9-2

(間違いない……)

 自信を持って言える、あの影を見間違うことはない。早歩きは小走りになり、その背中が少しずつ大きくなっていく。その人は沖の方にせり出したコンクリートの架け橋の縁に腰をかけて、その長い髪を潮風にたなびかせていた。海側に投げ出された両足に力がない。近づくとき、自然と足が音を立てないように大地を踏む。

「左良井さん」

 下手に驚かせて落下させてはいけないと思いつつも、波の音のせいで僕が近づいたことに気付いていなさそうな彼女を驚かせずに呼ぶには、少しの緊張が必要だった。

 しかし彼女はゆっくりと振り返る。振り返るために座る位置を少しずらしたそれだけで、僕の心臓は激しく踊った。立ち上がろうとする彼女に手を貸そうと思わずにはいられない。

 なぜこんなところにいるのか、バーベキューがあったことは知っていただろうに。今日でなくたって話したいことは沢山あったけど、あえてここで話さなければならないことは一つもない。

「潮風が気持ちいいのは認めるけどそこは危ないよ。良ければ付いていくから、一緒に浜の方に行こう。もうみんな帰るところだから」

 立ち上がるのを手助けしようと手を伸ばす。

「別れた、あの人と」

「え?」

 潮にまぎれてよく聞こえなかった。でも、彼女の方に伸ばしかけた腕の筋肉は少しこわばった。

「お別れした。もう、会わない」

 それだけを言い残して沖を離れる。コンクリートから砂浜に足が移るまで、僕らは終始無言だった。声をかけられなかったのは、彼女が声を出すことさえ億劫そうだったからだ。

「ちょうど去年の事ね、私がしばらく大学休んでいた事があったでしょう? ……彼に呼び出されてたのよ。不安定で、今にも死にそうだって言ってたから、放っておけなかったの」

 泡だらけの波が左良井さんの足元までぬるりと迫ってきて、引いていく。

「……はあ、包み隠したって意味ないわよね。ずうっと、身体ばかり求められてたわ」

 サーっという波の音が幾重にも重なって、僕らの間を飲み込んだ。

「越路くんの家で付き合ってる人がいるって言ったあの日、彼に別れを切り出そうか迷っていたときだった。あなたに全部打ち明けて、あなたの反応を見てから離れるかこのままでいるか決めようと思ってたの。

 でもそれは私が間違ってた。彼と越路くんは全く関係ないわけで、自分の事は自分で決めなきゃよね。越路くんにああいう風に言われて、結果的には良かったと思う」

 いい人だったのよ、と彼女はぽつりと呟いた。過去形なのが少し、気になった。

「これ以上一緒にいるのは適切じゃないと思った。彼が深みにはまればはまるほど、私はどうしようもない『ぬかるみ』になっていく。見ていられなかったの。ぬかるみに足を取られていくあの人も、あの人を引きずり込む私という存在そのものも」

 波に濡れた砂は重く、左良井さんの足跡は深くついてはすぐ消されていく。

「それでも私は、私が彼につけた傷をどうにかして癒してあげようとした。私がつけた傷だったから。かつて私は、彼を心から想っていた——それは確かな事実だったから」

 波打ち際で白い泡が両足を浸す。サンダルのつま先についた小さな海藻を片手でつまみ上げて波に返す。その仕草が、うつむいた表情が、目をそらせないほどに儚い。悲しいというよりもそれは、何かに対して怒りを覚えているような、悔しそうな表情だった。

「お互いが離れて私は一人暮らしを始めて、彼はとても不安定だった。彼の側に私がいる限り、傷は傷のまま残ると思ったの。傷が癒えても、私は傷跡として彼の一生に影を作る。だから私は、彼から離れた」

 でも、それでまた彼を傷つけたのかもしれないと思うと、と彼女は唇を噛む。

「今までは、必要とされることが愛されることだと思ってた。でも、あなたに会ってそれは違うんじゃないかなって思いそうになった。その途端に、これでしょう?

 何が正解なのか……もう、なにも分からないわ」

 夕日の沈み始めた赤い海が、彼女が投げた小石を飲み込んだ。一石を投じたところで水面は表情を変えたりはしない。

「取り返しのつかないことなんて、いくらでもあるさ。時間を巻き戻せない限り、そんなことは絶対無くならない。

 後戻りの効かない数直線上を僕らは前進するしか無いんだもの。ついた足跡は消せない、そのまま歩き続けて忘れてしまうことしか出来ないよ」

 僕らは立ち止まれない靴しか持っていない。

 僕らはその靴に歩かされているに過ぎない。

「いいことがあっても悪いことがあっても、何も無くたって前進は前進さ。そう信じて生きていくしかない。

 正解なんて結果論だよ。正解ばかり見ているんじゃ、それこそ何も進まない」

 夕日はもうほとんど沈みかけているのに、なぜかやけに空が眩しい。逆光になった左良井さんの表情はただの影だ。僕には何も読み取れない。

「やっぱり、私に幸せは似合わないのね」

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