女子たちも、すいすい滑っている。僕ちんだけ初めて立ち上がった小鹿のように足をぶるぶるさせて静かーに、静かーに少しずつ前に滑っている。いや、滑っていない動いているのである。そんな時に限ってアホ友達が寄ってくる。「吉村初めてなの、ほら、手をもってあげるから滑りなよ」と金指。金指が無理やり手を取る。押さんでも、ええのに成田が後ろから「吉村くん、僕うしろから押しますよ。」と。「あほ、金指おまえあかん。そんなに強くひっぱったらあかん。こら成田おまえもや。あほ、押すな。ばかたれ。あっ、あかん」と僕は思いっきり尻餅をついた。その横を向田と春日が笑いながら滑っていった。「あれ、吉村くん、初めてなの、私が教えてあげようか」と慶子ちゃんが手を差し伸べて教えてくれたらこの話は盛り上がるのだが、若者よ、世の中そんなに甘くないんやぞ。慶子ちゃんたちは、はるか向こうで、すいすい滑っている。なんとか何回か尻餅ついて、わすがだが滑れるようになり、スケートの時間は終わった。このバス旅行の何日後かに希望者だけでクラスでスキーに行くという話が回ってきた。当然僕はパス。スキー道具も持っていないし、やったこともない。大体この話を持ち出したのが、どこにでもいるでしょう。チャライ奴が。クラスではよく目立というか、よくしゃべって、うるさいやつ。アホなやつ。なになにさぁと、じゃんしか言わんやつ。東京にあこがれて出てきた僕だが、話矛盾しているかもしれんが、このチャラ東京弁しゃべる恰好つけは、大嫌いだった。むさんくさい。とにかく、こいつら許せん。と金指も成田も春日も思っていた。でも類は類を呼ぶで、この手が好きなチャラ女東京弁と同じタイプの奴らがスキーにいくことになった。もちろん、慶子ちゃんは不参加。なぜか向田は行くことになった。まあ自由だから構わんのだが、それから僕らは向田とは付き合わないようになった。それだけ許せん人種なのである。僕は、昔からつるむのが、嫌いだった。集合写真やそんなんが嫌い。だから後になるが、僕が持っている専門学校の5枚の卒業写真には1枚しか僕は写っていない。チャラ男たちとは、一緒に写真撮りたくない。写真撮っている間、僕だけ外で缶ジュース飲んでいた。その後、4月になり僕らは2年生になり、1年制で入学した生徒は卒業し、1年の時2クラスあった2年生のクラスは1クラスにまとめられた。それから、僕らは、新しく新潟出身の大久保さんを悪友として迎えた。大久保さんは、いつもぼさぼさの頭をしていて、成田と金指と同じく2級試験に落ちていた。つまりアホである。でもチャラクなかった。僕らよりなぜか2歳年上。僕らよりアホだが、おもろい人で話があったので、僕らは大久保さんと御尊敬あそばして呼んでいた。大久保さんもその後、僕が東京を離れるまでずっと付き合いが続いた。2年生になり授業は日商簿記1級試験受験のための内容になっていった。金指、成田、大久保さんは、その授業を受けながら、6月の 2級試験も目指していた。この年の4月から僕は近くの酒屋でバイトをはじめた。
第二章 専門学校 4
僕らは、2年生になり、坂本荘での生活も少しだが慣れてきた。4月の頭にビールとかジュースを買っている橘屋とう酒屋の入口に「バイト募集、学生さん歓迎。夕方4時から7時まで、配達のお仕事」とあった。僕は、生活費がもう少し欲しかったのと、丸井でビデオデッキを買いたいと思ったので迷わずバイトを申し込んだ。学校は3時までなので楽勝で間に合う。また月、水、金の週3日、途中休憩もあり好きなお菓子とジュースが飲める。仕事は、店の自動販売機の補充から始まり、近所は台車での配達。遠くの家には、ご主人運転の車に乗せてもらってそこの場所への配達助手。マンションなんかエレベーターがあればいいが、なければ大びんのビール1ケースずつ階段を上ることもざら。かなりしんどい場合もあった。近くへの配達もアスファルトの良い道ばかりでない。でこぼこの道もある。僕は最初何回かビール箱ひっくり返してしまって割ってしまったこともあった。怒られたが、バイト代が少なくなることは、なかった。僕の相棒は、斉藤という大学生で同い年の男だった。広島出身で好青年だった。
1年の初めからやっているので、先輩で当然僕より仕事ができた。休憩の時はいつもバカ話をしていた。
僕は専門学校を卒業するまでバイトを続けた。その当時はビデオデッキが売り出された頃で、VHSとベータがあり、僕はソニーのベータのビデオデッキ当時20万を20回払いで買った。友達でビデオデッキ持っている奴もほとんどいなかった時代である。その後ベータは生産されなくなり、ビデオデッキ自体もなくなっていった。だから金指らが良くレンタルビデオ借りてきて家に遊びに来た。2年生も6月になり金指と成田は日商簿記2級試験を再受験し見事合格した。合格が分かった夜、僕の部屋で、「金指、成田2級試験合格おめでとう、やればできるじゃん会」を惣菜皿いっぱいとビール、大久保さんが差し入れたサントリーウイスキーなどで盛大に夜中まで繰り広げ、成田は、「僕飲めませんよ。飲めませんよ。」と言いながら、ビール缶5本あけ、金指もいつも、にこにこしているのだが、それに加え良くしゃべりだし、皆にうるさい、うるさいといわれながら酔っぱらった。そのまま皆雑魚寝で泊って行った。そして夏が来て夏休みに、また1か月ほど僕は和歌山へ帰り、2月期を迎え就職活動と1級試験の授業に僕たちは力を入れた。金指は、家業のペンキ屋をつぐことになっており、春日は会計事務所就職を目指した。成田は、家電が好きだったので実家の大森にある家電店を受けることになっていた。僕はというと、当初専門学校を卒業すると田舎へ帰り家の仕事を継ぐ予定だったが、2年位外で働くのもええんじゃないかとお父ちゃんとおじいちゃんの意見で東京で職を探すこととなった。僕は10月位から春日同様会計事務所の面接を受けたが、やはり日商簿記1級持ってないと厳しく、ことごとく落ちた。春日も同様だった。そのうち成田も家電店に内定が決まり、春日も普通の会社の経理職に内定が決まった。僕は、たまたま就職情報の載っている雑誌で大手レコード店が正社員を募集しているのを見つけ面接に行った。場所は新宿紀の国屋書店の8階の事務所、面接と簡単な筆記試験、3日後に合格の電話があった。
僕の就職が決まったのが12月だった。僕が一番遅かったが、その日は恒例の坂本荘での「僕たち就職してしまうもんね。おめでとう会」をまたまた盛大に橘屋で買ったバドワイザーやウイスキー、そして野菜と肉たっぷりの鍋で、これまた夜中まで行い、ふとんの奪い合いをしながら皆泊って行った。年が明け、卒業記念のバス旅行も鎌倉に行き、僕らは3月の初めに皆無事に卒業した。2月の日商簿記1級試験は、僕らの仲間は全滅だった。ものすごくむずかしいのである。卒業式は、お馴染みの中野サンプラザ小ホール、校長先生の話、卒業証書授与という約1時間で終わった。それから僕ら悪友たちは、中野ブロードウェイのレストランでちょっと豪華な昼食を取り、一旦別れ、夕方僕のアパートに集まった。当然「おめでとう、あんたらは偉い。よう卒業した会」を盛大に行うためである。ここで書いとくが、僕ら悪友たちは、いつも僕の部屋ばかりで飲んでいたわけでない。中野駅前の居酒屋やスナック見たいなとこでも飲んだ。金指の家に飲みに行ったりもしたし、2年になって一人暮らししだした成田の川崎のアパートでも飲んだ。卒業した会は、豪華にすき焼きにした。肉は金指が買い付け、野菜と酒は僕、今夜は、シーバスリーガルがある。成田に飲ませてやる。僕ら悪友はこうして専門学校生活を終え、そしてそれぞれが4月から社会人になった。後日談だが、クリーニング屋の慶子ちゃんは、そのまま中野の会社に就職したみたいだが、なんと僕が東京を離れる30歳の時に、僕の中野の知り合いの知り合いが
結婚したのでお祝いに行くことになり、僕も少し知っていた方なのでいっしょに新居へ行った。行く途中奥さんの名前を知り合いが、けいこちゃんといっていたが、全然気にならなかったが、新居へ行くと
僕の目の前には、あの慶子ちゃんが立っていたというドラマみたいな実話である。世の中おもしろいもんである。
第三章 再会 1
奴がやってきた。そう、あいつがだ。時は、僕の上京したころに戻る。僕のアパートは、1階に大家さんが住んでいて、ピンク電話があり、その電話が2階に住む僕ら学生の呼び出しの電話にもなっていた。僕らの誰かに電話がかかってくると、部屋のブザーが鳴り、そのブザーを押すことにより「わかりました。今下りていきます」という意味になっていた。当時は携帯も、パソコンもない時代。
僕が上京して2か月経った6月の金曜日の夕方ブザーが鳴った。僕は電話に出た。「もしもし。吉村です。」
「おう、吉村、俺や久しぶり。」聞き覚えのある声だが、誰か分からない。「えっ、誰。」「俺や、俺、西村や」西村、あっ西村か。「西村か。どうした。」「どうしたって、おまえ、東京へ行ったらまた、連絡くれよって言やったやないか。だから電話したんや」「あっ、そうやな。うん、そうや。ところで今どこな。」
「どこなって、2か月ぶりに関西弁聞いたわ。周り皆東京弁やしな。あっ、俺か、前にも言うたけど豊島区の東長崎いうとこや。池袋の近くや。」「おまえ、池袋言うても俺東京出てきて2か月やぞ、分からんよ。」「まあ、分からなんだらええわ。長話もなんやから、明日会えるか。中野までいくぞ。中野駅まで迎えに来てくれるか。」「ああ、ええよ。明日土曜日やさか、学校休みやし。何時にする。」「そうやな、昼飯一緒に食うか。そして夜泊ってもええか、酒飲もや。」当時僕らは18歳、でも酒ぐらい飲んでいた。「えっ、泊る、いきなりやな。まあええよ。12時に中野の北口でどうや。」「おう、ええぞ。うまい酒もっていったるわ。じゃあな」「ああ、じぁな」僕は電話を切り、大家にお礼を言って部屋に戻った。西村。
西村正和、この時は、この男が僕のこれからの東京での生活に一番影響を及ぼす奴だとは、誰もわからなかった。僕は、その日部屋を掃除し、ある程度のつまみになる物を近くのマルマンスーパーで買い明日に備えた。翌日、西村は、12時5分に中野北口に現れた。「かわいい彼女とデートやったら許すけど、おまえ許さんぞ。あっははっ」「すまん、すまん」西村は、どこかの酒屋の袋を見せながらそう言った。「飯くうか。」僕らはそう言って中野北口にあるサンモールという商店街の洋食屋に入った。「なかなか、雰囲気ええやんか。」西村は、あたりを見回しながらそう言った。「そうやろ、この前ひとりでぶらついていた時にみつけたんや。うまいぞ、俺ハンバーグ定食くお。おまえは。」「そうやなぁ、ここは、やっぱりオムライスにしょうかな、朝飯くうてないし。」「そうか」何がやっぱりなのか、朝飯食うてなかったらなんでオムライスなのか分からんが、「すいません、ハンバーグ定食とオムライスください、」と品のよさそうな奥さん(たぶんこの店は品のよいご夫婦でやっているみたいだ)に伝えた。しばらくしてハンバーグ定食とオムライスが運ばれてきた。「ここのハンバーグうまいんや」「そうか」と西村は、言い終わない内に僕のハンバーグにスプーンが伸びていた。スプーンで器用にひとかけらハンバークを切り、口にし小声で「うん、確かにうまいけど、新宿のアカシアいうとこは、もっとうまいよ。今度行こや」西村は、僕のハンバーグをほおばりながら、そう言った。僕らは満足してその店を出て、そのあとブロードウェイをぶらつき、サンモールの脇道にある「クラッシック」という名曲喫茶に入った。「すごいな、ここ」西村は、また、あたりを眺めながらタバコに火を点けた。「おまえ、タバコ吸いやったっけ」「いや、最近吸い始めたんや。俺、日芸行く言うてたやろ。今通いやるんやけど、周り腰まで髪のある奴や、変わった奴ばっかしでタバコ吸うやつ多いんよ。だから俺も吸うように成ったんよ」そう言いながら、西村は、マルボロの箱を差し出した。「吸うか。」「いや、俺は吸わん。」「そうか」西村はそう言って煙を吸いそして吐き出した。「それにしてもこの店すごいな。今にも崩れそうな感じやん。スピーカーもJBLやし」「JBLってすごいんか。この店もこの前ぶらついていた時に見つけたんや。初め入るとき勇気いったぞ。こんなとこ来たことないやん。まあブラバンやったからクラッシック嫌いやないからな。でもなんか落ち着くんや。静かやし。長い時間おっても何も言われんみたいやし。」「そうやろな。俺も気に入った」店の中にはフィンランディアが流れている。ブラバンで演奏したから分かる。僕らは、その後
あまり会話せず、コーヒーを飲んだ。「うまいコーヒーは、ブラックで、飲まなあかんぞ」と知っているのか、どうか分らんが、西村がそういったのて、僕らはそれ以降コーヒー飲むときブラックで飲むようになった。会話しなかったのは、その夜の再会大宴会に備えてである。そのあと僕らは坂本荘へ向かった。
第三章 再会 2
-僕らは、中野北口から南口へ出て線路際の道を歩いて坂本荘に着いた。途中僕の通っている専門学校や中野公会堂とかを西村に教えた。坂本荘の僕の部屋に入り西村は、「ここ何畳な、あれ、この写真彼女か」
僕はしまったと思った。西村は立ったままテレビの上に置いている写真たてを手にして聞いてきた。「まあ、こっち座れよ。ここは、4畳半や。狭いけど、どこでも手届くさか便利やぞ。」僕は、コップを
2つテーブル代わりのこたつに置き、冷蔵庫からコーラを出し注いだ。「まあ、飲めよ」と僕はポテトチップスを開けてテーブルの上に置いた。「サンキュー、灰皿あるか」「あるよ、タバコ吸う連れ、きてもええように、一応こうといたんや。」と僕は食器棚の上の灰皿を西村の方に差し出した。「なあ、彼女かよ」西村は、にたにたしながらこっち向いている。「そうやよ」「東京の子か」「いや、違うんや、田舎」「えっ、遠距離か」「そんなもんかな。」「どこで知りおうたん、同級生か」「いや、ふたつ下や、友達の妹の友達や」「そうか、で、どうやって知りおうたん」「おまえは、芸能レポーターか」「まあ、ええやんか、なあ、吉村ちゃん、教えてや」「ああ、写真直すの忘れたもんなあ、かなわんな」「あんな、俺が上京してからすぐにな、友達の妹から俺に電話かかってきたんよ、友達に電話番号きいたゆうて、それでどうしたんって聞くと、雅子ちゃん知ってるやろっていうねん、その雅子ちゃんと言うのは、友達の妹の友達で俺が友達とこ行ったとき来てて、一緒に鍋食べたり俺らのバンドのボーカルやってくれたりしたこともある子なんやけど、その子が傍におって俺に話あるいうねん。」西村はタバコ吸いながら、うんうん、うなづいて聞いている。「そんで」と西村。「そんで、その妹が、吉村くん今つきおうてる子おるって言うねん、俺はおらんよって答えたんや。そしたら、雅子ちゃんが前から吉村君のこと好きみたいで付き合ってほしいって言うてるねん。代わってもええって。俺は突然の事でびっくりしたけど、ああええよって答えたんや。しばらくすると受話器の向こうから雅子ちゃんの声がして、突然ごめんね、あのう前から好きやってん、もし良かったら付き合ってくれますか、って言うたんや。受話器ごしでも、もう泣き出しそうな声って分かるんや。俺は、俺で良かったら喜んでって言うたよ。そしたら一言ありがとうって。それから妹にすぐ受話器渡したみたいで、妹は良かった、良かった、言うて、また雅子ちゃんに代わったんや。手紙書くね。まっててね。これからよろしくお願いします。じゃ切りますって電話切れたんや。」僕はここまで話すと、コーラをごくごくと飲んだ。西村のコップも僕のコップもからになった。僕はコーラを注ぎながら「あれが雅子ちゃんや」「そうか、ええやないか。かわいいし。ええなぁ」僕の部屋にはステレオはなく、あるのは、大きなラジカセと外部配線したソニーのスピーカーだけ。僕は、カセットラックから甲斐バンドのテープを取りだしかけた。「おまえも甲斐バンド好きやったよな」「ああ」部屋に甲斐バンドの曲が流れ窓の外は夜の帳が落ち始めていた。僕らは、「そばでも食うか。この近くにうまいそば屋あるんや」「ええね」僕らは、クリーニング店の横のそば屋に入って盛りそばと、かつ丼のセットを食べた。東京に来て初めて知ったのだが、そば湯というものがある。西村は知っていた。「うまいな。うまいそば屋はかつ丼やカレーとかもうまいんやよ」西村はそは湯を飲みながら自慢げにいった。確かに言えるなと思った。それから、僕らは一風呂浴びに、近くの寿湯に行った。屋上がりのさっぱりしたところで坂本荘では、再会の祝賀会が始まろうとしていた。
