16. 一枚の新聞記事

16-1

 春と言っても雪はまだ多くが溶け残っており、街は仄白かった。左良井さんに向けて振った右手がまだ熱い。

 机の上のクリアファイルに入れられた一枚の小さな新聞記事の切れ端は、その角がいつの間にか千切れて丸くなっていた。何度も触れて見返したそれを、今日もまた指でなぞる。読んでも、読んでも、内容も事実も変わりはしない。紙面ばかりが皺によれて色褪せ、思い出は胸に押し寄せてきて深い皺を作る。

 見出しは太字の明朝体で、文字一つ一つの縦の線と横の線がはっきりとしている。左良井さんは右上がりの癖のある文字を書くから、縦と横の線はだいたい100度くらいをなしていた。だからこの記事の中の左良井という名字は、僕の知っている左良井さんとはまるで別人のもののようだった。

「……いってきます」

 僕はどこへ向かっていけばいいのだろう。

 僕の夢は、いつ覚めるんだろう。



 夜の街灯は月よりも明るく月よりも冷たい。それに照らされて夜道を歩く人々の顔色の、照らされる部分は眩しく反対側はあくまで闇に沈む。

 僕の左側でいつもつまらなそうに笑っていた左良井さん。僕が近づいて手をとると小さくうつむいてわずかに握り返してくれた左良井さん。小さな一歩を踏み出して僕の胸に小さな頭を委ねてくれた左良井さん。

 暗い夜道では一つ灯りさえ眩しい。照らされながら歩く僕の傍らに、今は誰もいない。

 試験に代わるレポート課題は今さっき提出してきた。僕はもう、大学三年生になろうとしている。半分すぎた学部生活。まだ半分なのか、もう半分なのかは、きっと人それぞれなのだろう。

「……急ごう」

 電車はいつまでも待ってはくれない。

「まだ……まだ半分だ」

 眩しすぎる街灯を嫌い、独り言を吐き捨て僕は歩調を速める。

 ピッと磁気カードを読み取って、改札が僕の通過を許す。定期の期限はあと数日残っているけど、きっと僕は使わない。次これを手にするときは、大学が始まる二ヶ月後だ。

 ……二ヶ月、か。

 二ヶ月が経てば、季節だって変わっている。大学のみんなに次会うころは桜の蕾も膨らんで、テレビなんかでは開花前線について報じられることだろう。

 分かっていた。僕の長期休暇に何の色彩もないことくらい、最初から。

 ファー、と汽笛を鳴らしながら、乗る予定の電車がホームに迫り来る。頭の上で点滅を繰り返す、切れかかったホームのランプが焦燥感を与えてくる。ガタンゴトンと線路と列車の間で鳴る音が心臓に突き刺さって痛い。

 電車を降りてからも夜道に並ぶ街頭に照らされることを考えると、憂鬱さに拍車がかかる。車窓の向こうの月の影に、あの人の顔を重ねた。世界が僕を孤独にする。浮かれていた僕を、ただ孤独にしていく。こうして僕は、自分への罰はまだ終わっていなかったことを否が応でも思い知る。

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