泥棒と兄妹の日常

上月 秀介

プリンが四ついる理由


 街のはずれにある一軒の飲み屋。一週間前の十一月九日、私はそのカウンター席で古い友達、改め今回の依頼人である佐竹と打ち合わせをしていた。フロントの頭髪がいよいよ怪しくなってきた高校以来の友人は手帳に向かって熱心にボールペンを走らせている。

「で、だ。そいつはこんな形のUSBに入ってるから……」

存外上手く描かれたそれは、およそ特徴といえるようなものを持たない、――まあしいて挙げるとすればポートの部分が出し入れできることくらいか――どこにでもあるタイプのメモリだった。この部分は青、他は黒で……と佐竹はさらに説明を続けたが、私は手をひらひらと振ってそれを遮った。

「そんなありふれたもんの説明をくどくど聞いたってどうなるわけじゃないだろ。現実的な話をしようじゃないか」

右手の人差し指と親指で輪を作ってこれ見よがしに佐竹に向ける。

「あいかわらずいじきたない奴だな、男らしさってやつをどこに置き忘れてきたんだよ。金額なんて気にしないで、友達の頼みは聞いてやる、そういうのを友情って呼ぶんじゃないのか、え? 俺とお――」

「『俺とお前の仲だろ』って? もう聞き飽きたね」

私はまたも佐竹を遮ると嫌味たらしく返す。

「それにしても今日はまた一段とお喋りなんだな。そんなに財布のひもが固いと、けちだと思われるぞ」

「お喋りなのはどっちだ? 舅かなにかか、おまえは」

言いながら佐竹は右の親指で自分の前に置かれたジョッキを指すと

「こんだけだ」

その中の冷えたビールをあおった。

「もっと一般的な表現にしてくれよ」

苦笑を浮かべて言う。舌打ちが一つ聞こえると視界が力いっぱい広げられた佐竹の手にふさがれた。

「たった五万だって? 小遣いにもなりやしないぞ」

もうちょっとだ、と私は親指と人差し指の間に隙間を作ってみせる。佐竹はそれを見て何故か、けたけたと笑うと音を立ててジョッキを置いた。さらにたばこに火をつけてくわえると、存在しない背もたれに体重を預けようとしてバランスを崩す。椅子から転げ落ちて無様な姿をさらすかと思われたが、友人は「ふぐうー 」と妙な声を発しつつ柔らかい腹筋――俗に脂肪という――を駆使してなんとか体勢を整えた。半笑いの私がよれたスーツに落ちた灰をはたいてやる。

「じぇろがいとつたいてあい」

「なんて? 」

と聞き返すと依頼人はまた得意げに片手をひろげて、その後――驚くべきことに――五本の節くれだち始めた指をフルに曲げて小さい丸を作り

「ごじゅー、だ」

少し考えて、嫌な予感しかしない、と感じた私は

「『俺とお前の仲』なんて言っておいて、その大切な友達に一体なにをさせようっていうんだ? 」

と佐竹に湿った視線を投げる。たばこをくわえるのをやめた友人は

「USBメモリと……実はもう一つあるんだけと、まあその二つをちょっと拝借してきてくれればいいだけだよ。山奥の一軒家から、ね」

もう一つ、というのが何なのか知らないが、大金を積んでまで手に入れようとするってことは頼んだくらいでおいそれと渡してくれるようなものでないのは確かだろうと思う。

「……窃盗罪ってしってるか? 」これは私。

「不法侵入ってのは聞いたことあるかな」

「犯罪に変わりはない」

「はじめてじゃあるまいし」

悪びれもせずによくもまあ、とあきれていると佐竹はまた、何やら手帳に書きつけた。そしてたばこを消す。

「昔々、あるところに……つっても三年前だけど」

全然昔ではない。怪しい話になると冗談を飛ばし始めるのはこの男の常だったので、私はこれといった反応も返さず続きを待つ。

「ある発明家がおりましたとさ。氏は田辺」

聞きなれない職業に思わず口をはさんでしまった。

「ちょっと待て、発明家? 」

語り部は、おもしろいだろ? とでも言わんばかりに歯をのぞかせて笑うと、

「勿論、本業じゃないぞ。ガラクタ量産するだけで食っていけてた、なんて甘い話があるか。で、そいつは三年前、子供二人――高校生と小学生らしいけど――を置いて恋人と蒸発した」

「内容が急にに重たくなったな……」

私はため息をついた。人の不幸な身の上話は苦手だ。

「今,、その兄妹は親戚の援助を受けながら暮らしてるって話だ。おやじの部屋はそのままにしてるだろうから、そこから俺の言ったものを借りてきてくれって依頼だよ」

 言い終えると彼は手帳の一ページを破いて手渡してきた。もうこれ以上は聞いてくれるなよ、と言いたい時、こうして何かしらを相手に手渡すのが友人の癖だった。発明家とは名ばかりでこれといった大発明もなかったようだし、USBに入っているのは田辺博士の本業に関わるデータだろうか……と想像する。渡された切れ端を見ると、簡易的な地図と、固定電話と携帯電話のものとおぼしき電話番号がそれぞれ一つずつ書いてあった。続いて一枚の写真が渡される。卒業アルバムの写真だろうか、学ランを着た少年が一人、作りもの臭い笑窪を両頬に浮かべてこちらを見ていた。顔立ちは整っている方だったが、陰気そうな目をしている。

「これが兄の秀一。書いてあるのは自宅の地図と家電、あとこいつの携帯の番号な」

 佐竹は写真を指差しながら二本目のたばこに火をつけた。

「いったいどこから電話番号なんて手に入れたんだ? 」

「……昨今の子供たちは口が軽くて助かるよ」

 とんだ悪党である。渡された二つを愛用の手帳にはさみ、スーツの内ポケットにしまう。私は気になっていたことを口にした。

「ところで、『もう一つ』ってのはなんだ? 」

 紫煙で器用に輪っかを作ると、薄毛のマナティは答える。

「青くてでかいアルバムだとよ」

 だとよ、ということは佐竹が欲しがっているものではないということか。私は優先順位をUSB、アルバムの順に固定した。

 佐竹からはこれまでに何度となくこうした依頼を受けてきたが、ここまで訳が分からないのも珍しい。今後の方針を決めかねる私に、いつの間にか近くに来ていたこの飲み屋の女店主が