後日談の実話だが、僕と雅子ちゃんは遠距離恋愛だったが約1年付き合った。僕が田舎に帰った時は、毎日会ったりした。しかし彼女が高三になり勉強に力を入れるようになって自然に別れた。彼女は看護師になるといっていた。僕が25歳くらいの時おじいちゃんが危篤になり田舎に帰った。おじいちゃんの病室に行った時なんと、そこに看護師になった彼女がいた。僕らは挨拶したが、多くは語らなかった。
彼女は自分の夢を叶えて頑張っていた。なんかうれしかった。そのあと、おじいちゃんは、亡くなった。葬式をすまし僕が東京に帰るときお母ちゃんは「おじいちゃんがお世話になった看護師さんが、昔タケちゃんにお世話になったことがある言うてたよ。本当におじいちゃんのために一生懸命世話してくれたよ」と僕にいった。僕は「そうか、良かったね」とだけ言って駅へ向かった。「良かった。雅子ちゃん、ありがとう。これで良かったんや」と思いながら。
第三章 再会 3
風呂から帰り、僕らは窓を少し開け買っておいたキリンラガーのロング缶を開けた。読者の皆さんは、僕らが何か再会の大宴会をやらかし、大事件を起こすと思っている方もおるかもしれないが、そんな、さすがに僕らそこまでアホちゃいます。そんなんしたらすぐ追い出されます。でもまあ近い事は、ようしましたが。「とにかく、乾杯」何が、とにかくか分からんが、僕らはラガーをごくりごくりと飲んだ。「あ~、うまいのう。」僕は、つまみのポテチをつまみながらそう言った。「おまえ、おっさんか。」そういう西村もラガー飲みながらゲップといっている。時計は午後9時を回ったところだ。テレビでは小さな音で漫才をやっている。「なあ、西村、高一の時は、まあまあ話したけど、小田や高崎らと、いっしょに。2年になったら皆別々やから、たまにおうた時ぐらいに挨拶するぐらいやったもんなあ。あいらは、どこいったんな。」「そうやな、おまえとは、1年だけやったけど。小田と高崎はそのあと2年、3年と同じやったよ。あいつら2人とも大阪の大学いったわ。」僕らはラガーを飲み干した。「ラガーでええか」僕は、冷蔵庫からラガーのロング缶を2本取り出した。スーパーで買っておいた焼き鳥のラップをはがし差し出した。「担任の、たぬきには、まいったよな。あの先生、いつも頭髪検査や言うて襟に髪かかったあたら本気で切ったもんな。俺も1回やられた。」僕は焼き鳥に、かじりつきながらそう言った。「そうやな。たぬきな。俺もやられそうになり、思いっきり、にらみつけて、腕ふりほどいたったわ。なんとか逃げたよ。あいつ、力強いし、はさみ持ってトイレまで追いかけ来たよ。アホやで。それが無かったらええ先生やのにな。」「俺もそう思うわ。俺のクラブの顧問やしな。ブラバンの」僕らは、もうすでに2本めも飲み干した。「バドワイザーあるけど飲むか。」「「ああ、ええね」西村とは、こうやって初めて飲むのだが奴はかなり飲めるみたいだ。僕も友達や親と飲んでも最後まで酔わない。顔にもでない。かなり飲める口だった。「おまえこれ、みてみ、おまえ本当に世の中気にくわんって、。ふてくされたある顔やなぁ。なあ、西村さん。」僕は、テレビの下のカラーラックから高校の卒業アルバムを引っ張りた゛し、西村のクラスの写真を見せた。「おまえ、本当に俺は、おまえらと違うんや。いっしょにすんな、みたいな顔やぞ。」「じゃかましい。おまえも1年の時の同じような事いいやったやないか。このふてくされた顔はなんですか。吉村先生。」僕らは焼き鳥を食べてしまい、ピスタチオに手を付けた。「ふたりとも、おもろない田舎やなあと、思てたかもな。東京へ行って自分試したいと思てたもんな」と僕はバドワイザーを飲み干した。「おい、もう一人おるぞ。おまえ、隣のクラスにおつた勇策しったあるやろ。佐藤勇策や。勇策もこんな田舎におったらあかん、東京やなかったらあかんっていつも言いいやって、今東京の写真の専門学校いきやるよ。プロのカメラマンになったるいうてね。」「勇策か、ちょっと暗かったなぁ。あんまり話したことないけど、写真部やったやろ。写真ばっかし撮りやったんちゃうか。」「そうや、写真部やった。写真のことはわからんけど、あいつの写真は他の奴らと、なんかちごたわ。」「ふ~ん。」僕らはバドワイザーを飲み干していた。「ウイスキー飲むか。、オールドこうてきたったぞ。氷あるか」西村は、酒屋の袋からサントリーオールドとオイルサーディンの缶とレモンをひとつ取り出した。「こんなこともあるかとロックアイスこうてましただ。ありがとうございます。お代官様~」僕は、冷凍庫からロックアイスを取りだし必要な分だけ二つのグラスに入れた。そこへ西村はオールドを注いだ。琥珀色が何とも言えない。ロックで飲んだ。しばらくして西村はガスコンロでオイルサーディンを温め、そこにレモンをしぼりかけた。「うまいぞ、オイルサーディン」僕は初めて食べたが格別にうまかった。俺よう、日芸の軽音楽部入ったんや。エレキギターや。レスポールこうた。おもろい。」「ええなぁ。ところで彼女とかは」「彼女やないけど同じ学部の女の子で仲良くなった子はおるよ。絵里ちゃんいうんや。ものすごい美人とかやないけど、小さくてかわいいんや。俺ラスカル言われやるんや」西村は、2杯目のロックを作りながらそういった。「なに、ラ、ス、カ、ル。ラスカルってあの、手洗いグマのか。おまえ、ラスカルいうか、あなぐまやぞ。おまえ、いつも絵里ちゃんに、ねえ、ラスカルといわれやるんか。あっははは。あほらし。」じゃかましい。ラスカル西村様やぞ。もうすぐうまいこと行くと思うよ。」「なんで、わかるねん。おまえ、酔うたか」僕はオイルサーディンをつまみながらそう言った。グラスも2杯目だ。「いや、酔うてないぞ。男の勘や。なんか絵里ちゃんも俺に好意持っている。よっしゃ、夜はこれからやぞ。まだ12時やないか。飲むぞ。今夜はとことん。飲むぞ。」僕らは、こうやって飲むのは初めてであった。たが、もうこいつとは、運命的なのか、10年以上付き合っている旧知の仲というぐらい打ち解けた。今も悪友である。こいつが、これからの僕の人生に多大な影響を及ぼすなと゛誰にも分からなかった。そのあと、オールドを飲み干し、僕が買っていた角瓶も半分飲みほとんど明け方に僕らはしゃべりつかれ眠りについた。起きたら昼の122時を回っていた。西村と僕は顔を洗い、ものすごく腹がすいていたので、中野駅の南口まで歩き、立ち食いそば屋そばといなりずしを食べて別れた。「勇策に連絡取るから来週でも3人で飲むか。」「ああ、ええよ。決まったら電話くれ。」そして予定通り僕は、勇策と再会することとなる。
第三章 再会 4
その後日、西村から電話があり、翌週の土曜日の夕方新宿の東口のアルタ前で待ちあわせることとなった。アルタ前は若者でいっぱいで、皆ウォークマンを持ちヘッドホンを耳にして待ち合わせをしていた。今のように携帯もスマホもない。ソニーのウォークマンが初めて販売された頃だ。CDも無く皆レコードかカセットを聞いていた時代だ。夕方6時待ち合わせ。僕が一番早く、5分遅れて西村、そのあとすぐに勇策がやってきた。僕は、前にも書いたがその頃パーマを当てていて、ジージャンとジーンズ。西村は米軍落ちの迷彩服とジーンズそして肩までの長髪、勇策も顎鬚をのばし軽くパーマがかかった長髪にストーンズのTシャツにぼろぼろのジーンズそして、肩から一眼レフ。僕ら3人新宿の東口には似合わず、どちらかというと高円寺や荻窪あたりの方が似合う格好していた。「よう、勇策久しぶり。元気か」
高校の時はあまり話したことなかったが、僕は「いや~、お久しぶりですね。勇策くん。」とか挨拶するとなめられると思って、わざとそのように、挨拶した。その方が勇策も楽やろうし、打ち解けると思ったからだ。「おう、お前も元気か」やっぱり僕らには多くはいらない。なんか通じるもんがあった。
「いくか」西村が先に歩き出した。アルタ横の果物店の横を通り少し歩き右に折れ、少し細い路に入った。店の名前は「アカシア」。「あっここか。この前いやった店」と僕はそのたたずまいにまず惚れた。
決して派手ではない、かといって田舎の大衆食堂みたいな薄汚さはなく、こぎれいである。僕らは店に入り、テーブルに腰かけた。すぐに店員が水とメニューを持ってきた。「勇策ここ来たことあるか。」西村は尋ねた。「ああ、あるよ。結構有名やしね。俺、ロールキャベツかな」「そうか、来たことあるんや。俺は、ハンバーグしよ。それと吉村ロールキャベツ半分っ子せえへんか」「ああええよ。俺もハンバークするわ」僕らは店員に注文し料理か゛運ばれるのを待った。「なあ、吉村、おまえ勇策あんまり知らんのやったっけ」勇策は、こちらを見ずカメラをいじっている。西村は、マルボロに火を点けた。今みたいに禁煙席なんかない。当然のように各テーブルには灰皿が置かれていた。勇策はタバコは吸わないみたいだ。「そうやな、あんまり話せなんだしな。となりのクラスやったけど。俺はブラバンばっかしやし、勇策は、カメラばっかしやったんちゃう」「そうやね」カメラから顔を僕の方に向け勇策がそういった。勇策の眼は細く、冷めた目つきだがその奥にものすごい自信に満ちたものが感じられる眼をしていた。
「あまり話せなんだけど、なんか不思議な奴やと思てたよ。暗いし。」「よう、本人前にしてそんなこと言えるな。俺にズバリ言うたの、西村とおまえだけやよ。あっははは、お前も変わったあるな。あっははは。」勇策はこいつは気に入った、みたいに笑っている。その2人のやりとりを見て西村は、ニタニタしている。「おまえ、勇策に気に入られたみたいやぞ。」と西村。「ちょっと待て、西村、俺何様やねん、あっははは」こいつ何なと思うほど勇策は笑っている。高校の時からは想像できない。「まあ、田舎もんの嫌われ者3人がこうやって再会したんや、今夜は飲むぞ。朝まで飲むぞ。」と西村は宣言した。「なんやこいつ、あっはははっ。」勇策と僕は、そういって笑った。「お待ちどう様です」と料理が運ばれてきた。「やっぱりうまいな」西村と勇策は満足げにそう言っている。「うまいな。お前の言うこと初めて信じられたわ。」と僕は西村に言った。「これから東京でいろんなこと教えたる。西村先生がな。」「はい、よろしゅう頼みます。西村大先生。」勇策は、「やっぱり、こいつらアホや」といい、ニタニタしている。「うまいな。最高や。」僕らは、全部たいらげ、新宿西口のガード下の方に歩いて行った。一軒の居酒屋へ入り、ビール、焼酎をしこたま飲み、そしてもう一軒焼き鳥屋へ入った。もう時刻は数字の1を指そうとしている。ここでも、しこたま焼酎を飲み、僕らは少し酔いが廻わった足取りで大久保の方に歩いた。
その頃は夜中もやっている飲み屋は、かなりあった。時刻は3時。「おい、あそこ入ろら」
「むらさき」チェーン店だ。「おい、西村大先生、ホッピーってなんな」僕は西村に聞いた。「ホッピーというのはな。昔ウッドストックの頃、アメリカではやったファッションのことや」西村は酔ってニタニタしながらそう言った。「あほか、それは、ヒッピーやろ」と僕。「辛いおかきとピーナッツのことや」勇策も酔ってきている。「おまえも、あほか。そ、れ、は、柿ピーや。おなか壊した時のときやぞ。」と僕。「そ、れ、は、ピーピーや。あっははは。」と西村と勇策。こんだけ飲んだらさすがに3人共酔っぱらった。僕らはホッピーも、しこたま飲んだ。焼酎も。腹の中は、ほんとにチャンポンだ。でも酔いが心地よかった。僕らは、店を出た。空は、うっすらと明るくなってきていた。「おまえら、酔うてるやろ。酔うてなかったらこの白線の上まっすぐ歩いてみ。」と僕。「あほか、歩けるわ」と言いながら思いっきり西村と勇策は斜めに歩いて行った。僕らは大久保駅へと歩いて行った。突然西村は、走りだし電信柱に抱き着いた。「絵里ちゃーん。」そう言いながら酔っ払いアホの西村は抱き着いている。その近くの電信柱めざし今度は勇策が走り出した。「ともちゃーん」アホの勇策の出来上がりである。そして最後に僕も走りだした。電信柱に抱き着き「雅子ちゃーん」。大久保の朝に和歌山出身のアホ3の叫びが響いていた。
第三章 再会5
