鍵が三ついる理由
「彼はね、良い人だったのよ。とても」
彼女はかぶりを振った。そして言葉を続ける。
「良い人すぎたのよね、たぶん。それで私のこと心配しすぎちゃったのよ」
良い人だったと繰り返す彼女だったが、本心でないことは部外者の私にだってわかった。奴は彼女に言葉では言い尽くせないほどひどいことをし続けてきたのだから。
「本音で良いよ。あいつが聞いているわけもないんだし」
彼女は他人に対して強い言葉を使えない。気弱なのだ。しかし私は、一度でいいから彼女に奴への恨みを声に出して欲しかった。そうして、楽になって欲しかったのだ。そんな私の願いに反して、彼女は弱々しく笑った。
「嘘は言っていないわ。彼は優しかった。本当に。私がそれに耐えきれなかったのよ」
「いいや、君は嘘をついている。奴の事、憎んでいるだろう、恨んでいるだろう、そう――」
そう、殺してしまいたいくらいには。
「そうね、そうかもしれない。本当の本当は、私――」
堪えきれず、彼女に向かって腕を伸ばした。私の手を、彼女の目から溢れた悲しみがつたう。崩れかけた笑顔を何とか保ちながら、彼女は私に、苦しそうに囁いた。
「ほんとうは、わたし、あいつを」
「あいつを? 」
***
「『東京湾に沈めてしまいたかった』……なかなか、その、言いにくいんですけど」
「どうぞ、遠慮なく言ってやってくれ。『あいつが聞いているわけもないんだし』」
では遠慮なく、と秀一は私の淹れた珈琲をすすった。そして、言葉とは裏腹に若干申し訳なさそうに、
「肩透かしを食らった気分です」
「同感だ」
週末の昼間、田辺家に昼食を作りに行こうというとき、妹の息子と出くわした。阿藤 高貴、デビューしたての新人作家だ。彼曰く、
「『助けてください、おじさん。明日までに面白い小説をもっていかないといけないんです! 』と言っていたけど、これはこれですでに面白いと思わないか? シュールだし」
私は秀一から十数枚の原稿用紙を返してもらうと、丁寧に揃えて封筒に戻した。
「まだ冒頭しか読んでませんよ」
「問題はない。秀一君が東京湾ショックをどう受け止めるのかが見たかっただけだから」
言っているうちにまた笑いが込み上げてきた。誤魔化すように珈琲を口に含む。
「そんなに面白かったですか? まあ、嫌に具体的だな、とは思いますけど」
うら若き少年と三十路のおやじとでは感じ方に違いがあったらしい。
「まあ何にせよ、そこからは読まなくてもいいよ。内容に関しては、僕の説明を聞くだけで十分に理解できるから。作家の恨みを恐れず言わせていただくと――正直、読むに耐えない」
誤解を避けるために言っておこう。阿藤がこれまでに書いてきた小説は、十分、一読に値する。甥が可愛くて言っているのではなく、今回が特殊すぎるのだ。
「それだけ、追い詰められているんですね。阿藤先生のデビュー作は読ませてもらったことがありますが、同じ方が書いたとはとても思えない」
阿藤はどちらかといえば速筆な方だ――と思う。デビュー前は月に一二度、新作を引っ提げて自宅を訪ねて来ていた。素人目にもなかなかに味のある物語で、私はひそかに彼の夢を応援していたのだ。
「叔父に助けを求めるくらいだからな。ともあれ、協力してやってほしい」
秀一は快く了承してくれた。本当にありがたい。私はエプロンを付けると、棚からサラダ油を取り出す。今日のメニューは炒飯だ。
「じゃあ、話の中身を説明しようか。冒頭は今読んでもらった通り。その次のページでは、男の自殺体が発見される」
男の名は成田……成田何某だ。人通りの少ない通りに面している空きビルの四階からの飛び降り自殺とみられる。屋上に打ち捨てられていた成田の鞄の中には、どこのものとも知れない鍵と、遺書が入っていた。曰く、『私はとんでもない罪を犯しました。』