「何か壊したら弁償代くらいは置いていきなさいよ」

 口をへの字に曲げて片眉をあげた。


***


 そして今、私はまたも同じ飲み屋のカウンター席で佐竹と会っていた。時刻は午後一時、私たち以外の客はおらず、女店主も輪に加わっていた。

 約束のものだよ、と私は持参した紙袋のうち一つを持ち上げる。受け取った佐竹は中をのぞきもせずにもう一つの紙袋の中身を気にしている。

「なんだこれ、プリンか? お前、なんで同じプリン四つも大事そうに抱えてきてんだよ」

 怪訝そうに佐竹が持ち上げた袋を見るなり、店主が嬌声をあげた。

「それ、エクセレンスのプリンじゃない! 高かったでしょう? 」

 そう、高かった。町一番の高級菓子店、エクセレンスで身銭を切って買った濃厚卵プリン一個八百円。かなりの痛手である。

「あ、なるほど。俺の依頼を遂行した記念に、皆で食べようって算段だな? いやあ、お前もなかなか気が利くなあ」

 佐竹は目じりを下げてにこにこしている。私はまた、水族館でみた哺乳類を思い出していた。しかし、佐竹よ。残念ながら、ここにおまえの分のプリンはない。

「これは店長さんと、かわいそうな働きアリ、あとはその雇い主の分だ。たばこ臭い小悪党はおよびでないよ」

 さらに残念なことに、佐竹からの依頼は完遂などされていないのだが、紙袋を開けるまで元依頼主がそのことに気づくことはないだろう。佐竹は自分の分のプリンがないと言われ、不満を口にする。

「なんで店長にあって俺にはないんだよ。差別はよくないぞ、何でも屋……ん? 」

 何に疑問を感じたのか、首をひねった小悪党は私に聞いた。

「店長は店長で、働きアリはお前、小悪党は俺だろ? 」

 心外だがな、と付け加える佐竹。

「あともう一人、雇い主って誰だ? それに、濃厚卵プリンは四つ、             出てきた人間も四人。俺の分のプリンはなんで無いんだよ」

 商品名をずばり言い当てた、相当な甘党らしい――知っていたが――友人は滅多に食べられない好物に何が何でもありつきたいのだ。お前にとって残念なことばかりだな、今日は、と少し愉快な気持ちで教えてやる。

「雇い主は二人いるんだよ。このプリンを四つ買って来いって言ったのもその二人。ほら、やっぱり小悪党の分はないだろ? 」

「どこのどいつだ、そりゃあ」

 佐竹は心底不思議そうだ。店主も

「私も気になってきたわ。その二人の雇い主さんがどうして私にこんな高いもの買ってくれるわけ? 」

 と小首をかしげる。実際には代金は私のうすっぺらい財布から出て行ったのだが、それは言うまい。ともあれ、二人の質問に対する答えは単純明快なものだった。

「プリン好きの小学生と、そのお兄さんだよ。僕にそいつを買ってくるように命じたのはね」

 店主と佐竹が目を見開いた。

「年の割に策士だったよ。まんまとやられてしまった」

 私は佐竹の足元に置いてあるプリンの入っていない方の紙袋を持つと、中身を取り出した。分厚い、藍色の表紙のアルバム一冊。紙袋の中にはもう何も入っていない。アルバムを店主に手渡した。驚きが収まらないのか何も言わず呆然とアルバムを見つめる店主に

「気難しい息子を持つと大変だろうね、特に母親は」

 と笑いかける。

 店主はまだ困惑した様子で、

「順を追って話してちょうだい、頭がこんがらがってきた……」

 と額に手を当てた。

「元からそのつもりだよ、ほら、佐竹」

 佐竹の手元に向かってカウンター上を濃厚卵プリンが滑る。貪欲な甘党は目にもとまらぬ速さで好物を手中に収めるとふたを開けようとして、思い出したように店主に言う。

「スプーン二つ持ってきて! 早く食べないと、この馬鹿がまた自分で食べようなんて馬鹿な気を起こすから」

 馬鹿馬鹿言い過ぎである。これで暫くの間、手に入れ損ねたもう一つの獲物のことをこの馬鹿が忘れていてくれれば良いのだが……

「――貸しにしとくからな、わすれるなよ」

 そううまくはいかないようだ。

 店長が三つのスプーンと一つのプッチンプリン、皿一枚をもって来た。四個パックからたった今取り出されたとおぼしきそれを皿にのせて私の前に置くと、スプーンを配る。なんとも情け深い。私はプリンを慎重にプッチンすると

「では、皆さんお集りのようですし、始めましょうか」

 二人の顔を見比べた。

「なにを? 」と佐竹。分かっていて茶々をいれているのだ。

「自分より一回り以上も若い兄妹にやりこめられた哀れな何でも屋のお話しだよ。聞きたいだろ? 」

 自嘲的な笑みを浮かべる。

「なるほど、それは是非お聞かせ願いたいな……うまい」

「おいしいわ……こんな良いもの食べるのいつぶりかしら」

 見ると、店主も佐竹もプリンに夢中だ。私の財布が悲し気にうめいた気がしたが、完全に錯覚だった。消えた四枚の野口に思いをはせつつ、改めて言う。

「田辺・妹に感謝しろよ、佐竹。それでは、はじまりはじまり――」

「おい、店長さん、めずらしいぞ、こいつヤケになってる」

 黙って聞いてくれ。悲しくなるから。

 

