10. 不可解

10-1

 重い体を起こして身支度を整えていた。メールが届いたことを知らせる携帯のランプが光っていたことに気づいて携帯を開くと、見覚えの無い名前が記されていた。

「松山……う、読めない……」

 名前が表示されているってことはアドレスが登録されているということで、僕は少なくとも一度この人にどこかで会って、話し、そうしてアドレスを交換したと考えるのが自然だろう。しかし「綠」という字が読めない。みどり、でいいのかな。

『初メールだね! 飲み会の時は楽しかった〜』

 文面はこれだけ。どうやらいつかどこかの飲み会で会っているらしい。僕が今まで参加したことのある飲み会は、学科で行われる縦コンしかない。つまりこの人は、同じ学科だ。名前と文面の雰囲気から判断するにこの人は女性で、同窓の、数えるほどしかいない女子の名前くらいは覚えたから、この人は先輩だろう。確かに何人かとアドレス交換した記憶はあるが、困ったことにこの名前と一致する顔は一つも思い浮かばない。

 それにしても内容のないメールだし、飲み会自体が記憶に古い。小一時間前に届いていたらしいが、相手が先輩だという事実だけがこのしょうもないメールに返信をさせた。

『こちらこそ、どうぞよろしくお願いします』

 返信は、稀に見る驚異的な速さだった。

『この前木曜○限の基礎生物学で越路くんっぽい人見かけたんだけど、違う?』

 この時は、用件の文だけ事前に用意してあったのかもしれないと思ったけれど、それからのやりとりの中で彼女の携帯操作の異常なまでの速さを思い知ることになる。

『ああ、たぶん僕ですね』

『やっぱり!

 あの講義の試験過去問通りに出るから、もし過去問まだ持ってないようだったら今度分けてあげるよ』

 これは幸運だ。教養科目だからこそ、無駄な労力は割きたくないのが大学生の常。過去問は有意義な大学生活の友だ。

『それはありがたいです。お言葉に甘えてコピーさせてください』

『了解っ。暇な時間教えてくれる? たいてい学部棟にいるから』

 試験は一ヶ月後。準備前に焦るのもいやだし、次回の講義のときに会うのが一番無難だろう。

『ありがとうございます。次回のその講義の日の昼休みが暇だと思います』

『おーけー。じゃ、またねっ』

 ひゅう、と思わず口笛を吹いてしまう。彼女からの最後の返信は、僕が送信ボタンを押して端末を閉じた瞬間に届いたのだ。

 やり取りを終え、授業資料をまとめたファイルに手を伸ばしかけたところでふとあることに思い至る。

「先輩の顔、分かんないな」

 向こうが僕の顔を覚えていれば問題ないが、確信が持てない。

「……ま、なんとかなるか」

 僕にとって携帯のアドレス交換の価値なんて、所詮こんなものなのだ。

 時計を見る。そろそろ出ないと、電車の時間に間に合わない。

「財布よし、携帯よし、鍵よし……っと」

 扉を出て鍵をがちゃりと閉める。鍵を抜いて二回、扉を引いて戸締まりを確認する。この辺で空き巣の被害が報告されたらしいと大学から知らせがあった。

 どうせ僕の部屋には大したものなんて無いけれど、頼めるならあの写真の束を持っていってはくれないだろうかと頭の隅で思っていた。

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