僕が上京し1年目と2年目には多くの再開と出会いがあった。これから書く出会いもそのひとつだ。.僕は普段は、自炊してたが、週に何回かは、坂本荘の近くの池田屋という定食屋に良く行っていた。どのメニューもうまいのだが、チキンカツ定食が僕は大好きで良く食べていた。そこで、良く1人のやせた青白い顔した青年と出くわした。彼はいつも生姜焼き定食を大盛りごはんといっしょに食べていた。ある日、結構混んでいて彼と相席になった。池田屋の旦那さんは、「赤堀君すまないね。彼と相席してくれるかな。」「あっ、いいすよ」と赤堀という青年は、ぼそぼそといった。彼が先に食べ終え店を後にした時、少し店が落ち着いた旦那さんに僕は聞いた。「ねえ、旦那さん、彼、赤堀っていうんすか。」「ああ、彼ね。赤堀俊彦くんね。彼ね、ああ見えても元プロボクサーなんだよ。ひざを壊してボクサーを断念したんだって言ってたよ。たしか吉村君のアパートの少し先の高木荘に住んでるよ。」「今度ゆっくり話すればどうかな。」「そうすね」僕は、彼が気になっていた。あの青白い顔の青年が。ある時、銭湯で彼といっしょになり「どうも。吉村いいます。」「あっ、いつも池田屋で会いますね。赤堀です。この近くですか」「そこの角の坂本荘ですよ。良かったらこの後少し飲みませんか。良かったら僕の部屋で」「ああ、いいですよ」こうして僕らは、僕の部屋で彼と酒を交わすこととなった。「突然すいませんね。ビールとウイスキーしかないですが、飲みましょう。」「すいませんね。」僕らは、缶ビールをごくごくと飲んだ。「僕は、元ボクサーだったんすよ。」突然、赤堀君が話し出した。「あっ、すいません、突然こんな話して。」「あっ、ええすよ。僕も聞きたいと思ってたんすよ。どんな人か知りたいし。」彼は、なんか訴えたい、吐き出したいという顔をしている。「静岡の出身なんです。いじめられっ子だったんすよ。中学から地元のジムに通いだし、自分で言うのもなんですが素質があったんで、中学卒業してバイトしながらジムに通い17でプロ試験受けて合格したんです。その頃はすべて順調で、プロになってからも順調だったんです。でもひざを痛めてしまったんです。手術しましたが、医者からもうボクシングはできないと言われました。泣きましたよ。でも断念しました。身も心もボロボロです。そして横浜へ出ました。バイトやってもいつもイライラしてるので長続きしません。よけい落ち込み、どん底です。そして這うようにここ中野へやってきたんです。ある日ふと池田屋へ入ったんです。そしたら、旦那さんが、「兄さん不景気な顔してるね。俺で良かったら話聞くよ」って。ビール出してくれて。今話している事全部聞いてくれたんですよ。そしてアパートも探してくれて。それで旦那さんの知り合いのレストランに明日面接行くんです。ほんと亡くなったおやじくらいの年ですが、オヤジみたいです。すいませんね。こんな湿っぽい話で。」そこま話して、赤堀君は。ビールをごくごくと飲み干した。僕もカラだった。「池田屋の旦那さん、困った奴見たらほっとけんって感じのおやじやしね。ところで赤堀さんいくつすか。」「僕は、18になったばかりです。」「僕より、ひとつ下か。これからは、赤堀君やな。あっははは。アパートも近いんでいつでも遊びに来てよ。俺も部屋いってもええすか。」「ああ、ええですよ。ボクシングのグローブ未練がましいけど置いているんで今度見せますよ。」それから僕と赤堀君とは、すごく仲良しになり、今でも思い出したら涙が出るが、僕が風邪で高熱を出した時、よれよれのビニール袋に、ところどころ破れているアルミホイルに包んだ、まん丸の塩をふっただけの、おにぎりを2個、「こんなものですいません」と言いながら届けてくれた。彼も金がなく、わざわざ、なけなしの米を炊いてつくってくれたんだろう。おにぎりなんか握ったこともないんだろう。団子みたいな、どでかいまん丸のおにぎり。塩だけ。梅干しなんか買えない。僕は、その心に泣いた。うれしくて泣きながら、ありがたく口にした。赤堀君は、そんな奴だ。僕が、30歳で勝浦に帰るようになった時も、「なんで、帰るんですか。ここにいてくださいよ。」「なんで 」と男泣きに泣いてくれた奴だ。僕が勝浦に帰る1週間前に「今日は、1日付き合ってもらいます。まず、後楽園で4回戦のボクシングを見ましょう。そのあと帝国ホテルの最上階レストランの予約入れてます。今日は僕に、おごらせてください。」もちろん、僕は生のボクシングも帝国ホテルも行ったことがなかった。申し訳なかった。こんな俺のために、ここまでと、思ったが、ありがたく招待を受けた。今でも本当に忘れることのできない思い出だ。残念なことに僕が勝浦に帰ってからしばらくして彼も引っ越し連絡が取れなくなった。でもどこかで頑張っていると思う。
第三章 再会6
赤堀君のことは、前回位に、しとこうかなと思ったが、もう少し書くことにしよう。池田屋の旦那さんが、紹介してくれたレストランに、彼は一張羅のスーツを着て面接に行った。場所は渋谷駅から歩いて10分のところ、結構人通りも多く、ご主人夫妻と調理場にベテランの男性、そして接客に2人の女性を雇っていた。赤堀君は接客のバイトとして面接を受け採用された。同じ接客の女性は、一人は60
歳くらいのおばさん。非常に物腰が低く赤堀君に丁寧に教えてくれたそうだ。もうひとりは、25歳くらいのお客さんには、にこにこしているが、裏に回ると、いつも、つんつんしている女性だった。おばさんの方は約3年、もうひとりの女性の方は高校の時からバイトしているらしく、もう10年くらいやっていて仕事はできるので、ご主人夫妻は何も文句は言わなかった。しかし、このつんつん女性と赤堀君が合わなかった。赤堀君は、僕とあっても「いつも文句ばかり言われる。嫌がらせされる」と嘆いていた。時々池田屋の旦那にも相談していたみたいだ。しかし、4か月経ったある日、池田屋で例のごとく定食を食べていると「すいません、今日店やめてきました。旦那さんには申し訳ないですが。」と言った。それから、赤堀君は、自分で喫茶店のバイトを探し出し面接に行き採用されたが、ここは、店の奥さんと会わずまたも2か月でやめた。そして今度はラーメン屋でバイト始めた。ここでは、従業員の男性と口げんかになり、またもや3か月でやめた。その次は僕と池田屋の旦那さんの前で「僕は昔からボクサーにならなかったら、バーテンダーになりたかったんですよ。」と渋谷のきれいなビルの最上階にあるショットバーでバイトすることになり、お祝いに僕と池田屋の旦那さんとで、池田屋が休みの日カクテルを飲みに行った。赤堀君は、うれしそうにグラスを磨いていた。バイトなので、当然シェーカーはまだ振れない。僕らは、ソルティドックやブラッディマリーを何杯か飲み赤堀君の働きぶりを確認し店を後にした。しかしその何週間後かにまた、オーナーとぶつかりやめてしまった。彼がやめたことを知りある日
僕と赤堀君は閉店間際の池田屋に旦那さんに呼び出された。旦那さんは、「赤堀君と吉村君、悪いね。まあ、そこ座って。ビール飲むかい。」「いや、今日は、やめときます。水でいいです。」旦那さんは、のれんを中に入れ、僕らのテーブルの向かいに座った。「なあ、赤堀君、また仕事辞めたって、本当か」赤堀君は、小さな声「はい。」と答えた。旦那さんは、自分のお茶を一口飲んだ。「なあ、これで5回目か、困ったな。赤堀君なんでだと思う。」赤堀君は、申し訳なさそうに、うなだれている。「すべて僕が悪いと思います。根性なしやし。長続きしないし。喧嘩ばやいし。僕には仕事なんかできないと思います。」
旦那さんは、また一口お茶飲み、こう言った。「ただのお客さんやったら何も言わないかもしれん。ただ、赤堀君は、ほっとく訳にいかない。赤堀君は仕事していて、嫌なことがあると、そこをやめて別の所へ行くとその悩みが消えると思ったんだろう。他の仕事が今自分のやっている仕事より良く見える。良くあることだ。自分の周りの環境さえ変わると救われると思う。そうだろ」「はい、そのとうりです。」「普通はそう思うだろう。でも、良く考えてみな。僕が紹介した店は、接客の女性と会わなかった。それで店を変わったら、今度は奥さんと会わない。それで店を代わると今度は同僚と会わず口げんか、また店を代わって今度はオーナーと会わない。なんでか分かるか。」「いや、分かりません。」「あのな、環境だけ変えてもダメってことだよ。環境のせいにしてはダメだということだ。環境に負けてるんだよ。自分が変わらないと。そうじゃなきゃいくら店変わっても同じことで悩んでやめてしまうよ。つらいことがあっても乗り越えられる自分にならないと。そしたら自然に環境も変わっていくんだ。自分が変わったことで環境を変えるんだ。わかるかな。」奥で奥さんが、にこにこしながら僕たちのやり取りを見ている。「僕も昔はそうだった。何やっても長続きしない。全部環境のせいだと思っていた。自分は悪くないと。でも違った。環境変えても同じようなことで悩んでやめてしまう。今の赤堀君と全く同じだ。体験したから言えるんだよ。自分を変えてみな。そして嫌だと思っても積極的に話しかけてみな。本当に赤堀君にとっていらない人なら自然と向こうから離れていくよ。そして必要な人なら、。あっ、この人は本当はこんな人なんやと積極的に、かかわっていくうちに味方に代わるよ。これも僕の体験だ」奥さんは、また奥で、にこにこしながら、うなずいている。「旦那さんもいろいろ経験したんですね。」僕は、水を飲みながら、そう言った。「すまないねえ、ほっとけないんだよ。彼には、がんばってもらいたい。体験に勝るものなしだよ。」「なあ、旦那さんのいうことを聞いてもう一度本当に頑張ってみたらどうかな。」僕も赤堀君にそう言った。「本当にありがとうございます。やっぱり、僕はバーテンダーになりたいです。本気で仕事探して、長続きさせて見せます。頑張ります。」「そうだ。頑張れよ。この話はこれで終わりだ。ちょっと飲むか」奥さんがビールとコップを3つ持ってきてくれた。僕らは、グラスに注ぎ乾杯した。その後赤堀君は、バーテンダーの仕事を見つけ、僕が東京を離れるまでの約7年間その店で働いた。池田屋の旦那さんとも彼が作るカクテルを何度か飲みに行った。最高においしかった。僕が勝浦に帰ってきてからは、しばらくして彼は引っ越してしまったので分からないないが、しっかり仕事をしていることだろう。
第三章 再会7
「ブー、ブー、ブー」僕の部屋のブザーが鳴った。上京し専門学校に通うようになり、1年が経ち、その間にいろんな人と出会いまた、ある女性とも遠距離だったが付き合いそして別れた。そんな年の4月も終わろうとしていたある日の夕方、ブザーが鳴った。「お友達からお電話ですよ」「あっ、すいません。」僕はアパートの階段をあわてて下り大家さんの部屋にある電話に出た。「もしもし、吉村ですが。」「あっ、先輩、突然すいません。わかります。」わかりますって分かるわけがないが聞き覚えのある声だ。「私です。山川貴代です。覚えていますか。」「なんや、山川さんか、どしたん。」「今、東京の短大に通っていてるんです。住んでいるのは鶴見なんですが。お父さんと住んでいるんです。」「えっ、東京でてきたんや。」「そっ、先輩追いかけてきたんです。」僕らは高校の時のクラブの先輩後輩で彼女は一つ下、いつも冗談を言い合っていた仲だった。「そうか、冗談でもうれしいよ。で、鶴見から毎日通いやるんや。」「うん、そうなんです。先輩中野ですよね。授業午前中だけの時とかもあるんで、先輩今度久しぶりに会いませんか。」「えっ、あっ、ええよ」僕らは結構さっぱりしていて友達みたいな関係だった。そのあとしばらく話し、今度の授業が午前中だけの時、中野に遊びに来ることとなった。その日、彼女は
薄い水色のワンピースで長い黒髪をカチューシャで留めて、おでこを出していた。高校の時から彼女は、カチューシャをしていた。これが、良く似合った。肩にバックをかけ彼女は中野駅の南口の改札で僕の前に現れた。「お久しぶりです。」彼女が高三の時の夏休みの合宿にお邪魔してからなので、半年ぶりだ。
時刻はちょうど12時を過ぎたところ。「お昼たべた。どうしようか。」「まだ、食べてないけど、先輩のアパートこの近くですよね。行ってもええですか。」「ああ、ええけど。」「なんか作ってあげますよ。」「ほんまか。おまえ、俺今日で死ぬの嫌やぞ。」「ほっぺた落ちても知らんですよ」僕らは、高校の時の話などをしながら坂本荘に向かった。彼女の黒髪が春の風にそよぐ。青春だった。途中あれが、僕の通う学校やでと教えた。坂本荘に着いた。「せまいやろ。男ひとりの部屋やからね。まあ、座ってよ。どうぞ、座布団」「あっ、ありがとう、うん、狭いけどいろいろ便利なんじゃないですか。」「うん、便利やで。手伸ばしたら何でも手が届くし。」「この部屋に女の人で遊びに来た人山川さんが初めてやよ。」
「ほんまですか。先輩彼女おらんのですか。」「うん、おらんよ。」本当である。今はいない。「冷蔵庫みてもええですか。」「ああ、どうぞ。」「あっ、ミンチある。先輩、スパゲティありますか。」「あるよ」「うん、にんじんと玉ねぎもあるし。ミートスパゲティでええですか。」「ほんまに作ってくれるんや。うれしいよ」「おいしいかどうか、分からんですよ。」彼女は、台所に立ちスバゲティを作り始めた。後姿を見ながら「なんかこういうのってええなぁ」って僕は思った。時々彼女は振り返り「あんまり、じろじろ見やんどいてくださいよ。はずかしいから」と彼女は言った。彼女はお母さんを幼い時に亡くしお父さんと二人暮らしだった。一人っ子である。もともと鶴見に住んでいたが中学の時鶴見からお母さんの田舎の新宮に引っ越してきた。今回東京の短大に合格したので昔住んでいた鶴見の家にお父さんと住んでいるとのことだった。だからいつもお父さんのおかずとか作っていたので彼女は料理は得意みたいだった。テーブル代わりのこたつにグラスを2つ置きそこに氷と水を注いだ。「さあ、できましたよ」
と彼女は皿にミートスバゲティを載せてこたつの上に置いた。「いたたきます。」「どうぞ」「うん、うまい。おいしいよ。」「ほんとうですか。良かった。」彼女は微笑み安心した顔をした。彼女は長い黒髪を耳にかけながらスバゲティを口に運んでいる。その黒髪をかき分けるしぐさがかわいいと思った。彼女は
色白で、黒いストレートの長い黒髪がきれいで、改めてカチューシャが良く似合うなと思った。
そのあと、僕の部屋でいろんな話をし夕方僕らは中野駅に向かい新宿駅まで彼女を送った。
帰ってお父さんの夕ご飯を作らなければならないからだ。その後僕らは、彼女が新宮に帰る2年間、2週間に1回ぐらい会った。本当に自然に付き合った。恋人同士だったかは分からない。お互いあんまりそんな話はしなかった。自然な関係だった。
いろんなところに行った。動物園や映画館、僕の部屋で西村たちといっしょに飲んだこともある。
そして何回か僕のために料理をしてくれた。彼女の事はこれからこの小説を書くときにたまに出てくるかもしれない。今彼女は地元に帰り、結婚もし幸せな家庭を築いているみたいだ。僕ら2人の甘酸っぱい青春の1ページである。
第四章 就職1
僕たち日商簿記専門学校会計学科の生徒は、無事卒業式を迎え、その年の4からそれぞれの仕事場に飛び出していったのである。僕は、新宿の東口にある紀国屋書店の9階に本社のあった帝都無線というレコード店に就職が決まっており、4月の初めから働き始めた。初日は上下スーツを着て本社へ行き社長や業務課長等の説明を聞き、僕は紀国屋店のテープ部門に配属となった。帝都無線は株式会社で関東地方にいくつかの支店をもつ大手レコード店であり、当時山野楽器、新星堂とかに次ぐ全国でも5本の指に入る程の大手であった。その帝都無線の本店である紀国屋店に配属となったわけである。紀国屋店は紀国屋書店の2階にあり新宿駅の東口を出ると左にアルタ、ひして右側に大手カメラ店やマイシティ等があり駅から歩いて5分くらいの所にある。いわゆる新宿のど真ん中で平日でもすごい来客で、土日祝には、ごった返すぐらいの来客であった。紀国屋店は、池田店長、そして副店長の林さん、レコード部門の甲斐よしひろに似ていた上野主任、アイドルのことならなんでも知っている鈴木さん、中島みゆき命の森田さん、ベテランの木下さん、テープ部門は、早見優が命の立園(たちぞの)さん、
アフロヘアーの斉藤さん、そして僕、吉村、映像部門に山田さん、レジ専門の山本さんで頑張っていた。