***


 佐竹の依頼を受けてから二日後、私は蒸発した発明家を父に持つ田辺秀一と会う約束を取り付けていた。待ち合わせに指定されたのは彼の家のほど近く、全国に展開しているチェーンのファミレスだ。授業後、家に帰るついでにおちあう予定だったため、待ち合わせの時刻は午後五時に設定していた。

 腕時計を見ると、午後四時半を回ったところだ。夕飯にはまだ早い時間なので秀一が来てから予約を入れても、そう長い時間はかからずに店に入れるだろうとふんでいた。

 秋風と言うにはいささか冷たい風をあびて、あとの三十分をどう過ごそうかとコートをかき合わせた私はポケットの携帯電話が震えているのに気付いた。表示を見ると、秀一からの電話だ。慌てた様子の声がする。

「もしもし、田辺ですが。生徒会の仕事が長引いて、待ち合わせの時間に間に合いそうになくて……申し訳ないんですが、七時までにはそちらに着けると思うので、予定の時間を変更していただいくことってできますか? 」

 電話の向こうに喧騒がきこえる。この箱一Aの教室に移して! あと何部終わってないの? 五十部? うそでしょ、といった様子。察するに、修羅場だ。

「何時でも構わないよ。店についたらまた電話をください」

 おそらく店の中にいるから、と付け加える。

「すみません、宜しくお願いします」

 電話は切れた。よほど大変な現場らしい。三十分ほど書店でも見て、あとは店に入って珈琲を飲みながら秀一を待つことにした。


 再び電話がかかってきたのは、七時十分だった。

「お待たせして申し訳ありません」

 読んでいた文庫本を閉じて声のした方を見ると、写真で見た少年の顔。秀一だ。外は寒いというのに、走ってきたのだろう。防寒着を着ていないし、鼻の頭と頬を赤くしていて、息も荒い。背負ったリュックが膨れているのは、そこに上着をしまい込んでいるのか。

「気にしないで、まあ、座ってください」

 と手で椅子を指し示すと、少年はもう一度すみません、と恐縮してから席に着いた。

「夕ご飯はまだだろう? 何か頼むといい」

「ありがとうございます、ええと……」

 ためらうような素振りを見せる秀一に名刺を渡す。もちろん偽物だが。

「真柴です。真柴 隆文。お父さんの友達で……ってこれは一度言ったね 」

 偽名である。いわずもがな。頷く秀一。

「父を探していると伺いましたが……」

「はい。小さいものでもいい、手掛かりが欲しいんです」

 身を乗り出してみる。そのほうが必死に見えるだろうと思ってのことだ。まずは単刀直入に、

「お父さんの部屋を一度みせていただけませんか? 」

「すみません、それはできないです」

 即答だった。でしょうね、と声に出さず頭の中でつぶやく。頼んで見せてもらえるなら私に依頼が来ることもなかっただろう。

「『部屋を誰にも見せるな、お前たちも入るな 』と書置きがあったんです。前々から父は自分の部屋を誰にも見せないように気を使っていたようで」

 ここで、ぐう、と少年の腹が鳴った。

「まだ、注文していませんでしたね。何でも好きなものを頼んでください」

 メニュー表を手渡す。秀一はグラタンとオレンジジュースを、私は珈琲のお代わりを頼んだ。

「真柴さんはもう夕飯を済ませたんですか? 」

「もう済ませましたよ。これは食後の一服です」

 と、空になったカップを持ち上げ、意識して紳士的な笑みを返した。

 そうですか、と愛想笑いを浮かべる秀一を見ながら、私は意外に思う。中学生の頃の写真を見たときは暗い子供という印象だったが、どうやらそうではない。今日待ち合わせに遅れた理由から、生徒会に役員として所属していると知れるし、何より印象的なのが彼の話し方だ。違和感を覚えるほどにハキハキと、相手の目を見て話す様は、舞台役者の発音練習すらイメージさせた。

「それで、父の話ですが」

「ああ、はい」

 じろじろ見すぎたかもしれない。遠慮がちに話しかけてきた秀一に怪しまれていないと良いのだが。

「父は『開けるな』という表現を使いましたが、正確ではありません。より正しく言うとすれば、『開けられない』んです。父の部屋は」

 困ったように秀一は言った。表情の変化も、必要以上に大きい。

「『開けられない』? 鍵でもついているんですか」

 思いついたことを口にする。

「はい。窓の鍵は勿論、扉に取り付けられた鍵もしっかり施錠されています。前に父の知り合いだという方が訪ねていらしたときも、部屋を見せてほしいと頼まれたのですが、同じ理由でお断りしています」

 開けられないと断言するからには、ついている鍵は百均で売られているような安物ではないだろう。顎に手をあてて考える素振りをしていると、秀一がテーブルの上に手を置いた。今まで膝に手を置いてかしこまっていたが、緊張が解けてきたのだろう。リラックスしてくれた方がこちらもやりやすいので、暫くの間本題からそれた話をしようか。

「妹さんとお二人で生活なさっているそうですね、いろいろと苦労もあるでしょう? 」

「ええ、でもあれこれと小言を言われる心配がないので、自由なものですよ。周りに民家がないので、年中カーテンを閉めている父の部屋以外はカーテン全開で開放的に暮らしてます」

 民家がないならなおさら、カーテンを開けっぱなしにするのは危険ではないだろうか。秀一の話は続く。

「妹は特に気ままですね。週末になると家にある映画のDVDを持って地下にある大きなテレビのある部屋――妹はシアタールームなんて恰好つけて呼んでいるんですが――に籠って、宿題もしないで一日中映画、映画です」

