海とチタさん －コンテスト応募用ー

第9話 1974年

私は、銃弾で穴の開いた肩を手でおさえ、ギャラリーのオーナーに、タクシーを呼んでくれるように頼んだ。心配げな表情を浮かべるその初老のオーナーに、英語で伝えた。

「大丈夫だ。警察に行くようなことはしない。ホテルに行って、金で出張してくれる医者でも呼ぶから気にしないでくれ」

こういう時、ここが外国で本当によかったと私は思う。

その時、会場内に「ピピピ」と電子音が響いた。

それはパフォーマンスの終了の合図だった。

ギャラリースタッフによって、マリーナの鎖が解かれた。

マリーナはゆっくりと起き上がり、観客の方へ歩き始めた。

その二つの乳首には、バラの花びらが貼られていた。

彼女が、そのアイデンティティーをアート・パフォーマンスのための物体から、

人間という生命体に移したのを、私は彼女の瞳からとめどなく溢れる涙から知った。

マリーナのその圧倒的な生命に気おされて、観客全員は、逃げるように、会場を後にした。

私は、床に座ったまま、手を叩いて拍手をした。

肩の傷が鳴るように痛んだが、気にしなかった。

「とても素晴らしいアートだった」英語でそう言うと、

彼女は、赤茶色の目を私に向けた。

それはチタさんの目によく似ていた。

「私は、あなたによく似た人を知っています」私がそう言うと

マリーナの唇がかすかに動いたが、それは声にはならなかった。

けれど、きっと「どんな人？」と彼女は言いたかったのだろう。

私は英語で続けた。

「日本には、知多（ちた）という半島があって、その周りにはとても綺麗な海があります。

その地と同じ、チタさんという名の女性です。

マリーナ、あなたと同じ、海にちなんだ名の女性です」

マリーナにその言葉が届いたのかはわからない。

その時、私の目は、とても不思議なものを見ていた。

マリーナの美しい赤茶色の髪が、一筋、ゆっくりと白くなっていくのを。

「あなたも怖かったんだね」

私は日本語で呟いた。

マリーナは、私から目を逸らすと、自分の髪が白くなったことにも気づかず、まっすぐに前を向いて歩きだした。

チタさんが、もうこの世にはいないことを、彼女に話す必要はなかった。

外にタクシーがやってきたようだ。私は、腕を抑えて立ち上がった。

マリーナは後にインタビューで、この時のパフォーマンスについて、語っている。

「私の体には今でも傷が残っています。女性が男性に命令をしていました。

男性たちが私をレイプしなかったのは、あのパフォーマンスがギャラリーの展示物として、すべて公開されていたことと、ともに招待された妻と一緒だったからでしょう」

後にこのギャラリーのイベントに招待された50組の夫婦は、私を含めて、1組残らず離婚したという―そんな嘘とも真ともつかぬ噂を聞いたが、確かめようはない。