11-4

 異常気象が毎年のように天候の記録を塗り替えていく。不穏な時代に僕たちは生きている。

 大学付近に今日、十年に一度レベルの大型台風が接近した。窓に向かって降りしきる大雨は半透明なカーテンのようで、その向こうから雷鳴とともに眩しい稲光が何度も部屋を照らした。雷は否が応でもカメラが発するフラッシュを思い起こさせるから、あまり好きじゃない。

「はい、どうぞ」

「ありがと……」

 色気のない我が家のマグカップは、可那子さんの小さな手に不釣り合いだった。この悪天候の中、わざわざ僕の部屋に来たがった可那子さんの真意が掴めない。ただその言いにくそうな重たげなまなざしを玄関で見た時から、覚悟はしていた。

「謙太くんは、本当に私のこと好き?」

 『僕は好意が怖くてたまらない』——いつ誰にそんな弱音を吐いただろうか。他人の好意に恐れ戦く僕が、誰かのことを好きになることなんて。

「なんでそんな」

「お願い、答えて」

 誰かを好きになる、それがどういうことかさえはっきりと分かる人なんていないんじゃないかと思う。

「好き、だよ」

「まーちゃんと、どっちが好き?」

 息継ぎも許すまじと投げかけられる質問。可那子さんは僕と目を合わせてくれない。可那子さんと左良井さんの話をすることなんてほとんどなかった。

「なんで」

「なんでって……私に聞くの?」

 うつむきながらクシャ、と無理やり笑う表情は、その端からびりびりと破れてはがれてしまいそうに薄く感じた。

「綺麗だし、頭いいし、謙太くんと空気が似てるっていうか……一年の最初の時から話が合うみたいだったよね。

 謙太くんに可愛いって言われたときからね、私、謙太くんと仲良くなりたくて仕方なかった。でもどうしていいか分からなくて、最初の頃はよくまーちゃんに相談しにいったりしてたの。いつもどこで勉強してるとか、携帯はスマートフォンじゃないこととか……いろいろ、教えてもらった」

 私よりもずっと先に、いろいろ、知ってた。可那子さんはそう呟いて寂しそうに笑った。

 なんで突然そんな話をするのか、可那子さんはどうしたいのか。僕は分からずただ話を聞いていた。

「飲み会のときも、バーベキューのときも、バレンタインの日も、謙太くんはまーちゃんと話してた。何もない日だって謙太くんはまーちゃんのことを目で追ってたよ。二人が話してると、二人の世界ができるっていうか……誰も入ってこれない二人だけの空気ができるのが、わかるの。それが羨ましかった……」

 バーベキュー。海岸で左良井さんと話をした日だ。恋人と別れたって、打ち明けられた日。そして二人で夜の海ではしゃいだ日。

「謙太くんがまーちゃんを見る目が、日に日に切なくなっていくの。話したくて、近くにいきたくて、でもそれを堪えているような顔をするの。私はそれを隣で見るの。見て見ぬ振りをして、今度のデートの話とかを謙太くんにするの。

 それって結構、つらいの」

 一際大きい雷鳴が街一帯をびりびりと襲う。しかし可那子さんの訴える何もかもはそれに掻き消されることなく僕に伝わってきた。

 僕と一緒にいることが辛いだなんて、可那子さんがそんなそぶりを一度だって僕に見せたことがあっただろうか。彼女はいつも僕の傍で幸せそうに笑ってくれた。僕はその笑顔に何度救われたか分からない。

「付き合う前さ、夜、一緒に帰ったことあったよね? ……『嘘』について話した日。

 あの日まーちゃんが私たちのことを見かけてたの。私はまーちゃんと目が合ったの」

 初めて聞く情報だ。僕は思わず顔を上げて可那子さんの方を見る。それに併せたように可那子さんは僕から目を逸らす。

 怖い、でも、その先が知りたい。

「すごく驚いたような顔してたの。そして悲しそうで、辛そうな顔をしてたの。

 それを見て私、少しだけ嬉しいって思ったの。私、そんなまーちゃんに……笑って返したの」

『特別は、ただ一つだけの事を言うのよ。うそつき。』

『私は越路くんのその顔しか知らない。だから私は特別じゃないわね』

(ああ、そういうことだったのか)

 ずっと気になっていた『嘘つき』という言葉。左良井さんは夜二人で話す僕たちを見て、夜二人で帰る僕たちを見て、特別だと思い込んだのだろうか。その時の僕が可那子さんに話しかける表情が、何か特別なものに見えてしまったのだろうか。 そうしている間に僕達は恋人同士になってしまった。

 ……そう推察することは、僕の思い上がりなのだろうか。

「最初は好きな人の近くにいられるだけで嬉しかった。謙太くんと初めてキスした日も、謙太くんから抱きしめてくれた日も、勇気出してよかったなって思った。

 でも……私がわがままだからかな?

 近くにいるはずなのに、謙太くんとの距離は最初から全然変わらない」

 なぜ突然こんな話を?

 この疑問を抱くことが間違っていたようだと僕は悟る。これは全く突然なんかじゃない。可那子さんのゴロゴロとした思いは、ずっと前から少しずつ積もっていたんだ。それを今日、開放しにきただけなんだ。

 だけ——そんな風に言うのはきっと無礼極まりないのだろうけれど。

「ああ、私は謙太くんの邪魔してるだけだなって思った。私はもう十分楽しかったなって」

 そんなことない、と叫んだのも心の中までだった。

 可那子さんの笑顔でいくら癒されたか分からない。可那子さんの料理で何度心を満たしたか分からない。でも今しがた可那子さんが話してくれたように、左良井さんを思う僕の気持ちは真実であり、そこに否定の余地などない。

 彼女は自分の口で、その瞬間を言おうとしている。

 それを止めるのが正解なのか?

 何も言わずに受け入れるのが正解なのだろうか?

「謙太くん、優しいんだもん。私から言わなきゃきっと、ずっとこのままなんでしょう?」

 膝で器用に歩きながら僕に近づき、僕の髪を壊れ物のように優しく扱う可那子さん。僕のまぶたをそっと撫で、僕は目をつむることを強いられた。

「楽しかったよ、すごく。これは本当」

 声も、指先も震えてる。唇の温もりを僕のまぶたに残して、気配はゆっくりと僕から離れていく。

「僕も、楽しかった」

 彼女の笑顔をずっと近くで見ている事が出来たのに、

「……バイバイ、謙太くん」

 最後に彼女の涙を拭ってあげる事は叶わなかった。

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