15-3
南の方で桜の開花が観測され始めたらしい。僕たちがいる場所まではまだ遠いかもしれないけれど、春が二人の間に迫ってきていた。親友にも恋人にもなれなかった僕らの別れに、添えられる花はなかった。
「予定の電車まであと一時間くらい……なにか話さない?」
でもこんな風に左良井さんから話を持ってきてくれるようになったのは、正直嬉しいことだった。僕らは川沿いの道に足を向ける。軽い足取りのまま、人気のあるようなないようなひっそりとしたビルと車の間の、駐車場の空いているスペースに到着する。
「今度ここに来るのは、いつになるかな」
繋いでいる僕の左手を、彼女がその両手に納めながら言った。
「さあ。それは左良井さん次第」
「……越路くんってたまに意地悪だよね」
どこか怒ったような口調だ。ため息混じりに彼女は続けた。
「もっと時間と心に余裕が出来たらいいのに。二人でのんびりするのもたまには悪くないわ」
彼女の言わんとすることは、聞かずとも明らかだった。今後こんな風に一緒に過ごすことは、お互いが強く望まない限り叶わない。
一抹の寂しさをここで分かち合っても仕方ない。建物の影に二人の身体が隠れるや否や彼女を壁際に追い詰め、驚きに揺らぐ彼女の表情で遊んだ。
「ちょっ……」
僕と左良井さん、二人だけの世界を夢とは呼ばない。今この瞬間だけが、僕と左良井さんだけにとっての現実だと思いたかった。
「二人きりになって、左良井さんは僕と何かしたいことでもある?」
これ以上近づくと触れてしまう、文字通りの至近距離。言葉を詰まらせたその困惑の表情に、期待が少なからず見え隠れするのがわかった。軽く弾む呼吸のリズムが鼓動に呼応する。彼女の照れ隠しそのものが、素直な反応として僕の目に、さらには耳に届く。
僕の視線に耐えかねたのか、彼女の方から目をそらされる。
「……恥ずかしい」
ト、と彼女の額が僕の胸に預けられた。小さな頭はホワリと熱を持っていて、頬は紅く染まっている。相対的に冷たい僕の手のひらがその桜色をくすぐると、慎ましい唇の両端がキュッと愛らしく上がる。それを隠すように彼女が再び、さっきよりも強く僕の胸に顔を埋めた。
「けど、ないことも、ない……」
そんな彼女の掠れた声を間近で聞いて、僕の理性はギクリとその機能を失いかける。彼女の柔らかい体の奥の鼓動を、触れている部分で感じていた。
そんな状態だったものだから、彼女の唇がふわりと僕の首筋に当てられたとき、思わず体が震えた。
「なんかいつもより素直だね、左良井さん?」
「言わないでよ」
お互いを求めあう引力で、自然と顔を見合わせる。相変わらず深い黒を湛える瞳は真っ直ぐで、僕の身体の深いところまで刺さっていくような気になる。
肌からの放熱を感じる。吐息は甘くて、あたたかい。唇はきっとリップクリームが薄く塗ってあるだけで、それなのに白い肌に映える綺麗なピンク色をしている。左良井さんは初めて見たときから、とても魅力的だ。
「左良井さんにそんなこと言われたら、しないわけにいかないな。左良井さんの見たことない顔が見たい」
この距離感でする会話が好きだ。話し声を、耳じゃなくて唇で聞くような距離感。彼女の表情のわずかな変化が、温もりと共に感じられる。
「別にそんな……っ」
しかし僕はそんな可愛らしい反駁も待たずに彼女の唇をふさぐ。触れるか触れないかの距離感を測るのは慣れたけど、そのむずむずした感触が生み出す気持ちの高まりにはたぶんいつまでも慣れられないんだと思う。それは彼女も同じようで、薄い皮膚の感覚は、反応をみる限り彼女の方が甘くて鋭い。唇だけの触れあいなのに、どうしてこんなにも全身が虜になるのかは、永遠の謎かもしれない。
