10-2

 会計を終えた可那子さんが買い物かごをよいしょっと声をかけながら持ち上げて、こちらの方にトタタタ、とやってきた。二人で食材を袋に詰め込み、僕がかごを返しているうちに可那子さんは自動ドアの外で僕を待っている。

 ポケットから両手を出して少し重たそうにする両手の荷物を彼女から受け取ると、可那子さんは少し驚いたような顔をして「ありがとっ」と笑った。袋の片方には二リットルのミネラルウォーターが入っていて、ずしりとレジ袋の持つところが指に食い込ませる。ちらと見やると、可那子さんの指が少し赤くなっているのが分かった。

「かごを返すんじゃなくて僕が荷物を持てばよかったね、気づかなくてごめん」

「そんな、謝ることじゃないよ」

 細かく首を振る彼女の揺れる瞳に綺麗なハイライトが映りこんだ。こういうあどけない可那子さんの表情は、何度でも見ていたい思える。

『今日は実家からネギがたくさん届いてね、もうすぐあったかくなっちゃうし、シーズン最後の鍋作ろうと思ったの。それにその……たくさんあるから、謙太くんも一緒に食べるかなって思って……』

 そう電話口で言われたのが、なんでもない今朝。土曜日だということに甘んじて惰眠を貪っていた僕は、呼び出し音で目を覚ました。

『お言葉に甘えて。作るのも手伝うよ』

 安心したため息のあと、話し声で寝起きなのがバレバレだと笑われた。

「あの、やっぱり半分はあたしが持つよ」

「いいって、重いよ」

「そーじゃなくて……」

 どちらかというと重くない左手の荷物を渡すと、可那子さんはそれを左手で持った。そうして空いた僕の左手を、彼女は右手で控えめに握る。

「こっちの方が、いい」

 顔を真っ赤にしてポツと呟いた。目も合わせられずに僕の指先を弱く握る姿は、きっと学科の誰も知らない可那子さんだ。

「……女の子ってそういうことを考えながら過ごしてるの?」

「『そういうこと』って?」

「きっと今、荷物が半分なら手を繋げるって思ったんだと思うけど、僕なら絶対に思いつかないや。ただ、荷物を持ってあげることくらいしか」

 車道側を歩くとか、階段を降りるときは少し前を歩くとか、いわゆるどこかで聞いた教科書どおりのことなら僕にもできる。でもその範疇を超えるとどうしても僕は配慮が足りなくなる。

「いつも考えてるって言うとすごく変な感じもするけど、そうだな……。近くにいられる間だけでも、好きな人のことを感じていたいとは、思ってるかなぁ」

 手を繋ぐのはこんなに恥ずかしがるのに、好きという言葉は惜しみなく言ってくれる。化粧っ気のない可那子さんの顔を見ているのはとても気分が落ち着く。



 ただ座っているだけではさすがに手持ち無沙汰だったけれど、なんの役にも立たないのだから静かにしていようと観念してあぐらをかき直した。部屋をまじまじと見回すのも失礼だろう、僕はエプロンをつけた可那子さんの後ろ姿を見ていた。

「うふふ、謙太くん、あんまり料理しないでしょ」

「面目ございません」

 可那子さんの包丁捌きは、素人目からも見事なものだった。トントンという心地よい音とともに手際よく刻まれた食材が次々とトレイに盛られていく。

「ううん、でも謙太くんにも出来ないことがあるんだなって。少し安心した」

「そんな、何でもできると思われてたのか……参ったなあ」

「だって謙太くん、一人で生きていけそうな感じがするんだもん。信じられるのは自分だけっていうか」

 でも、安心したのは本当だよ、と可那子さんは振り返って優しく笑う。

「だから……あたしにできることがあったら、なんでもするよ。あたしにできることなんてたかが知れてるけど……」

 誰かのために生きるなんて、誰かを幸せにするなんて、おこがましい言葉だ。自分の事だって幸せにできてるかどうか疑わしいものなのだから。

 ……今までの僕だったらそう悪態づいていたかもしれない。でもなぜだろう、可那子さんが口にするその言葉は、今までの僕が毛嫌いしてきたものとは違う響きを持って聞こえる。

 鍋の底が見える頃には、久々の満腹感を味わっていた。

「ごちそうさま、美味しかったです」

「いーえっ。じゃあ片付けちゃうね」

「あ、片付けは僕が……」

「いいの、謙太くんはゆっくりしてて。あたしにできることはあたしがします」

 何もしないでいると寝てしまうからと、僕も片付けを手伝う。二人で片付けているのに、作業効率は可那子さんの方がずっといい。手伝いになったのかどうかも怪しかったけれど、可那子さんは「ありがとう、助かった!」と輝くような笑顔を見せた。