店員は朝9時出社、各主任が商品卸センターに電話をかけ在庫が切れた商品を各レコード会社ごとに注文する。その間、店員は各部門の商品の確認、売り場のそうじ新商品の陳列等を行う。10時開店の午後9時閉店。早番と遅番制だった。僕は主任の立園さんや、斉藤さんの指示のもと少しずつ仕事をを覚えていった。店には、結構頻繁に各レコード会社のセールスマンが、目玉商品や、売り込みたい新人なとを連れてやってくる。なんせ大手レコード店。当時の歌手や新人は、ほとんど店に来た。僕はテープ部門だが、お客さんに聞かれたら知りませんとは、いえない。演歌もアイドルもロック歌手もパンクも邦楽も洋楽も落語もクラシックも相撲甚句もなんでも知らなくてはいけない。簡単な質問ばかりではない。バーンスタインの何年のどこどこのホールの何とかという曲のポリドールのテープありますかとかという専門的な質問の方も何人も来る。毎日勉強で、次の月に出る新譜はもちろん、店にある在庫全部どこに何のテープがあるかに加え、レコードとかもある程度どこに何が置いてあるか全部把握しなければならない。中には廃盤になっている商品もある。お客さんが「昔ほしかったんだが、その時は買えず、もしかしたら、まだあるかなって思ってきたんだけど、なになにというテープあるかな。」と質問したとする。僕は頭の中に覚えている知識をフル回転させ「えーと、その商品は確か」と商品がずらっと並んでいる商品棚を頭の中に浮かべその商品をその中からピカピカと頭の中に光らせるのである。そして実際その商品の所に行き、「お客様、その商品はこちらですね」と差し出す。その瞬間、お客様は「えっ、そうそう、これ。ほしかったんだ、ありがとう」って本当にうれしそうな顔でお礼を言ってくれる。「ああっ、良かった。」と本当に思う。しかし、そう、うまくいくことばかりではない。どうしても分からず、立園さんに聞くことも多かった。でもそれでも分からない時もあった。すでに廃盤になっていたのである。そんな時はお客様は残念そうな顔で帰っていく。僕らも仕方ないが、残念な気持ちになった。僕が入った時は、ちょうどレコードからCDへ移り変わり始めた時である。まだまだ世の方は、LPレコードやシングルレコード、カセットテープそしてビデオテープ(VHSとベータがあった)を楽しんでいた。店の中には、大滝詠一のナイアガラソングや渡辺美里がデビューし「マイ・レボルーション」等がひっきりなしに流れていた。レコード会社の方といっしょに、荻野目洋子や岡田有希子も訪れた。また店の近くの新宿ルイードというライブハウスでは、バービーボーイズのデビュー等ミュージシャンや歌手のライブや制作発表会なども上野主任や立園さん等に連れられ何回も行った。店には有名人もたくさん来た。ビートたけし、菅原文太もレーザーディスクを買いに来た。そんな中で本社広報の宇野さんが「この子はすごいわよ。絶対売れるわよ。」と何度も言っていたのが、そう尾崎、尾崎豊である。僕ら帝都無線でもCBSソニーのセールスマンと組み尾崎を売り出すプロジェクトを組んだ。僕も陰ながら手伝った。当時のデビューサンプル盤は今も持っている。彼がデビューする前から僕らは、かかわったのである。今思うと非常に光栄なことである。そのあとの尾崎の活躍はご存じのとおりである。当時いろんなジャンルのサンプル盤や自分で買ったレコードで僕のアパートの部屋はレコードとテープでいっぱいたった。本当に音楽漬けの毎日だった。
第四章 就職2
帝都無線で働くようになり、僕は昼ごはんを紀伊国屋書店の周りで食べるようになった。各担当部門で1人ずつ時間差で昼ごはんに行くのだが、僕はベテランの木下さんと一緒に行くことが多かった。木下さんは、レコード部門で、池田店長より2歳年下。他の店員よりベテランで、背が小さくネズミみたいな顔をしていたので、皆から、ちゅうさんと呼ばれていた。僕も皆と同じように、いつからかちゅうさんと呼ぶようになった。ちゅうさんには、子供がなく奥さんと2人暮らしで、音楽いや、レコードで音楽を聴くのが大好きで帝都無線に20年前に入ったのだと言っていた。ちゅうさんは、48歳だった。その日の昼ごはんの順番は前もって勤務表でわかる。ちゅうさんは、良く僕を誘ってくれた。「吉村君飯いくか」そう言って僕らは紀伊国屋書店の地下1階にあるカポネという洋食屋によく行った。ここのジャーマンスパゲティというメニューが僕は大好物だった。スバゲティの上にハンバーグが乗っている。それに野菜サラダがついていてそれに掛けるスパイスもこの店オリジナルで、絶品だった。このカポネを教えてくれたのも、ちゅうさんだった。店に入るとマスターは、僕らの顔を見ると「いつもでいいかな」と言って大盛りにしてくれ、そしてコーヒーをサービスしてくれた。最近東京へ出張があり仕事終わりにカポネに行ってみた。約25年ぶりだったが、カポネは今も営業していて僕はジャーマンスバゲティを食べた。あの時の味そのままだった。僕と、ちゅうさんは、カポネ以外にも新宿西口ガード下あたりにも良く食べに行った。西口ガード下あたりには。中古カメラを扱う店が何軒もあり、またガード下には、あやしいけど、うまく安い料理を提供する店が多くあった。そい丼という大豆を炊いてそれにカレー味のミートソースみたいなのをかけた丼があり、それもうまかった。なにせ、めちゃくちゅ安い。ガード下には、ちゅうさん、ごひいきの中華料理屋があり、店は外も中も油でほべたべたで、カウンターしかなく、10人くらい入るといっぱいになるという中国人の兄弟がやっている店があった。「よう、ちゅうさんいらっしゃい。おにいさんもいらっしゃい、何するね。」初めて行った時そう声をかけられた。「レバニラ炒め定食にしようかな。吉村くんは」「僕もそれでええです」「ここの店なんでもおいしいぞ。あの2
人、陳さん兄弟だよ」「どうも、よろしくね。お兄さん名前なに」「あっ、吉村いいます。この前帝都無線入りました。よろしく。」「吉村さん、吉村さんね。うん、覚えたよ。」しばらくして「はい、できたよ。おいしいよ。」とカウンター越しに僕らの前にレバニラ炒め定食が並べられた。スープ付きである。
ちゅうさんは、手に酢の瓶を持ちスープにかけた。そして豆板醤をレバニラ炒めの皿に少しとり、それをレバニラ炒めと絡めた。「スープはちょっと酢入れるとうまさが増すぞ。また、豆板醤も入れるとうまいぞ」そういってちゅうさんは、食べ始めた。僕も真似をして食べてみた。うまい。普通に食べるよりうまい。この酢を入れる食べ方と、豆板醤入れる食べ方は、この時ちゅうさんから学びそれ以来今も僕はこの食べ方をしている。うまいのである。他にもいろいろな店にちゅうさんや、他の店員とも行ったが、僕はカポネと西口の中華料理店がほとんどを占めた。一人でも行ったもんだ。中華料理店へ行った後は喫茶店でちゅうさんとコーヒーをよく飲んだ。ある日僕は、ちゅうさんに聞いた。ちゅうさんは、ものすごくまじめでベテランなのだが、たまに間違いをおかしていた。そんな時は、年下の主任や店員に、ぼろくそに言われていた。その日も陳列の仕方で主任に怒られていた。ただ、その時は、ちゅうさんは、めずらしく主任に対し言い返していた。「いや、これは、この陳列の方が売れると思います。」新人の僕が見ても、ちゅうさんの陳列の仕方の方がいいと思った。でも結局、主任の言うとおりになってしまい、ちゅうさんは、だまって陳列しなおした。でも、くやしそうだった。僕は、「ねえ、ちゅうさん、めったに怒らないちゅうさんが、あんなに怒って反論してたの初めて見ましたよ。びっくりしました。」
ちゅうさんは、頭をかきながら、そして一口コーヒーを飲み「ああっ、恥ずかしいとこ見せてしまったね。でもね、今日だけは俺の陳列の仕方にこだわりたかったんだ。あの歌手は俺が入社した時デビューした歌手で一緒にレコードを店先で売ったことこともある。だからあの歌手に関しては、どのように陳列したらいいかは、俺が一番知っていると思う。だから反論したんだ。結果主任の言うとおりになったけどね。残念だな。」「そうですか、新人の僕が言うのもあれですけど、ちゅうさんの陳列の仕方のほうがええと思いますよ。」「そうか、ありがとう、俺、役職ないだろ、役職のある奴は皆後輩だ。そりゃ、つらいと思ったこともあるよ。後から入った奴に指示されるんだもんな。でもね、やめなかったし、これからも頑張ろうと思っている。帝都無線が紀伊国屋に店を出した時から働いているしね。なんか離れられないんだよね。首になったら仕方ないけど。紀伊国屋店は、まだ俺を必要としているからね。俺、レコード大好きだしさ。」ちゅうさんとは、僕が帝都無線をやめるまで付き合いがあった。忘れられない方のひとりだ。
第四章 就職3
どたどたどたとだ。こん、こん、「俺だー。開けろ」といつも西村は、やってくる。どたどたどたとたは、坂本荘の階段を上る音だ。この、どたどたどたで西村が来たのが分かる。僕が帝都無線に就職してからも西村は、ほぼ、毎週、僕の部屋に来て酒飲んで泊りその翌日は、昼まで寝て帰って行った。あいつはまだ日芸の3回生。何とか真面目に大学だけは行っている。奴は僕が次の日仕事だろうが休みだろうが関係なくやってくる。あいつの都合でやってくる。僕が帝都無線に入ってから初めての冬にいつものごとく西村はやってきた。「はいはい、どちらさまでございますか。押し売りは、おことわりでございます。」
「長官、西村3等兵でございます。入ってもよろしいでございますか。」「おう、西村3等兵か。なんのようじゃ」と言いながら、僕はドアを開ける。そしたらアホの西村は、直立不動で敬礼をし立っていた。ほんまにアホの西村である。「おまえなあ、毎回毎回、アホな受け答えしてあきへんのか。俺は好きやけど、あっははは。」と言いながら僕は、グラスを2つテーブル代わりのこたつの上に置く。「アホいっちゃいけないよ。おまえも好きだろ」奴は、もう東京弁というやつにかぶれている。でもアクセントは、
なんか変だ。「ああ、好きじゃんじゃんだよだよ。」わざと変な東京弁で答えてやる。もう、僕らは自然に冷蔵庫のビールを開けている。行動は、早いのである。奴も僕の部屋のどこになにがあるか知っている。今年になり、かなり増えたレコードラック兼カラーボックスからキースジャレットのレコードを探し出しターンテーブルに乗せる。僕が上京した年に西村は僕のアパートの近くにレンタルショップがあるのを見つけ「なあ、吉村、近くのレンタルショップいかへんか。掘り出し物あるかもしれんぞ。」と僕を誘った。案の定、かなり安くステレオアンプとカセットデッキ、チューナーが手に入った。全部で3000円。メーカーものだった。それを持ち帰り、西村に以前もらっていた接続線でつなぎ、これも西村にもらったソニーのターンテーブルにつないだ。スピーカーは僕が田舎から持ってきていたものだ。アンプのスイッチを入れレコードを乗せた。「おお、なかなかええやん。」と3000円のステレオセットは僕らを笑顔にした。そのステレオセットから今キースジャレットのピアノの音が部屋に流れている。その頃、僕も悪友西村の勧めで、たばこを吸っていた。キャビンだ。西村は、お金がない苦学生なので、ピースやゴールデンバットを吸っていた。ライターは、二人とも一著前に、ジッポーだった。「キースいいよな。」
紫色の煙が天井に上がっていく。たばこの煙で煙たくなっていた。僕は冬だったが、少し窓を開けた。
「仕事の方どうだい。」「うん、大部慣れてきたよ。先輩がいろいろ教えてくれるんよ。あっ、この前東芝の会議室で甲斐くんにあえたぞ。」「ほんとうか。いいなぁ。」僕はその時もらったサインとサンプルの今度出るレコードを見せた。僕ら2人は、大の甲斐バンドファンである。田舎の新宮市民会館に甲斐バンドがコンサートに来た時も僕は行けてないが、西村は前から3番目で見ている。あのいわく付きの誘惑のLP発売の翌日である。「これ、くれ」西村は真顔で言っている。「あほか、なんでやらなあかんねん。」
「一兆憶万円でもやらん。」と僕。「3兆億万円だったらどうだ。」「うーん。ちょっと考えるわ。あっはははは。」もう外は、すっかり暗くなっている。「風呂はええんか」「ああ、昨日はいったからいいよ」「俺も面倒くさいな。酒飲んだあるしな。俺も昨日入ったからええわ」これが、夏場なら、ダメだが冬場なので、そのまま僕らは飲み続けた。「ところで絵理ちゃんとは、うまいこと行きやるんか。ラスカル君」「ああ、ばっちしだよ。今日も会ってきた。あのなぁ、女の子が紅茶とか飲むときに片手じゃなしに両手でこう囲むようにして飲むのってかわいいよなぁ。なあ。それとセーター着てて、そでから手を出さないで、袖口が中に少し入っている状態でこう頬杖ついて話している女の子の姿ってかわいいよなぁ。」と言いながら西村は、再現して見せた。「おまえ、それ、絵理ちゃんやから、かわいいんちゃうんか。えっ、でも絵里ちゃんやなかっても、かわいいなぁ。うん、その2つは、ええなぁ。」絵里ちゃんとは、西村に何回か合わせてもらっていて、背の小さい美人というか、かわいいというタイプの女の子だった。むさんくさい男2人が今度は、ウイスキー片手に女の子かわいいしぐさ談義をしている。ほんま、アホな2人だ。でもそういうのが楽しかったのだ。「おまえは、どうなんた。貴代ちゃん。もうすぐ卒業じゃないのか。こっちに残るよう言ってないのか」「ああ、割と定期的には、おうてるんやけど、前みたいに今あえんのよ。俺は社会人やし、彼女は今卒業の準備で忙しいみたいやし。俺らなんか分からん付き合いなんよ。ものすごく自然に付き合いやるって感じ。この前卒業したらどうするん。って聞いたら、自分としてはこっちでも就職したいんやけど、お父さんの仕事の関係で田舎に帰らなければならないって言ってたよ。お父さんほっておくわけにいかんって。」「それ言われておまえ、何ていった。」「うん、そうかしか言えなんだ。」「アホだな。こっちへ残ってくれ。って言えよ。好きなんだろ」「うん、好きやけどな。でも、残れっていうことは、俺ある程度覚悟して彼女と付き合うってことやろ。俺悩みやるんや。なかなか言えんぞ。言えたらええけどな。」僕はそう言いながら、彼女をひきとめるなら今しかないのと、そのための時間はあとわずかしかないと考えていた。
第四章 就職4
それから、年末が来て、僕も仕事が忙しく、西村も大学と軽音楽部の活動が忙しく西村と会ったのは、
翌年の3月半ばだった。いつものごとく夜、僕の部屋のブザーが鳴り僕は、大家さんの部屋に降りて行った。「おう、久しぶり、俺だ。今度休みいつだ。久しぶりに新宿でないか。」「おう、久しぶり、おまえなあ、久しぶりに新宿って俺いつも新宿へ通いやるんやぞ。」「アホ、そんなこと分かってるよ。久しぶりに新宿ぶらつかないかなと思ってな。」「そうやなあ、あさって休みやけど。」「明後日か、俺も後期終わったんで会えるよ。新宿の東口の改札出たとこで昼ごろどうだい。」「ああ、ええよ。」「じゃ、決まりな。じぁあな。」そう言って電話は切れた。2日後、僕らは約束通り新宿駅の東口で会った。あいかわらず、西村は12時5分過ぎにやってきた。「おう、昼ごはん中村屋で食べようぜ。カレー」「中村屋か、ええやん。」僕らは東口からわすがの中村屋へ向かいインドカレーを食べた。僕らは何度かここに来ている。