 シアタールームと呼んではいるものの、実質はただの地下室で、階上の音が筒抜けだという。

「週末の昼間は学校か友人の家で暇をつぶしているんですよ」

 煩いと文句を言われたりするのだろう。災難なことだ。私は実家で暮らす妹、もとい怪獣を思い出しながら

「それは楽しそうだ」

 苦笑いを浮かべた。

「食事はどうしているんです? やはり秀一さんが作るんですか? 」

 と聞くと、

「基本的には僕が。上等なものを出すにはまだまだ腕が足りないみたいで、妹がたまに『味が濃すぎる。』って怒ったり……」

 秀一は腹のあたりで両手を動かしてみせた。おや、と思うが、口には出さなかった。もう少し様子を見て判断しよう、

「料理は難しいですよね、そういえば、グラタンはまだですかね、おなか、空いてるでしょう」

 注文から十分以上経っていた。周りを見るといつの間にか店内は混雑していて、ウエイトレスが慌ただしく動き回っている。

「もうすぐですよ」

 秀一は右手の人差し指を曲げて人差し指と親指の腹を合わせた後、親指から人差し指を離して、通路側を指差した。親指と人差し指の間には、十センチ強の間隔ができる。――半々といったところかな――と、秀一の仕草を見ながら考えた。まだ私の勘ぐりすぎということもある。

「しかしこの混雑具合ですから。注文が忘れられていなければいいんですが……どこかに店員さんがいないかな」

 言いながら後ろに大きく振り返った。秀一が視界から消える。

「真柴さん、来ましたよ」

 肩をたたかれる感触。振り返ると、秀一がテーブルに手をついて大きく身を乗り出している。そうでもしないとテーブルの向かいに座る私の肩をたたくことはできなかっただろう。

「ああ、すまないね」

 私が礼を言って出しっぱなしだったメニュー表をしまおうと手を動かしたのとほぼ同時に

「わ」

 バランスを崩した秀一がこちらに勢い良く倒れこんだ。


「本当にどこも痛くない? 」

「はい、大丈夫です。すみませんでした……」

 秀一の肩がテーブルにぶつかる寸前、なんとか抱きとめることに成功した。幸い熱いグラタンが彼にかかることも、彼が捻挫することもなく――損害らしい損害といえば、私のスーツがかなりお冷で濡れたことくらいだ。

「つい、妹と話すときの癖が出てしまって……」

 小さな声で謝罪を重なる秀一だったが、相変わらず口元はハキハキ動いているし、目もしっかり合ったままだ。今自分で言った通り、癖になっているのだろう。

「気にしないで。怪我がなくて本当によかったよ」

 となだめると、少年は眉を下げて笑窪を作った。


「今日はありがとう、何か困ったことがあったらいつでも連絡して」

 外に出ると、もうすっかり日は落ちていた。

「こちらこそ、ありがとうございました。……スーツ、本当にごめんなさい」

 深々と頭を下げる秀一を「いいからいいから」となだめ、帰路につく。濡れてしまったスーツを小脇に抱えると、まだじっとりとしていた。自宅からさほど遠くないからと、車で来なかったのが仇になってしまった。冷たい夜風を浴びながら、我が家に茶封筒はあっただろうか、と独り言ちる。

 土曜日である明日、田辺家のガラスを割ってしまうからには、修理代を置いていかなくてはならないだろうから。


***


「どこか抜けてるとは思っていたが、ここまでだったとは驚きだ」

 好物を食べ終わった佐竹は目を剥いた。

「そうね、ちょっとお馬鹿さんだわ。妹さんがいるって分かっていたのに、どうしてわざわざ週末に田辺さんの家に行こうとしたの? 」

 お馬鹿だわ。店主はあきれ顔でもう一度呟いた。そう何度も言わなくていい。自分が一番よく分かっているから。――私は馬鹿です。

 しかし、少しだけ反論させてもらおう。

「僕だってなにも、『何とかなるだろ』なんて思ったから人のいる民家のガラスを割ろうと決めたわけじゃない」

「いいよ、言わなくて。話聞いてりゃそのくらい俺にも分かる」

「田辺博士の部屋には鍵がかかっていて、そうするより他に部屋に入る術がないものね」

 二人とも、私のことを舐めきっている。

「いや、そうじゃなくて、……その理由もあったけど」

「そらみろ」

「お馬鹿さんだわ」

 店長、そんなにいじめないでくれ

「いいから聞いてくれって、そのお馬鹿さんにだって一応、勝算があったんだよ。週末の田辺家でガラスを派手に割って盗みをはたらいても、誰にも気づかれることなく逃げおおせるだろうっていう、勝算がね」

 負け惜しみを口にしながら、私は激しい自己嫌悪に襲われた。

――私が勝機を掴んだと確信した正にその瞬間、秀一の完全勝利は覆しようのないものとなってしまったのだ。


***


 窓ガラスに飛び散り防止のシートを張った私はなんとも間抜けな恰好をしていた。具体的に説明するなら、シャワーキャップにウィンドブレイカー。さらに、飛行機で渡されるような薄っぺらいスリッパを履いた上から、近所のスーパーマーケットで手に入れたビニール袋――ロールかちぎって使う、これまた薄っぺらいタイプのものだ――をかぶせて輪ゴムで留めていた。見た目は大変残念なことになっているが、証拠を残さず家探しをするのには適した装備だった。

 勿論このままの恰好で自宅からてくてく歩いてきたわけではない。田辺家のほど近くに停めさせてもらったマイカーの中、いそいそと着替えたのだ。

 さあ、まずはガラスを割らなければ。音は気にしなくて良いとして、怪我だけはしないように、慎重に。

 と、遠くから足音が聞こえた。気づかれたのだと悟る。しかし、この時私は愚かにも危機感を感じていなかった。ここには今、小学生の妹しかいないはずだ。幸運にもコミュニケーションの手段はあるから、何とかごまかせるだろう。とりあえず、シャワーキャップを外して足音の主を待つ。