一度顔を離すと、キラキラと濡れた瞳で見つめ返してくる彼女がいた。僕は今、彼女とキスしてたんだ——そう再認しただけで、背筋の下の方をすっと撫でられたような感覚に襲われる。
交わす言葉もなく、僕らは再び柔らかな快感を求めあう。
周りの肌とは違って艶やかで薄い下唇を舌でなぞると、一瞬ピクッとこわばったものの、すぐに彼女の小さい舌も応えてくれた。言葉の要らない、これもまた会話なのだと僕は理解した。彼女もまた、刻一刻と減っていく二人の時間が惜しいと強く訴えていた。
目をつむって、暗闇の中で彼女の中を探っている。濡れた唇はヒヤリとしていながらも敏感で、普段の状態ならくすぐったいと感じているだろうこの感触も、彼女の香りに包まれて全て快感へと変わる。
「左良井さんに会えるなら、」
夢の中では思い通りに動けない。でも今の僕は確かに僕の意思で動いている。
「僕はできる限りのこと全てしてでも、左良井さんに会いに行くよ」
キスの合間に彼女に投げつけた言葉の後、不意に唇が塩味になった。流れる涙の粒が彼女を息苦しくさせていたみたいで、唇を離して彼女に胸を貸す。僕はそのさらさらとした髪に絡まないようゆっくり指を通していた。不思議なほどに、時間が経過するのを感じない。もっと踏み込んだ言い方をするならば、〝今〟という一点を感じることしか出来なくなっているような気がした。
呼吸が落ち着いたのを見計らって指先で黒髪をかきわけると、薄くて白い耳を見つけた。
僕が感じているこの〝今〟さえも、左良井さんは夢だと言ってしまえるの?
「ひゃっ」
上の方に丸く張り出している耳殻を前歯で甘噛みすると、彼女は足下をふらつかせて吐息を漏らした。バランスをとるために、僕の服の生地をキュッと握りしめている。そこから耳たぶへと乾いた舌先で軽くなぞる。息を乱し膝を震わせて悶える彼女は僕から離れようとするが、後頭部を手で押さえてそれを制する。我慢していたらしい声のトーンが少し上がった。
僕はどうなりたいのだろう。僕はお互いに何を求めているのだろう。離れることをこれ程までに惜しく、切なくさせるのは、一体何なのだろう。そのまま耳たぶをやわやわと味わいながら、右手では腰とそのくびれを撫でた。薄いのに、柔らかみがある。この一枚下に、彼女そのものがある。手探りでブラウスの裾を探りだし、指先を差し込もうとしたその時。
「ね、ねえってば」
僕の胸を強く押す力で、二人の体は離れた。
「もう、電車が来ちゃう……」
その一言で、僕はようやく我に帰る。慌てて身なりを整え始めると、どちらからともなく吹き出して笑った。
駅までまた肩を並べて歩く。一歩歩みを進めるごとに、左良井さんの長い黒髪が空気に撫でられる。
「じゃまた。い……手紙、待ってるよ」
人が行き来する駅の近くで、「遺書を待ってる」などと口にはできなかった。僕から離れた彼女は、消え入るような声で「うん、待ってて」と呟いた。また抱き締めてあげたくなる、この時間がいとおしくも切ない。
「『できることなら何でもする』なんて、もう言わないで」
え? と聞き返す僕の右手をギュッと両手で包み込んで、左良井さんは続けて言った。
「嬉しいけど……悲しくなるから。何でもなんてできっこないんだから、そんなこと言わないで」
でも、嬉しかったよ、と僕の手の甲に唇を掠め、彼女はもう二度と振り返ることなく駅へと歩き始める。片手だけ振って、もう送らなくて結構、のサイン。
遠ざかる彼女は、なぜかはわからないけれど、一回り小さく見えた。
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