「やっぱうまいな。辛いけど」西村は、うなずいている。「ああ、うまい。」西村はうまい物を見つけるのが得意だ。アカシアもあいつに教えてもらった。「あー、食った。食った」と西村は満足そうだ。周りは昼どきで、サラリーマンやOL、上品なおば様たちで席が埋まっていた。その中に肩まで髪を伸ばし米軍落ちのアーミーシャツを着た西村とストーンズのトレーナーとジーンズの僕のむさんくさい男2人がむしゃむしゃカレーを食っている。面白い光景だった。食べ終わり「よし、行くぞ」と西村は立ちあがった。「行くぞって、どこへ行くんな」「まあ、着いてきなって」中村屋を出た西村は歩き出した。そしてある店の前で立どまった。「ここいくぞ。」店の名前はローリングストーン、ロック喫茶だ。地下に降りて行った。扉を開けると中は薄暗くストーンズの曲が゛大音量で流れていた。僕らは空いている席に座った。店員が水を持ってきた。「ホットでいいかい」「ああ」「ホット2つね」店員はうなずきしばらくするとホットが2つ運ばれてきた。「しばらくストーンズでも聴くか、この紙にリクエスト書くとあのマスターがかけてくれるよ」良く見るとカウンターの一角にリクエストはこちらに入れてください。と箱が置かれていてその奥でマスターらしい人がマイクを前にレコードをかけていた。ターンテーブルの前にはレコードのジャケットを立てるガラスの板が立てられていた。僕は、紙にジャンピングジャックフラッシュ、吉村と書きその箱に入れた。店の中にはカップルが1組、男一人組が4人音楽に聞きほれていた。「えー、次は吉村君からのリクエスト、ジャンピング、ジャック、フラッシュ吉村くんありがとう」と言って曲が流れた。リクエストの曲が流れるのって気持ちええもんだ。僕らは約2時間、ストーンズやツェッペリン、ドアーズなどリクエストして楽しんだ。「よし、そろそろ行くか」相変わらず西村は行き先を言わない。店を出て奴はめずらしく店の名を言った。あたりは少し薄暗くなっていた。「DUGいくか。久しぶりに。」「あっ、ええね」僕らはDUGというジャズ喫茶へ向かい地下へ降りた。店の中は、10人くらいの客がいた。僕らはジンフィズを頼み、しばしジャズの音に身をゆだねた。しばらくするとヘレンメリルの「ユー、ビー、ソー、ナイス、カム、フロム、トゥー」が流れた。「俺この曲好きなんだ」西村はそう言った。「ああ、俺もや、レコード持ってるよ。」「そうか、いいよな。」僕らはDUGでもしばし時間をすごし、そして西口の焼き鳥屋に入った。最後は、やはり飲み屋である。「なあ、ところで貴代ちゃんとは、どうなったんだ。もう3月だけど」僕らは生ビールを飲みながら話している。「話すと長くなるけど、ええか」「ああ、聞きたいからな。」「前にお前と会ったのが、11月の中ごろで、貴代ちゃんとはその後12月の初めとクリスマスの3日前にあった。クリスマスイブはどうしても俺が休み取れないので3前にあった。そりゃ、イブに会いたいよ。でもサービス業の悲しいところ、一番の稼ぎ時やから、店員全員総出で店をまわさなあかん。クリスマスプレゼント用にレコードとかラッピングするんや。それで3日前に会って俺、プレゼント渡した。少し高いカチューシャ。ネックレスとかと思ったけど彼女のカチューシャ姿が気に入ってたもんな。喜んでたよ。彼女から何をもらったかは内緒や。それで少し早いけどケーキ食べた。そしてその日は、お父さんの帰りが遅いと言ってかなり遅くまで2人で過ごしたよ。年が明けると忙しくなってなかなか会えないと思うと言っていた。それで俺は、彼女の住む町の駅まで送った。そして年が変わり、俺も仕事が忙しく、彼女も忙しいと思ったんで、しばらく連絡取らなかったんや。そして3月の初めに久しぶりに彼女に電話したんや。いつもは、彼女が出るんやけど、お父さんが出た。『あのう、吉村いいます。貴代さんは、いらっしゃいますか』と言った。お父さんは、すまなそうに『あっ、吉村さんね。貴代から聞いていました。貴代は、短大卒業して一足早く田舎に帰りましたよ。貴代に会ってくれてたそうで、ありがとうございます。』『いえいえ、こちらこそありがとうございます。田舎に帰られたんですね。分かりました。ありがとうございます。』そう言って俺は電話を切った。ショックやった。恰好つけるわけやないけど、俺に何も言わんと田舎へ帰ったのは、彼女なりの優しさやったんかなと思うよ。」ここまで話し、僕はビールをゴクリと飲み干した。「いやー、吉村君青春やね。」西村は、にこにこしながらそう言った。「これで良かったんやよ」と僕は自分に言い聞かせるように西村に言った。そして僕らは終電間近まで飲んだ。ほろ酔いが心地よかった。新宿駅までの道のりで突然西村は歌いだした。「かなーしき恋の結末に」甲斐バンドの氷のくちびるだ。僕もいっしょに歌った。「かなーしき恋の結末に ぬけがらのように僕は傷ついたー」上京3年目の春を迎えようとしていた。
第四章 就職5
帝都無線は、1年ごとに店員の移動があり、毎年3月の中頃に各店に発表される。僕は2
年目は移動がなかったが、3年目に池田店長に呼ばれた。「吉村君、本社から移動の通知がきたよ。4月から葛飾区の高砂店へ行ってくれるか。君の紀伊国屋店での頑張りようが認められて、店長と店員2人の店だけど重要なポストだ。頑張ってくれるな。」「あっ、はい」と僕は返事したが、高砂ってどこか全然分からん。ただ、池田店長が教えてくれたのは、寅さんで有名な柴又の近くで、下町。イトーヨーカドーの中のテナントになるということ。店長でもベテランの橋本店長がいるとのこと。つまり、僕は紀伊国屋店で2年間みっちり鍛えられて高砂店担当となったわけである。東中野駅(僕が働きだしてからどちらかというと中野より、東中野駅の方が坂本荘に近い事が分かった。)から総武線で新宿に行き、山手線乗り換えで日暮里、乗り換えて高砂という通勤路線だった。橋本店長は、40歳の長髪で、ものすごく洋楽に詳しく加えてジャパニーズロックというか昔の日本のロックに詳しく、また、エレキギターも弾くので、たまに高砂で飲んで、そのまま泊りに行ったことも多かった。あともう一人の店員は僕と同じ年の22歳で一応レコード担当、僕はテープとビデオとレーザーディスク担当でやっていた。店長は飲むのが好きで、よく他のテナントさんといっしょに、高砂の飲み屋で飲んだ。テープの在庫管理や新譜注文とかはすべて僕が担当で、なかなかやりがいがあり責任も大きかった。新譜のシングルレコードを次々とカセットテープに録音し店の中でかけたりした。前に書いたが、僕は専門学校を卒業し2年間だけ就職し田舎に帰って実家のまぐろの仲買を継ぐこととなっていた。長男なので。しかし、僕が就職した年にこれからの生き方について両親と対立してしまい、僕は親から勘当された。社会人になっていたので、生活には困らなかったが、当然仕送りなし、田舎には一切帰れないこととなった。この勘当は僕が30歳まで続くこととなる。このことは、何かの機会に詳しく書くこととする。というわけで勘当された僕は、それでも中野で頑張るのである。高砂店で働きだし、2か月たった6月のある日、僕は大好きな甲斐バンドの新しいLPがでるので、販促物で店の壁にポップを作って張り出していた。店には甲斐バンドのサンプル盤がかかっていた。「あのう、すいません、私甲斐バンドのファンなんですが、今度のLP予約したいんですが。あと、もし良ければそのポップいらなくなったらいただけませんか。大ファンなんで」と一人の女性がたっていた。水色のスカートに白いトレーナー、ボニーテールの女性だった。
「あっ、はい。どうぞ、こちらで予約しますんで。」カウンターに来てもらい申し込み用紙に住所と名前を書いてもらった。「甲斐バンド好きなんですね。僕もファンなんですよ。かなり昔から。あっ、内田さんって言うんですね。吟子さんですか。なかなか珍しい名前ですね。あっ、すいません」「いや、いいんですよ。皆そう言うんで。あっ、吉村さんですか」彼女は僕の名札を見てそう言った。「はい、吉村剛っていいます。あっ、ポップ終わったらいいですよ。あげます。」「ほんとうですか、うれしい。ありがとうございます。また、来ますね。いつも仕事で高砂きているんで。」「あっ、ぜひお越しください。気軽に声かけてくださいね。」「ありがとう、それじゃ」と彼女はエスカレーターの方に歩いて行った。人生には、一度もて期というものがあると思う。今振り返ると、僕は22歳から25歳の時が其れにあたる。
それから彼女は1週間に1度店に来て、店長は公認で彼女が来たら僕を休憩時間にしてくれた。僕達は店内の喫茶店に行きそこでコーヒーⅠ杯分の時間話をした。そしていつの間にか付き合いが始まった。彼女は僕より一つ上だった。長野出身で埼玉の与野市に住んでいた。洋裁の仕事をしていて1週間に1度商品を納めに高砂に来ていた。僕らは甲斐バンドのコンサートに一緒に行ったり、新人バンドのライブに行ったり、映画に行ったりした。いつも彼女はポニーテールだが、一度髪を下したところも見てみたいといったことがあった。次に会ったとき彼女は髪を下していた。いつもより少しだけ大人びいて見えた。
第四章 就職6
僕は、高砂店で働きだしそして吟子という女性に出会い、充実した日々を送っていた。西村もこの4月に無事日芸を卒業し準社員として東芝の工場で働いていた。西村の話によると絵理ちゃんは、地元の会社に就職しOLとなっていた。西村とは今も付き合っているとのことだ。この頃僕と西村は、お互いの休みが合った日に僕の部屋か椎名町に引っ越してた西村のアパートで飲んでいた。初めて藤木に会ったのは、西村が大学4年の卒業近くだった。藤木は、西村の大学の友人で新潟県出身の角刈りの男だった。風呂が好きで、必ず夕方に銭湯に行かなければ気が済まない面白い奴だ。その頃僕も西村も無ければ不便だということで頑張って金をため電話を部屋に取り付けていた。僕が引っ越したばかりの西村の部屋に行った時電話のベルが鳴った。「おう、元気か。おういいぞ。来いよ。吉村もいるぞ。」そう言って西村は電話を切った。しらくして藤木は。自転車のかごに風呂道具を乗せやってきた。「おう、吉村くんか。藤木だ。よろしく。」「あっ、吉村です。よろしく」「まあまあ、2人ともそんな固い挨拶は無しにして、飲む前に風呂行くか。」「吉村、タオルほら。」と言って西村はタオルを投げた。僕には近くの銭湯に行き、汗を流した。そしてそのまま、銭湯の近くにある「北の誉れ」という居酒屋へ入った。藤木は良く行ってるらしい。「俺、焼酎のボトル入れてるからそれ飲もうか。でもその前に生だね。」そう言って藤木は、「マスター生3つね。それと、先に枝豆くれる」しばらくしたらよく冷えた生ビールが運ばれてきた。「おかみさん、綺麗だろ。こいつ西村と吉村」「こんばんわ、いらっしゃい」おかみさんは、年いっているが美人だった。「これからこいつらと良く飲みに来ると思うよ」そう藤木は言った。「まあ、うれしい。吉村君と西村君よろしくね」とおかみさんは、にっこり笑った。人を幸せな気分にする笑顔だ。「おかみさん、もろきゅうと、焼き鳥のセット塩で2人前とほっけとあと、ちくわの磯部あげ、おまえらは、」「やっこください。」と僕は言った。西村はこれでいいといった。僕らは生ビールで乾杯した。「うまいな。」僕はそう言った。「吉村くん、同級生だから吉村と呼ぶよ。吉村は仕事なにやってるの」「俺も藤木って呼ぶよ。俺、帝都無線っていうレコード屋の店員、今高砂店、おまえは。」「俺は今はバイト。でも西村にも報告しようと思って今日電話したんだけど、俺、落語家の弟子になることになった。」「えっ、なに」僕と西村は同時にそう言った。「落語家って、おまえこの前何回いっても弟子にしてもらえないっていってたじゃん。」西村は磯部あげを食べながらそう言った。おかみさんが、藤木のボトルと氷とグラスを3つ持ってきてくれた。「それがよう、もう、1回だけ行こうと思って師匠の家に行き、土下座して頼んだんだ。そしたら師匠はしばらく考え込んで、分かった明日からこい。しかし厳しいぞ」って言ってくれて明日から行くことになった。「本当か。すごいじゃん。おまえアホやけど話し上手だし良かったな。あの師匠も今テレビよくでてるもんな。頑張れよ」西村が焼酎のロックを作りながらそう言った。「すごいやん、藤木、落語家か、におたあると思うよ。」「よし、今日は西村の引っ越し祝いと藤木の落語家への第1歩おめでとうの乾杯や、俺なにもないけど。かんぱーい」と僕が言った。「よし、今日はボトル全部飲むぞ。藤木さあ、飲め。藤木のだけど。わっはははは。」と西村。「そうや、全部のむぞ、どんどん飲むぞ、藤木のやけど。わっははは。」「おまえら、いいかげんにしろよ。まあ、いいか。あっははは。」僕と藤木は初対面だったが、こんな風にすぐ打ち解けた。後日談になるが、藤木はその師匠に気に入られ、厳しい弟子修行にも耐え二つ目になり、笑点とかにも出るようになった。同期にあの笑点の司会昇太さんとかがいる。二つ目の時に師匠に出身県の呼び名を名前にしていただき、また今は真打になり師匠として弟子もいて頑張っている。立派に落語家となったのである。藤木はこれからの展開にも大事な奴なのでたまに登場してもらうこととする。えー落語家とかけまして、新商品の洗剤とかけます。その心は、どちらも落ちが大事です。おあとが、よろしいようで。
第四章 就職7
藤木と出会った頃、もう一人の男と出会った。荒川豊である。荒川も西村と同じ日芸の学生だったが、
見かけは理工系大学生という感じで、くそまじめな奴だった。ただ、かなりの音楽通でギターもペースもうまく初めて荒川に会ったときも西村に「俺の友達にベースのうまい奴いるから吉村ギターで、俺ドラムやるから、飯田橋のスタジオに入らないか」と誘われて合ったのである。荒川は千葉の自宅から大学に通っており、スタジオに入った日も、アイロンのきっちりかかった半袖のシャツと学生ズボンのような黒のズボン姿でハードケースに入ったベースを持って飯田橋に約束の10分前にやってきた。きっちりチューナーを使い一弦ずつきっちりチューニングをし、弦にフィンガーイーズという弦がよくすべるようになるスプレーをかけプレーをはじめた。荒川は色黒のやせているが、がっしりした体格だった。足で体全体でリズムをとり指でベースを弾く。うまい。毎日きっちりと何時間と決めて運指練習をやっている感じだ。飯田橋のスタジオは、区が運営していて都民なら申請すると格安で使えた。一通りのバンド練習が出来る機材が揃っているので結構僕らは利用した。西村は、荒川のことをお互い呼びつけにしていたが、僕と荒川は、初めは君づけだったので、そのままずっと君付けだった。その荒川君は、いろんなトップミュージシャンのコンサートを探しだしチケットを取るのが得意で、良く西村と僕と荒川君とでトップミュージシャンのコンサートに、この頃から行くようになっていた。例をあげると、四人囃子の再結成有明MZAコンサートは前から5番目、ジェフベックのコンサート前から7番目、23歳の頃行ったピンクフロイドのコンサートは、前から10番目、ディープパープル再結成コンサートは前から15番目くらい。あとあのローリングストーンズ初来日東京ドームコンサートはさすがに、前の方はとれず、2階席だったが、あの歴史的瞬間の中に入れたと言うだけで、もうラッキーだった。その他にもいろんなコンサートに行っている。荒川君様々である。本当に貴重な体験をさせていただいた。ブルースのコンサートにも、この頃から良く行くようになった。高円寺の次郎吉や吉祥寺のライブハウス、近藤房之介やウェストロードブルースバンド、上田正樹等。また毎年日比谷野音でのブルースカーニバルにも出かけた。この頃が一番ライブやコンサートに出かけた頃たったと思う。ライブやコンサートが終わったら、帰り際、居酒屋や、ちょっとしゃれたショットバーで3人で余韻を楽しみながら終電まで飲む。「いやー、リッチーのギターテクニックは衰えんねー。目の前でリッチーがハイウェイスター弾きやるんやからなぁ。なあ、西村感動したぞ。俺。」とビール片手に僕が興奮した口調で言う。「おう、やっぱりすごいよな。淡々と弾いているからな。でもギランは、かわいそうやったな。声出てないからなー。チャイルドインタイム、レコード通り聞きたかったー。まあ、仕方ないよ、でもあの歳であそこまで、歌えるのはすごいよな。」と西村。焼酎のロック飲んでいる。「俺、やっぱりロジャーグローバーだな。あの人のベースかっこいいなあ。あのリッケンバッカーのベースのピック弾きもかっこいいなあ。やっぱりディープパープルは第2期が一番いいね。」荒川君も生ビール片手に語っている。荒川君は酒があまり強くない。すぐ顔が真っ赤になる。今日もすでに真っ赤だ。「うん、そうだ。ディープパープルは、第2期だ。まてよ。ペイスちゃんとジョン君も忘れちゃ駄目ですよ。」と西村。「そうや、イアンペイスちゃんとリーダーのジョンロード君を忘れたらあかんのじゃ。そういえば西村おまえ、ペイスちゃんと顔にたあるな。はっははははは。」3人共、ディープパープル世代で、最初の来日公演には行けず、今回の来日コンサートは、ぜひ行きたいと願っていた3人である。全身で楽しんで、くたくたの状態の居酒屋である。ビールと焼酎が心地よく全身に回り、酔っていた。「うるさい。イアンペイス様に似ているのであるので、あるのならば、つまり光栄なのであーる。」いつものアホの西村の出来上がりである。
