10-3
講義終了まであと十分を切った。この講義室の木製の椅子は見た目にはおしゃれだが、座ってみると背もたれの曲線がやけに腰を刺激してものの数十分で腰痛が走る。眠気覚ましなると言えば聞こえが良いが、あと何回この椅子で講義を受けなければならないのだろうと考えただけで腰がだるくなる。
『窓側の後ろから4番目の机にいます。紺色の長袖シャツを着ているのが僕です』
どんな人が声をかけてくるのか、興味がないと言ったら嘘になるが、限りなくどうでもいいことであることは間違いなかった。ただ、顔と名前は記憶の中で一致していた方が余計な思考をしなくて済む。
「越路謙太くん……かな?」
「では今日の講義はここまで」という教授の合図のすぐ後にかけられたその声は、透き通るようなソプラノ。ちょん、とつつかれた肩越しに振り返った視線の先にいたのは、華やかさと気品を足して二で割ったような女性だった。
「……ども」
「ふふ。どーも、こんにちは。松山です」
こんな人と関わるのは、後にも先にも数えるほどしかないんだろうなあ、とぼうっとしながら考える。僕や左良井さんとは対極にある、「陰」に対する「陽」な人、それが今目の前にいる女性に対する第一印象だった。
「はい、過去問。コピーだから、あげちゃうね」
パッと輝く笑顔は、顔全体で表現された〝好感〟だった。僕みたいにそもそも感情の起伏が乏しい奴は論外としても、左良井さんはこうは笑わない。口許をきゅっと引き上げるだけのあの表情を、僕は〝好感〟だと思っていた節があったようだ。
「コピーまで。ご親切にありがとうございます」
「やだあ、越路くんお固いなあ」
はい、プリントを差し出す彼女の腕に目がいく。パステルカラーのワンピースの袖は、手首に向かって緩やかに広がり七分で切れていた。覗く白い手首が細い。きっと、左良井さんに劣らない細さだ。
「いえ、大したことで」
「次の講義まで時間あるんだ。ここ、いい?」
僕の言葉を遮り、「いい?」と聞きながらもう椅子を引いている。
「……どぞ」
そして実は、この人のことをどこかで見たことがあるような気もしていた。
(そりゃそうか、アドレス交換したんだからな)
些細な思い違いを頭の中からかき消して、彼女のとりとめもない話に小一時間ほど付き合うことになる。
「ていうかさ、越路くん、あたしのこと覚えてた?」
「……すみません、正直覚えてませんでした」
「だよね〜。あ、謝らなくていいよ。あたしもグデングデンに酔ってたし!」
あはは、と高い声で笑いながらスマートフォンを操作している。予想通り、指の動きが早い。
グデングデンにって……もしかして。
「もしかして永田の膝で眠っちゃった先輩ですか」
「永田……名前はわからないけど、金髪の子ね? そうそう」
ちょっとイケメンの、と、先輩は嬉しそうに含み笑いした。目の前の彼女とあの人が同一人物だと思えと言われても、少し難しい。アルコールは怖いなあとしみじみ思ったりする。それを意に介していないような目の前の彼女にも少々の驚きを感じる。
それでも、と僕は腑に落ちない。
もっと違う、どこか別の場所で見かけたような気が……。
『あんな風に胸を張って歩ける人だったら、越路くんに嫌われずに済んだのかしら?』
「あっ」
脳裏に走った電気のような衝撃に思わず声が出る。あの日、左良井さんと目で追いかけた綺麗な人。
「どうしたの?」
胸を張って凛と歩いていたあの人が、今目の前にいる女性に重なる。
「いえ、少し思い出したことがあって。大したことではありません」
あの時は「嫌われずに済んだ」という言葉にばかり気をとられていたから、思い出すのに時間がかかってしまったんだろう。見たことある、という僕のおぼろげな印象はやはり間違いではなかった。
(懐かしいな……)
薔薇の花のように美しい女の人と一対一で話している今この間、僕は百合の花のような左良井さんを思い出す。
可那子さんとお付き合いするようになってから、左良井さんと言葉を交わしたのはあの海辺のバーベキューの日だけだ。学科内で付き合うということになれば言いふらす気はなくても噂は広まり、それを乗り越えれば暗黙の了解とばかりになって誰にも何も言われなくなった。僕も可那子さんもそんなに派手な人間性じゃないからだろう。
「わ、もうこんな時間! また連絡するね、じゃあね!」
また、連絡が来るのか。
彼女との会話ではっきり覚えていた内容はほとんどなかった。名前の「綠」の読み方を聞くのも忘れ、よく分からないままに過ぎていった時間は、窓から射す光に赤く眩しく染めあげられた。
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