「こんにちは、真柴さん」

 少女の声では、ない。

 ……ガラスを破るのはやめだ。逃げることにしよう。走りだそうとした私を、暫定家主、田辺 秀一が呼び止めた。

「待ってください。さもなければこの動画、警察に提供しますよ」

 犯行現場をおさえて私を強請るつもりだったのか。驚きつつも、私は逃げる足を止めない。

 一杯食わされたのは確かだが、秀一もまだまだ子供だ。彼の言う動画には、怪しい恰好をした三十路男は映っているだろう。だが、そんなものを警察に持って行ったところで、なににもなりやしない。……不審者として私の映像が公開されでもしたら暫くは佐竹にネタにされるだろうが。それでもシャワーキャップの間抜けな男は、不法侵入はおろか、窃盗も、器物破損すら犯していないのだから。

「出てくるのが早すぎたよ、秀一君」

 今回の依頼は完遂出来なかったと佐竹に謝りにいかねば。私はため息をつきつつ、安堵していた。もし秀一が出てくるのが少しでも遅れていたら、今頃秀一の思惑通り、薄っぺらな財布から生き残りの諭吉がきれいさっぱりいなくなっていただろう。

「そうです、感謝してくださいよ、真柴さん。おかげであなたは、この手帳以外に僕に弱みを握られなくてすんだんですから」

 なんだって。私は自分の耳が信じられなかった。今、秀一は何と言った?

 振り向くと、一日ぶりに会う少年は黒い手帳を掲げ、薄ら笑いを浮かべていた。

「僕の中学校時代の写真ですね。それに携帯の番号も。どこで手に入れたんですか?」

「……いつその手帳を盗ったんだ、泥棒さん」

 十一月だというのに、背中を汗が伝った。

「聞き捨てならないですね。泥棒はあなたでしょう」

「未遂だ」

「今回は、ですけどね」

 真っ白なセーターを着こんだ秀一は、片頬にだけ笑窪を作って、右手に持った手帳を小さく振ってみせる。手帳の中には、これまでの仕事で使った住所や電話番号、さらにまずいことに依頼人の個人情報まで記されている。小心者の私はいつも、着ているスーツの内ポケットに、手帳を入れて肌身離さず持っていたのだ。今日のように、盗みに入るとき以外は。

「この手帳を拝借したのはいつか、という質問でしたね、すみません」

 秀一の目が細められるのがわかった。

「僕が手を滑らせたとき、覚えていますよね。真柴さんが僕を支えてくださって、助かりました」

 あの一瞬で、手帳をかすめ取ったのか。子供だから、と油断するべきでなかった。

「僕の質問にも答えてください。どこで写真と電話番号を手に入れたんです?」

「……『昨今の子供たちは口が軽くて助かる』だそうだ」

 秀一を睨みつけながら答える。私の頭の中では、形勢逆転の四文字が激しく点滅していた。これは負け惜しみだ、と唇を噛む。初めから私は優位になど立っていなかったのだから。

「怖い世の中ですね」

「まったくだ」

 私のような愚鈍な泥棒はとても生きていけない。

「真柴さん――偽名だとは思いますが、取り敢えずはそう呼ばせていただきますね。僕からのお願いを一つ、聞いていただけますか」

 最初に会った時のような、舞台俳優じみた話し方ではない。私はまだ、ファミレスでの秀一がどこまで演技をしていたのか測り切れないでいた。

「内容によるな」

 動揺を悟られてはいけない。努めて飄々と返す。

「父の部屋から、何か好きなものを一つ、持っていく事を許す――僕がそう言っても、ですか? 」

 さらりととんでもないことを言う。一体この子供は、何を考えているのだ?

「鍵がかかっているんじゃなかったか」

「ああ、」

 嘘です、と笑う秀一。

「手帳は返してもらえるのかな」

 一歩、彼に近づいた。まだ手帳を奪いに飛び掛かるには遠い。

「今すぐに、とはいきませんが」

 秀一が横に視線を投げた。録画機器はそっちか。しかし、そうか、と落胆する。私は秀一と立ち回りを演じるわけにはいかないらしい。真柴さん、傷害罪って知ってます? ……我ながら趣味の悪い空耳だ。

「それでいい」

 どんな魂胆があって私に田辺博士の私物を与えようとするのかは分からない。だが、ここから上手く立ち回れば、あわよくば――依頼の達成と、手帳の奪還を同時に叶えることが出来る。覚悟を決めろ、と私は自分自身を鼓舞した。目の前でうっすらと笑う少年のいうことを聞いてやるのだ。今は。

「有難うございます。いや、そろそろなので助かります」

 何が、とは聞いてやらない。これ以上謎を増やして楽しいことなど何もないから。

「さて、しかしですよ、真柴さん」

 秀一が私に背を向ける。余裕だな、少年。口には出さない。

「僕のお願いを聞いてもらうためにはまず、僕が生んでしまった誤解を片付けなければなりませんね」

 そう言うと、秀一は玄関のドアを開けて振り向いた。白い歯がのぞく。



「お茶でもいかがですか。――答えあわせ、しましょう」



***


「どうぞ」

 出されたのは匂いからして紅茶だった。テーブルを挟んで私の向かいに座った秀一が淹れたものだ。強い視線を感じ、いたたまれない。

「……どうぞ」

 もう一度言われた。飲めというのか……これを? どきついアップルティーの香りに包まれた黒い液体を睨む。

「紅茶で間違いないよね? 」

 視覚か嗅覚か。信用に足るのはどちらだ。

「……失礼なことを聞いているとは思いませんか」

 少し濃くなってしまっただけです、と言いながらも自分のカップはちゃっかり遠ざける秀一。私はといえば、紅茶から珈琲を錬成する儀式に立ち会えなかったことを心から残念に思っていた。

「魔法は存在しないものと思っていたよ、今この時まではね」

 テーブルの真ん中辺りに追いやられた秀一のカップに、自分のカップを近づける。カチ、と固い音がした。

「本題に入らせてください」

 こころなし小さな声で秀一が言う。耳が赤いのは寒さのせいだろう?なあ、少年。レストランで秀一が、『腕が足りないようで』と言っていたのを思い出す。これは本当の事だったのか――足りない、という次元ではないが。……では、他は?