西村は、両手に割り箸を持ち両足でリズムを刻みイアンペイスの真似をした。「おまえ、そっくりじゃあーりませんか。ぐっひひひひひ。」僕は気味の悪い笑い声を店内に響かせ、キーボードのジョンロード様の真似をした。「こらー、ロジャー、はよベース弾かんかい。曲はハイウエイスターじゃ」あかん、僕も完全に酔っている。荒川は真っ赤な顔で「ロジャー」と言いベースを弾く真似を始めた。「おまえ、そこは、ラジャーやろ、こいつアホや。ロジャーやて。ぐっひひひひひひ。」と僕は、キーボードを弾き続けている。完全に3人には、居酒屋の店内が東京ドームに見えている。「ヘイ、サンキュー、アイラブ・トーキョー、アイラブジャパン」と西村は、ボーカルのイアン・ギランにもなっている。僕らの声もうるさいが、もともと店内はざわざわしていて、有線もかかっているので僕らだけ目立つことはない。西村ギランが叫ぶ。「ラスト・ソング。ハイウエイスター」西村はハイウェイスターしか知らないのではない。ハイウェイスターしか思い出せないほど酔っているのである。西村は、今アンコールを求める観衆の目の前で叫んでいる。僕らにもアンコールを求める観衆が見える。荒川は、感極まって半泣きである。西村ギランが叫ぶ「オーケー、オーケー、サンキュージャパーン。オーケー、ハイウェイスター。イエーイ。」そして曲が始まった。西村は、ボーカルとドラム。僕はギターとキーボード、荒川はベース。全身で演奏している。最後に西村が叫んだ。「サンキュー、サンキュー、、ジャパーン、ア、リ、ガ、ト、ジャパン。シーユーアゲイン。サンキュー」と言った途端3人共テーブルにぶっ倒れた。完全に酔っている。帰り際ゆらゆらゆら歩きながら、3人は、電信柱に抱き着いたのは当たり前である。こう叫びながら。「サンキュー、ジャパーン」。
つ
第四章 就職8
出会いがあれば別れも来る。僕と吟子ちゃんとは2年付き合った。僕は小さいとき高熱を出し両耳ともある高さの音からは全く聞こえず、例えば鳥の鳴き声や時計のアラーム音、ハンドベルの音など全然聞こえない。普段の会話なら、なんとか大丈夫なのだが、ひそひそと耳元でささやかれてもほとんど聞こえない。そして車や、電車などの中で横から話かけられてもほとんど聞こえない。人の声も雑音にかき消される感じだ。吟子ちゃんと付き合っていて電車とかで移動したりするとき彼女が話しかけても僕は答えられなかった。一度耳のことを彼女に話したことはあったが、信じられないみたいだった。ある日、静かな喫茶店に入った時、彼女は僕に言った。「前から言おうと思ってたけど、剛は(彼女は僕のことを、たけしと呼んでいた)いつも私の話きいていないんじゃない。話しかけても答えないし。私のこと興味ないじゃない。」と。「答えないじゃないんだ。前にも話しただろう。聞こえないんだよ。決して、吟子の事が嫌いとか、無視しているとかじゃないんだ。信じられないか。」僕らは静かな喫茶店では、大きな声で話せない。できるだけ静かに話した。「うそよ。普段はちゃんと話しているd.るじゃない。こうやって。なんで電車の中とか、私が話しかけても何も言ってくれないの」「だから、何度もいうけど、申し訳ないが、聞こえないんだよ」「うそよ。」そう言って彼女は黙ってしまった。気まずい空気が流れた。僕らはその店を出て別れた。僕は駅のホームまで彼女を送った。電車がやってきたときホームで彼女は何か僕に話しかけたが、僕には聞こえなかった。彼女が電車に乗るとき「さようなら」だけ聞こえた。その夜、彼女から電話があり、僕たちは話し合いそして別れた。この事を後日電話で西村に話した。「吉村、飲もう」と奴は僕の部屋にウイスキーの瓶を持って例のごとく、どたどたどたどたどたと階段を上りやってきた。「おう、俺だー。振られた吉村開けろー」と西村は、どんどんとドアをたたいた。「うるさいなぁ。アホ、隣に聞こえるやろが。」西村は、もう部屋に入り冷蔵庫からビールを2本取り出している。「今日、久々に絵理ちゃんと会ってなぁ。OLの絵理ちゃんもかわいいぞ。さあ、吉村君おめでとう。かんぱーい。」そしてぐびぐびとビールを飲んだ。「お前なあ、殺すぞ。今日は絵理ちゃんの話するな。ばかたれ。」そう言いながら僕もビールをぐびぐび飲んだ。西村とは本当にうれしい時も悲しい時も、金がなく苦しい時もいつも隣におるなぁ。ほんまに。仕事忙しいのは、分かっている。いつも夜遅くまで仕事して帰ってるのも分かっている。今日も久々の休みで絵理ちゃんと会っていたんだろう。多分僕の話をしたんだろう。絵理ちゃんと話して、今日は吉村のとこへ夜行くよと言い、きたんだろう。西村はアホだがそんな奴だ。「おまえ、ここなんか変だぞ。首のところ。ここ何ていうんだっけ。えーと。袖口やなしに、あっそうだ。えりだー。」「てめえ、ビールもう一本呑ますぞ。あっはははは。そうか、えりか、えりか。かわいいんか。よかったね。ばかたれー。あっはははは。」「もう、どうでもええわ。飲むぞ。西村。おやじ、酒もってこい。ワインと日本酒は飲めんけど。あっはははは。」もう夜の10時である。隣はさぞかしうるさいだろう。でも今晩はそんなこと構わない。バカ声張り上げて失恋レストランや。西村が僕のレコードラックから何か探し出しニタニタしている。こんなこと、やらしたら天才である。シングルレコードをターンテーブルに乗せる。「えー、、次の曲は」どうやら、ラジオ番組のDJの真似事みたいだ。「えー、次のリクエストは東京都中野区にお住いの吉村君からです。天才の西村さん、こんばんわ。あっこんばんわ。この間彼女と別れました。今晩は僕のリクエストにぜひ答えてください。えー吉村くんからのリクエストです。失恋レストランです。どうぞ。」と西村は言って、失恋レストランをかけた。「エー曲やのおー」西村は、なぜか関西弁になっている。「おう、ええ曲や。おまえ、本当によう見つけるなぁ。ほんまにアホやね。あっはははは。はー。」僕は一つため息をついた。西村に向かって僕はこう言った。「ねえ、マスター、作ってやってよ。涙忘れる。カクテル。」カクテルは、なかったが、ウイスキーのロックで失恋レストラン坂本荘では夜中までドタバタ飲み会が繰り広げられたのである。
第四章 就職9
23歳から25歳まで帝都無線高砂店で働いた僕は、彼女と別れたころ、ちょうど移動の話があった。川崎の駅前に新しくショッピングビルが建ち、その中に新しく出店するのでそのメンバーになってほしいとのことだった。僕はそのメンバーを聞き少し考え込んだ。こいつらとは、一生仕事を一緒にしたくないと思っていた奴らばかりだった。店長からして陰気くさく自分の部下を自分の家来みたいに扱うと評判の奴だった。実際何回か以前に会ったことがあったが、こいつは噂通りだと思った。出店準備の初日に本社で顔を合わしたが、僕は「ダメだ。耐えられん。俺はこいつらと仕事できへん」とすぐに思った。もちろん社会人だから、がまんせなあかん事は分かっている。しかし、どうしてもこいつらは、がまんできない。空気が違うのだ。淀んでいる。お前の方がおかしいぞと言われるだろう。しかし僕は受け入れることができなかった。次の日僕は「すいません。申し訳ないのですが、僕は川崎店のメンバーにはなれません。すいませんが、退職させていただきます。」と辞表を出した。本社の課長はあっけにとられていたが、決意は変わらない旨話し辞表を受け取ってもらった。僕はそのまま、新宿駅に向かい中野で降りて中野公会堂の横の公園のベンチに腰かけた。「あほやなぁ、俺。明日からどうして食うてこかな。」と思ったが、そのあとは何も考えず、ベンチに寝そべって、雲の動きを眺めていた。そのまましばらく寝てしまったらしい。あたりの賑やかさに、目が覚めた。ちょうどお昼時だった。「腹減ったな。」僕は、歩いて坂本荘の近くの定食屋池田屋に向かった。「へい、いらつしゃい、。おっ、吉村君めずらしいね。今日は休みかい。」店内はお昼時で結構いっぱいだった。僕はカウンターの隅のマスターの前に座った。「池田さん、俺仕事辞めました。チキンカツ定食とビールください。」「えっ、やめたって。まあ、あとでゆっくり聞くよ。チキンカツひとつとビールね。」とマスターは奥の奥さんに伝えた。しばらくしてビールが運ばれ、そして僕の大好物のチキンカツ定食が運ばれてきた。「池田さん、やっぱりうまいです。」「当り前よ。そんじょそこらのチキンカツじゃないよ。心こもってるんよ。」見た目は普通のチキンカツなのだが、使っているスパイスや揚げ方は長年苦労した池田さんが手にしたものだ。前に昔の苦労話を聞いたことがある。かなり苦労されていた。僕はゆっくり味わった。そのうち店の客も少なくなりカウンターの中を奥さんに任せ、池田さんは僕の横に座った。「吉村君、とじうしたの。仕事辞めたって。」僕はすべて隠さず話した。「うーん。吉村君、気持ち分からないでもないが、君が変わらなければ何も変わらないよ。言っていること分かるよな。」池田さんも昔はいろんな仕事を転々としたとのことだ。しかしいつか環境じゃない。自分が強くならねばならない、と気づいたとのことだ。つまり、環境のせいじゃなく自分の心の弱さに負けているということだ。池田さんは、時々僕にもそう言っていた。僕も頭では分かっていたつもりだが、いざ本当にそういう事態になると人間は愚かなもので、忘れてしまい自分に負けてしまうものだ。「これからどうするんだ。勘当もされているんだろ。」「はい、とにかく一生懸命仕事探します。食っていかなければいけないんで。」「そうか、とにかく、頑張れよ。あっ、今日の支払いはいいよ。無職の奴から金取れないからな。仕事見つかったら払ってくれ。出世払いだ。」「えっ、すいません。ありがとうございます。」僕はその足で、中野駅まで行き就職情報を買いアパートに戻った。そして仕事を探した。ひとつの会社に目が留まった。神田にある歯科用品の会社の経理担当だった。僕は電話をし、翌日に面接を受けることとなった。その夜、高砂店の店長から電話があった。「吉村君、やめたんだって。残念だなぁ。」僕は理由を正直に話した。「そうか、俺が川崎店に推薦しなかったらやめなくてもよかったかもしれないよな。すまないなぁ」「そんなことないですよ。理由は今話したことですから。僕のわがままですし。」「そうか、他の会社いっても、たまには飲もうな。また、電話するよ。」「ありがとうございます。ぜひまた、飲みましょう。」そう言って僕は電話を切った。店長とはその後何度か一緒に飲む機会があった。今も感謝している。翌日、僕はスーツを着て面接を受けた。その翌日電話があり採用が決まり僕はその会社で働くようになった。神田では老舗の歯科用品の会社で3階建の古ぼけたビルの会社で、後で知ったのだが部長と副社長がその会社が、つぶれないように大手取引先の会社から派遣されているという会社だった。何かありそうな僕の新しい仕事での生活が始まった。
第四章 就職10
予感とは、当たるもので神田のその歯科用品の会社は経営がものすごく大変な会社で、毎月赤字の会社だった。それは、僕とおばちゃんと僕と同じ年の女の子の3人で経理をやっていたので、一目瞭然だった。掛け売りが回収できない。仕入より売り上げのが少なかったら当然赤である。しかし、なんとか僕ら職員の給料もちゃんと出てたし、ボーナスもそれなりに出た。僕は、25歳の4月くらいからその年の暮れまでそこで働いた。そして退職した。つぶれそうだったためだ。案の定僕がやめて半年しないうちにその会社はなくなっていた。僕と同じ時期に3人やめた。皆つぶれるの分かってたし、見切りをつけたのだ。しかし秋には伊豆に社員旅行に行ったし、営業の岡本さんは、僕と気が合ってよく昼飯食いに行ったり、帰りに飲みにいったりもした。神田の駅前はご存じのとおり安くてうまい居酒屋がずらりとあり、昼間は定食をやっている。当時でも500円で定食が食べれて、ごはんのお替り自由とかの店が多かった。僕らには、うれしい話だった。僕は朝ごはんを軽くパンとかて食べて出かけていたのだが、神田の駅前にものすごく、かき揚げがうまい立食い蕎麦屋がありいつも、早めに出勤し天ぷらそばとイナリ1個食べて出勤していた。よくスポンジみたいなかき揚げを出すどうしようもない立食い蕎麦屋があるが、ここは揚げたてのふかふかのかき揚げで絶品だった。そんな状態で、僕は約8か月働き冬のボーナスをもらってその会社をやめた。それから僕は、しばらくバイトで食いつないだ。交通量調査のバイト、マイナス30度の冷凍庫で冷凍食品を積み下ろす日雇いのバイト、印刷会社の工場に行って夜中の作業をするバイト等、所持金と貯金を少しずつ崩しながらバイトもし3か月くらい過ごした。たまに西村と会った。ある日部屋にいるとき、電話がかかってきて、「よう、生きてるか。椎名町の駅の近くに500円で2時間飲み放題の店あるけど明日でもいかないか。どうせ、暇なんだろ」「ああ、ええよ。明日はバイト入れてないし。」そして翌日僕は、昼間に西村のアパートに向かった。奴は、仕事が休みだった。日曜だから当然か。僕は曜日の感覚もなくなりつつあった。「おう、吉村、昼飯食べたか。カルボナーラ食べに行こうか。」