時を同じくして、アパートの一室で女の変死体が見つかる。首を絞められて殺されていた。女性は一人しか出てこないから名前は良いだろう――忘れた。この女は、成田の元交際相手だった。成田の束縛に耐え切れず破局した後も、女は成田からストーカーまがいの嫌がらせを受けていたという。この後、成田の鞄に入っていた鍵はこの女の家のものだったことが判明する。ついでに言っておくと、成田の家から女の家の元合鍵が見つかった。元合鍵というのは、付き合っていた頃に成田が女から受け取っていたものだ。分かれたときに女が部屋を住み替えたので、女からしたら取り返す必要がなくなったんだな。
一方女の部屋から、スペアキーが無くなっていることが判明した。カーペットからは、成田の頭髪、ゴミ箱からは大量の脅迫文が出てきた。こちらは筆跡鑑定が出来て、成田が書いたものだと確定した。警察は成田が女を殺した後、自殺したものと考えて捜査を打ち切った。
「そうなりますね、当然の運びだと思います」
秀一が何度か頷く。私は切り終わった具材をフライパンに放り込んだ。
「そうだよな。で、ここが問題なんだが――」
「……ないんですね、この続きが」
笑うことしかできない。女が死んで、男が死んで、謎解きも挟まずに淡々と捜査が終わった。ただそれだけの記録をどうして小説と呼べようか。私は途方に暮れていた。
「これを、無理やりにでも小説に仕上げなければならないんですね、それが真柴さんの甥っ子さんからの依頼というわけですか」
そうだ、と答える。道中、車の中で頭を悩ませたがこれといった妙案も浮かばず、田辺家に到着してしまった。そこで、秀一の手を借りようと思い立ったのだ。期待に応え、少年はこんなことを言った。
「謎はまだ残っていますし、それを解決すればいいんでしょうけど」
「謎? 」
素っ頓狂な声を上げてしまった。
「事件は解決してるだろう。今更探偵の出番があるとも思えないが」
秀一は何がそんなに不思議なのかといった様子でこちらを見て目をぱちくりして見せると、口を開いた。
「確かに探偵は必要ないかもしれませんけど、回収されていないもの、いや、人がいますよ」
少し考えて、私も理解した。秀一が続ける。
「冒頭に出てきた男です。――彼は、誰なんでしょう」
***
「いただきます。真柴さんは食べないんですか? 」
スプーンで私お手製の炒飯を口に運んだ秀一が、上目遣いで聞いてきた。
「甥が奢ってくれた」
……コンビニのお握りを。今日、小百合は友達と映画を見に行ったそうで、珍しく週末なのに兄の方が家にいる。小学三年生の目の前で、やれ殺人だ、それ自殺だ、とは出来なかっただろうから、好都合といえば好都合だ。
「そうですか」
秀一は黙々と食べ続ける。即席の昼飯は雇い主のお気に召したらしい。頬を膨らませて時折、美味しいですと呟きながら食べる秀一を見て、甥の小さいころを思い出した。とても姉の血縁だと思えないほど、純真無垢な子供だった。
「ご馳走様でした」
脅威のスピードで食事を終えた秀一は、いそいそと洗い物を始めようとする。
「後で僕がやるからいいよ。相談に乗ってもらうお礼」
ささやかだが。
「いえ、僕も少し考える時間が欲しいので。あの男が何者だったら一番面白いのか……」
そういうと、止めるのも聞かずにフライパンを洗い始めた。暫く待つことにする。
「やっぱり、女性とある程度親しい男性、ということになりますよね」
一瞬独り言かと思ったが、敬語なのでこちらに話しかけているようだ。「そうだな」と相槌をうつ。
「でも、部屋には成田の頭髪以外に怪しいものは無かった。つまり男は部屋に入ったことがないから、仕事相手か、遠い親戚か……二人は何処で話してたんだろう……」
だんだんと独り言の体を成してきたが、私は口を挟んだ。
「まだ編集部には出していない様だし、なんなら、男の頭髪が女の部屋に落ちていたってことにしても良いだろう。それなら女を殺した犯人は男、成田はストーカーまがいのことをしてしまった後悔による自殺で、一応男の正体もわかるようになる」
秀一がこちらを見て、眉をひそめた。
「それも妙案ですけど、そうなると成田の頭髪に説明をつけなくちゃなりませんよ。別れた後引っ越したなら、女性の部屋にそれがあるはずがない」
反論できない。方針を変えよう。
