11-3
「聞きたいなら、聞きに来ればいい」
咲間さんのそのセリフは、僕にとって不穏な響きしか持っていなかった。咲間さんは僕と対面するまで本題をちっとも教えてはくれない上に、こんな風に呼び出すときはいつも左良井さんに関わることに他ならない。だから会わないわけにいかないのだ。
(つまり、『僕は呼び出されたら咲間さんに会わずにはいられない』ってわけだけど……)
指定された講義室はいつもの場所。咲間さんは先に待っていて、装飾品も何もないつるりとした携帯電話から目をあげたところだった。
「また、何かあった?」
ダメージジーンズの隙間から覗く白くて細い膝小僧から目を逸らしながら僕は口早に尋ねた。真っ赤な唇は早速歪み、僕はとりあえずバツの悪い顔をしておく。
正直、左良井さんが関わると分かっているだけに、気が気じゃないのだ。左良井さんはもう十分に傷ついた。僕に心を寄せてしまったがために好きな人とも別れ、僕の思いの至らなさに疲れていつの間にか疎遠になってしまった左良井さん。もうこれ以上何が彼女を傷つけるんだろうと思うと、僕が関わらなければいいのだと思ってこうして過ごしてきた。僕から離れた左良井さんは、だからもう、傷つかなくていいはずなのだ。
僕だって、彼女のためになにかできるなら何でもしたい。でもその全てが裏目に出る。それが僕の人格も関わってくる問題であるから始末に追えない。
「あったよ……なかなか最低な事態がね」
文庫本の表紙を閉じて腕を組む咲間さんのいつもの体勢には、しかしながらどこか落ち着きがない。
「もしかして……」
昨夜の出来事を思い出して言葉がつまる。それでも僕には「もしかして」の先が分からないのだ。
「なに、思い当たる節がありすぎて分からない?」
平常よりさらに強くなる咲間さんの語気に、少し怯んだ。
「自称『越路謙太の未来の彼女』が真依に近づいてきたんだけど、どういうことなの」
それだけで話が掴めるはずもなく、僕は咲間さんに詳細を求めた。丁寧にまとまった話を聞いて、咲間さんはこの事態があったときからもう僕に報告するつもりだったのではと思った。
つまりは、こういうことがあったのだという。
***
「あなた、左良井さん?」
自分の知らない人が声をかけてきたことに、左良井さんはとても驚いたらしい。自分から話しかけることも稀な左良井さんに、声をかける他人はそういない。
「……はい」
そして何より、左良井さんを呼び止めた彼女の美しさが、左良井さんを一番戸惑わせた。
「わたし、あなたと同じ学科の三年の松山綠です。初めまして、学部棟ではすれ違ってるかもね」
先輩だ。僕に勝手な理想を抱き、昨夜告白して、少しもめてしまったものの僕は彼女の気持ちを丁重に断った。
「すみません、人の名前と顔、覚えるのが苦手なんです。……なにかご用でしょうか」
自分の知らない人が自分の名前を知っていて、声をかけられる。左良井さんは身に覚えのない不安感を感じていたらしい。
「ね、あなたって謙ちゃんと仲いいんでしょう?」
先輩はあくまでも可愛らしく、秘密を打ち明けるようなトーンで訊ねたらしい。しかし僕の名前を聞いただけで、左良井さんは動揺を隠せない。
「謙ちゃんって今、彼女いるの?」
よりにもよってその質問を浴びるだなんて驚いたことだろう。少し胸が痛む。
硬い表情で、唇だけを引き上げて笑顔を作る左良井さん。
「さあ……私、別に、越路くんと仲いいわけじゃないので」
詰め寄る先輩からは、上品な甘い香りがしたかもしれない。
「本当? でもあなたたちが一緒に歩いてるところ、わたし何回も見たことあるよ。付き合ってるんじゃないの?」
わななく唇に気付いても、その形の愛らしさにはきっと先輩は気づかなかったに違いない。
「付き合ってなんか、いません」
「ふうん……じゃあ、わたしが謙ちゃんと付き合っても、誰も邪魔する人はいないんだねっ! よかったあ〜」
その時の先輩の表情は実にあどけなく幸せそうだったと、咲間さんは話す。
「ね、ね、謙ちゃんって他の女の子とどんな話してるの? 恋の話とか、したことある?」
近くの椅子に腰を落ち着けてからというもの、先輩の質問は止むことを知らない勢いだったそうだ。
「他愛ないこと……ばかりですよ」
質問のせいで、僕の日々を思い出さずにはいられない左良井さんを見かねて、咲間さんが声をかけようとする。
「あの、私たちこれから用があって……」
一つ歳が違うというだけで、先輩は咲間さんの話を当然のように遮った。
「わたし、謙ちゃんとたくさん話してね、彼がどんな人でどういう考えを持ってるのか、結構色々教えてもらってさ」
左良井さんのことをもっと知っていたなら、先輩だってそんなこと言わなかっただろうに。先輩の口調はどこか夢心地で、口を挟むのが忍びないほどだったそうだ。