「まずは妹を紹介しておきましょうか」

 立ち直りがはやい。既に彼の頬は二つの笑窪をたたえていた。場違いにも微笑ましいなどと思った私だったが、しかし次の瞬間には一点を見つめて固まることしかできなくなった。なぜなら。

「さゆ、出てきていいよ」

 という秀一の声に応じて、小さな女の子が一つの部屋からひょっこり姿を現したからである。驚くべきことに、さっきまで確かに閉まっていたドアを開けて。

「……」

 唖然とする私を見て満足そうに頷いた秀一は席を立ち、少女の目の前に膝をついて、その頭をなでた。喜びが滲んだ声で私に語りかける。

「驚いてくださるんですね、真柴さん。曖昧な表現に留めていたので、ひょっとしたら気づいてくださらないんじゃないかと心配していたんですよ――もっとも、僕のわざとらしいアピールに引っかかってくれたからこそ、今日、泥棒さんはこの家に来ているんでしょうけれど」

 少年は優雅な所作で立ち上がる。

「妹の小百合です。小学三年生。ほら、さゆ、おじさんに挨拶して」

 手で指し示すされた私は、いつの間にか半分腰を浮かせていた。

「こんにちは、たなべ、さゆりです、よろしく」

 少女――小百合は小さく頭を下げ、彼女の兄は「『よろしくお願いします』だろ」と彼女の言葉遣いをたしなめた。耐えきれず、声が漏れる。


「……聞こえる、のか」

 この時になってやっと、私は自分の盛大な勘違いに気が付いたのだった。

「それは驚くでしょうね、真柴さん」

 つかつかと歩み寄って来た秀一が、私の顔を掬い上げるかのようにのぞき込んだ。私は何も言えず、秀一とまともに視線がぶつかる。

「この間抜けな少年の妹は耳が聞こえないんじゃないか――だとしたら。例えば彼女がいる時にガラスを破ったとして、自分はばれることなく家の中を物色できるんじゃないか? ――そう思ったからあなたは週末である今日、計画を実行に移したんだ」

 ……その通りだった。少年探偵はなおも、泥棒を追い詰める。

「どうしてそんな勘違いが起きたのか。もうお分かりですよね? 僕が真柴さんと初めて会った時にとった行動から、真柴さんは僕の妹の耳は聞こえないのではないか、と予想したんです」

 彼が一歩、私に近づいた。

「僕も本当に意外でした。遊び半分のつもりでやってみたら、ちゃんと気づいてくださったから。勘が鋭いんだな、と驚きましたよ」

 秀一の身振りが大きくなる。

「……お褒めにあずかり、光栄だな。私はまんまと君に担がれたわけだ」

 何とか台詞を絞り出した。

「答え合わせ、だったね。聞かせてもらえるかな、勘違いを狙った君は、なにをしたのか」

 おそらく私は、面白いようにそれらに騙されていることだろう。泣きそうである。

「よろこんで。あ、その前に」

 少年は小百合の方を向いて、

「ありがとう。また暫く、部屋で待っててくれるかな? お昼ごはんまでには、お話し終わらせるから」

 小百合は不満げに兄を睨んだが、彼がごめんね、と手を合わせると、諦めたように部屋に戻っていった。

「……なんて、僕が大層なことをして、あなたを騙したみたいに言っちゃいましたけど、」

 また耳が赤くなっている。大人びているとはいえ、まだ高校生だ。年相応のところもあるらしかった。

「実際そう大したことはしていないし、言っていないんですよ、僕は」

 恥ずかしいなあ、と少年は頭を掻き、

「妹の前だったので、ちょっと恰好つけてしまったんですね」

 と声をひそめた。――確かに、彼はそこまで大袈裟なことはしていない――だが、本心から私は言う。

「見事な演技だったよ、秀一君」


***


「分かるように説明してくれよ、もったいぶりやがって」

 佐竹は本日三本目のたばこをふかしていた。

「その坊主が何をしたから、お前がそんな勘違いをしたのかっていうのが聞きたいんだ。俺は」

 少し話が長くなりすぎたらしい。

「すまん。ちょっと巻きで話すよ」

 ふん、と友人は鼻を鳴らした。いいから早く話せ、ということだろう。

「まず最初は彼の話し方。違和感を感じるくらい、ハキハキと、相手の目を見て話していた。さらに、表情の変化が必要以上に大きい。次に食事の話をしている時だ。秀一君は、『怒る』という言葉を使ったのと同時に、腹の前で手を上下に動かした、と言ったよな? 」

 佐竹はここでピンときたようだ。

「お前、ちょっと疑り深すぎるんじゃないか? 」

 とあきれている。店主は、まだぽかんと口を開けたままだった。

「まだ続きがあるんだよ、三つめ、『もうすぐ』と言った時の特徴的な手の動き」

「まあ、『ちょっと』って意味を伝えるだけなら、わざわざ親指と人差し指を一回合わせる、なんてことはしなくていいわな。普通は」

 わかる?と佐竹は店主にちょっかいをかけるが、店長は首を振るばかりだ。

「四つ目、明らかに相手の視界に自分がいないと分かっていた時――私が店員を探して後ろを向いた時の事だよ――彼はわざわざテーブルに身を乗り出してまで、私の肩をたたいた。彼がした演技はこのくらいだね」

 付け加えるとすれば、一部屋だけカーテンが閉まっていることと、週末は妹しか家にいないことをアピールしたこと、くらいだろう。カーテンの情報のおかげでまっすぐに田辺博士の部屋へ向かった私を撮影するのは固定カメラ一台で事足りるようになっただろうし――さすがにそこまで知っておいて部屋を間違える泥棒もいないだろう――、妹「は」いると分かっているのに盗みにはいる阿呆はいないと思ってくれるだろう、従って私は週末赴くことで容疑から外れるだろう……という期待を私に抱かせることにも成功している。

