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これを聞いたのはもう三度目だろうか。どんな顔をして今日の左良井さんはこのセリフを言ったのだろう。そして僕はといえば、それに対する適切な一言が見つけられないでいた。例えば『そんなことないよ』だなんて、どうして言える?

 適切であろうと思うから、その領域から言葉が見つからないだけなんだとは思う。……きっと。でも僕は、僕の生き方は、時と場に相応しくあろうと努力することで精一杯だ。相手の気持ちを理解して、その人が楽になるような言葉を選べだなんて、難易度が高すぎる。

「越路くんにはもう受け入れてもらえないんだと思ってた。でも、あなたの存在は私の中でただひたすらに大きく膨らみ続けていった。気付いたときには、あなたのことばかり考えてた」

 左良井さんも同じだったんだ。僕は、この気持ちの真実を彼女から教えてもらえるような気がしていた。左良井さんのことを考えるとなんとなく収まりきらないこの気持ち。その正体を、彼女なら教えてくれるかもしれないと僕は期待していた。

「でも、こんな曖昧な立ち位置のままあなたに気持ちを傾けるのはあまりに不誠実だと思った。付き合ってる人がいて、でも他に好きな人が出来て、その人と仲良くなって告白されたから、前の人は切り捨ててその人へ乗り換えるなんて……そんなことをするような人間が、あなたに好かれるなんて、そんなことあっちゃいけないって思ったの」

 好きなの。だからこそ、誠実でいたいの――彼女はにわかに吹いた強い風にぶるっと体を震わせる。

「彼はすごく繊細で、私と離れるくらいなら死んでもいいって、真顔で言ってしまうような人だった。彼の存在意義は、私そのものだったの。

 ごめんなさい、言い訳ばかりで。ごめんなさい、人間ができてなくて」

 ごめんなさい。声をつまらせてもそれだけは言い切って、それ以上彼女の言葉は続かなかった。

 太陽や海に比べれば、人間はなんて小さいんだろう。そんな小さな人間の小さな悩みくらい、少し疲れた左良井さんの悩みくらい、飲み込んでくれたっていいじゃないかと僕はさざ波に訴える。

 夕暮れは暗順応より早く、さざ波の音に沈む僕らはいつの間にか光ある闇の世界にいた。

「わかったよ、話してくれてありがとう。……でも僕も謝りたいんだ」

 固い結び目がほどけていくように、あのときからずっと締め付けていた胸の辺りの緊張がほぐれていく。

「僕も余裕を失くしてた。左良井さんの話をもっとちゃんと聞けば、お互いにこんな気持ちにはならなかった」

 指先で海の水をすくって、ピッとはじくように左良井さんの顔にかけた。わっと小さく声をあげて硬く目をつむる左良井さんが、すごく近くに感じた。

「僕が言っていいことか分からないけど……もう、忘れよう。左良井さんの気持ちがわかって、僕はもう満足したよ」

 唇を一文字に結ぶだけの微笑みでも構わない。今は左良井さんの笑顔が見たかった。

「海水……目に入った」

「あ、ごめん、だいじょう……」

「嘘。えいっ」

 ぱしゃっと顔にかかった海の粒は驚くほど冷たくて、うわっと声をあげる。そんな僕の反応に左良井さんは、今までに聞いたことどころか想像したこともないような大きな声であはははと笑った。

「唐突な上に嘘はずるいよ左良井さん……」

 もう一回ぱしゃっと片手で水をかける。それを避けようとした左良井さんは足を砂に取られて半身を海に浸した。あはははっとタガが外れたように笑い続けながら、差し伸べた僕の手を思い切り強く引いて僕まで黒い海に飲み込まれる。

「ぶわあっ」

「あはははは!」

 二人で揺らす黒い水面に、真っ白な満月が波打つ。放物線を描く冷たい粒はその光を受けてまるで真珠のようで、静かな暗闇の中僕たちは光を見つけながら大きな声で笑った。両手ですくった水が、蹴り上げた水が、僕らの頭上に散って雨のように降り注ぐ。

 月の光にきらきらと輝くそれらは、足元を浸す真っ黒な海と同じものとは到底思えなかった。

「左良井さん、僕もう、疲れた……」

「ふふ……うん、わたしも」

 ひりひりする唇は、舐めたらすごくしょっぱかった。涙ってこういう味がするんだったっけと、左良井さんの横顔を見ながらふと思い出していた。

「私は型にはまれない」

 全身びしょ濡れで気持ち悪いのに、どうしてこんなに楽しく笑えるのか分からなかった。でも、すっかり心残りがなくなったと言えば、嘘になる。

「でも、前みたいに戻りたいの。たとえ越路くんにとって私が特別じゃなくても、越路くんは今の私にとって必要な人だから」

 お互いに頭からつま先までしっかりと海水で濡れてしまっていたから、確信を持って言うことはできないけれど、

「ありがとう。僕なんかでよければ、喜んで」

「ありがとうなんて言わないで。むしろ私が……ごめんね」

 左良井さんははしゃいで笑っている間も、泣いていたような気がする。



 左良井さん。あなたは今、どんなところにいますか? ベッドのように暖かくて柔らかいところだろうか、それとも夜の海にように暗くて冷たいところかな。

 眠りにつく前に僕は心の中で、先ほど浜辺で別れた彼女に話しかける。ここにいない彼女はもちろん、答えてはくれない。

 やろうと思えば、左良井さんと出会ってから今日までのことも僕は何でもなく思い出すことができるよ。その日起きたことを、その日した会話を、その日歩いてきた道を、僕はきっと忘れない。

 でもあなたには消したい過去がある。割り切れない、感情に突き刺さったいろいろなものが、左良井さんの体や心を縛り付けている。

 どうして今の今まで気付けなかったんだろうって、思う。

『一人でも生きていけるくらい、誰にも干渉されないくらい、強く、強く、強く……強くなりたい……っ』

 泣きながら言ったあなたの言葉が、あの日から僕を簡単に眠らせてはくれなくなった。それはいつの日か、あなたの本当の支えになれるとしたら、どんなに幸せなことだろうという希望に変わった。

 僕がいるよ、だから生きていてほしい。そんなふうに言えたら、どんなに楽だっただろう。

 でも、高々僕なんかに、誰かが一生を終えるか続けるかの理由になるほどの価値があるなんて、僕自身が思っちゃいない。

 例えば神様みたいな何かがすべての人を〝傷つける側〟と〝傷つけられる側〟に分けたとしたなら、僕は絶対に前者だ。今までも、今もきっと。

 そんな僕だからこそ、常に地球の半分を包む闇に、そしてその神様みたいなものに願う。

 左良井さんが抱える、少し重すぎる真実は僕が背負います。

 だから左良井さんには、誰よりも幸せな夢を与えてください……と。

 僕はその日、左良井さんを抱きしめながら左良井さんに殺される夢を見た。鋭利なナイフは深く僕の腹に刺さって、それは不思議と痛くなかった。

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