「成田が女を殺す、男が成田を殺す、ならどうだ? 愛する人を殺された男が、犯人を殺す。ありそうじゃないか」
「らしくないですよ、真柴さん」
秀一は手を拭いて、私の向かいに腰を下ろす。
「遺書はどう説明するんです」
すっかり失念していた。慌てて取り繕う。
「偽装したんだ。ありえないことはないだろう? 」
「勿論、警察は筆跡鑑定をしたでしょう」
追撃を食らった。だが、まだ倒れない。
「ワープロか何かで打ったものだったら問題ないだろ」
我ながら、苦しい。
「そうですね、遺書はそれでいい。では、鍵は? 」
鍵? どういうことか呑み込めずにいると、補足説明が入る。
「成田の鞄には女性の部屋の鍵が入っていたんですよね? どうして成田がそんなもの持ってるんです」
これには答えることが出来る。
「男が成田の鞄に入れたんだろう。成田が女を殺したことが警察に知れるように」
「無駄な努力です。それなら、成田の毛髪でも持ち帰って部屋にばらまいておけば良かったじゃないですか」
「……お手上げだな」
苦笑いをしてごまかしたが、秀一は何か思いついた様子だった。
「それに、そんなことをしたら、女性と親しい人が成田を殺したのだと仄めかしているようなものですよ」
「どうしてだ? 」
探偵役は諦めて、聞き役に回ることにした。
「成田が、女性を殺害する以前にスペアキーを手に入れたはずがないからです。例えば成田が女性宅になんらかの方法で侵入して、鍵を手に入れたとしましょう」
真柴さんみたいに、と付け加えられた。大変遺憾だが話の続きが気になるので、耐える。
「鍵を盗られたことに女性は気づくでしょう。彼女が警察に通報しないとは考えられませんし、真っ先に疑われるのは元恋人です」
私は口に出さずに秀一の話を補強する。――スペアが盗まれたと分かっていて、女が鍵を変えないなんてことがあるか? ありえない。
「でも、男が犯人っていうのは物語的にもよさそうです。僕からも提案良いですか? 」
はい、と手を挙げる高校生。彼は、心なしか胸を張って断言した。
「鍵に関しての矛盾は、これで伏線であると言い張れます。苦しいかもしれませんが。僕が提唱するのは、成田を殺した犯人、イコール女性を殺した犯人、イコール正体不明の男説です。――これしかない」
「僕が言っていることに矛盾があったらおしえてくださいね」
秀一はへたくそなウインクを一つすると、話し始めた。
***
「――まず初めに、全体像を説明しましょうか。これは、女の復讐劇です」
秀一は私の手元にある封筒を指差した。
「男は冒頭で、成田が女性に何か、とてもひどいことをした、と言っています。それが何なのかは分かりませんが、女性は追い詰められている様子です。大量の脅迫文が送られてきたこともあり、命の危機を感じていたでしょう。さらに彼女は、成田の事を殺したいほど恨んでいます。ここまではいいですよね」
同意する。
「彼女はこう考えました。どうせ成田に殺されるなら、彼の非道さが世間に伝わるようなやり方で、彼を殺してしまおう――彼女は彼女の事を大切に思っている、ある男に計画を話し、協力を仰ぎました」
創作が過剰だが、未完の小説の落ちを考えているのだ。ある程度は許容するしかない。
「男は成田に近づいて言います。『お前がご執心の女は、お前を訴えることを考えているぞ。黙らせないとお前は捕まってしまう。ところで俺は、自殺に見せかけて彼女を殺せばいいと思う。どうだ、やらないか? 』……こんな感じですかね。男は成田に、ワープロで打った遺書と彼女の合鍵を渡しました。自分の指紋がつかないよう、慎重に」
「遺書をワープロで打ったのはどうしてだ? 」
「真柴さんの案を参考にしてのことですよ。説明します」
秀一は椅子に座りなおした。
「遺書をワープロで打ったのは、そう、筆跡鑑定を逃れるためです。男が成田に吹き込んだ計画は至極簡単なものでした。彼女が寝ている間に合鍵を使って部屋に侵入する。扉にロープをひっかけて女性を椅子に座らせたら首に縄をかけます。後は椅子を蹴飛ばし、遺書を置いて逃げるだけ、といった。この計画に乗った成田は――」