「うーん、まだ分からないわね。降参だわ」

 店主は両手を上に上げた。すかさず、得意顔の佐竹が説明を始めたので、この隙に私は紅茶を一口飲む。長話の最中、店主が用意してくれたものだ。ちゃんと、うまい。

「なに、聞いてみれば簡単だよ。店長さんは、イヤホンで音楽聞きながらスマホ構ってるやつに話聞いてもらいたい時、どうする? 」

「そうね、まず肩を叩いて……あ、」

「四つ目の意味は分かっただろ? 勿論、秀一が肩を叩いたとき、コイツはイヤホンなんてしていなかった。さらに、だ。派手に転びそうになった後、こんな会話があったろう、『妹と話すときの癖が出てしまって』……みたいな」

 コイツ、のところで佐竹は私を指差した。店主は嬉しそうに、胸の前で手を叩く。

「それで何でも屋さんは勘違いを深めたのね。じゃあ、最初の三つはなに? 」

「ハキハキ喋るってのはようするに、母音の違いが明確にわかるくらい口の動きが大きかったってことだろ。プラス、表情の変化。――こんな感じかな」

 佐竹は実際に秀一の様子をまねて見せた。ころころと表情を変え、口をせわしなく動かす。ちょっとオーバーだ。

「なんか、どっかで見たことあるわね」

 眉をひそめた店主に分かりやすいよう、

「こうするともっと似てるかな」

 佐竹は両手のこうを見せて、腹のあたりで上下させると、眉根を寄せて口を真一文字に固く結んだ。佐竹なりの『怒り』の表情である。

 店主も、これで事の真相に気づいたようだった。

「そうそう、そんな感じ。ニュース番組やら天気予報やらの左下でたまにやってるもの」

 彼女はどこか得意げになって言う

「――手話、ね」

「ビンゴです、店長さん」

 私はやけくその拍手を送った。

「これでお前がとんでもない勘違いをしちまった理由もわかったわけだな。本当にその子供、あなどれないなあ、おい」

 佐竹が自分の腹を撫ぜて軽くのけぞった。

「同意が得られてうれしいよ」と、本日何度か目の苦笑。

 店主はまだ、にんまりと笑っていた。


***


 私は田辺博士の部屋にいた。扉に鍵の類は無く、いともあっさりと私は目的地に辿り着いていた。自分の父親の私的領域に不法侵入者を招き入れた秀一は「後はご自由に」と言い残して再び閉められた扉の向こうで待機している。目当てのものを手に入れた後、窓を開けて逃げ出すことも出来たが、手帳を人質に取られているのでそうもいかない。

 諦めて室内を見渡すと、まず初めにPCラックが目に入った。その横には、書類に埋もれて、数段に分かれた引き出し。――USBメモリを手に入れるならあそこを物色するのがよかろう。

 書類をかき分けると、一段目の引き出しを開ける。

「……これはこれは」

 入っていたのはアルバムだった。手に取ると、写真でいっぱいなのだろう、確かな重みを感じる。表紙の色は藍色。この部屋に本棚はないので、これが依頼の品だ。優先すべきはUSBだが、アルバムのほうも一旦分りやすいところによけておくことにしよう。

 文机の適当なところにアルバムを置いたとき、写真が一枚端から覗いているのに気付いた。唐突に野次馬根性が膨れ上がり、写真をそっと引き抜いて表を見る。

 そこに写っていたのは、生まれたばかりと思しき赤ん坊だった。肌触りの良さそうなタオルケットにくるまれ、大泣きしている。左下に橙で日付が印刷されている。年から考えると、この赤ん坊は秀一か。 彼を愛おしそうに抱いているのが母親だろう。彼女の顔も涙でぬれに濡れているが、その頬にはくっきりと笑窪がみてとれた。秀一は母親似らしい。不意に既視感が込み上げた。私はどこかで、この母親を見たことがあるように感じたのだ。

 その正体に気づいたとき、思わず笑みが零れてしまった。大した興味も抱いていないように見えたが、その実、この依頼の成り行きを一番気にかけていたのは彼女だろう。息子に似て――いや、秀一が彼女に似たのか――演技のうまい、とんだ食わせ物である。

 二段目の引き出しを開けると、溢れんばかりに記録媒体が入っていた。雑に詰めこまれたそれらを見て辟易した私は――一目見ただけでも、十数個はUSBメモリが入っているようだった――重たいアルバムを手に、博士の部屋を後にした。たかがメモリ、たかが五十万……撤回しよう。五十万は大きい。だが、私はすでに、アルバム以外のものを持って帰る気は無くしていた。

「お目当てのものは見つかりましたか? 」

 部屋を出ると、秀一は紅茶もどきを片付けているところだった。

「おかげさまで」

 私がアルバムを持っているのを見て、意外そうな顔をする秀一。そんなものに何の意味が、とでも言いたげである。

「真柴さん、アルバムなんか持っていくために不法侵入を働こうとしていたんですか? 」

 座ってください、と席を勧められたので、遠慮なく先ほどの椅子に腰を下ろした。

「美人が写ってたんでね」

 軽口をたたく。秀一は私の向かいに座った。

「まあ、何を持ち出してもらっても構いませんが、お願いはちゃんと聞いてくださいね」

「聞くも聞かないも、まだその、『お願い』とやらの内容を教えてもらっていないように思うんだが」

 今度は緑茶が差し出される。例にもれず、黒い。失敗しました、と少年は耳を赤らめた。だからどうやって淹れたんだ、これ。

「そうでしたね、失礼しました。では、説明します」

 秀一はおもむろに、一枚の紙をテーブルに置き、こちらに向ける。紙には、『六時半、朝ごはん』『八時、小百合、秀一、学校』『三時、小百合、下校』『七時、夕飯』などなど……几帳面に手書きされている。

