10-4

 過去問の一件から、先輩とのやり取りは絶えなかった。

 彼女はどんな些細な出来事も、小さな電波に乗せて僕に報告してきた。いつしか零時からの小一時間は過ぎ去った一日の報告会と化し、その報告会は次第に日常化した。もちろん、僕からメールをしたことなんかただの一度もない。

 だいたいは僕が彼女の話を聞いて終わりになるが、話題の比較的少ない日は、彼女が僕にとめどない質問を浴びせることになる。僕にとっては質問に答えるだけの、頭を使わない作業だ。

『謙ちゃんって、誰かと付き合ったことないの? 絶対あるでしょ』

 いつしか「こっちの方が可愛い」という彼女の論理のもと、僕は〝謙ちゃん〟と呼ばれるようになった。それに、『絶対』などという断定的な言い方は好きじゃない。『何か根拠でも?』とでも聞けばいいんだろうけど、経験則からいって、それは根拠のない直感にすぎないのだろう。聞くだけ野暮だ。

 本当のことを言っても話がこじれて面倒だし、彼女がそれを話すほどの対象ではないのは何よりも自明だ。今までの処世で僕は、嘘はつかず真実を隠す方法を身に付けた。彼女の質問を過去形だと解釈し、僕は過去のことに関する答えを出す。

『いい出会いがあれば、良かったんですけどね』

 僕の短い返信に、彼女が気後れを見せたことは一度もない。彼女は彼女のペースを乱さない。

『へぇ、意外。それにしては、女の子に対しての対応に慣れてるよね。

 これから、作る気もない?』

 僕が女子に慣れている、というのは違う気がする。僕はただ、男女の区別や特別とそうでないものとを区別する線が、他の人たちよりも薄いってだけなんだと思う。実際、僕が今女の子として意識しているのは左良井さんと可那子さんくらいだし、たぶん彼女の言う『慣れた反応』というのは、親しみでなくただの無関心だ。嫌われるのは損だし仲良くしていれば損なことはない。

 しかしそれを説明したところで先入観にまみれた彼女には何も伝わるまい。僕は、伝わらないことは努力してまで伝える必要はないと思う主義なのだ。

『誰かを幸せにするなんて、僕には荷が重いみたいです』

 誰かを幸せにする。誰かから幸せを享受する。原理は単純なギブアンドテイクで、与えられない者に幸せはない。

『じゃあ、今からの話は全て〝もしも〟の話。ちょっと聞いてもいい?』

 そのすぐ後の文章に、その〝もしも〟はあった。質問を繋げるのに、どうしてわざわざ『いい?』などと聞くのかと僕は呆れながら続きを読む。

『もし謙ちゃんに彼女がいたとして、その彼女が浮気してるって知ったら、どう思う? 彼女になんて言ってあげる? 

 ……何も言わないのは、ナシね』

 好きとか嫌いとか、幸せとか不幸とか。そんな話をしていると波の音とともに呼び覚まされる一つの記憶がある。左良井さんの声が懐かしい。

『そんなことをするような人間が、あなたに好かれるなんて、そんなことあっちゃいけないって思ったの』

 あまり時間をかけると、真剣になってると思われかねない。たかが彼女との話で真剣になるのは、少し癪だった。

『早く僕から離れればいいと思います。迷うことなんて何もない、僕は何も思わないから。……そう言ってあげると思いますね。

 まあ、浮気をどう定義するかにもよりますけど』

 これに対する先輩の返信は、やはり速かった。つまりいつも通りの反応だ。

『本当に、本当に何も思わない? だってそれ、お互いに好きでいることの約束に対する裏切り行為じゃない。約束っていうか、契約?

 約束とか以前に、相手の思う気持ちに対する裏切りでもあるわけだから、そんな簡単に許すべきじゃないんじゃない? 

 ……と、わたしは思います(笑)』

 対面していないことを差し引いても、こんな強い発言は以外だと思った。

 嫌われるのは確かに面倒だが、何とも思っていない人に好かれる方がもっと面倒なんだよな……。そうと頭では分かっていながらも、未だに後者の対処法を知らない僕は、ただ嘘をつかないことに神経を使った。

『僕は、僕が出来る精一杯のことを常々彼女にしてあげたいです。希望があるなら出来る限り応えてあげたいし、それで彼女が幸せになれるなら、それなりの努力も惜しまないつもりではいます。

 それでも彼女の気持ちが僕でない人の方に向いたなら、それは僕の努力か魅力の少なくともどちらかが足りなかったんだと判断しますね。そのことで彼女を責められる理由なんてどこにもありません。』

 そうだ、左良井さんに非なんてどこにもなかった。僕自身が彼女の隣にいる人間として相応しくなかっただけなんだ。

『無理して僕に付き合っているのなら、一日でも早く解放させてあげたいと考えます。だから、早く僕から離れることを勧める。

 ……と、僕は思います(笑)』

 そう、左良井さんがそれを求めたのだから僕はそれに従ったまで。彼女の求めることに僕が反対したところで、お互いが辛くなるだけだろう。

『それに、付き合うことは約束でも契約でもないでしょう。付き合うっていうのは、継続的な意思確認をするだけで繋がれる関係のことだと思いますから。それが一度でも切れれば、それはもう終わったことだと思っていいでしょうね』

 好かれることも嫌われることも、僕の出来る限りの範疇を超えた話だ。僕の意思などそっちのけで僕は勝手に好かれ、勝手に嫌われる。だから僕は僕のままでいる。ありのままの僕なら、好かれようが嫌われようが仕方ないから。

 ……それにしても少し、文章が長すぎたかもしれない。改行や空行をなるべく減らして、最後にこう付け足して送信する。

『どうです、幻滅でもしました?』

 今日は話しすぎかもしれない。いつもよりも夜が深まり、僕はもう目の疲れと眠気に身を委ねる気でいた。

 意識を完全に失う寸前に、僕の耳が携帯の震える音を聞いた。今日最後の彼女の返信だ。

『ううん……』

 やけに改行の多い返信だ。いちいちスクロールするのが面倒じゃないか。

『謙ちゃん、わたしね』

 内容よりもこの行間に込められているであろう何かを、僕は目を瞑って見ないふりをした。

『謙ちゃんのことが、余計好きになりそうだよ』

 僕は返す言葉を失って、そのまま眠りに落ちてしまったことにした。

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