12. 仲良し三人組

12-1

 ともすると、今自分がどこにいるのか分からないような錯覚にさえ襲われる。下痢を起こしているわけじゃないから、変なものを食べたとかそういうのではなさそうだ。ただひたすらに腹部が痛い。嘔吐感もする。というか、さっきトイレで吐いた。朝食に苦労して食べたバナナが、見るも無惨な形になって悪臭を伴いながら出てきた。

 もちろん大学には出席できず、考えることの次元も普段とは比べ物にならないレベルにまで落ちていく。布団が吸ってくれる汗の量にも限界があるんだな、とか、こんなに布団をかぶっても体が冷えるのはこの汗のせいだなとか、そんなことばかりを一つずつ確かめるようにしか考えられないのだ。頭は熱くぼうっとしているのに、体は芯の当たりに氷水が流れているような感じ。着ているものも布団もじっとりと湿気を含み、僕の体は純粋な不快感に包まれる。

 ぽっかりとした一人暮らしの部屋に、僕が求められる救いなど何一つあるわけがなかった。腹痛と嘔吐感に喘ぐ僕の声が虚しく空中を漂う。仰向けになりうつぶせになり、右向きになり左向きになり、体が一番楽になる姿勢を探し続けて数時間。楽が見つかるどころか残りわずかなエネルギーがどんどん消費されて体はさらに重くなるばかりだ。眠りにつこうとも痛みがそれを邪魔する。体力の無い体は、それを回復させる術さえ失っていた。

(考えよう。くだらないことを考えるんだ)

 無視できない痛みから、少しでも意識をそらしたかった。普段寝ているように右側に体をねじると、腸のあたりが悲鳴を上げた。

 くだらない話なんてお手の物じゃないか。その要領でいいんだ。いっそ、思い出すだけでもいい。

 思い出せ、なんでもいいから。深呼吸をしながら……。

「……さらい、さん」

 僕の口から発音された彼女の名前は、今この部屋で何の響きも、意味も持たない。

「左良井、さん……」

 呼んだって彼女は来ない。こんな弱々しい声では、たとえ同室にいたとしても聞こえないかもしれない。僕は今まで何度この名前を口にしただろう。こう呼べば彼女が横顔を見せてくれていた。その日々を体がはっきりと覚えてしまっている。

「さらいさん」

 どうしたらこの痛みは引いてくれるのだろう。もう何時間、寝汗で布団を濡らしながら寝転んでいるというのだろう。どうしたらこの気持ちははっきりと形に、言葉になるのだろう。あと何回、僕の中の彼女の頬を熱い涙で濡らさなければならないのだろう。

 本当に思い慕っている人に、僕の好意が伝わらない。

 僕はただ一人、あの人だけに愛されたいのに。

「左良井さん……」

 また一人、僕の大切な人が傷ついていく。

 どうしたら、あの頃に戻れるのだろう。



 インターホンが鳴らされる。ここに住んでから三人目の来訪者だ。

「死にそうな顔してんな……。なんか食えそうなものでもあるか?」

「永田……悪いな」

「まあしゃべんなって。寝てろ寝てろ」

 永田、といつものように呼んだ。振り返る永田の表情はやはり、いつもどおりだった。無駄な世間話なんてもう要らない、僕は永田の背中に問いかけた。

「人を傷つけた人が全員、裁かれると思うか」

 はあ? と永田は振り返らずに聞き返す。

「……傷つけるの意味が広すぎ。いちいち裁いてたらお前の腹ン中の細菌まで裁判所に呼ばれることになるぞ」

「細菌は人じゃない」

「例え話だよ」

 僕が何を話そうとしているか知らないくせに、気を遣ってくれているのだろう。

 でも、僕は話したい。

「僕は、人を殺したことがある」

 レジ袋からあれこれと取り出す手を止めた永田は、返す言葉を探しているようだった。僕はそれを待たずに言う。

「法律の上で僕は裁かれることはない。でも、どう考えてもやっぱり、彼女を殺したのは僕なんだ」

 ごくり、唾を飲む音が聞こえた。

「……そこに小包があるだろ。開けてくれないか」

「え、俺が?」

「頼む。中身は開けなくても分かってる。でもどうしても自分じゃ開けられないんだ。はさみは机の上」

 じょきじょき、と封が開けられる。一年以上前の空気に混ざってバサバサと出てきたのは、写真の束だった。永田がまじまじとそれらを見て、ああ、と嘆息をついた。

「仲良し三人組、ってとこか」

 あの日から今まで僕は僕の過去を拒み続けていた。でも、拒み続けるにはあまりに重い思い出だ。

 あの頃のことを思い出すのに、この部屋は十分静かだった。

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