「おおよそのスケジュールです。これから一年間、学校への送り迎えと、食事の準備をお願いします」

「ちょっとまってくれ」

 あまりに予想外の内容に、混乱する。秀一がまだ何か言おうとするのを手で制し、頭の中を整理した。聞きたいことが多すぎる。

「質問いいかな」

「どうぞ」

 頷く秀一。

「一つ目。僕は一応犯罪者の端くれだが、そんな奴に妹の送り迎えをさせていいのか」

「真柴さんだって、すぐ捕まって余罪てんこ盛りで起訴――なんて、嫌でしょう」

 手帳の存在を思い出す。確かにあれが秀一の手元にある限り、田辺兄妹に危害は加えられない。元々、そんなつもりは毛頭無いとしても。

「道理だな。じゃあ二つ目。山道を妹一人で帰らせるのは大変だし、食事の支度も手間のかかる作業だ。人にやらせようってのは分かるが、今まで、つまりお父さんが失踪してからの三年間、そういう仕事を誰がしていたんだ? 親戚が世話を焼いてくれてたっていうなら、これからもそいつ、ないしはそいつらに頼めばいいんじゃないか 」

 湯呑の中で揺れる、黒い液体を見ながら聞く。秀一がまともな料理を作れるとはとうてい思えなかった。

「一つ訂正を。父は失踪したのではありません。どこに行ったかは分かっています」

「それなら、呼び戻せばいいんじゃないか? 」

「愛人と異国に旅立った偏屈な発明家が、たかだか一人息子の頼みくらいで、帰ってくるとお思いですか? 手紙は何通か送りましたが、返事はゼロ。このテーブルにあった書置きに行先と『部屋のものは自由に使え』という短いメッセージが書き残していったっきりです」

 それを世間一般には失踪と呼ぶのではなかろうか。

「質問に答えます。面倒を見てくれたのは親戚ではありません。――声を大きくしては言えないのですが、書置きに『部屋のものは自由に使え』とあったものですから、せいぜい活用させてもらっています」

 私はここにきて、アルバムを手に入れるまでの経緯を振り返った。

「まさかとは思うが、こんなことをこの三年、繰り返してたって言うんじゃないよな? 」

 曖昧なほほえみが返ってきた。正気か?

「で、真柴さん、引き受けていただけますね? 拒否した場合は……お判りでしょう」

「後学のために覚えておくといい。君がやっているのは『お願い』なんて可愛いもんじゃない――脅迫だ」

 あはは、と無邪気な笑い声のあと、右手が差し出される。

「マッドサイエンティストと演技派悪女の子供ですから」

 犬歯がのぞく。私は小さく息を吐くと、

「一年間よろしく、ご主人様」

 兄として奮闘する、若い家主の手を取った。

「よろしくお願いします、コソ泥さん」

――取り敢えず、昼食はオムライスでも作ろうか。


***


「ましば、味噌汁」

 盛大に爆発した頭髪を気にする様子もなく、兎模様のパジャマを着た小百合がお椀を突き出した。

「自分でつぎな。ご飯もな」

 可愛くない子供にも旅はさせなければいけない。

「けち」

 唇を尖らせる小百合にお玉を渡してやる。

「真柴さん、レンジから嫌な音してるんですけど、何か仕込みました? 」

 既に制服姿に着替えた秀一が怪訝そうにこちらを見る。レンジの中で熱されている銀色の固形物を見て、慌ててあたため中止。

「確かに蓋をして暖めてくれといった。だがな」

 冷や汗をぬぐう。

「アルミホイルは電子レンジに入れると、発火する」

 大真面目な顔でふむふむと感心する秀一。

「トリビアですね」

「一般常識だ」

「ましば、できた」

 コンロが味噌汁で大いに汚れている。手近な布巾で拭こうとする小百合に注意を促す。

「熱いから後にしておけ」

「うん」

 従順で良いことだ。食卓を見ると、味噌汁と白飯、もろもろのおかずがそれぞれ三皿づつと、緑茶――昨日の夕方、ペットボトルを買って来たのだ――が二杯、オレンジジュースが一杯置かれている。

「僕は家で食べるからいいって言ったろ? 三等分するには少ないぞ」

 というが、小百合も秀一もそのまま席について、

「いただきます」

 食べ始めた。

「真柴さん、早く食べないと、出発の時間になってしまいますよ」

 確かにそろそろだ。

「ましば、たべよ」

 小百合が手招きする。……食べるしかなさそうだった。

「いただきます」

 なかなかに美味しい朝ごはんである。


「ほら、遅刻するから、さっさと乗って」

 朝食後、秀一に結んで貰ったおさげを上機嫌で揺らしながら、小百合が乗り込む。ランドセルが金属質な音を立てた。

「おねがいします」

 存外礼儀正しい。

「お願いします」

 秀一は助手席に。ドアが閉まるのを確認すると、

「お嬢さん、シートベルトはしましたか? 」

「はーい」

 少し遅れてカチャリと小気味いい音。嘘が下手だ。私はアクセルを踏んで、山道へとおんぼろの愛車を走らせる。街に出てすぐ――走っているのは件のファミレスの近くだ――小百合が「ねえ」と身を乗り出した。

「危ないからちゃんと座って――どうした? 」

「ましば、プリン買って」

「何個? 」

 おやつ用に、ということだろうか。

「三個。ましばと、さゆと、にいの分。エクセレンスの、濃厚卵プリンがいい」

しまった、安請け合いしすぎた。洋菓子屋、エクセレンスの豪華な外装を思い出しながら、「わかった。特別な」と返す。

「やったー! 」

 お嬢様はご満悦である。

「もう一つ、追加でお願いします」

 横から思いがけない声が聞こえた。

「誰が食べるんだ? 」

 カーブを曲がりつつ聞く。帰ってきた答えに、また舌を巻かされた。

「真柴さんにあのアルバムを持ってくるよう依頼した人に」

 後部座席ではしゃぐ小百合には聞こえないくらいの小さな声で、

「――母によろしく言っておいてください」



――写真の中で微笑む、若かりし頃の店主によく似た笑顔だった。

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