 この笑顔を一番近くで見ているのが僕でいいんだろうかと、ふと考えた。

「僕に大した価値はない。人を傷つけて今日まで生きてきたような人間だ」

 口にしてから、はっとした。え? と聞き返されるよりも先に言葉は口をつく。

「誰かを好きになることが、自分の身を滅ぼすことだってあるんだよ。そんなことがもしあるとしたら、知らないうちに誰かを傷つけているのだとしたら、僕は誰にも好かれなくていい」

 可那子さん、あなたのように純粋な人といたらきっと、生きているのが楽しくなってしまう。そんなあなたを傷つけてしまったら、あなたのその笑顔がずっと見られなくなってしまうような気がする。

 あなたの笑顔で幸せになる他の誰かの幸せを、僕が奪う権利なんてどこにもない。

「いや……」

 濡れた手を拭っていたタオルが床に落ちるのも構わず、可那子さんが僕のシャツを引っ張って小さく、何度も首を横に振る。

「誰にも好かれなくていいなんて、言わないで。そんな、あたし、どうしていいか分からなくなっちゃう……」

 瞳に浮かぶ涙の粒はどんどんと大きくなっていき、こぼれないのが不思議だった。

「こんなに、好きなのに……あたし……」

 それがツ、と頬を伝ったその線は、可那子さんの頬の曲線の美しさを際立たせたかのように僕の目に映る。たまらず僕は指でそれを拭い、笑いかけてみせた。

「ごめん、気にしないで。せっかく二人でいるのに、変な話してごめん」

 短くて柔らかい髪は毛先が手の平に心地よかった。僕が頭を撫でると、落ち着いてきた呼吸がまた涙声に変わる。背中を撫で支えながら、キッチンから部屋へと移動した。

「ねえ謙太くん。今日って帰らなきゃ、だめ?」

 クッションに腰を下ろして、僕は静かに可那子さんの気持ちが落ち着くのを待っていた。僕の左の脇の下からするりと腕を通し、可那子さんが腕を絡めて額をすり寄せて聞いた。

「いや、そんなことは……」

「じゃあ、もう少し、一緒にいようよ」

 きゅっと僕の左腕を引き寄せて言ったその声がどこか焦っているようだった。

「好きになってもらうにはまだ、時間がかかるのかな? でもいつまでも遠いままじゃ、いくらなんでも寂しい」

 純粋な思いはいつもあまりに必死で、僕はただ片方の手を差し伸べればそれでいいと思っていた。可那子さんの両腕は僕の左腕にすがりついて、差し伸べられる僕の手はあと一本しか残っていない。しゃくりあがるのをこらえるようにして、溢れるままに流れる彼女の涙を右手の人差し指で拭ってあげる。弱さをさらけ出したように赤く腫れ上がったまぶたが、何よりも愛らしいと感じた。

「うぅ……あたし、変な顔……?」

「そんなことないよ、可那子さんはいつだって可愛いよ」

 いつも正直でいることは罪だと言われたことがある。一瞬左良井さんの顔が思い浮かんで心臓の奥の方がぐっと痛んだのは、それは不道理だと主張し続けていた今までの僕と今の僕とが戦っているからかもしれない。思ったことをただ思ったとおりに言っているのに、僕が一番腑に落ちないのはどういうこ……。

「——!」

 数秒、僕は今起きていることに対して理解しようとすることをやめざるを得ない。

 それはすごく柔らかくて温かな感触だった。



 息が詰まりそうなほどにその一瞬は優しくて、僕は少し驚く。唇が離れてようやく、唇が触れていたことを自覚する。

「ご、ごめんなさい。急にこんな……」

「いいや、謝ることはないよ」

「……嫌じゃ、ない?」

「そんなわけないよ」

 赤く染まった頬を両手で包む姿は本当に微笑ましい。僕にとってキスというものは、その瞬間はさほどロマンチックに感じられないようだった。際限なく恥ずかしがる可那子さんを見ている方が、よっぽど心がくすぐったくなる感じがする。

「引き止めちゃって、ごめんね。無理にとは言わないから……」

 僕は、傍にいてほしいと言われるほどの人間なのだろうか。

 例えばいつか愛のようなものを求められた時、僕は嘘偽りのない愛情を可那子さんに示すことが出来るのだろうか。

「いや、可那子さんがいてほしいって言うなら」

 パッとスイッチが入ったように明るく切り替わる表情は、可那子さんらしいと思った。

「あの……嫌じゃなかったら……」

 僕の袖をキュッと引っ張って、真っ赤になった可那子さんは僕と目を合わせない。

「いいよ、おいで」

 花が咲いたように笑って大きく頷いて、可那子さんが僕の胸に飛び込んでくる。お互いの頬をすり寄せ合いながら、もう一度唇を寄せ合った。

 可那子さんは僕に、好きになることの価値を教えてくれるかもしれない。鼻でゆっくり呼吸をしていると、フルーツのように爽やかな香りにくすぐられた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る