「わたしのこともたくさん知ってもらった。この前少し真面目な話もして、きっとわたし、受け入れてもらえるって確信した。
もう、言わないではいられないの。本当に本当に、わたし、謙ちゃんが好き」
ほら、と先輩が携帯を開いて見せた画面は、塵が積もったような僕とのやりとりの履歴だった。
「わたしにとってかけがえのない時間が、ここにこんなに詰まってる。それがわたしの中で溢れはじめて苦しいの。もっと近くにいたい。もっと深いところまで知ってほしいって思ったら……」
携帯を閉じて、これ以上ない優しさのこもった手つきでそれをそっと撫でていたという。
「謙ちゃんの隣に、もっといたいの。メールなんかじゃなくて、もっと近くてあたたかい距離であの人を見ていたい」
もっとも驚くべきことに先輩は、そのセリフと同時に大きくて透明な涙の粒を次々と流し始めたのだ。雫に濡れた薔薇のように美しい顔を左良井さんに真っ直ぐに向けて。
重く動かない空気を震わせた左良井さんの声もまた、重いものだった。
「……先輩の気持ちはよくわかりました。そこまで強く思っている上に、ちゃんとした繋がりが保てているなら、きっとうまくいきます」
この言葉を聞いた時の先輩の輝く笑顔。わざわざ言葉で形容しようとしなくても目に浮かぶ。
「わたしに聞かなくても、よかったじゃないですか。そういうのを、相思相愛って言うんですよ」
左良井さんの口が、やけに流暢に動く。
「彼はなんの掴み所もないような風貌ですが、誰よりも『考える』人です。感じることができない自分を知ってるから、その分彼は考えるんです。それは紛れもなく彼の優しさだし、それは紛れもなく……」
あの表情の変化の乏しい左良井さんが、誰もがはっとするほどに爽やかな笑顔を見せたのだそうだ。
「紛れもない、彼の努力です」
僕はこの話の中で唯一、その言葉を左良井さんが口にしたことだけを信じることができなかった。
***
咲間さんにその出来事の日付を聞いた。先輩の告白の、前日のことだっだそうだ。
「『では、お幸せに』——そう言って、真依は自分から席を立った。それから全然、口聞いてくれなくて大変だった」
シン、と静かな講義室で、僕の座る椅子がギシリと軋んだ。
「……ま、口聞いてくれなかったというよりも、真依が言葉を忘れたって感じだったかな。ともあれ、見ていられなかった。あのときほど君に介入してほしかったと思ったことはないよ」
それは、面白い言い回しだ。
「へぇ、咲間さんでも僕に頼りたくなる瞬間があるとはね」
面白くなさそうに笑う咲間さんの表情を、僕は何度見たことだろう。
「君なら、どうにかしちゃうんだろうからね。……綠さん? のことも傷つけずにうやむやにしてしまえそう」
これは、勿体ないお言葉、と受け止めるべきなのだろうか。それとも咲間さんにしては珍しいジョークと受け取るべきなのだろうか。
「あたしなんて最初から話に入れてもらえなかった。あの人は、確実に真依を狙って話しかけたのよ。その狙いが何なのかは……あんまり考えたくない」
「……泣かなかったかな、左良井さん」
僕は人の気持ちが分からない。でも、それでも。
「泣いていたなら、謝っておいてほしい」
左良井さんが傷ついたかどうかだけは、気になるようになったんだ。
「僕は先輩とは何もない。確かに連絡のやり取りは最近頻繁だったかも知れないけど、僕から話しかけたことは一度もないし先輩の思い込みが激しかっただけだ」
きっと僕の言葉はもう、左良井さんに直接届くことはないのだろう。これはただの……言い訳だ。
「あたしの口から言ったってしょうがないの。今のセリフ、聞かなかったことにするよ」
ああ、そうだ。咲間さんはそういう人だ。
「君の身から出た錆とはいえ、傷つくのはいつも真依。君の気持ちも最近は分かるようになってきたかなと思えてきたのに、その途端これでしょ。もう、やってらんない」
僕の口からでさえ届かない僕の言葉を、どうしたら一番届けたい人に届けることができるんだろう。
「何のためにあたしがこの話を君にしたのか、君だけの力で分かってもらうまでは、あたしは君らのキューピッドになんか絶対ならないから」
僕の前を去る咲間さんのそっけなさは感動を覚えるほどにいつも通りで、僕と左良井さんはいつまでもこのままなんじゃないかと思った。
僕に関わった人が、僕を離れて壊れていく。そんな景色は今までも何度か見てきたけれど、今の僕を責める人はやはりどこにもいない。
今はただ、そのことが一番辛かった。
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