11-2
本文を読む前に、シャワーを浴びた。熱湯と冷水の蛇口しかないこの安い部屋にも住み慣れて、シャワーのお湯と水のバランスはもう覚えたつもりだったのに、いつもより水温を冷たく感じる。
『謙ちゃん、わたしね』
重い指先でようやくメールを開く。いつか、どこかで見たことのある切り出しだと思った。そして僕は手遅れを悟る。
『謙ちゃんに、浮気しちゃった』
続く彼女の言葉に僕は、携帯を一度閉じた。
『彼氏がいたんだけどね……別れてきた。わたしと、付き合ってくれるかな』
返信を考えているうちに、時計の長針は一周半回っていた。しかし、いくら考えても、彼女を傷つけずに済む方法は思い浮かばない。結局、こう返すしかない。
『申し訳ありませんが、ご期待には添えられません』
「お気持ちは嬉しいですが、」っていうのが決まり文句なのかもしれないけど、今の僕は嘘でも嬉しいと言うことだけは避けたかった。嘘をつけないなら、言わないでいればいい。
いつもより遅い返信が届く。その遅さが不安を増幅させる。震え続ける携帯を開くと、その文面で僕は鳥肌を立てた。
『なんで断るの? 今、彼女いないんでしょ。
あ、もしかして幸せにすることが出来ないって思ってる? それなら大丈夫! わたし、謙ちゃんと付き合えるならどんなことも幸せだと思えるよ!
……それとも、私が浮気して謙ちゃんを好きになったからかな? でも謙ちゃんは浮気したとか気にしないって言ってたじゃない。今更よ(笑)』
百グラムそこそこの携帯を支える手が震える。違う、違う、彼女に伝えた僕の考えの何もかもが違う。
『浮気を推奨するような発言なんてひとつもしてないはずです。
先輩が僕の発言をどう解釈したかはともかく、付き合えません。それが僕の返事です』
底知れぬ恐怖はあっても、左良井さんを部屋に呼んで追い出した日のような心の痛みはなかった。あの心の痛みはやはり左良井さんと対面していたあの日だけのものなのか。
『謙ちゃんだけだったんだよ、あたしの話、真剣に聞いてくれて真剣に答えてくれた人。謙ちゃんがあんなに親身になってくれたから、あたし、てっきり……。』
(ああ、始まった……)
そうやって引き留めようとする行為に、次第に頭の奥が冷えていく。美しくないと、ただその言葉の通り思った。
『好きな人がいないならどうして断るの? 私、わかんないよ。
恋愛話だって、いっぱいしたじゃない。思い上がりくらい、しちゃうよ?
やっぱり好きな人いるんじゃないの? いるのなら、最初からそう言ってくれれば良かったのに』
メールの文字は、涙で滲んだりしない。震えで歪んだりも、高ぶったりもしない。彼女がどんな表情で何を思っているかを想像できるほど僕は彼女を知らない。彼女だってそのはずなんだ。彼女は少し思い込みが激しすぎる。
僕は脆い危なさを本能的な部分で感じていた。
『社交的な好意を、勘違いしてもらっては困ります。
今すぐ彼氏さんに謝ってみては?』
分かってる、そんなことできるはずがないと。でも僕は彼女を傷つけただろうから。その傷はきっと、僕では癒すことが出来ないだろうから。それは僕にただ一つ残された救済だったと思った。
しかし淡い期待は、裏切られるためにあるものだと知る。
『そんなこと、できるわけないでしょ。自分の気持ちが揺らいだから別れてって言ったのに、どうして戻れるのよ。
謙ちゃんの考えに憧れて、みんなが謙ちゃんみたいな考え方を持っていればいいのに、とも思った。でも、当たり前だけど、やっぱりそんなことあり得ないのよ。
謙ちゃんの良さは謙ちゃんしか持ってないの。その良さに、わたしは惹かれちゃったの。
それにもうわたし、』
この先は読みたくなかった。
『謙ちゃん以外の人を好きになるなんて、考えられない』
先輩が、綺麗で大きな目を腫らしている様子が見えた気がした。左良井さんが涙するのを目前にした時とは全く違う、それは心の動かされない風景だった。何故僕の心は動かないのか、それに対する僕の答えはこれに限る。
「だって……僕は何も悪くない」
携帯を放り出し、毛布を被って繰り返す。僕は悪くない。僕は悪くない。僕は……。
——私がこんなに歪んじゃったら、ケンは私を嫌いになっちゃうかもしれないでしょ?
懐かしい声は、部屋の隅から僕のことを懐かしい呼び方で呼び、そして責め立てた。
——やっぱり、あの頃が一番楽しかったよ。
僕は悪くない。僕は悪くない。僕は悪くない。
——もう会いにきてほしくないと、本人が言ってるんです。
「好き」なんていう気持ちを、どうして人は簡単に求め、信じてしまえるのだろう。その感情が生み出すものを、僕はいつまでも肯定できずにあの日から今日までを生きてきた。
(だから、左良井さんを傷つけてるのか)
僕にとって「好き」は悪夢を象徴する言葉。だから僕は、左良井さんと左良井さん対する僕自身の気持ちを受け入れられなかった。
『変なこと言ってごめんね。おやすみ』という返事が深夜二時頃に来ていたことを知ったのは、霞んで消えてしまいたくなる程に気だるい翌朝になってからだった。
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