「なんや、そのカルボなんとかいうやつ」「まあ、ええからついてこいよ。」僕らは、駅前の洒落た洋食屋に入った。「すいません、カルボナーラ2つ」西村は、僕に何も聞かず注文した。出てきたのは、ズゲティに水っぽいクリームシチューの具なしをかけたみたいなもの。「なんや、これ。マヨネーズ掛けとるんか。世の中に、こんなもんあるんか。」と僕は言った。僕はジャーマンスパゲティとナポリタンとミートソースしか知らなかったのである。」僕は恐る恐る口にした。「うまい、なんやこれ。くせになりそうや。なんやて、カルボナーラ覚えたぞ」と口に出さず頭の中で話していた。「西村うまいやん。」「そうやろ、俺もこの間初めて食べた。」皆さんは、こいらアホかと思うだろう。でも良く考えていただきたい。約30年前の話である。やっとセブンイレブンが本当に午前7時から夜11時まで営業するスーパーとして登場した時である。携帯もない。パソコンもない時代である。カルボナーラというものもそんなに広まっていない時代である。僕らは自然なのだ。まだ皆あまり食べたことがないのである。僕らは、カルボナーラを堪能し、夕方まで西村の部屋でギター弾いたり時間をすごし、藤木がやってきたので例のごとく銭湯に行って、それから 2時間飲み放題500円の店に行った。そこは、スナックみたいで、月に一回だけそのサービスをしているみたいだ。ママさんが、「あら、いらっしゃい。」「500円飲み放題って本当ですか」藤木が言った。「本当よ。前金制よ。でもつまみは別料金になるわよ。いい。」「分かりました。じゃ3人とも、つまみなしで、ひたすら飲みます。」僕らは本当につまみは一切頼まず、ひたすら飲んだ。はくしょん大魔王のつぼみたいな瓶に、あきらかに残り物のウイスキーをかき集めてその瓶に注いだとわかる、メーカーなしのウイスキーと氷とグラス3つが運ばれてきた。「さあ、2時間飲み放題よ。ボトルのおかわりもいいわよ。」僕らはアホなのでグラスに並々とその訳のわからんウイスキーを注ぎロックにして飲み干していった。これも僕らはアホなのだが、ほとんど話もせず、ひたすら水を飲むごとくグラスを開けていく。1時間経たないうちに、1本開けた。ママは、「あら、飲みっぷりいいのね。」と次の分けわからんメーカー名の無いはくしょん大魔王のツボを僕らの前に置いた。さすがにつまみなしは、結構つらい。酔いが早く回る。少しペースが落ちてきたが、僕らの頭は500円飲み放題しかない。藤木も西村もかなり飲んでいるが、うまそうに飲んでいる。宴会でよくやるチャンポンというものに似ている。正体の分からないウイスキーやブランデーのごちゃまぜボトルのロックである。酔わない訳がない。それでも僕らはボトル2本半開けて2時間を終えた。3人とも椅子から立ち上がるとき、ふらついた。でもそのあと外にでて例のごとく電信柱に自然に抱き着き、藤木と別れ、僕と西村は西村のアパートに行った。そのまま2人は、ぶっ倒れて朝まで寝た。完全に二日酔いだった。久しぶりの二日酔いだった。西村も僕も流しにふらふら歩いて行きコップに水をくみ、ごぶごぶ飲んだ。無性に喉がかいていた。僕と西村は意味もなく笑った。「俺らほんまにアホやな。でも一生懸命生きてるよな。」西村が言った。「ああ、ちょっと寄り道するけど、一生懸命生きてるぞ。はよ仕事さがそ。」僕はそう言って笑った。西村は、頭痛い痛いと言って仕事着に着替え、僕らは駅まで歩いた。そして、僕は中野の坂本荘にもどり夜までぐっすり寝てしまった。
第四章 就職11
26歳になった翌年の3末ぐらいまで僕はバイトと、わずかな貯金で食いつなぎ、1週間カレーばっかりという言うときもあった。朝はカレーにパンをつけて、昼はカレーうどん、夜はカレーライス、カレーは不思議なもので日にちが経つほどうまくなる。またキャベツとごはんだけの1週間もあった。日雇いのバイトが多かったが、ほとんど夜中にやるバイトだった。たまにバイト代が入った時は、池田屋で定食を食べた。バイトがない時は、夕方早く6時前に銭湯に行った。その時にがっしりした兄弟と良く会うようになった。池田屋でも以前から良く会った。兄は僕より2歳年上で名前は、上枝たくみといい、弟は僕より3歳年下で義彦といった。2人は、新潟出身でALCという外壁を取り付ける建築関係の仕事をしていた。僕らは何となく言葉を交わすようになり、僕は兄の事を「えださん」弟のことを「よっちゃん」と呼ぶようになった。2人のアパートも坂本荘から近く、たまに、えださん兄弟は、ビールのロング缶を10本くらいとつまみ片手で僕の部屋に飲みに来た。話を聞くと、えださんは、昔かなりの悪で高校の時新潟の総番長で、高校卒業後プロのボクサーになって頑張っていたという。ボクシング好きの方なら分かると思うが、あのエディ・タウンジェントの指導受けたことのあるといつも誇らしげに言っていた。しかし体をこわしボクサーへの夢はあきらめたそうだ。のちになるが、えださんとあの赤堀くんも、僕の関係で知り合うこととなる。二人は、いつもボクシングの話ばかりしていた。そんな、えださんだが、弱い物をいじめる奴はほっとけないという男で、顔に似合わずものすごく声が高かった。酒は強いのだが、たまに酔っ払って、いきなりだまり込みファイティングポーズする時もあったので僕はどつかれるのかと思った時もあった。ある日えださんから、力仕事やる気ないかいと言わた。聞くと、えださんの働いている会社は、親方がおりその下に3人の現場責任者がいる。つまり3つのグループがありそのⅠつのグループ長をえださんがやっていた。よっちゃんもえださんのグループで働いていた。僕が定職ついていないので誘ってくれた訳である。僕は力仕事はやったことがないので少し迷ったが、このままバイト生活という訳も行かず、「よろしくお願いします」ということになり、2日後から働くことになった。前日によっちゃんが、作業着屋に付き合ってくれて、ニツカポッカと地下足袋、スケール等そろえた。そして当日から見習いのようにALCの仕事を始めた。都内いろんな現場に行った。ALCというのは、外壁材で幅60センチ高さはいろいろあるが1m20cmとかが多かったと思う。基礎と鉄骨だけの2階建や3階建の住宅やマンションの現場に行く。まず、トラックとクレーン車の業者により材料のALCや鉄骨、ボルト等を下す。そして図面に沿って基礎の上にALCの外壁を間に鉄骨を入れながら立てていく。その時に使う外壁を何十枚もある中から探し出し(まあ大体壁ごとに固まっているのだが)ドリルでボルトの穴をあけ側面の角を滑らかに削り、取り付けるえださん達の近くまで運ぶ。ベランダや窓の部分は高さが短いので一人でも運べたが、普通の壁板だと自分の体重より重い。初めは手伝ってもらい2人で運ぶが慣れてくると、ひとりで赤子を背負うように背中に乗せて運べるようになった。話もどるが、材料運搬の時当然2階や3階にも材料を下さなければならない。床にもALCを使う場合もある。つまり鉄骨だけのところをクレーンでつられた外壁板を鉄骨の端の所に下していていくのである。高所恐怖症でなくても怖いものである。僕の先輩も以前落ちかけたことがあると云っていた。もちろんヘルメットと命綱はつける。命綱があったので助かったそうだ。僕も最初はやらせてもらえなかったが、慣れてきたら鉄骨だけの所に立ち材料を下したりした。初めは鉄骨だけの現場が1か月後には、きれいな白い外壁の建物に変わるのはなかなか感慨深いものがあった。僕はえださんのおかげで約2年このALCの仕事をやった。以前、出張で東京に行った時現場だったマンションの前を通ったことがあったが、僕の取り付けたベランダは、何事もなくベランダの役目を果たしていた。(当り前だが、なんかあったら大変だ。)体もそれなりに腹がへっこみ腹筋もつき、それ以上に背筋がついた。建築関係の仕事は給料も良く結構多く給料もいただいた。えださん兄弟は毎月新潟の両親に仕送りをしていると、聞いたことがあった。給料日は皆で飲みに行ったりしたが、僕たちは無駄遣いはしなかった。ギャンブルもたまに競馬をわずかな金額だけやるぐらい。パチンコもやらない。マージャンもしなかった。僕もちゃんと貯金をしていた。食生活は、普通になっていった。えださんの職場で僕はモルタルの練り方や溶接も覚えた。今でも簡単な溶接くらいならできると思う。上京してから約10年になろうとしていた。
第四章 就職12
前に人は一生に一度は、もて期というものがあり、僕の場合は23歳から25歳くらいだったと思うと書いたが、その辺のことを書こうと思う。自慢たらしくなるがお許しを。すべて真面目な付き合いであります。これも前に書いたが、帝都無線の高砂店の時、つまり23歳から25歳まで吟子ちゃんと付き合った僕は、その後神田の歯科用品の会社で働くことになった。その会社は3階建てのビルで1階と2階が、僕の働く会社で3階には、他の小さな行政書士の事務所があった。その行政書士の事務所に、僕と同じ年の女性がいた。その事務所は、行政書士のかなり年配の男性とその子の2人でやっていて、その子は事務をやっていた。よく朝とか顔を合わしたが、笑顔がかわいい昔人気のあったジョジ後藤というアイドルタレントにそっくりだった。ある日僕の職場の先輩の岡本さんが、彼女を誘い僕と3人で近くのお好み屋に行った。話が盛り上がり、彼女は一人っ子で東京生まれ、荻窪に両親と一緒に住み今は彼氏がいないことが分かった。岡本さんには、結婚か決まっている彼女がいるので、後で知ったのだが、僕のためにその席を設けてくれたとのことだった。良い先輩だ。それから、僕たちは良く昼ごはんとか2人で行くようになり、彼女の方から付き合ってほしいとの言葉があり、僕らは付き合うようになった。.
僕は、会社が危ないので退職してしまったが、そのあとも彼女とは、しばらく付き合った。仕事を辞めてからは、彼女と会うのは結構大変だったが、結局彼女とは1年くらい付き合った。ある日彼女は両親の勧めでお見合いをすることになり、僕にも話してくれたが、僕はバイトで、食いつないでいてしかも親から勘当されている身、彼女には幸せになってほしいと思い、僕たちは別れた。その後彼女はその相手と結婚したみたいだ。彼女も26歳なので、良かったのではないかと今は思う。吉村は、働く所、働く所で良く女性と出会うなあと思われている方もいるかもしれないが、当の本人が一番不思議に思っている。話は戻り、えださんの紹介でALCの仕事を僕は、26歳から28歳の時まで約2年間やった。男ばかりの職場でこの2年間は、彼女はいなかった。西村の彼女の絵里ちゃんと西村と僕と絵里ちゃんの友達と飲みに行ったりとかしたが、僕は付き合うとかいうのはなかった。僕も26歳なので、ぼちぼち結婚とか考えてもおかしくない歳だった。でも相手が必要なのである。この2年間は、仕事第一というような2年間だった。ある日、いつものごとく、えださん兄弟が、僕のアパートに来て飲んでいた。「俺も親方に現場の責任者、まかされてやってきた。この間会社の方から、親方としてこれからはやってみないか。仕事は会社の方から紹介するからと言われたんだ。それで、会社には所属するけど親方として独立しようと思う。」とえださんは、そこまで話して、ビールをぐびぐびと飲んだ。「義彦は、おれといっしょにやるといっている。俺の友達も何人か一緒にやると言っている。そこで、吉村君は、どうするか聞きたいと思ってね。」横で、よっちゃんは、興味深く僕とえださんを見ている。「そうですね。えださんは、僕が勘当されていることも知っていると思います。僕が長男であることも。僕の家がマグロの仲買やっていることも。僕は、最初働き出して2年間だけ東京で働いてそして田舎に帰り親父のあと継いで仲買になろうとおもっていました。前にも話したと思いますが。でもその間に両親と対立し勘当されました。で、田舎に帰れなくなり、家の仕事は弟に任せるということになりました。つまり僕は東京でひとり生きて行けという訳です。そうして今で約6年になります。時々田舎で働いている夢も見ます。でも帰りたくても帰れません。ここで、生きていくしかないんですよ。でも僕はあきらめてません。親が僕のことを理解し僕が田舎に帰り仕事をする時が必ず来ると。そう毎日考えてますし、そうなると信じて生きてます。つらいですけどね。親子の縁切られてるんですもん。それで、僕はその時が何となく、もうすぐな感じがするんです。だから、これからは、魚に関した仕事を東京でやっておきたいと考えています。えださん達には、本当に2年間お世話になりました。ですから、えださんの独立と同時に僕は、やめさせていただきます。そして今考えているんですが、スーパーの鮮魚部門で魚の知識を身に着けようと思っています。」そう言って僕もビールをごくごく飲みほした。よっちゃんは、うなずきながら、僕とえださんの前に新しいビール缶を差し出した。「にいさん、吉村さんの思うとおりにしてもらったらええと思うけどな。俺」「うん、俺も吉村君の今の気持ちを聞いて納得したよ。頑張れよ。俺も頑張るから。そして両親に必ず吉村君の生き方分かってもらえよ。いや、必ず分かってもらえるよ。」えださんと、よっちゃんと僕はそのあとも飲み、その夜は僕にとっても忘れられない夜となった。僕の周りの環境が音を立てて変わろうとしていた。
第五章 さらば、坂本荘、さらば中野1
えださん達にお世話になっていたALCの仕事も、僕は28歳になった11月いっぱいでやめることとなり、その間の休みの時に僕は近くのスーパーに面接を受けに行った。これは、前回書いた通り、えださんたちも承認のうえだった。運よく面接が通り翌年の1月初めより働くこととなった。一応鮮魚部で希望を出したが、このスーパーは都内に10店舗くらいある大きなスーパーで、野菜、肉、製菓、鮮魚の部門を各店回りながら約2週間ずつ研修することとなった。あとうれしかったのは、坂本荘より歩いて5分の所に独身寮(ワンルーム)があり、希望者は格安で入ることができた。僕も希望し年末の忙しい時だったが、えださんたちが軽トラで一人暮らしの荷物を坂本荘からその寮まで運んでくれて、12月半ばからその寮に住むこととなった。僕は坂本荘を離れるとき、大家さんに丁重にお礼を言って離れた。寮は道を挟み2棟あり、僕は第1寮の1階の真ん中の部屋になった。1棟には1階に5部屋2階にも5部屋があり、約6畳の細長いワンルームで、ユニットバス(シャワー)と下に物が置けるベットと小さな冷蔵庫と電気コンロ、洗濯機と乾燥機まで付いていた。部屋代はすべての光熱費等含んで1か月1万で給料から引かれることになっていた。坂本荘は狭かったけど僕にとっては初めての自分の城で約10年住んだ。大家さんはいつまで住んでもいいよっていつも言ってくれたが、やはり周りの住民が2年ぐらいで卒業し入れ替わるのを見ていて、あまり長く住むのもどうかと思っていた時だった。先ほども書いたが、僕は、必要な荷物だけ寮に運び後は、粗大ごみに出したり、赤堀君たちが必要な物は、あげたりした。翌年の研修が終わり僕は、参宮橋店の鮮魚部に配属となった。そこは、僕と同じ年で偶然だが僕の部屋の隣に住んでいた野田さんという男性のチーフとバイトの矢部さんというおばちゃんとそして僕とで鮮魚部を廻すこととなった。専属となっていつもは野田チーフに色々魚のさばき方や、刺身の盛り方等教えてもらい、野田さんが休みの時はバイヤー兼指導係の田中さんが、色々2か月くらい教えてくれた。配属前の約2週間の研修で、サバやいわしアジ等のいつも店頭に並ぶ魚のさばき方は覚えたが、配属になってからは、まぐろのさばき方や、カツオやイカの短冊切り等いろいろ覚えていった。たまに棘で怪我したりもしたが、そのうち慣れてきた。どの部門もそうだが、できるだけ早く開店までに品物を並べられるかだ。冷凍エビなど前の日に用意できるものは、良いが、その日の朝に仕入れた魚をさばいて刺身にしたり、切り身にしたりして店頭に並べる。時間勝負だ。刺身の盛り合わせは一番最後に作る。大体回転の時には、刺身を買う方はあまりいないからである。ある程度並んでいればよい。開店してから品数を増やす。鮮魚部は朝8時出勤だが、終わりも早く、午後4時に売り場を最終周り、足らない品物を補充し4時30分頃には上がる。参宮橋店には食堂があり、バイトのおばさんが毎日店の食材を使って皆の分の昼ごはんを作ってくれる。これも非常に安く給料から引かれるようになっていた。僕ら独身には非常にありがたかった。土用の丑の日とかは、うな丼食べ放題である。ステーキの日とかもあった。食材には、こまらない。僕が専属され約3か月が経ったとき、当時良く世話になった精肉部門の田口さんが、僕が仕事終わって食堂で一服していた時「おい、吉村おまえ、彼女いるのか。」と声をかけてきた。「あのなあ、レジのバイトしている圭子ちゃんいるだろ。おまえに話あるんだって。そこにいるから聞いてあげてくれるか。」「えっ、なんですか、それ。」田口さんは僕の返事も聞かず、僕一人しかいない食堂から出ていき、その代り圭子ちゃんが入ってきた。「あのう、吉村さん彼女いますか。」「えっ、いないけと゛」「あのう、良かったら今度飲みにつれて行ってくれませんか。」「あっ、ええけど。」彼女は歯科衛生士の専門学校に通っている20歳の女の子で、週に何回か夕方と土曜日は、朝からレジのバイトに来ている子
