第8話 1957年
チタさんと約束した、その翌日。
俺は一人、旅館の女風呂に入って、チタさんを待っていた。
チタさんは、どこからやってきたのか?どうして、あんなことをするのか?
両親の話では、終戦直後に、この村にひょっこりやってきたのだと言う。
そしていつの間にか、うちと「永野・坂田家」の通いのお手伝いさんになり、村にいついてしまったという。
チタさんというのは、苗字なのか名前なのか、母親に聞いてみたが、「本名じゃないだろうけど、戸籍もないし、わからないわ」と返ってきた。
そういう時代だった。戦争が終わって20年近く経っていたが、その爪痕はまだ日本のあちこちに残っていた。
キュウドウさんも、頭を撃たれたせいで、戦争に行く前の記憶があやふやになって、この村に流れてきた人だ。チタさんやキュウドウさんだけじゃない。そういう人が、周りにはたくさんいた。
朝鮮から連れてこられて、終戦後、そのまま日本で暮らし始めた人だとか、広島から来た原爆孤児だとか。
私はざぶっと音立てて、一人きりの湯船に潜った。
湯船のお湯越しに、浴場のタイル絵を見上げる。
青い富士山。
こうやって、お湯の中から富士山を見ていると、自分が海の中にいるような気分になってきた。
私は目をつぶって、体をお湯に浮かせた。
どこにも寄る辺がなく、漂って、どこかに流れつくのを待つ、ヤシの実になりきって。
子どもの無邪気さを装って、私は何度もチタさんに聞いたものだ。
「チタさんはどこから来たの?」
チタさんは、嬉しそうに笑った。
「ん、わたしはね、海から来たのさ」
人魚姫でもあるまいし、子どもだましだと、「ちゃんと本当のこと、言えよ」
と怒って、何度、しつこく尋ねても
チタさんはにこにこして「海から来たのさ」としか答えなかった。
その時、ガラッとガラス戸が開いて、急に人が入ってきた。
「チタさんだ」そう思った私は湯船に潜った。チタさんの裸を見る勇気がなかった。
心臓がどくどく鳴った。湯船の海が、心臓の音に合わせて波のように揺らめいた。
チタさんを驚かせてやろうと、湯船の底で息をひそめていた。
やがて、ひたひたと、誰かが濡れたタイルを歩いてくる足音がした。
「わぁー、ひろーい」
チタさんの声じゃない!
でも、どこかで聞き覚えのある声だった。
「ほんと、広いわねえー」
大人の女の人の声だ、でもチタさんじゃない。その声が続ける。
「本当にいいんですかあ、ただで入らせてもらって」
「ええ、全然構いませんよ。ここの女将さんにはちゃんと許可をもらってますから」
これはチタさんの声だ!
「よかったわね、恵那(えな)」
私は、心臓が飛び出すかと思った。
恵那って、もしかして、同じクラスの恵那かよ!大人しくて、かわいくて、みなに好かれているあの恵那かと。
驚いた私はお湯をうっかり飲んでしまい、思いっきりむせて、ぶはっと音立てて、風呂の湯から飛び出した。
そこには、かけ湯をしようと湯船のすぐそばにきていた、真裸の恵那がいて、目を丸くして、私の裸を見ていた。
そのあとのことは、あまり覚えていない。
恵那のお母さんが、「自分の家のお風呂なんだから、女湯に入ったって、いいわよねえ」
とわけのわからない助け船を出してくれ、私はほうほうの体で、女風呂から逃げ出したような気がする。
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