「ちょっと待った。そんなことをされたら女は目を覚ますだろう」
「はい――普通ならば。成田も当然そう思ったことでしょうね。男はこう説明しました。『自分は彼女と付き合いがあって、一緒に食事を採ることも多い。さらに私には製薬会社に知り合いがいるから、とびきり強い睡眠薬を盛っておこう。そうしたら、彼女が目を覚ます心配もない。』」
「釈然としないな」
私が納得できないでいると、
「計画の部分は急造なので、多少雑なのは許してください。まあともあれ、男は成田に遺書と鍵を渡すことに成功した。そして犯行当日、男は予定通りに女性を手にかけます」
「ストップ。女が殺される理由はなんだ」
「成田に殺人の罪を確実に着せるためです。そのためには、明らかに他殺とわかる形で殺されなければいけない。さっきも言ったようにどうせ殺されるなら――です」
「部屋に男の頭髪は無かった。表現を変えてもらうか? 」
先ほどの会話を思い返しながら言う。返ってきたのは意外なまでに力強い否定だった。
「結構です」
「その心は? 」
「殺される側が協力してくれるんですよ、こんな簡単なことはない。頭髪を落とさない工夫なんて、いくらでも考えられます。そうでしょう? 」
例えばシャワーキャップ、か。私は納得した。見た目が怪しくてもいいなら、確かに髪の毛を落とさないようにすることはできる。
「成田は驚いたでしょう。意気揚々と乗り込んだら、女が死んでいたんですから。成田は男に連絡を取り、男は人気のないビルの一室に成田を呼び出し――『不測の事態だ。とにかく会って話がしたい』といったところですかね――突き落とした」
話し終えると、おしまい、というように少年は手を叩いた。
***
「確かに矛盾はないように思うが……こじつけ感が凄いぞ」
驚き半分、納得できない気持ち半分で、けちをつける。秀一にもそんなことは分かっていたのだろう、余裕の表情だ。
「こじつけ感があるのは当たり前ですよ。実際、今僕たちがやっているのがこじつけでなくて何だっていうんです? 」
身も蓋もない。
「そうだな、悪かった。うちの愚かな甥には秀一君の案を提案させてもらっていいかな」
秀一は立ち上がって大きく伸びをしながら、
「いい、ですよっ……あ」
ポケットから何かを取り出した。
「話に夢中になってすっかり忘れてました。今日はこれを渡そうと思ってたのに」
手渡されたそれ――小さい熊のキーホルダー付きだった――を見て、固まってしまう。これを、このタイミングで渡すのか。
「僕は秀一君に殺されてしまうのかな」
秀一は心底愉快そうに笑った。
「そんなことしませんよ。ああ、でも、数は一緒ですね。まず僕の」
少年の人差し指が伸ばされる。
「あと、さゆのも」
続いて、中指。
「最後、三つめは、真柴さんのぶん。無いと不便でしょう? 僕も、真柴さんが来てくれる度に玄関まで走るの面倒なので」
薬指。
一体どれが成田の鞄に残ったスペアキーで
どれが女本人が普段使っていた鍵で、どれが成田の部屋に残っていた古い鍵なのかはさっぱり分からないが、とにかく私の手にあったのは、田辺家の合鍵だった。
「改めて、よろしくお願いします。真柴さん」
危険極まりないことをしていると、果たしてこの少年は自覚しているのだろうか。あっけにとられる私を気にするでもなく、彼は赤い舌をちろりとのぞかせた。
「前はコソ泥さん、なんて呼んでしまいましたからね。失礼しました」
思わずこぼれた笑顔を手でふさぐと、玄関から鍵の空く音。
「にい、ましば、ただいまー」
小百合だ。どたどたとリビングに入ってきた小百合は、開口一番、「ぎょうざ! 」
「おかえり」と妹を迎える兄と嬉しそうな妹を見ながら考える。
肉とニンニク、その他諸々はあったから、あとは皮を買ってくるだけだ。
泥棒と兄妹の日常 上月 秀介 @hanpentororo
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