だった、田口さんは当時40歳位の妻帯者で良く休憩の時に圭子ちゃんとかと話していた。僕と圭子ちゃんは、その日お互いに仕事が休みの時に、渋谷に飲みに行く約束をし、その後日から付き合うこととなった。彼女は、東京生まれで両親と住んでいて、僕は28歳、彼女は20歳だった。僕と、彼女の付き合いは店では公認だった。
第五章 さらば、坂本荘、さらば中野2
参宮橋店で働くようになり、仕事にも慣れ彼女とも割と順調に付き合い、僕は29歳の誕生日を迎え、そして年末を迎えた。スーパーの鮮魚部門は、年末から年始にかけて非常に忙しい。正月に食べる刺身盛り合わせの注文品を作るためだ。僕たちは、大みそかはもちろん、元旦も朝から出勤し刺身の盛り合わせを作り続けた。作っても作っても足りないくらい売れていく。正月3が日は仕事で明け暮れた。お客さんに「まあ、おいしそう。頼んでよかったわ」と言われた時は、刺身の盛り合わせを頑張って作ったかいがあった。仕事では、彼女も出勤なので仕事終わりに一緒に食事したりして過ごした。そして参宮橋店での勤務も1年3か月が過ぎ彼女も専門学校を卒業し就職になった。当然参宮橋のバイトは終わりである。僕らは話し合ったが、その後二人が合う時間も少なくなり別れることにした。5月のはじめ頃だった。彼女は看護師の道に、僕はそのまま参宮橋店で働いた。ある5月の中ごろ夜部屋にいると電話が鳴った。「剛、元気かん。お母さんやよ。」久々に聞く母親の声だった。おじいちゃんが、亡くなった時仕方なく田舎に帰ってから、3年ぶりだった。「あっ、お母ちゃんか。どしたんな。」「あんたも、もうすぐ30やし。お父さんと話し合って、あんたの生き方を理解しようということにしたんよ。それで、田舎へ帰ってきなさい。お父さんも、あんたの生き方許す言うてるし。」「家の仕事は、幸次につがせているから、あんた帰ってきたら好きな仕事すればええよ。一緒に住まんと、アパート借りて住みなさい。探してやるから。」僕は耳を疑った。勘当されてずっと願っていたことが、叶うのだ。「ああ、俺の生き方間違いないな」と僕は心で思った。「ほんまか。わかったよ。田舎帰るわ。しかし、仕事整理や色々やらな、あかんから、早くても2か月後くらいになると思う。」「ほんまかん、良かったよ。お母さん、あんたとお父さんの間に挟まれてつらかったんよ。良かったわ。まあ、あわてんでもええから、ちゃんと整理して、それから勝浦へ帰っておいで。」「ああ、分かったよ。」僕はそう言って電話を切った。「すごい、願いは叶うんや。俺もう30やから本当に腹決めて東京でひとりで生きていこうと決めようとしていた時やもんな。なんなんやろ。この時にこの電話は。」僕は、この不思議な時の出来事に感涙していた。夢にまで見た、田舎への帰省。20歳で勘当され、帰りたくても帰れない、俺には生まれ故郷も親も兄弟もなくなったと思い生きてきた10年間が、走馬灯のように頭をよぎった。これは、ただの偶然だろうか。いや、こうなるべき俺の人生だったのだと思った。これは、体験してみないと分からないと思う。自分で言うのも変だけど、つらい日々だった。もちろんいろんな人と出会い彼女もいて幸せな日々だったと思う。しかし、一日たりとも僕は田舎に帰り暮らすことをあきらめた日はなかった。いつかは必ず親を理解させると思って頑張ってきた。いつか必ず親は俺の味方になると。ついにその時が来たのだ。翌日から僕は、職場の店長はじめチーフや、西村や藤木、そして赤堀君、池田屋のマスターと奥さんなどに、もうすぐ田舎に帰ることになったと伝えた。職場には辞表をしたため、6月の上旬で退職することとなった。そして会社の計らいで身の周りの整理をしなくは、ならないだろうと6月末まで寮に住んでもよいことになった。ありがたかった。-僕の退職が決まった後、店長初め、チーフや田口さん達は、送別会を開いてくれた。店長は「非常に残念だけど、吉村君は田舎に帰って頑張ることなりました。今日は吉村君を存分に酔わせましょう」と挨拶した。店長はそう言って全然飲めないのにその時は、ビールを僕についで、僕のついだビールを飲んでくれた。当然すぐに酔っぱらったけど。
スーパーを退職してから6月末までの約20日間、僕は朝から晩まで、色々お世話になった人と会いそして、事務処理のため役場等にも出かけ手続きを終わらせていったのである。そして東京中野での日々も終わりに近づいていくのである。
第五章 さらば、坂本荘、さらば中野3
「吉村君も、結局は田舎帰えってしまうんやなぁ、なあ、吉村君。上京した時は、
そうや、俺たちはあいつらとは、違うんや。東京で頑張るんや。っていうてたのではないかな。」
西村と僕は新宿東口を出て例の店の方に歩いていた。「ああ、ゆうた。優策と会ったとき。3人でゆうた。飲みながら。俺らはあいつらとは違うんや。特に西村先生はあの卒業アルバムのふてくされた顔見事でございました。あっはははは。」店の前に着いた。そうアカシアである。西村に僕が、田舎に帰ることになった話を電話でした時、東京で最後に食べたい店はどこやと聞かれ迷わずアカシアのロールキャベツやと応えたからである。僕の東京生活もここから始まったことやし。僕らは店に入って、ロールキャベツとハンバーグのセットを頼んだ。「あなたが、いなくなったら私何を支えに生きていけばいいの」とわざと西村は女言葉で聞いてきた。「やめろ、気持ち悪い。冗談でもやめろ。飯まずなる。」
「だって、あなたわたしの事一生しあわせにするっていってくれたじゃない。」「だからおまえ、やめろ。ばかたれ。」「いやー悪い、悪い。でも寂しくなるな。遊び相手ひとりいなくなるからな。親友が転校していくみたいだ.」僕らは絶品のロールキャベツとハンバークセットを食べながらこんな話ばかりしていた。本当はお互いに寂しいのである。男の照れ隠しというものである。「今日は、おまえとご飯食べるの
最後だからおまえ、おごれ。」西村は僕に言った。「おまえなぁ、普通は、おまえがおごるやろ。」と僕は言った。「俺らはあいつらとは、違うんだろ。逆のことしなきゃ。」そういって西村は笑った。「叶わんなぁ」僕は、代金払いそして、僕らはしばらく新宿の街を思い出の紀伊国屋書店とか、ぶらつき夕方、西村のアパートに行った。僕が田舎に帰る5日前の日曜日の事だった。その日は昼間アカシアとか新宿をぶらつき夜、椎名町の北の誉れで藤木たちも交えて送別会を開いてくれることとなっていた。夕方になり、いつものごとく自転車で藤木は現れ、荒川も電車でやってきた。しばらくして西村は、「さてと、メンバーも大体そろったけどもう一人大事な人が来るのであります。」僕は思い当たらない。西村以外のメンバーも分からないという顔をしている。「えっ、誰や西村。」西村はニヤニヤして言わない。しはらくして「こんばんわ。」と若い女性の声がした。西村は玄関に迎えに行き、僕らの前にかわいい背の小さな女性が現れた。「絵里ちゃーん」西村以外の男どもが一斉に声を上げた。絵里ちゃんはいわば、日芸出身の同級生である。皆知っている。「お呼びいただいてありがとうございます。」と絵里ちゃんはにっこり笑った。男どもは一斉に、にやにや笑った。どぶ川に咲いた一輪の美しい花である。「ようし、いくぞ。」と西村が号令をかけ野獣4匹と美女1人は北の誉れに繰り出したのである。予約席になっており、僕らの前には、マスターが腕をふるつた料理が並んでいた。「えーと男は生ビールだけど、絵里ちゃんは、」と藤木がきいた。ここで、「私、飲めないんですう。ウーロン茶ください」なんて言う女性はまず、ダメだ。絵里ちゃんは違った。さすが、西村の彼女である。「私も生ちゅうくださーい」である。生中が運ばれ、いざ西村の号令で乾杯かと思ったが、西村が改まって「本日は、吉村君田舎へ帰るのね、わたし寂しいわ会ですが、その前にわたくし西村から大事な報告があります。」皆こいつアホちゃうかという顔で西村を見ている。「わたくし西村と、ここにいる絵里ちゃんは、近々結婚することとなりましたー。ぱちぱちぱち」絵里ちゃんは、ほっぺを真っ赤にして下を向いている。「だから、今夜は吉村君、田舎に帰ってしまうのね。わたし寂しいわ、でも西村君と絵里ちゃんは結婚してしまうんだもんね。おめでとう会であります。かんぱーい」「かんぱーい」ぐびぐびぐび。男どもと絵里ちゃんも、ぐびぐび飲んだ。男どもはもう、僕の事なんかどうでもよい。話の内容は、西村の結婚の事が中心だ。僕はそれで良かった。
「なあ、西村、俺、絵里ちゃん勝浦連れて帰るからおまえら別れろ。」と僕。「そうね。吉村君の方が格好いいから、わたし勝浦に着いていちゃおうかな。」と絵里ちゃん。なかなかのノリである。絵里ちゃんと初めて会った時も、彼女も僕も全然人見知りせず、すぐに絵里ちゃんと打ち解けた。冗談を言うとぼこすか頭を、たたいてくるような女の子だった。西村にはもったいないくらいぴったりな女の子だと思った。僕の前の席に西村そしてその横に絵里ちゃんが座ってる。僕はジョッキを差しだし「良かったな。西村、絵里ちゃんこのアホ頼むで」と2人に乾杯した。西村は、珍しくまじめに「ありがとうな」といい、絵里ちゃんも「ありがとう、でも寂しくなるね。」といった。「うん、もうすぐ田舎帰るけど結婚式呼べよ。」と2人に言った。「結婚式は本当に親族だけで、あと披露宴みたいに大々的にはやらず、簡単なお披露目みたいにやりたいんだ。友達だけで肩ぐるしくなく。その時は来てくれよな。」「ああ、もちろん」そのあと僕らは終電近くまで飲み、それぞれ家路に着いた。もちろん絵里ちゃん以外の男は駅までの道で電信柱にしがみつくことは忘れなかった。こうして西村との東京での最後の夜は終わった。 。
第五章 さらば、坂本荘、さらば中野4
僕が田舎に帰ることを赤堀君にも、決まった時に伝えた。彼は一瞬黙り、「なんで、帰るんですか。ここにいてくださいよ。」「なんで 」と男泣きに泣いてくれた。僕が勝浦に帰る1週間前に「6月29日は、1日付き合ってもらいます。まず、後楽園で4回戦のボクシングを見ましょう。そのあと帝国ホテルの最上階レストランの予約入れてます。その日は僕に、おごらせてください。」そして、当日僕らは、思いっきり楽しんだ。生のボクシングはものすごく迫力があった。また、帝国ホテルの料理は、もちろん文句の付けようがなく、僕が東京生活で食べた料理の中で一番豪華な料理だった。もちろん、僕は生のボクシングも帝国ホテルも行ったことがなかった。申し訳なかった。こんな俺のために、ここまでと、思ったが、ありがたく招待を受けた。今でも本当に忘れることのできない思い出だ。
そして、別れるとき彼は、「本当に帰えらなければならないんですか。」ともう一度僕に言った。「ごめんな。でも前にも話したけど、これが、俺の願ってきた形や。もう帰るって決意した。すまん。」そう言って彼と別れた。次の日、つまり田舎へ帰る前日、僕は部屋の中を掃除し明日持って帰るバックに入った
荷物とエレキギター1本をもう一度チェックした。僕は何本かギターを持っていたが、田舎に帰ることになった時、本当にいるギターを1本だけ決めて、他のギターは、よっちゃんや、赤堀君、西村、荒川にあげた。何もなくなった部屋はがらんとしていて、広く感じた。この部屋で過ごしたのはたった約2年間だったが西村も赤堀君も、えださん、よっちゃんも訪れ、そして圭子ちゃんも何回も訪れた部屋だった。僕は昼過ぎに最後の昼飯を池田屋で食べるために出かけた。ちゃんとお礼をマスターと奥さんに言っておきたかったのと、東京生活で最後に食べたい料理のもう一つは池田屋のチキンカツ定食と決めていた。「いらっしゃい、おっ、吉村君、いよいよ明日帰ってしまうんだな。寂しくなるな。」マスターは店に入ってきた僕を見てそう言った。僕は席に着き、「池田さん、そして奥さん、本当にいろいろお世話になりました。約12年でしたが、色々な事教えていただきました。今回前から望んでいた田舎での生活ができるようになりました。ありがとうございます。最後にチキンカツお願いします。」「そうか、こちらこそありがとうな。今日はごちそうするよ。チキンカツ定食、心こめて作らせていただくよ。」
そういってマスターは、作り始めた。しばらくして奥さんが運んできてくれた。「はい、どうぞ。今日は特別おいしいわよ。あの人の心が全部はいっているからね。田舎帰っても頑張ってね。東京来たときは絶対寄ってね」「ありがとうございます。いだきます。」僕は食べ始めた。やはりうまい。最後に来てよかったと思った。食べ終え僕は、再度ご夫婦にお礼を述べ、その足で坂本荘に向かった。大家さんにもお礼を述べるためである。大家さんも「田舎に帰っても体に気を付けてがんばってね」と言ってくれた。そして僕は中野駅まで歩きしばらく中野駅の周りをぶらついた。そして寮にもどった。午後7
時から寮の近くの居酒屋で僕の送別会をえださん達が開いてくれた。メンバーは、池田屋のご夫婦、
えださん、よっちゃん、赤堀君たちだ。「えー、皆さんこんばんわ。今夜は、吉村君の送別会です。明日吉村君は田舎に帰り寂しくなりますが、今夜は最後まで笑顔で行いたいと思います。今夜は貸切なので皆さんたくさん飲み、そして食べてください。それでは、皆さん酔っぱらう前に吉村君にあいさつしてもらいます。」僕は、立ち上がりお礼の言葉を述べた。「皆さん、今夜はこんな僕のためにありがとうございます。高校卒業しこの中野の地に来ました。それから早いもので12」年たちました。本当に早く感じます。その間、いろんな方に出会いお世話になりました。感謝してもしきれません。
以前からいつかは、田舎に帰り過ごしたいと思っていましたが訳あり今となってしまいました。
この地が好きなので本当に後ろ髪引かれる思いですが、明日の朝この地を離れます。この地は、本当に僕を叱り、励まし、泣かし、笑わし、恋をさせ、そして失恋させ、喜ばせ、怒らせ、僕を
育ててくれました。本当にありが゜とうございました。」まだまだ言いたいことはあったが、僕はこれでいいと思った。そして池田さんの乾杯の発声で僕らは飲み始め、そして大いに食べ、カラケを歌い夜更けまで楽しんだ。最後は僕と固い握手で皆自宅へと帰って行った。僕はその晩一睡もできなかった。
部屋で静かにギターを手にし知っている曲を静かに歌い続けた。そして翌朝、僕は午前7時東京駅発の新幹線に乗るため、部屋を出た。ドアの外からカギを掛け、ありがとうございましたと書いた紙袋に部屋のカギを入れ新聞受けから部屋の中に入れた。そして僕は、中野駅へ続く道をバックひとつとエレキギターを肩にかけ、歩き始めた。7月1日の朝、これから新しい人生が始まろうとしていた。。
東京中野ドタバタ日記 吉村 剛 @yoshee50
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